222 外相小村寿太郎は念のため金子堅太郎に訓令して、 「皇帝が、ルーズヴェルト大統領になにか書簡を送ったらしい」 とのべ、 「ひょっとすると、ドイツはこの戦争の分け前を欲し、単独ではできないためにアメリ 力を誘っているかのようにおもわれる。貴官はすぐ同大統領に接触し、その事実のあり ゃなしやをたしかめよ」 たかひら と、命じた。この書簡の事実は、駐米公使の高平小五郎の耳にも入っていた。 金子はすぐルーズヴェルトに会見を申し入れ、例によってすぐゆるされた。金子は単 刀直入に、 「皇帝から秘密の親書が君のもとにきているそうだね」 と、直問した。 ルーズヴェルトは皇帝への信義上、それを明らかにしたがらす、そういう親書は来て としらをきったが、金子は執拗に食いさがり、 「ドイツは日本にとってかって有害なことをした。ふたたび今度それをくりかえすかも しれないことを日本はおそれている。このことはわが国の安危にかかわることであり、 ぜひその親書を見せてほしい」 とたのんだ。 カイゼル
234 ときにルーズヴェルトは旅行中で、ワシントンにはいなかった。タフトはすぐルーズ ヴェルトの出先まで手紙を書いた。 ルーズヴェルトはそれを読み、 ( 意外なことだ。日本海軍はその程度なのか ) と、おもった。かれは日本海軍の実力についてそれまで高い採点をしていたのだが、 この高平発言以後、見方を変えた。 ルーズヴェルトはたしかに、日本海軍の実力を高く評価していた。 かれは日露戦争がはじまるや、日露両国の戦力の実態をつかむべく、陸軍関係の調査 を参謀本部のチャップ少将に命じ、海軍関係のそれをニューヨークの海軍大学校に命じ てそれぞれ詳細な報告をえていたため、たとえば金子堅太郎や高平小五郎よりも軍事面 からみた日本をよく知っていたのである。 海軍については、当初ルーズヴェルトは、 「ロシア海軍に勝つだろう」 と、金子堅太郎にも語っていた。かれは金子とおなじく法科出身で弁護士あがりであ 力しレ ったが、その海軍知識の該博さはなみはずれたもので、金子がそのことにおどろいてみ せると、君、忘れてくれてはこまるなあ、私は以前海軍省の次官をしたことがあるんだ よ、と K った。
ルーズヴェルトは拒否し、君は皇帝を悪い人物のようにおもっているが決してそうい う人物ではない、そのことだけは一言える、といった。 ひそう 金子は満面に悲愴の感情をうかべ、さらにたのんだ。ルーズヴェルトはついに折れ、 かれに皇帝の秘密親書なるものをみせた。 それによると皇帝にはフランスに対する妄想があるとはいえ、皇帝自身の肚として、 「自分は寸地をも欲しない」 という旨が認められていた。 あんど 金子は読みおわると大きく溜め息をついて安堵し、ますルーズヴェルトに詫びた。ル カイゼル スウエレト。、、 ノ力しった、「皇帝に悪意なし」という一一 = ロ葉を金子は信ぜず、その言葉の裏 打ちとして、他人に見せるべきではない秘密親書を自分に見せよとねだりつづけたこと を、「まことに友人を信じない態度であった」として詫びたのである。 金子はすぐ本国へ電報を打った。 独帝に邪、いなし。 というこの電報ほど、戦争中、日本の元老や首相、外相を安堵させたものはなかった。 じようり 却国際場裡における日本外交のか弱さをこれほど象徴させる事柄はなかったであろう。ル ーズヴェルトのいう「偏執病者のような皇帝」の妄想は日本政府をさらに妄想させ、 退「皇帝のような人物はなにを仕出かすかわからない。たとえばロシアとにわかに軍事同 盟を結んで露独両国で日本を攻め、あとで満州の土地をロシアとともに分けどりにする したた
202 日本は、外相小村寿太郎を指揮者としてうごいている正規の外交機関のほかに、元老 の伊藤博文の手もとから派遣した陰の舞台演出家ももっていた。 けんちょう 米国へは金子堅太郎がゆき、英国へは末松謙澄が行っていた。 金子はこの戦争中、ほとんどワシントンに居つきりであった。当初かれは伊藤によば れてその使命を言いわたされたとき、ロシアを相手に戦うなどとても無理です、そうい 伊藤がそのとおりである、しかし といったん断わったが、 う役目は御免こうむりたい、 自分はそれを百も承知でこのように頼んでいる、万一の場合自分も銃をとって一兵とし て戦うつもりだが、君もその気になってくれぬか、とまでいったため、金子はそれ以上 異を立てることができなくなり、この重大使命の遂行者になった。かれはルーズヴェル ーバード大学でのクラスメイトで、その後も親交が深かった。伊藤は金 ト大統領とはハ 子を同大統領に接触させることによって、米国に講和へのロ火を切る役をつとめてもら おうとしたのである。 この金子堅太郎の派遣と活動は成功した。 ただし、英国へ行った末松謙澄の場合は、成功といえるような結果はえられなかった といっていい 末松は、幕末における長州藩の革命史である「防長回天史」の著者として知られてい る。 明治型のはばのひろい教養人で、文学博士と法学博士のふたつの学位をもっている。
220 おそらく日露戦争の調停者としてルーズヴェルトが乗りだしたことをもって、アメリ 力外交史上における世界政策的行動の最初の事件とすべきかもしれない。 それでもなお、ルーズヴェルトは自己の行動につよい制御力をもっており、のちに講 和会議がひらかれるときも、会場を米国にすることをためらい、金子堅太郎に対し、 「たださえ、アメリカがこのたびの日露両国の和平について関心をもちすぎるとして欧 州諸国から疑惑の目をもたれている。このことはアメリカとして好まざるところであり、 できれば講和の会場は欧州のどこかに設けられることがのそましい」 と言い、結局は金子からとくに希望され、またロシアからも偶然その希望があったた めにポーツマスでおこなわれることになったのだが、 要するにルーズヴェルトは金子と は隔意なく話しあっていたものの、表むきはあくまでも局外中立をまもりつづけた。 カイゼル しかしドイツの皇帝ウイルヘルム二世は、アメリカを自分の権謀道具としてひき入れ ようとし、しきりに手紙を書いたり、駐米大使を走らせてルーズヴェルトに接触させた り - した。 カイゼル へんしゅうびようしゃ 「皇帝はほとんど偏執病者の観がある」 と、ルーズヴェルトは、奉天会戦後、外遊中のタフト国務長官に書き送っている。 も、つ ルーズヴェルトによれば、ドイツ皇帝はかれの隣国のフランスがこの戦争を儲けだね にしようとし、列国会議をひらくことによってこの戦争の始末をきめ、ついでにこのど さくさまぎれに列国が中国の土地を分けどりし、さらにその会議においてドイツを仲間
ということであった。 等に通商せよ、特定国のみが特定の利益をむさばるべきでない、 このため、国内世論は、いわば車夫馬丁の芝居評にも似ていて、弱い者に対してあく までも加担してやろ , っとい , っところがあった。 ロシアはすでにそうと察し、開戦後ほどなく、駐米ロシア大使カシニーに対し、アメ リカにおいて同情世論を形成せよ、と命じた。 カシニーの世論形成法は、いかにもロシア風であった。米国における新聞という新聞 を片つばしから買収してかかったのである。 たとえば、ロシアに買収されたワールド紙などは露骨な反日論を掲載した。日本人の ことを、 「 YelIow little monkey 」 とよび、日本人がいかに卑劣で、とるにたりない国力しかもっていないかということ を書き、日本人はわれわれキリスト教徒の敵である、といったふうの、かっての十字軍 時代の布告文をおもわせるような論説まで書いた。 金子がサンフランシスコに上陸したのが、あたかもルーズヴェルト大統領の局外中立 却の宣一言が出たときであった。金子はもともとこの根まわしに自信のなかったため、上陸 早々この宣一言を読んで失望し、 退「とうてい任務を全うできない」 とおもった。
アメリカの世論は次第に好転した。たとえば在郷軍人のあいだで、 「ぜひ日本軍に従軍したい」 という無邪気な希望者が多く、これがいかに多かったかについてはロシア大使のカシ ニーが国務長官に、 「貴政府は軍人たちの衝動的な一言動をおさえることができないのか」 にんきようてき と抗議したほどであり、ルーズヴェルトが発した局外中立宣言はこの任侠的世論に プレーキをかけるためのものであったことをみてもわかる。 日が経つにつれて親露傾向の新聞も親露記事をのみ載せていることができなくなり、 日本に対する活字世論もやわらぎをみせはじめた。 金子は戦闘的な性格の男ではなかったが、これら活字世論に対してただ一人弁口をも って戦わざるをえなくなり、機会をとらえては講演し、できるだけ社交界に出入りし、 ゅうぜいか 精力的に日本の立場を説いてまわった。大統領はこの孤独な遊説家をひそかに支援した。 かれは金子が欲するときにはつねに会うための時間をつくったし、会えば、日本に対す 却るさまざまな忠告もしてくれた。 ルーズヴェルトはのちに「日本の弁護士」とまでいわれたが、しかしかれの考え方は 退アメリカの威勢のいい在郷軍人のように無邪気ではなく、日本人が情緒的に期待するよ うな講釈本的な任侠道の主人公ではなかった。
214 かれは日本としては精一杯の機密費をもってきたが、しかしロシアのように全米の新 聞を買収しようというほどの金ではなく、もっとも有力な日本宣伝の武器としてかれが にとぺいなぞう 携えてきたのは、二冊の書物だけであった。新渡一尸稲造が英文で書いた「武士道」とイ ーストレーキの「勇敢な日本」であり、このたった二冊の本で全米に親日世論をまきお こさねばならないかと思うと、勇気よりもむしろ自分のみすばらしさがさき立って、気 おくれがした。 彼はサンフランシスコからシカゴに入った。シカゴは元来排日気分のつよい町であり、 新聞はことごとく口シアびいきであった。 金子は途中、無名の市民から激励をうけることもあったが、ほば失望する材料のほう が多く、三月二十五日ワシントンに入った。その翌日ルーズヴェルト大統領に会うに及 び、事情は一変した。 「新聞がどうであれ、アメリカ人は、日本びいきだよ」 と、ルーズヴェルトは情勢をのべ、さらに自分が日本の役に立ちたく思っていること を語り、次いで同大統領は日露両軍の比較論をしてみせ、 「日本は勝つ」 と、断一言した。ルーズヴェルトが示した数字や兵器、軍隊の練度の比較というのは軍 あぜん 事に素人の金子が唖然としたほどの正確なもので、ホワイトハウスの情報収集能力の大 きさを感じさせた。
224 のではないか」 とまで山県などは、い配した。満州の土地の分けどりよりも、国力の窮迫しているこん にち、満州の戦野においてロシア軍だけでなくドイツ軍をも相手にしなければならない とすれば日本の滅亡は必至であった。金子堅太郎の「安堵ありたし」という旨の電報が いかに日本当局をよろこばせたかについては、桂がわざわざこの電報をたずさえて参内 して明治帝に見せたことでもわかる。 ルーズヴェルト大統領は、ロシアの駐米大使カシニーに対してもしばしば講和の勧告 をし、 「私のロシア人への愛情はつねにかわらない。さらに私は文明世界の一員として文明を まもらねばならないとおもっている。講和はロシアのためでもあり、世界のためでもあ る。どうであろう」 という旨のことをタフト国務長官にいわせたり、みずからいったりした。しかしカシ ニーは強気であった。 「カシニーの性格」 きょ′うがんしつ という一一一一口葉をルーズヴェルトはしばしば使っているように、倨傲で頑質な格をもち、 たとえば微笑は微笑を表現せず逆に憎悪や殺意を表現するといったふうの、表情や言葉 からその人物の真実や真意を汲みとりがたい性格の男であった。外交の本質は策略より
かれは「源氏物語」を英訳してはじめて日本の古典文学を海外に紹介したことでも知ら れ、さらには新聞記者時代に多くの名文章を書き、つづいて官界に転じ、伊藤博文に見 こまれてその娘むこになり、つづいて衆議院に出、のち逓信大臣や内務大臣にも任じた といういわば一筋縄ではとらえがたい生涯をもっているが、外交をやる上での最大の欠 点はその容姿が貧相すぎることであった。 さらにはこの小男が説くところが誇大すぎるという印象を英国の指導層や大衆にあた えた。末松は、 きよくじっ 「昇る旭日」 といったふうの日本宣伝をぶってまわった。不幸なことに英国人は日本が「昇る旭 日」のごとく成長することを好まなかった。末松はその講演速記を本にして刊行した。 無邪気で楽天的な明治男子の文章であり、元来、日本国家が末松が説くほど栄光にみち た過去をもち、またいかに将来への希望にみちた国であろうとも、英国人には関係のな いことであった。英国人はかれの無邪気さを冷笑し、ほとんど黙殺した。 却英国担当の末松謙澄は、米国担当の金子堅太郎とはちがい、政府そのものにはたらき かける必要はなかった。 しいったん他国と条約なり同 退英国政府はその過去の信用をみすから誇っているようこ、 りこうしゃ 盟を結べば履行者としては忠実そのものであった。