ということで、総司令部に執拗に陳情した乃木軍でさえ、百四十門の大砲をひつばっ て北方へ運動しつつあった。もっともこの乃木軍に対し、軍の前面の敵になるロシアの 第二軍は四百五十二門をもっていた。それらは乃木軍の出現をみていそぎ砲兵陣地を転 換し、火砲でもってその北進を制しようとした。 奉天会戦における火砲についてふれておく。火力については砲数も砲弾も日本軍は不 足していたため、大山・児玉はこれを重点的に使用しようとした。 「火力はできるだけ中央にあつめる。とくに野津軍にあたえる」 というのが最初からの方針であった。ことに作戦の初動期においては野津軍、奥軍、 かん 黒木軍など中央担当の軍は歩兵をうごかさす、砲兵のみが活動した。この間、歩兵でも って前進してゆくのは東部の鴨緑江軍と西部の乃木軍だけであり、中央を担当する各軍 は初動期にあっては居すわり、砲戦で敵に脅威をあたえようとした。この中央各軍によ る一大砲兵作戦はいくつかの効果が期待された。ひとつにはこれによってクロ。ハトキン の注意力を中央にひきつけておくことができる。二つにはそれによって両翼 ( 鴨緑江 軍・乃木軍 ) の運動が容易になる。三つ目は、直接の効果であった。なんといっても中 央部のロシア軍陣地は半要塞化して固いョロイをかぶっており、そのベトンと凍った土 塁に対しては砲弾で耕しておかねばならない。 「砲でもっておもいきりたたいておく」 というのが、この作戦計画を立案した松川敏胤のロぐせになっていた。ついでながら
日本軍が出したことも、この戦争はじまって以来のことである。 もはや実情は乃木軍の作戦の拙劣さに帰せらるべきものではなかった。日本軍の鋭気 がこのあたりで限界に達していたとみるべきであろう。 一方、日本軍とくに乃木軍にとって惨烈をきわめた奉天会戦の後半において、ロシア 軍はなお余力をたもっていた。 三月 , ハ日は、はば全線においてロシア軍はきわめて健康な戦闘をつづけた。 この日のロシア軍 ( 主として第一軍 ) の戦闘状況を以下概括する。 りゅうおうびよう レネンカンプ支隊は、竜王廟を中心とする長大な陣地を日本軍に攻撃されたが、こ きよし れを拒止した。 たいきやくへき れいか ただその隷下のツマノフ少将のみは退却癖があり、そのひきいる部隊のみは日本軍 の猛攻にたえかね、この日唯一の退却例をつくった。これに対しロシアの第一軍司令官 はこの方面のもろさを憂え、とくに軍参謀長ハルケウィッチ中将を前線に送り、ツマノ フ少将を指揮下に入れ、さらにこの方面の諸部隊の指揮を統一することによって、いっ りゅうしようとん たんあいた穴を数時間後にふさいだばかりか、柳匠屯方面にむかって前進しつつある 日本軍を完全に制圧した。 ロシア側第三軍方面も各地で日本軍を拒止し、第二軍にいたっては積極的に攻勢に出 て、乃木軍に対して大石橋の惨戦を味わわしめた。
130 野津軍が攻めあぐね、大火力をもっ野津軍が攻めあぐねる以上、中央攻めを副業とする 黒木軍や奥軍にいたっては、ともすれば息が切れそうになった。 形勢は煙台の当初の考えとはすこし食いちがってきた。 「乃木軍が頭を出してゆく。クロバトキンはそれに気をとられる。そのすきに野津と奥 と黒木が中央正面をぶちゃぶってしまう」 という予定が、実状としてやや変形した。中央が、につちもさっちも動かない。陽動 ( いつわり動くこと ) のための乃木軍だけがどんどん北進してしまっている。このぶんで は乃木軍は捨て殺しになるかもしれない。 ところが天運が日本側に微笑したのは、クロバトキンが総帥としての器量に欠けてい たことである。クロバトキンは、乃木軍を日本軍の主力と見誤ったのか、がらりと部署 変えして乃木軍を相手に日露決戦のかたちをとったのである。 乃木軍としてはたまったものではなかった。もしここでこの軍がやぶれれば奉天会戦 せっしょ は日本側の負けになってしまうという運命的な切所に立たされた。乃木のもっそういう 劇的なものが、かれをして大山や児玉よりも日露戦争の象徴的存在たらしめた。 乃木軍の北進は、しだいに惨澹たるものになった。 「総司令部がよくない」 と、乃木軍参謀津野田是重大尉はおもいつづけた。最初、総司令部の計画では乃木軍
150 二、ビリデルリング大将の第三軍は、野津軍にむかいあっている。野津軍はビリデル リング軍に対し、歩兵において三分の一、砲兵において三分の二にすぎない。 三、カウリバルス大将の第二軍は、奥軍にむかいあっている。奥軍はカウリバルス軍 に対し、歩兵において三分の一強、砲兵においてわすか二分の一強にすぎない。 すもう まさに巨人と子供が四つに組んだ角力をしているようなものであった。ただ子供のほ うは、自分の左右の小さな手 ( 右は鴨緑江軍、左は乃木軍 ) をたくみにつかってさまざ まな角力の手を演じてみせたことだけがロシア軍とちがっている。奉天会戦に関するか ぎり、作戦計画というこの高度な頭脳作業は日本側にのみ存在し、ロシア側には皆無で あったともいえる。クロバトキンの愚かさは、世界戦史の上で類例をもとめようとして もちょっと困難なはどであった。 いずれにせよ、三月八日にやったクロバトキンの戦術的退却ーー渾河付近の第二線で の再防御ーーや兵力の部署がえのおかげで、日本軍は四つに組んだ角力の苦しさから大 しに解放ーーー乃木軍をのぞいてーーされた。 その「解放」についての重要な数例をあげると、鴨緑江軍は馬群丹付近で釘付けにな っていたが、七日夜のロシア軍の退却によって同地に進出することができ、またロシア 軍の沙河陣地目前で動きがとれなくなっていた黒木・野津軍は七日夜から八日朝にかけ て前面の敵が潮の退くようにひきはじめたのをみて追撃態勢に入った。 りかんば さらに奥軍のうち李官堡のロシア陣地を攻撃していた部隊はロシア軍の重囲におち入
とであった。 西部戦線のロシア軍も、堂々たる戦勢を示していた。たとえば最左翼の乃木軍にもっ とも近接しているのが奥軍の第八師団 ( 立見尚文 ) であったが、これが三月一日、乃木 軍の第九師団とともに四方台というあたりの敵を攻めた。 四方台という中国地名が示すように、この高地は四方に対してにらみを利かせうる台 地で、ロシア軍はこの台地一帯に強固な陣地を構築して平原を行進してくる日本軍に対 し、痛烈な損害を強いた。ロシア軍はこの台上に軽気球をあげ、たえず日本軍の動静を 知りつづけただけでなく、これをもって砲兵や機関銃の射撃指揮をした。日本軍はこれ に対して開進し、ただひたすらに前進した。雪原の上に日本人の血がいたるところでば らまかれ、気球の上から見おろすと、白一色の野をまだらの赤色に染めた景観は悽愴と いうような表現をはるかに越えた。 秋山好古はその秋山支隊 ( 騎兵第一旅団その他 ) をもってこの作戦のはじめは奥軍に 属し、奥軍の隷下ながら友軍の乃木軍の北進を円滑ならしめるべく命ぜられていたが、 三月二日、いよいよ臨時に乃木軍の隷下に入ることになった。 この理由は、 「秋山を乃木軍北進の魁とさせ、遠く奉天北方の鉄道を破壊させよう」 とい , っところにあった。 ) きがけ せいそう
じたため、鴨緑江軍はかろうじて全滅をまぬがれた。 鵯緑江軍 黒木軍 野津軍 奥軍 乃木軍 というぐあいに日本側は部署されている。鴨緑江軍と乃木軍がそれそれ遠く迂回し、 敵の両翼の外側をまわってその背後をつく勢いを示すあいだに、中央の黒木、野津、奥 の三つの軍が正面攻撃をやるというものであったが、ロシア軍の優越した兵力と火力、 さらに要所々々がはとんど永久工事されている諸陣地の強固さなどからみて、常識とし てはとうてい勝てそうにない決戦であった。 、作戦指導の強気と大量流血を覚悟するということによってのみ、あるいは結果が 優勢勝ちになるかもしれないというきわどいもので、 ( この会戦にうまく勝ったところで、在満野戦軍の戦力は尽きてしまう ) と、大山も児玉も覚悟していた。このためこの会戦をもって日露戦争の決着が、講和 会という外交のテープルに移されるよう、児玉源太郎は大戦略としてそのように考え、つ ねづね東京の要人たちにその点でぬかりのないように依頼していた。要するに血でもっ
は補助的な役割で、この会戦の主役は中央突破をする野津軍などだったが、中央突破が うまくゆかないからといって、途中で、 「乃木軍を頭にして奥軍に追尾させ、奉天を西側から包囲する」 というふうに変わった。乃木軍が主役になった。主役らしい兵力をあたえられていな いではないか。 えんよく 「日露の相互延翼運動」 とのちに呼称される現象が、両軍のあいだで出現した。乃木軍が奉天にむかって翼を 張るようにして包囲しようとすると、ロシア側はそれ以上の兵力をもって翼を張り、乃 木軍に対して「通せんば」をした。それがくりかえされて、うかうかすると乃木軍は際 限もなく北へ流されてゆくおそれがあった。すでに乃木軍の東方に奉天がある。奉天を 眼前に見ながらそれを衝くことができなかった。 「乃木軍はなぜもっと猛進せん。まだ奉天後方の鉄道を遮断できんのか。いったい何を しているのか」 しった と、児玉源太郎みずからが電話をとって叱咤してきたことがあり、電話をうけた参謀 戦副長河合中佐はくやしさに涙をこばしたほどであった。現状の惨烈さは煙台にはわから とおもった。 会「奉天後方の鉄道を遮断せよ」 と総司令部は簡単に命ずるが、デスク・プランではそうはいえても、乃木軍にとって
きいる野砲兵第二旅団は呉家崗子へといったぐあいに、それぞれの前進目標にむかって すすみはじめた。 ただこの困難な迂回運動をおこなうにあたってもっとも大きな犠牲を出した第九師団 は迂回運動の軸になるために動かず、その位置において戦闘準備をととのえた。 以後、連日、ロシア軍の前哨陣地に対し、小規模な戦闘がつづいた。 会戦第三日目の三月一日朝、東方にあたって地軸がゆらぐほどの砲声がおこった。こ の日、全日本軍の攻勢がはじまったのである。東部にあっては鴨緑江軍が攻撃をつづけ、 黒本軍がそれを支援しつつ正面攻撃を開始し、野津軍と奥軍の砲兵が、全力をあげてそ れそれの正面の敵陣地を砲撃しはじめた。 乃木軍は、運動をつづけた。 午後二時すぎから相当規模の戦闘があり、しだいに敵の壁は厚くなってきた。 すでにこの日、ロシア軍にあってはこの西部戦線の異常さに気づき、この方面を担当 する第二軍が、やっきになって手当をしはじめたのである。 奉天にいるクロバトキンも、かって東部戦線を刺戟した鴨緑江軍を乃木軍であると錯 覚し、大きな兵力移動を東部にむかっておこなったのだが、ほんものの乃木軍が、逆の 西部戦線から突き出てきたことを知った。 「ノギのありかがわかった以上、おそるるに足りない」 とし、こんどはすこしも狼狽せず、東へもって行った戦略予備軍の多くを西へ転換さ
乃木の運は、いつもそうであった。 たとえば旅順攻囲作戦も、最初、陸軍参謀本部の作戦計画のなかにはなかった。旅順 要塞を置きすてて平野決戦をやるというのが、当初日本側の基本的な考え方であった。 ところが海軍の要請で旅順への陸上攻撃というプログラムを組まざるをえなくなり、 そのために第三軍が編成され、たまたま軍司令官に長州人が入っていなかったために、 長州閥からたれかが選ばれざるをえなくなった。閑職にいた乃木希典がえらばれた。 その旅順がこの戦役を通じて最大の激戦場になり、旅順における勝敗が日本の存亡の わかれみちというところまで重大なものになった。 こんどの奉天会戦において北方への迂回運動を任務づけられたこともそうである。 最初、煙台におけるこの作戦の立案段階では、 「乃木軍は敵を刺戟するだけのしごとだ。たいした兵力も火力も要らない」 と、考えていたし、編制もそのようにした。 ところが作戦を開始してみると、ロシア軍の中央陣地がとほうもなく固かった。ベト ンと凍土は日本軍の重砲弾をはねかえした。 戦中央陣地を突破するのは、それに専念するのが野津軍で、野津軍の右の黒木軍も鴨緑 江軍の移動に協力しつつ中央を攻める。野津軍の左の奥軍も、乃木軍の移動に協力しつ 会っ中央を攻める。 が、半永久陣地化されたロシア軍の中央は鉄壁のようであった。中央攻めに専念する
サハロフは、さっそく鉄嶺への退却作戦を立案した。命令が前線の三人の軍司令官に 対して発せられたのは、午後七時十五分である。風塵はすでにゃんでいた。 「各軍は鉄嶺にむかい退却し、同地付近の既設陣地に入るべし」 「第三軍は日没とともに渾河付近の陣地から撤退し、奉天城内に入ることなく、奉天ー 鉄嶺道に沿いつつ退却すべし」 「第二軍は、第三軍の渾河付近の陣地を撤退するまで敵をささえ、さらには西方より圧 えんご 迫する敵 ( 乃木軍 ) に対し第三軍の退却を掩護しつつ鉄道に沿って退却すべし」 「第一軍は、福陵付近の陣地にある軍団をもって第三軍後衛の渾河陣地撤退を掩護し、 えいばんぶじゅん しかるのち、全軍、営盤、撫順、福陵の線より鉄嶺にいたる道路を掩護しつつ退却すべ し 以下、各軍の使用道路を指示し、できるだけ混雑を小さくしようとした。 っ クロバトキンはこれでもなお不安であったのは、かれの側背を衝こうとしている乃木 軍の脅威であった。この脅威はこの会戦におけるクロバトキン自身の原案ーーー日本軍に とっておそるべき作戦計画であったーーを変更せしめた動機になったものだが、この乃 却木軍からの脅威にクロバトキンは最後までとりつかれており、この命令が前線へ発せら れた二時間後に、クロバトキンは、乃木軍を押しかえすための兵力 ( 主として第二軍 ) 退に加えるに、クロバトキンが虎の子のように大切にしていた総予備隊のムイロフ混成軍 団と、グレコフ騎兵支隊をもってした。乃木軍と秋山支隊が、奉天会戦の終幕において