ば「寄生木」の小笠原善平が士官学校に入った時代なら、子規とはほんの十数年遅れて しまっているだけであるのに、すでに歴史はすぎていた。もし小笠原善平の世代の人間 わら がそうおもえば誇大妄想として嗤われるだけのものが、子規の青春期の環境ではそうお もうことのはうがむしろ自然だった。ただ子規の同級生に、子規がみてとても及ばない という哲学青年がいたために、「あしはかれにはとても及ばない。かれの後塵を拝する ことがわかりきっているから哲学をやめよう」とおもいなおし、国文学科をえらび、の ち日本の短詩型の変革を志し、のちの系譜の源流をなした。 子規のあかるさは、そういうところにあったであろう。かれは開明期をむかえて上昇 しつつある国家を信じ、らくらくと肯定し、自分の壮気をそういう時代気分の上にのせ、 時代の気分とともに壮気がふくらんでゆくことにすこしの滑稽感もいだかず、その若い 晩年において死期をさとりつつもその残されたみじかい時間のあいだに自分のやるべき 仕事の量の多さだけを苦にし、悲しんだ。客観的にはこれほど不幸な材料を多く背負い こんだ男もすくなかったろうが、しかしこの男の楽天主義は自分を不幸であるとはどう しても思えないようであった。明治というこのオプテイミズムの時代にもっとも適合し 五 た資質をもっていたのは子規であったかもしれない。私は「子規居士」という名をきく がだけでも言いようのない痛々しさといとおしみをおばえるのだが、このひそかな私の感 あ清は、子規においてときに突きとばされるような感動をおばえるその底ぬけの明るさや 稚気と表裏をなしているようにおもえる。この子規の気分が子規だけでなく明治三十年
348 子規の散文は、平明達意な文章日本語を成立せしめたという点でもその価値が大きい が、この使命意識のつよい人物が平然として短命に甘んじたということは、かれの文 学者としての課題以上に人間としての大きな課題をもっている。しかしそれ以外の点 では、子規は、たとえば蘆花のような特異な精神体質などはもっていなかった。子規は ごくふつうの人であった。明治期には子規のような一種の人生の達人といった感じの 風韻のもちぬしは、どの町内にも村にも、ありふれて存在していたようにおもわれる。 江戸期がのこした精神遺産が子規の時代ぐらいまで継続していたといえるかもしれ ず、ひるがえっていえば日露戦争期の明治というのはそういうものの上に成立してい 少年のころの私は子規と蘆花によって明治を遠望した。蘆花によって知った明治の暗 さにひきかえ、金銭にも健康にもめぐまれず、癌とおなじく死病とされた結核をわずら し独身のままで死んだ子規の明治というものが底ぬけにあかるかったのはどういうこ だじようだいじん とであろう。子規は少年期が終わるころ、ゆくすえは太政大臣になろうとおもって上 京し、大学予備門に入った。しかし在学中に西洋哲学のおもしろさにとりつかれた。明 治十年代というのは大学で哲学なら哲学を専攻するということは日本の哲学の草分けに なるということであった。子規はそういう歴史時代であることを知っていた。かれは自 分をもって西洋哲学の源流たらしめようとした。秩序が確立された時代ならば、たとえ
「正岡子規という人の家があるが、知っておいでか」 ときいたが、小女は子規の名も知らなかった。真之はだまって団子を食った。 鶯横丁というのは弓なりにまがっている。板塀がつづき、そのむこうにや欅の大木 こずえ が風のなかで梢をさわがしている。横丁の道幅は一間ほどで、相変らずこの界隈は排水 がわるく、黒っぱい道が気味わるいほど湿っていた。 子規の家の前までくると、真之の身動きが急ににぶった。この一間幅の道からすぐ玄 こうしど 関の格子戸がみえる。家のなかに人の気配がした。母親の八重か、妹の律か、どちらか であろう。子規の遺族というのはこの二人しかおらす、病床の子規をまもって子規の生 前から三人が寄り添うようにして暮らしてきた。そのひとりが欠けた。 頭上で、梢の鳴る音がした。真之はよほど長いあいだ路傍で立っていたが、やがて歩 きはじめ、しだいに足早になった。 律は家の前に人影が立っていることに気づいていた。薄気味わるく思い、母親の八重 に告げた。八重が路上に出てみると、真之のうしろ姿だけが見えた。 「あれは淳さん ( 真之 ) みたようじゃったが 坂と、八重は家のなかにもどって、律にいった。律はおどろいてあとを追ったが、 のしもう姿がなかった。 雨「淳さんなら軍艦に乗っておいでじやけん、人ちがいじやろか」 ば ~ いじ と、格子戸の前で母親にささやいた。ところがあとでこの母娘は、子規の菩提寺の大 ならけやき かい・わい しか
302 竜寺からきた役僧の話で、目のするどい柔術教師のような壮漢が寺に供養料を置いて行 ったことを知った。 しいえ、あれは海軍士官じゃなかったですよ。 と、役僧が断定したのは、その人物が軍服を着ていなかったというだけの理由による ものらしい たばた 真之はそのあと三キロの道を歩き、田端の大竜寺まで行っている。 田端までゆくと、坂がきつくなる。のばりきって台地に出ると、あたりに人家はすく なく、はるか北に荒川の川岸が望まれ、上り下りする白帆が空と水に浮かんでまるで広 重の絵をみるようであった。 このあたりはケヤキやカヤの老樹が多く、とくに大竜寺の墓地の背後は鬱然としてい る。「あしが死ねばあの寺に埋めてくれ」と子規みずからがその菩提寺をえらんだこの 寺は、本堂がひどく田舎びて十間四方の大きな茅ぶきであった。 墓地は本堂のむかって左横にある。子規の墓はその奥にあった。 「子規居士之墓」 かえで とみかげ石にきざまれた石碑があり、そのあたりの楓がみごとに色づいていた。 しんちゅうばん 真之がこの墓前に立ったとき、まだ真鍮板にきざんだ墓誌の碑はできていなかった が、その草稿だけはできていた。子規自身が生前に書いたものであり、子規の死後、真 かや
之もそれをみたことがある。 その死者自作の墓誌は真之の文章感覚からすれば一種ふしぎな文章のようにおもわれ しかし子規が主唱しつづけた写生文の極致といったようなものであった。子規居 士とは何者そということが数行で書かれている。 だっさい のぼる つねのり 「正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ はやた 里人伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル 日本新聞社員タリ明治三十ロ年ロ月ロ日歿ス享年三十ロ月給四十円」 あんしよう 真之はこの墓誌を譜誦していた。ここには子規がそのみじかい生涯を費した俳句、 短歌のことなどは一字も触れられておらす、ただ自分の名を書き、生国を書き、父の藩 名とお役目を書き、母に養われたことを書き、つとめさきを書き、さらに月給の額を書 いてしめくくっている。 かわひがし 子規は自分の墓誌を病床で書いた。書きおわったあと、友人の河東銓にそれを送り、 これについて以下の手紙を同封している。 「アシャ自分ガ死ンデモ石碑ナドハイラン主義デ、石碑立テテモ字ナンカ彫ラン主義デ、 坂字ハ彫ッテモ長タラシイコトナド書クノハ大嫌ヒデ、ムシロコンナ石コロヲコロガシテ の置キタイノヂャケレドモ、万一已ムヲ得ンコトニテ彫ルナラ別紙ノ如キ者デ尽シトルト 雨思フテ書イテ見夕、コレョリ上一字増シテモ余計ヂヤ」 と、子規はその意図をのべている。この墓碑の文体は子規の写生文の模範というより、
350 代までつづくこの時代の気分であるようであり、その気分は好古にも真之にも通いあい 調べていてときに同一人物ではないかと錯覚する瞬間がある。時代のふしぎさというも のであろう。 私は少年のころに子規を知ったころから、真之が子規の下宿へ置き手紙をして去って ゆくという、下宿を去ってゆく真之の背まで見えるようなその別れに、目に痛いほどの おもいをもって明治の象徴的瞬間を感じた。子規は哲学志望をやめて文学をやろうとし た。それへ真之をひきこみ、ともに文学をやることを盟約した。ところが真之は兄の好 古の安い給料にたよって大学予備門にかよっているという事情があり、文学という遊民 の遊惰の申しわけのたねにすぎないことができるような余裕がなかった。真之は好古に 叱られ、その強要で授業料のいらない海軍兵学校に転ずるのだが、真之にすればそのこ とが子規への裏切りになると大まじめにおもい、「生涯会えないかもしれない」という わび状を置いて出てゆくあたりにも、明治のオプテイミズムのひとつの構成要素を感ず ることができる。 私はこの心的情景をいっか書きたいとおもっていた。それが、自分の中でいろいろな かたちにひろがって、おもわぬ書きものになった。 子規の下宿を去ってゆく真之の背中というのは、そしてそのくだりまでは私の心象の 中の真之の像が大きいのだが、そのあと真之は海軍という一種の人格性をもった組織の 中に入ってしまってからは小さな粒子にすぎなくなる。陸軍にいる好古においてもおな
あり、蘆花とその全作品への私の心情は絵画でいえば暖色でいろどられており、ただ一 点、ひえびえとした寒色の色彩をもつ「寄生木」でさえ暖色の色彩構成のなかにうまく 嵌って決して不調和ではない。 そのことは、蘆花の死後の不遇についての私のいたわりと無縁ではないかもしれない。 ふつう、歴史は様式の変化でとらえられる。絵画史でも文学史でもそうで、前期・後期 印象派からフォーヴィズムへゆき、キュービズムから抽象画になり、やがて非形象へゅ くという発展の系列のなかでのみ画家たちがとらえられるように、明治後の日本の文学 史も多分にそのようになっており、蘆花がどの位置におかるべきかが明確でないどころ か座席さえあたえられていないかのような観がある。 正岡子規の場合はかれ自身の美学で日本の短詩型の価値観を再編成してその後の系列 の大宗になったということで様式史の位置が明快すぎるほどに明快だが、実際の組織世 きよし 界においては大宗の位置に虚子がついた。この師承の世界にあっては子規の影は師承の 系列が枝わかれしてゆくにつれていよいよ薄くなっている。子規と蘆花の共通点は、 五 れらにとって後世であるこんにち、ただ一点だけある。かれらのものが読まれないとい がうことである。戦後、文学全集が多く刊行され、もはやたね切れの観さえあるが、それ あでもなお、子規全集も蘆花全集も出ていないということはかれらにとって、あるいはひ 彅らきなおった意味での栄光であるかもしれない。
引 2 てゆくことができる。素姓さだかでない庶民のあがりが、である。しかも、国家は小さ 政府も小世帯であり、ここに登場する陸海軍もうそのように小さい。その町工場のよ うに小さい国家のなかで、部分々々の義務と権能をもたされたスタッフたちは世帯が小 さいがために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目 的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。この時代のあかるさ オプテイミズム は、こういう楽天主義からきているのであろう。 このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてか れらは日露戦争というとはうもない大仕事に無我夢中でくびをつつこんでゆく。最終的 には、このつまり百姓国家がもったこつけいなほどに楽天的な連中が、ヨーロッパにお けるもっともふるい大国の一つと対決し、どのようにふるまったかということを書こう とおもっている。楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめな いちだ がらあるく。のばってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれ ば、それのみをみつめて坂をのばってゆくであろう。 子規について、ふるくから関心があった。 ある年の夏、かれがうまれた伊予松山のかっての士族町をあるいていたとき、子規と 秋山真之が小学校から大学予備門までおなじコースを歩いた仲間であったことに気づき、 ただ子規好きのあまりしらべてみる気になった。小説にかくつもりはなかった。調へる
と、い , つ。さらに碧梧桐は、 「われわれ悪童にとって馬島はやさしくて好きであり、じゅんさんはおそろしくて好き だった。人間というのは少年のころの感じのままの大人というのはめったにいないが、 じゅんさんはあのままひげがはえているだけじゃがな」 秋山家では兄の好古のほうがすきで、真之にはどこかきわどさを感じていたようであ る。 だが碧梧桐はかれの兄貴株であり師匠でもあった子規と真之がともに文学をやろうと ちかいあった仲だったということに無限の懐しみを感じていた。それが、兄の好古にど なりつけられてやめたという話も、好んでひとに披露した。 碧梧桐は、真之が電文や公報の起草者として名文家の盛名を世間で得たことを不満と していた。碧梧桐にいわせれは、 「舷々相摩す、などというじゅんさんの文章はあれは海図に朱線をひいてその赤インキ の飛ばっちりじゃ」 きち フという。真之が、碧梧桐の表現でいえば「他の窺知することのできない惨澹たる経営 ようげき げでもって智嚢を傾けつくした」バルチック艦隊の邀撃作戦こそじゅんさんの真骨頂で、 ネ くだらない美文で名を得ているのは可哀そうじゃ、ということらしい。ひとつには子規 を開祖としてひらかれた写生文の感覚からいえば、真之の文章というのは碧梧桐の気に
あとがきとしてはかに書くこともなさそうなので、思いうかぶままのことを雑然と書 きならべてみる。 私は少年のころ、父の書架に、正岡子規と徳冨蘆花の著書またはそれについての著作 物が多く、つい読みなじんだ。 この二人はほば同時代でありながら文学的資質に共通点を見出すことがむずかしい。 また明治国家という父権的重量感のありすぎる国家にともに属しつつも、それへの反応 しようなん はひどくちがっていた。蘆花の父一敬は横井小楠の高弟で、肥後実学を通じての国家 五 観が明快であった人物で、蘆花にとって一敬そのものが明治国家というものの重量感と がかさなっているような実感があったようにおもわれる。蘆花は一敬を憎悪し、一敬が病 あ没したときは葬儀にもゆかなかっただけでなく、赤飯をたいて祝った。また父の代理的 けんお 】てほ、つ 粥存在である兄蘇峰へも、一敬に対する嫌悪と同質のものがあり、しだいに疎隔してゆき、 あとがき五