大量につかって太平洋をまわる場合、もし日本艦隊とぶつかれば幾日も戦わねばならず、 戦闘中に燃料がきれて結局は自滅するおそれが十分ある、ということであった。 これについては島村速雄が、この前後に他の士官にいった場合も有名である。 「敵が、いくらかでも航海というものを知っておればかならす対馬海峡を通る」 といったことばで、その理由は東郷があげた三つの理由とさほどかわらない。 さらに、 ~ 果郷が、 「敵がここを」 と、海図の上の対馬海峡を示し、 「通るとい , つから通るさ」 といったことも、当時東郷に近い士官たちのあいだで評判になった。真之たち幕僚が こうろんおつばく 東郷の前で甲論乙駁していた席で、たれかが東郷の意見を問うたときに言ったことばで ある。 右のようないきさつのすえ、連合艦隊はなおも鎮海湾に待ちつづけることになった。 た東郷もこの待機方針を固定化せず、 影「このつぎの情報がくるまで待とう」 という意見を、加藤参謀長や秋山真之らに示した。以上のことは五月二十五日までの 艦経緯である。
ネボガトフは単縦陣をもって追いついてきたが、やがて三列の縦陣に変化し、ロジェ ストウエンスキー艦隊に並航した。 スワロフの艦上で軍楽隊の演奏がはじまり、さらにはどの艦の上甲板にも総員が整列 して、 という歓声をあげ、この遠来の戦友をむかえた。ネボガトフ艦隊からもその声がきこ え、歓声と音楽で海面は湧くようであり、この瞬間、艦隊のほとんどが、 これで勝てる。 という感動をおばえた。 やがてネボガトフ艦隊は停止した。 午後四時、旗艦ニコライ一世から汽艇がおろされ、ネボガトフ少将とその幕僚たちを のせて海面をすべりはじめた。この日、空は真っ青に晴れ、太陽はむき出しで海面に光 線をふりそそいでいたが、しかし艦影がつくる海面の色は暗緑色を示し、汽艇はそのき へらめく海面と暗緑の海を縫いつつ走った。 「あの煙突を塗らさにゃならんな」 東と、ロジェストウエンスキーは、艦橋からネボガトフ艦隊を見つつ、そういった。 どういう理由か ( その理由はいかなる戦史研究においても判然としていない ) ロジェス
が付属するということが常識になっこ。 日本のばあい 一八九七年 ( 明治三十年 ) 駐退機出現。 という兵器史上の劃期的な事件について、まったく知らなかったわけではなかった。 なにしろ三十一年式野砲が開発されつつあったときだけに、むしろあたらしい清報には 過敏であった。 「駐退機をつけよう」 という考え方は、技術者のあいだでおこった。。、、 カ陸軍は伝統として兵科将校が兵器 技術部門に対して絶対的に優越し、新兵器や新装置が出現すると、かならず兵科将校が、 「運用や操作面でそれはおもしろくない」と反対するのが性癖のようになっていた。こ の場合も、もっともらしい理由でもってこれについての採用意見が却下された。 「なるはど堅牢ではあるが、発射の度をかさねてゆくと駐退機の作動がにぶってきて砲 せんざいかん 身の復座が完全なものでなくなる。とくに射角九度以上のときは、砲尾が箭材間に沈下 して閉鎖機をひらくことができない」 というのがその理由であった。 しかしながらロシア人は民族性といっていいほどに大砲が好きであり、いちはやくこ 会の新装置を採用した。これが、満州の野で威力を発揮することになった。
本軍を阻止すべく全ロシア軍をうごかし、右往左往させたばかりではないか。渾河にも また強力な防御線があらかじめ構築されていた。ここで日本軍と決戦するというのは、 まだ決戦意志をすてていないことを十分証拠だてているのだが、奉天から七十キロ北方 の鉄嶺へしりぞくとなれば、要するに奉天をすてて逃げるということなのである。 「理由は」 と、クロ。ハトキンは、つこ。 兵力と材料の消耗がはなはだしくなってきたということが、そのひとつである。が、 戦争である以上その消耗は当然で、日本軍も同様の重傷を負いつっただ気力のみをさか んにしてロシアを追いあげようとしているだけであり、やがてその攻撃力も限界に達す るにちがいない。 : 、 カクロバトキンは恐怖体質の人間にありがちな完全主義者で、敵の 消耗はどうであれ、自軍がかれの精神を安定させるだけの兵力と材料を具備していなけ ればならなかった。 理由の第二は、奉天の北方および西方にせまりつつある乃木軍に対して過大な手当を してしまったため、奉天正面の防御力が弱くなり、いつ日本軍に突破されるかわからな 却い危険を感じはじめたことである。この危険は、クロバトキンみずからの作戦変更によ って生じたもので、作戦者であるかれ自身、当然これを含みとして見切っているはずの 退ものであるのにもかかわらず、部署変更が終了すると同時に、 どうも危険だ。
オカしかしながらグリッ グリッペンベルグは逐次増強されてくる日本軍とよく戦っこ。 : ペンベルグの作戦構想をクロバトキンは消極的に裏切った。というのは、グリッペンべ ルグにすれば、かれが日本軍左翼に強烈な圧力をかけているあいだに、かねてうちあわ せしたとおりクロバトキンが第一軍をもって、手薄になっている日本軍の中央を突破す るはすであったが、 クロバトキンはついに手をつかねてそれをしなかったのである。そ れをクロバトキンがしなかったのは、 「それをもし為して大勝をおさめれば功はグリッペンベルグにゆき、ロシア陸軍におけ る自分の地歩は一時に失落する」 という理由であり、このことはふつうの国家にあっては信じがたい理由であったが、 しかしながら専制国家の官僚というのは、国家へもたらす利益よりも自分の官僚的立場 についての配慮のみで自分の行動を決定する。 専制国家はかならず負ける。 と予言したアメリカ合衆国大統領セオドル・ルーズヴェルトの見通しには、こういう 点もむろん計算されていた。 さらに例をあげれば、露仏同盟によってフランス政府はロシアに応援していたが、フ バリでロシア リス・バレオログはちょうどこの時期 ( 一月十八日 ) ランスの外交官モー の海軍少将に会った。 その少将はペテルプルグの大本営参謀であり、遠く東洋にむかってロシア皇帝が放っ
も誠実であるというのがどの国でも通用する原則のようなものであったが、一般にロシ ア人のやる外交については誠実も誠意も存在せず、表裏のカラクリだけでかれらはうご くといわれている。 このことはときにロシア人のなかに無類の誠実さと質朴さをもった人物が存在すると いわれていることとウラハラなようだが、 ロシア人が国家というものを背負うときには そのようなロシアのよき民族性は出て来なかった。 その理由は専制国家の弊害としか言いようがない。 ロシアの官吏は文官であれ武官で あれ、もっともかれらが怖れるところのものはその国家の専制者ーー皇帝ーーーとその側 近者 ( 皇后をもふくめて ) であり、かれらはつねに対内的な関心のみをもち、その専制 者の意向や機嫌をそこなうことのみを怖れ、「人が何といおうともロシア国家のために これが最善の方法である」といったふうな思考法をとる高官はまれであった。専制の弊 害はここにあり、ロシアが戦敗する理由もここにあり、さらにはニコライ二世皇帝がっ 、にはその家族とともに革命の犠牲になり果てるのもここにあった。 「自分はロシア人を愛するが、しかしロシア帝国の政体を忌みきらっている。さらには 却ロシア政府の当路者の言などはつねに信じることができない」 と、レーズウエレト。、、 ノカ五月十三日付で、サー・ジョージ・オット・トレヴェルセン 退に書いた手紙のなかにある言葉も、ロシアという国とその高官がどういうものであるか うが をよく穿っている。 しつばく
146 伝令将校は、クロバトキンのもとにもどって第三軍司令官の意向をつたえた。が、ク ロバトキンはゆずらなかった。クロバトキンはふたたび伝令将校を走らせ、第三軍司令 官に対して退却の実行を督促した。その理由として、 「貴官の申されることは道理を得ているように思われるが、しかしながら最良の方法で はない。奉天北方の脅威はわれわれを重大な苦境においこむであろう。これに対処する 方法としては、しばらく渾河の線にひきさがってここで防支するほかない。防御ののち、 機をみて再挙して敵を撃破するのが最良である」 ということであった。この処置が、やがてクロバトキンの免職の理由になるのだが、 かれの処置がいかに当を失したものであるかということは、第一軍司令官リネウィッチ 大将および第二軍司令官カウリバルス大将からも、 「ご再考を乞う」 という退却不賛成の意見具申がクロバトキンのもとにとどいたことでもわかる。 とくにリネウィッチ大将は、序列はクロバトキンに次ぎ、勇気はクロバトキンよりも まさっている。 はだ 彼は、日本軍の攻撃力がそろそろ限界にきていることを肌で感じていた。それにひき かえ、ロシア軍は欧露からぞくぞくと新鋭の兵力が到着している。いまこそ押しかえし の好機であると思っており、さらにはクロバトキンのいう「一時退却、再挙攻勢」とい うのは言葉のあやにすぎないことを知っていた。わすかな距離であってもこの時期に退
294 きか と、執拗なほどに書いている。司令長官たる者は自分の方針や企図を麾下の各司令官 ふくよう や艦長に十分服鴈せしめておいてはじめて艦隊が一心同体になってうごくのだが、ロジ エストウエンスキーが、水兵でさえ知っているはずの軍隊統率のこの初歩を履行しなか ったのは、 「自分のみが天才だと信じ、他の者はすべて愚人だと考えている自己肥大的性格」 と、かれについてしばしば言われている性格論的な理由にこの重大問題を理由づける ′ラノイア ことは単純すぎるようにも思える。ロジェストウエンスキーがたとえ偏執病であっても 履歴の古い海軍軍人であるからには、はとんど習性化した措置としてその種の会議ぐら いは一度か二度はもつにちがいない。 以上のことを考えてゆくと、ロジェストウエンスキーは自分だけ対馬海峡を突っきっ てウラジオストックへ逃げこむつもりではなかったかという疑いが濃厚になってくる。 かれは約五十隻という大艦隊の司令長官だったが、かれ自身が頼もしく思っている軍 艦というのは、三笠などよりずっと新鋭であるかれの第一戦艦戦隊の各戦艦とオスラー ビアをふくめた五隻だけであった。つまりスワロフ、アレクサンドル三世、ポロジノ、 アリヨール、オスラービアは、東郷がもっている四隻の戦艦ーー三笠、朝日、敷島、富 にくらぺいくつかの要素においてすぐれている。さらにもっともかんじんなこと は、速力のはやさにおいて世界の海軍のなかできわだった特徴をもつ日本海軍に対し、 この五隻のみは十分対抗できた。これら五隻は、三笠以下四隻と同様、重厚な装甲と大
218 みもん じゅんばうしゃ 日本はこの戦争を通じ、前代未聞なほどに戦時国際法の忠実な遵奉者として終始し、 戦場として借りている中国側への配慮を十分にし、中国人の土地財産をおかすことなく、 さらにはロシアの捕虜に対しては国家をあげて優遇した。その理由の最大のものは幕末、 なおすけ 井伊直弼がむすんだ安政条約という不平等条約を改正してもらいたいというところにあ り、ついで精神的な理由として考えられることは、江戸文明以来の倫理性がなお明治期 の日本国家で残っていたせいであったろうとおもわれる。 要するに日本はよき国際慣習を守ろうとし、その姿勢の延長として賠償のことを考え た。欧州にあっては戦勝国が戦敗国から戦費をまきあげることは当然なこととされてお り、まして欧州各国が十九世紀以来、中国その他アジア諸国に対しておこなったことは、 たとえば英国が香港をまきあげ、フランスがベトナムを領土化し、ロシアが遼東の地を とり、ドイツが膠州湾をかつばらったのは、すべて小さなトラブルを言いがかりにして ときには戦争に訴え、ときには武力でおどしあげてそれらのことをやってのけた。幕末 の日本にあっても、長州藩が四カ国艦隊と戦い、薩摩藩が英国艦隊と戦ったときも、幕 府はその賠償金を支払わされ、幕府瓦解後は明治国家がその残金を支払った。 ところが日本がロシアに対して戦勝してその賠償金をとろうとしたとき、 「日本は人類の血を商売道具にし、土地と金を得る目的のために世界の人道を破壊しょ , っとしていつつ」 と米紙は極論して攻撃したのである。米紙のいう「人類の血」とは、白人であるロシ ホンコン
298 東郷艦隊の目をくらますことができてうってつけである、海軍をすこしでも知っている ならたれでもこの海峡をえらぶだろう、とゾトフはいうのである。 「対 2 」 と、ゾトフは両掌を胸もとまであげた。 「この海域にどのような運命が待ちかまえていようと、われわれは甘受せねばならない。 理由はひとつである。この航路以外にとるべきみちがないということで。 戦いを考えるにはまず敵の気持にならなければならない、とゾトフはつづける。 「東郷がわれわれより馬鹿でないとしたら、かれはわれわれにとってこの航路が唯一の ものだということを知るはずである」 「しかし」 と、たれかがした 「われわれはいまからでも方針を変えることができるではないか。たとえば第一、第二 戦艦戦隊は対馬コースをとり、他は太平洋コースをとるといったふうに。要するにウラ ジオストックに入りこむということが戦略上のポイントである以上、危険を分散すると いうことも決してわるくはない。東郷はわれわれがこれをやると思って悩んでいるので 「悩んではいるだろう」