186 村と佐藤の冒険の成功というよりも、連合艦隊という場からいえば無言でも機能するチ ーム・ワークが存在したというべきかもしれなかった。あるいは、上村や佐藤などが海 戦に勝っためのこつをよく心得ていたといえるかもしれない。ネルソンが、「もし旗艦 の信号がみえなかった場合、後続する各艦は迷わずに敵へ突進せよ」と、たえずその艦 長たちに言いきかせていたといわれるが、その勝者のための教訓の実例が、みごとなほ ど上村艦隊の行動にあらわれている。 ノビコフ・プリポイが、沈みつつある戦艦オスラービアの状況について書いている。 「上甲板には敵弾の落下がつづいていた。本艦には、すくなくとも六隻の日本巡洋艦か ら砲弾が送られていた」 とあるのは、上村艦隊がこの運動をした時期のことである。上村艦隊はオスラービア のとどめを刺そうとしていた。 ノビコフの書くところによれば、オスラービアのまわりの海面は落下弾で沸きたち、 上甲板も最上甲板も、うなりをあげる焔と砲弾の炸裂音と無数にとびちる鉄片のために 人々はつぎつぎに戦闘能力をうしなってゆき、やがて大砲のはとんどが役立たずになっ た。たとえばある砲の分隊長をつとめていたエエデルミーレフという大尉などは、 もはやこれ以上の戦闘はできない。 として、海軍ではめずらしいことであったが砲員を解散し、自分は砲側でビストルを 頭にあて、自殺してしまった。猛炎はいかに消火隊が走りまわっても消えそうになく、
戦艦オスラービアは、やがて大きく腹をさらけだして仲間のどの艦よりもさきに海底 へ沈んでゆく。装甲鈑で充分に防御された戦艦が砲戦で沈むなどはありうべからざる珍 事であった。この当時の戦艦は不沈の実質をもっていたし、事実砲弾に対しては不沈の 力をもっと世界の海軍軍人から信じられていたのである。 この戦艦は、母国のリバウ港を出港したときから、不吉の影を帯びていた。出港した 翌朝、この戦艦が従者のように従えていた駆逐艦プイストルイ ( 三五〇トン ) が急に接 近し、衝突してしまったのである。破損したのは駆逐艦のほうであったとはいえ、門出 に際しての事件であり、縁起をかつぐロシア人にとって央な事故ではなかった。 その後、長い航海中、艦隊で病死者が何人か出たが、このオスラービアがもっとも多 かった。造船技師ポリトウスキーの手記にも、 「オスラービアにはしばしば死亡者あり」 と、書かれている。 この艦は、第二戦艦戦隊の旗艦で、フェリケルザム少将が座乗し、同少将は三隻の戦 艦と一隻の装甲巡洋艦の司令官をつとめていた。が、少将は出港早々から健康状態がわ るく、航海中ははとんど司令官私室で病臥したきりであった。ヴァン・フォン湾を出て から病状が悪化し、海戦の四日前、艦隊が台湾東北沖に達したときに死没した。遺体は 白い樫製の棺におさめられた。、 カ葬儀は行なわれなかった。 かしせい
戦隊がそれを終了したときには、東郷の全主力は、各艦の片舷の諸砲あわせて百二十七 尸の主、副砲カ / ノ 。 : ヾレチック艦隊の先頭をゆく旗艦スワロフとオスラービアをめがけて 砲弾を集中させていたことになる。この意味ではこの戦術は数学的合理性のきわめて高 いものであるといえた。 「水戦のはじめにあたっては、わが全力をあげて敵の先鋒を撃ち、やにわに二、三艘を 討ちとるべし」 というのは、秋山真之が日本の水軍の戦術案から抽きあげた戦法であった。この思想 は、外国の海軍にはなかった。 東郷は真之の樹てた戦術原則のとおりに艦隊を運用した。秋山戦術を水軍の原則にも どすと、 「ます、敵の将船を破る。わが全力をもって敵の分力を撃つ。つねに敵をつつむがごと くに運動する」 というものであった。 このためロジェストウエンスキーの旗艦スワロフと、それと並航しているかのごとく 海にみえる戦艦オスラービアは、またたくまに日本の下瀬火薬につつまれた。その二隻を の とりまく小さな空間は濃密な暗褐色の爆煙でつつまれ、絶えまなく命中弾が炸裂するた 命 運め爆煙のなかで、閃々と火光がきらめき、やがて火炎があがった。 ロシア側も、撃ちに撃った。
はなかった。雨のように落下し、命中し、炸裂した」 と、表現した。 旗艦スワロフの惨況もすさまじかったが、とくに第二旗艦ともいうべきオスラービア はひどかった。この艦は日本側の最初の集中射撃で火炎と黒煙につつまれた。第二回目 の集中射撃が海上にとどろいたとき、この艦は爆煙をあげ、火炎を噴き、黒煙が海面を おおい、艦形が見えなくなった。 この艦はスワロフ型の四隻の新鋭戦艦よりも速力が早いかわり、装甲が薄かったが、 しかしそれでもこの当時、 「、かなる砲弾でも Harveyed armour をつらぬけない」 といわれていたハーヴェイ式装甲を艦体に巻いていた点で、スワロフ型とおなじであ った。ついでながらハーヴェイは米国人で、ニッケル鋼を用いて装甲の強度を飛躍的に 高めた。日本の戦艦では三笠のはか朝日と敷島がこれを用いていたが、富士はそうでは なかった。富士はハーヴェイ鋼からいえば旧式の合成甲鈑を用いており、このためオス ラービアや敷島などが装甲九インチの厚さですんだものが、十八インチもの厚さを必要 闘とし、それでもなお九インチのハーヴェイ鋼と同等もしくはそれ以下の防御力しかもっ ていなかった。 死オスラービアのハーヴェイ鋼はよく日本の砲弾に耐えた。しかし焼夷性の高い下瀬火 薬が艦体そのものを火にしてしまったのである。
142 しかしどこへゆくあてもない。 ( 艦尾へゅこう ) と、ノートをもったまま駈けだした。途中、足の踏み場もないほどに落下物やら死体 などがころがっていた。信号所も距離測定所も着弾観測所もみな日本の砲弾のために破 壊されており、旗艦スワロフは軍艦として備えている目と耳の機能をすでに失いつつあ ることをセミョーノフは知った。 一方、三笠の艦橋では秋山真之もノートをとっていた。この日本海軍における文章家 らいさん はセミョーノフのように英雄礼讃の物語を書くことを義務づけられているわけではなく、 あとで戦闘詳報を書かねばならないために時々刻々に変化してゆく戦況をメモしている のである。 戦艦オスラービアに火災がおこったのは、三笠が射撃を開始してからわずか五分後の 二時十五分である。 ついに東郷艦隊は彼我五千メートル以内に踏みこんだ。この肉薄の状況は、真之がか げんげんあいま って造語した「舷々相摩す」という形容にやや近づきつつあった。五千メートル以内に 入ると、東郷艦隊から発射される砲弾の命中率が飛躍的によくなった。 真之は相変らす双眼鏡を用いなかった。肉眼でみても、すでに敵艦隊の状況はよく見 えた。 戦艦オスラービアの損害は大きく、大檣は折れ、煙突は吹っ飛び、火災は艦内の各所
ロジェストウエンスキーが艦隊の士気にかかわることをおそれ、その死を秘し、依然 としてオスラービアの檣頭たかく司令官旗をひるがえさせていた。従って新司令官も任 命しなかった。信じられないようなことだが、第二戦艦戦隊は司令官を欠いたまま、そ のくせ「旗艦」としてスワロフとともに先頭に立って進みつつ戦場に入ってきたのであ る。 この戦艦は、他の戦艦が二本煙突であるのに対し、めずらしく三本煙突であった。こ のため日本側は目標として識別しやすかった。 東郷は午後二時十分、はじめて射撃を命じたが、わずか十分後にオスラービアは惨澹 たる景況を示した。 まず大檣が吹っ飛んで半分だけになり、後部煙突は消えて二本になった。舷側には無 数の穴があき、もっとも大きなものは直径二十フィートに達した。さらに前部砲塔が砲 塔ごと海中に飛ばされ、艦首も砕かれた。砕かれた箇所にさらに命中し、ついにロが大 びようきこう きくあき、そこから海水が奔入した。艦は前へのめりこむようなかたちになり、錨鎖孔 のあたりまで沈んだ。やがて艦体が左へ傾いた。さらに傾き、十五度にまでなったとき、 闘猛炎につつまれたまま列外へよろめき出た。それでもなお艦尾にのこっている二、三の 小砲が、閃々として火花をきらめかせて射ちつづけていた。 死午後二時五十分ごろにはまったく戦闘力をうしなった。下甲板は浸水し、上中甲板は 猛炎につつまれ、兵員は逃げまどった。午後三時十分、にわかに艦首を海中に突っこん
におこっていた。しかもこの艦は水線部を砲弾で縦横につらぬかれており、その弾孔か ら大量の海水が入りつつあった。 「オスラービア、傾く」 と、真之はメモをした。 旗艦スワロフのマストも折れており、艦体は火炎でつつまれていた。真之の肉眼では 見えなかったが、加藤友三郎の双眼鏡にはスワロフの甲板上を駈けまわっている消火隊 の様子が手にとるようにみえた。 火災のもっともひどいのは戦艦アレクサンドル三世であった。 これら火を背負って駈けまわる各艦の猛煙が、海上に薄絹のように垂れた濛気と入り まじって、思わぬ煙幕をなした。このため日本側は照準が困難となり、ほんのしばらく ながら射撃を中止するという処置までとられた。 むびゅう かん この間の東郷の指揮は、ほとんど無謬といってよかった。 東郷は敵に打撃をあたえつつ、ときどき艦隊の針路を変えた。変えた目的はつねに敵 海の前面を抑圧しつづけるためであった。 の 「三笠はつねにわが前面にいた」 命 運と、ロシア側の諸記録はいう。常にバルチック艦隊の前面に三笠が姿をあらわすため には、東郷は無理な運動をしなければならなかった。
198 プイヌイは、まっさきに沈んだ戦艦オスラービアに対し、弾雨を冒して接近し、海面 に漂う二百四人をすくいあげ、わずか三五〇トンという小さな艦に収容した。乗員と被 救助者で艦は満員になった。そのあとプイヌイは味方の巡洋艦隊を発見し、その殿艦に にただよっている旗艦スワロフの残骸を発見したの 追っつくべく走っていたとき、海上 である。もっとも形体こそ残骸だったが、まだ呼吸がのこっている証拠に、スワロフは 微速ながらも針路を南にとってうごいていた。 よろこびがスワロフに湧きあがった。 中央六インチ砲の砲塔の廃墟のそばにいたセミョーノフ中佐は、右脚を骨まで砕かれ ていたが、このよろこびを口提督にったえるべくカカトで歩行し、やっと右舷中部砲塔 にたどりついた。その中に入ると、ロ提督はすわっていた。頭を垂れていた。その様子 は人間というよりポロギレのようであった。 セミョーノフは、 「長官、駆逐艦がきました」 と、抱きつくようにして叫んだ。 ロジェストウエンスキーは、この旗艦からもこの戦場からも逃げ去るつもりであった。 しかし単身逃げれば軍法会議その他での批判が悪くなるかもしれない。司令部をプイヌ イに移すという形をとればよかった。ロ提督を英雄に仕立てるべき役割だったセミョー ノフでさえ、そのことに触れざるをえなかった。ロ提督がこのときいった言葉は、
艦橋にある東郷は、一文字吉房の長剣のコジリを床にコトリと落し、両足をわずかに ひらいたまま動かなかった。足もとの床は飛沫でびしょ濡れであった。ちなみに東郷は 戦闘がおわってからようやく艦橋をおりたのだが、東郷の去ったあと、その靴のあとだ けが乾いていたという目撃談がある。 海戦史上、片岡の第三艦隊ほど捜索部隊としての能力を高度に発揮した例はなかった。 「敵を見ざる前に敵の陣形その他を知ることができた」 という旨の大本営への報告文を、のち秋山真之起草で東郷が出している。 「敵は二列縦陣でやってくる」 という旨の無電が片岡から入った。 しかし整然たる二列縦陣といえるかどうか。 じようせき ロジェストウエンスキーはじつは定石どおりに単縦陣でもって戦いたかった。 ところが、すでにのべたように、かれが出羽の第三戦隊を追っぱらおうとして艦隊に 陣形を指示したとき、戦艦アレクサンドル三世が信号を見誤ったことから大混乱がおこ り、陣形が変なぐあいになった。 スワロフ以下の第一戦艦戦隊が先行し、その左翼に並航して ( つまり二列になって ) オスラービア以下の第二戦艦戦隊が走り、それにつづいて第三戦艦戦隊が息せき切るよ うにしてあとを追うというぐあいであった。二列である。
やがて艦首は水に突っこみ、次いで午後三時七分から十分ごろにかけて右舷がかたむき、 やがて海面に大きな渦をつくって沈没してしまった。 にへつな直感をもった。 出雲の艦橋にいる佐藤は、オスラービアの沈没とほば同時刻 ) 、・ ( 敵は、北方へ逃げるつもりではないか ) と、そのうごきをみて判断し、さらに敵の頭をおさえるために陣形を転じた。 「よろしい」 と、上村はその案に同意した。艦隊はただちに左十六点の正面変換をおこなった。と いうのは、各艦が逐次に左へ百八十度転ずるということであり、これによって艦隊の左 舷の砲火をぜんぶ敵にそそぐことができた。艦隊は西北西に新針路をとった。 このとき、敵の旗艦スワロフは猛炎と舵機の故障で孤立状態におち入っていたが、上 村のメッセンジャーをつとめている通報艦千早 ( 一二三八トン ) という小つばけなふね 一種、滑稽 がにわかに走り出てきて、みるみるスワロフに接近し、魚雷二本を放った。 な光景でもあった。 闘ロシア側は、惨澹たる状況になった。 出雲の艦橋に立っている佐藤が、 死 敵は、北走するつもりではないか。 と判断していそぎ陣形を変えたのは、的確であった。佐藤はやや奇癖性をもっ作戦臭