プイヌイはたまたま出遭った他の艦に対し、手旗信号をもって、「ネボガトフ少将の 旗艦ニコライ一世をさがし出して以下の旨をつたえよ」と、命じた。 提督はさらに、自分が捨てた旗艦スワロフの長官旗を降ろすな、と命じた。しかしス ワロフの現状は長官旗をかかげるようなマストなどなかった。コロン参謀長がその旨を 、、つと、 「ポートの橈にでも結びつけろ」 と、憤然と声を放ったというから、この提督の精神の構造は理解しがたいものがあっ た。長官旗をかかげるならこの駆逐艦プイヌイのマストにこそひるがえすべきであった。 多数の乗員をスワロフに置きすてていながらなおスワロフに長官旗をかかげさせようと いうのは、日本側の注目を漂流するスワロフにあつめさせて自分だけはこのめだたぬ駆 逐艦で逃走しようというつもりであるのかもしれなかった。 黒い塗料を塗られた四本煙突、二本マストのこの駆逐艦プイヌイは懸命に走った。 ところが夜半、機関が急に力をうしないはじめたのである。 提督に艦長室を提供してしまったコロメイツオフ中佐はずっと艦橋にいたが、様子が 島おかしいというので機関室に降りてみると、蒸気の力がうんと落ちていた。汽罐に海水 かす 陵を使用しているために滓が厚くなり、このため石炭をいくら焚いてもおもわしい出力が 鬱あがらないうえ、他に作動しない部分も出ており、この調子では手持の石炭が計算より も早くなくなりそうであった。
222 といった。駆逐艦をえらんだというのも異様だが、ペドーウイの艦長バラーノフ中佐 が、あの海戦中、あくまでも旗艦スワロフの通報艦としてそのそばを並航していなけれ ばならないのに混乱にまぎれて離脱してしまった男だった。提督はそのことをこそ責め るべきであったのに、逆に座乗艦としてペドーウイをえらんだのは、しばしば臆測され 、しかしながら官庁の出入 ているよ , っこ、ヾ ノラーノフ中佐というこの専門技術に乏しい り商人のようにおべつかのうまいというその点を見こんだのかもしれなかった。 それにしてもロジェストウエンスキーという男はなんのためにその大艦隊を極東まで ウラジオストッ ひつばってきたのであろう。かれの戦略目的によれば「数艦でもいし クに走りこめばそれ自体が日本の戦略を大きく拘束する」ということであった。そのと おりであった。 それなら、この地点からうまく突っ走れば同港まで一昼夜半である。ところが、かれ はその戦略よりも自分の生命のはうを貴重とした。かれの移乗作業のために、この四艦 を一時間以上拘束した。ドンスコイには移乗用のポートをおろさせた。 提督はかれのお気に入りの駆逐艦ペドーウイに移ったとき、 「この艦に白旗があるか」 ときいたという話がある。この重大な発言は幕僚がそういったともいわれ、提督自身 こま、信号兵一人、伝 が唇を動かしていったともいわれている。提督の発一一一一口だという説し。 令兵一人の証人があった。いずれにしてもいざという場合にはこの提督とその幕僚は降
な表情で、提督は意識もさだかでない、だから会って頂くわけには参らぬ、といった。 隣室は艦長室であった。そこからうめき声が洩れてきた。山本は、 武人の情だとおもい かん と、この間の心境を語っている。かれは提督に会わず、病衣のみを置いて去った。 そのあとふたたび山本はペドーウイを訪ねざるをえなかった。加藤という海軍軍医少 監がロジェストウエンスキーを病院へはこぶべく、軍医や看護兵を指揮してこの駆逐艦 におもむいたからである。山本は通訳として同行した。 提督の体は担架に移された。コロン以下幕僚たちが日本の看護兵をはばみ、 自分たちがかつぐから。 といって、それぞれが担架にとりついた。 あの戦場で、この提督は戦闘なかばで重傷を負い、鮮明な意識の人ではなくなった。 提督はすでに戦士としては一水兵よりも無用の存在になっていたが、幕僚たち二十人は この無用の人を救うべく旗艦スワロフをすてたのである。この旗艦は二十人のほかすべ てが艦と運命を共にし、海底にしずんだ。ロシア艦隊の司令部がとったこの処置につい ・はとう 坂て、戦後、日本海軍側は罵倒せす、いっさい論評を避けた。ただ水野広徳大佐だけがそ のの著書においてこの経緯にふれ、司令部が兵を救わなかったことについて倫理上の攻撃 ああ 雨を遠慮しつつも、客観的な態度で一句を挿入している。「嗚呼兵は兇器なるかな ! を という意味 叫ばざるをえない」という。戦争は悲惨でこれを軽々になすべきではない、 はき」け
198 プイヌイは、まっさきに沈んだ戦艦オスラービアに対し、弾雨を冒して接近し、海面 に漂う二百四人をすくいあげ、わずか三五〇トンという小さな艦に収容した。乗員と被 救助者で艦は満員になった。そのあとプイヌイは味方の巡洋艦隊を発見し、その殿艦に にただよっている旗艦スワロフの残骸を発見したの 追っつくべく走っていたとき、海上 である。もっとも形体こそ残骸だったが、まだ呼吸がのこっている証拠に、スワロフは 微速ながらも針路を南にとってうごいていた。 よろこびがスワロフに湧きあがった。 中央六インチ砲の砲塔の廃墟のそばにいたセミョーノフ中佐は、右脚を骨まで砕かれ ていたが、このよろこびを口提督にったえるべくカカトで歩行し、やっと右舷中部砲塔 にたどりついた。その中に入ると、ロ提督はすわっていた。頭を垂れていた。その様子 は人間というよりポロギレのようであった。 セミョーノフは、 「長官、駆逐艦がきました」 と、抱きつくようにして叫んだ。 ロジェストウエンスキーは、この旗艦からもこの戦場からも逃げ去るつもりであった。 しかし単身逃げれば軍法会議その他での批判が悪くなるかもしれない。司令部をプイヌ イに移すという形をとればよかった。ロ提督を英雄に仕立てるべき役割だったセミョー ノフでさえ、そのことに触れざるをえなかった。ロ提督がこのときいった言葉は、
218 く染めているのを塚本のプリズム双眼鏡がとらえたのである。 「あれは。 と、塚本は言葉ももどかしく叫び、相羽に自分の双眼鏡をわたした。相羽がのぞくと、 なるはど駆逐艦らしかった。二隻いた。 この先頭の駆逐艦に、ロジェストウエンスキーが乗っていたのである。もし塚本のプ 丿ズム双眼鏡がなかったとすれば敗残の提督はうまくウラジオストックに逃げることが できたであろう。 いきさっ ロジェストウエンスキーがこの水域まで到達したことについての経緯には、多少の謎 がふくまれている。 二十七日午後五時半すぎ、旗艦スワロフを捨てたかれは、かれがかねて憎悪していた コロメイツオフ中佐の駆逐艦プイヌイに移乗した。この艦長のふねに身を横たえねばな らぬというのは、提督にとって居心地がよくなかったにちがいない。 提督はせまい艦長室に運ばれ、軍医の手当をうけた。そばにいたセミョーノフに瞳を むけると、 「指揮権をネボガトフに。 と、聞きとれぬはどの小さな声でいった。はじめて指揮権移譲についての意思を明瞭に した。しかし第三戦艦戦隊をひきいているネボガトフがどこにいるのかわからなかった。
220 艦長はやむなく幕僚たちの部屋へゆき、この旨を報告してふたたび機関室にもどった。 かん その間、幕僚たちのあいだで降伏の申しあわせができあがったのである。この艦を日 本のどこかの浜に着け、提督をポートで上陸させたあと、艦を自沈せしめようというも ので、コロン参謀長らはその結論をもって提督の部屋へ行った。提督は、 「自分に顧慮するな。諸君がこのさい必要であると信ずる決心を断行せよ」 と、意味やや不明なことをいった。要するにまかせるということであった。 このあとコロン参謀長は、わざと艦長にはいわずゥールムという大尉をつかまえて 「白旗を用意せよ」といった。敷布でいし ともいった。同大尉はその命令に従って調 達した。 が、艦長はその直後、この事実を知り、敷布をひき裂いて海中にすて、 「この悲劇中に喜劇を演ぜんとするか。自分はロシア海軍の艦長である」 と、叫び、艦橋へあがってしまった。 あの男は、だめだ。 と、ロジェストウエンスキーは、この駆逐艦の艦長コロメイツオフ中佐の硬骨を不愉 央におもったかとおもわれる。コロメイツオフ中佐は敷布をひき裂くときに、 ふりよ 「この艦の指揮権は艦長としての自分にある。わがロシア海軍の司令長官を敵国の俘虜 としてひきわたすことはできない」
226 合戦準備の命令も出なかった。たまりかねた兵員たちは砲のそばへかけ寄り、覆いを とろうとした。しかしすぐその動作が禁じられた。水兵たちは騒いだ。なかには小銃を もち出してきて、弾込めをしている者もいた。おそらくこのまま捨てておけば反乱にな ったであろう。いざとなれば士官たちよりかれら水兵のほうが愛国心が強烈だったとい うところに、帝政ロシアの構造のむずかしさがあった。この国はこの当時の日本がすで に国民国家を成立させていたのに、まだ王朝のままの状態でいた。士官は王朝の構成者 であったが、水兵は単に民衆にすぎなかった。民衆が政治をにない、国家の安危を共同 に分担するという政体ができないかぎり、近代にあっては他国と近代戦をやるというの は不可能であるかもしれなかった。 士官たちは八方に走って水兵たちをなだめた。 「責任は自分がもっ」 といった者もあれば、「提督の命令だ」といった者もある。事実、提督は命令してい た。さらにもっとも興味ある理論をのべた者もいた。 「このふねは駆逐艦ではない。病院船だ」 ということである。病院船である証拠には提督とその幕僚たちという負傷者が乗って しる。というのだが、、 どの艦にも負傷者が無数に存在し、ペドーウイだけが病院船であ るとはいえなかった。しかし病院船であるためには武装を無くすという形式をとらねば ならない。そのために各砲の覆いをかけつばなしているのである。
皿に数百の死者も残っていた。その死者のなかに、造船技師ポリトウスキーもいた。かれ が故国の若い妻に送りつづけたばう大な量の手紙はロジェストウエンスキー航海の貴重 な記録として後世にのこされた。 ポリトウスキーの戦闘中の職務は、 「医務の補助」 ということになっていた。戦闘中、セミョーノフ中佐が目撃したところによると、ポ リトウスキーは手術室で白衣をつけ、赤十字の繃帯を手にもっていた。かれはこの姿の まま手術室付近で戦死したかのようである。 が、ポリトウスキーの妻が戦後、たれからきいたのかはわからないが、この技師は艦 体にあけられた穴をふさぐために艦底にもぐりこんで指揮をとっていたという。ロ提督 が駆逐艦に移るとき、生き残った幕僚たちはみな従っ三、、 オカこの技術幕僚には声がかか らなかった。もしその妻の得た消息がたしかであるとすればかれは艦底にあって艦を救 うために作業をしていたのであり、そのまま艦もろとも沈んだことになる。ポリトウス キーはその妻に対してロジェストウエンスキーがいかに冷酷な提督であるかということ を書き送りつづけたが、最後にそれを裏付けるような仕打ちに遭って、生から死へ送り こまれたことになる。ただしこの若い造船技師はその死後、その提督に対する痛烈な告 発者になった。その妻が、この造船技師が送りつづけた手紙をことごとく出版したから である。
ハンモック クルセリは提督を焦げた吊床に寝かせ、吊床ごと縄でしばった。さらに万一海中に落 しカオ ばくちゃく ちたときの用心のために筏のようなものを縛着した。 かれはその提督ぐるみの筏を艦の後方まで運び、後部六インチ砲塔前の切断舷という 断崖のような形のところまでおろした。そこで駆逐艦プイヌイがせりあがってくるのを 待った。駆逐艦は小さい。戦艦の右舷舷門あたりまでとどくには大波にせりあげてもら うのを待たねばならないのである。 移した。 他の生残りの幕僚 ( 参謀長、航海長、セミョーノフ中佐など ) も移った。 その機会に何人かの士官や兵員も飛び移ったが、しかし八百人以上の乗組員は艦に残 った。もっともそのほとんどは提督が艦をすてたことを知らず、火の中か、戦時治療室 かあるいは持ち場にいた。クルセリも艦を去らなかった。 やがて駆逐艦プイヌイは勢いよく後進をかけ、旗艦スワロフから離れた。 「ときに午後五時三十分だった」 闘と、セミョーノフ中佐は腕時計によってその時刻を記録している。 プイヌイは艦首を北東へむけると、全速力でウラジオストックにむかった。 死戦場にスワロフが孤艦として残された。 左舷を海面へ傾けて漂泊している。艦内にはまだ数百の生命がのこされていた。さら
この海戦は、多分にロジェストウエンスキーにとっていわば劇的な人間表現であると いえたが、しかしいかなる劇作家でも以下のような偶然はそれを設定することをはばか るであろうとおもわれるほどの事態がかれを訪れつつあったのである。 ロ提督がもっともきらっていた駆逐艦の艦長がいた。。フイヌイの Z ・ Z ・コロメイツ 、いほどの駆逐艦乗りとされ、 オフというまだ三十八歳の中佐で、艦隊随一といってもし かれの海軍知識や技術はそのまま英国海軍に編入されても一流の船乗りとして通用する 」うがん だろうといわれていた。ただ自分の腕に自信をもっている人物にありがちな傲岸さ 上官に対してのーーをもっており、兵員たちからもっとも人気のある艦長の一人であり びんらんしゃ ながらロジェストウエンスキーからは、無能、陣列の紊乱者、勝手者などということば でもって罵倒されていた対象であり、あのながい航海中、しばしば信号旗でもって名指 しでののしられた。ロ提督にとってはペドーウイのバラーノフ中佐が善玉であり、コロ たいせきてき メイツオフ中佐はそれと対蹠的な悪玉で、しかも一般の士官や兵員からみれば逆である という、安つばい田舎芝居でもこれほどぬけぬけした設定はしにくいとおもわれるほど の設定のもとにかれらは存在していた。 闘コロメイツオフ中佐が指揮している驅逐艦プイヌイはじつによく働いた。働くといっ ても、戦闘ではなかった。もともと駆逐艦は敵に肉薄して魚雷をぶつばなす兵器であっ オカロ提督の戦法ではこの兵器をそのようにしては使わず、もつばら救助用につかっ ていた。プイヌイは乱戦のなかでの勇敢な救助者としてよく働いた。