あげはじめた。まさか戦闘するつもりではないだろうとバルチック艦隊の幕僚のたれも がおもった。まともに砲火をひらけばあの老いばれた日本の小巡洋艦たちは卵のカラの ようにたたきつぶされてしまう。 たしかに「敵艦隊の前を突っきる」というこの命令は、第三艦隊司令長官片岡七郎が きか 麾下の第六戦隊 ( 和泉欠 ) に発したものである。かれは敵の前方へ出て正確に監視でき るように配慮した。というより具体的には、これより前 」、バルチック艦隊が日本仰に所 定針路をさとらせまいとしてときどき針路を変えたりしたため、片岡にすれば和泉がさ きに報告したとおり ( 針路・北東 ) なのかどうかそれを敵の前方からのぞきこんでたし かめたかったのである。この正確を期することと正確への入念な態度は、東郷がもって いる性向であり、同時に日本の海軍が個性としてもっている癖でもあった。しかしその ことを実行するには全滅を賭する勇気が必要であった。もっとも第三艦隊は全滅しても よかった。かれらが東郷司令部から要求されている使命は捜索と報告と敵の誘導であり、 やがて幕がひらかれるであろう三笠以下の主力決戦の場面ではさほどの役には立たない からである。もし右の使命さえ全うできれば第三艦隊はぜんぶ沈んでも日本側にとって ごく小さな損失でしかない。 一方、早朝から敵艦隊のもう一方の側 ( 敵の右舷 ) にくつついて離れずにいる和泉は、 敵の針路についてどんどん無電を打ちつづけている。 が、敵の針路というのは、敵の横っ腹から遠望していると、わずかな差異というもの
かでこれをきき、し 、っせいに持ち場にむかって散った。 さねゆき このとき秋山真之は後甲板でひとり体操をしていたが、このとき近くにこの旗艦の砲 あばきよかず 術長の安保清種少佐がいた。安保の記憶では真之の動作が急に変化して片足で立ち、両 手を阿波踊りのように振って、 「シメタ、シメタ」 とおどりだしたというのである。 こおど 「秋山さんは雀躍りしておられた」 と、安保はのちのちまでいった。 敵は津軽へまわるのではないか。 という疑念が、えたいの知れぬ怪物のようになってここ一週間ばかりのあいだ真之の た 背後から重くかぶさっていた。もし敵が津軽まわりをしてくれば真之が樹てた七段構え の戦法は根柢からくずれざるをえず、いそぎ津軽へかけつけたところで、時間・空間と いう物理的制約のために敵をいくらも沈められない。対馬コースをとってきてくれれば、 真之は予定した作戦計画どおりに敵を迎えることができ、ウラジオストックまでのあい だ、十分な時間とゆたかな空間を戦闘につかうことができるのである。 戦術家というのは、「敵が予想どおりに来る」というこのふしぎな瞬間に賭けている 抜ようなものであり、戦術家としての仕事のほとんどはこの瞬間に完成する。 となれば、真之が勝利感を味わったのはこの「敵艦隊見ゅ」の瞬間であった。あとは こんてい
というニコライ二世皇帝の命令がそのまま一大軍容に変じ、極東の島帝国を圧服して しまおうという威厳と鋭気に満ちていた。 刻々その状況を報告しつつある和泉の石田艦長には、バルチック艦隊のどの艦の煙突 もみな黄色であることがふしぎであった。 「煙突はすべて黄色」 と、かれは打電した。三笠の司令部はきっとよろこぶにちがいないとおもった。海戦 での困難の一つである敵味方の識別ということが、敵のほうから解決してくれているよ うなものであった。味方としてはともかく黄色い煙突の艦をめがけて射てばよいのであ る。 さらに石田艦長は、自分に渡されている密封命令のことをおもった。この命令形式は 海軍のしきたりで、秘密の漏洩をふせぐために出港直前に艦長にわたされる。出港後、 指令をまって艦長がひらくのである。 「もし敵艦隊が来たらざる場合は、津軽海峡の所定の場所へゆけ」 という要旨の当時の命令が書かれていた。連合艦隊司令部をずっと支配しつづけてい た重くるしい不安が、この命令にもよくあらわれていた。予期どおりにこの方面に敵が ゅ 見もし来なければ敵は太平洋まわりをとったものとみて、予想戦場をいそぎ変更し、津軽 敵海峡の西出口で待ちぶせようというのである。しかしこの密封命令は幸いにも無効にな つ ) 0 ろうえい
やがて上甲板に出てきて、艦橋の下にすわった。 艦首に波がくだけ、ときどき霧を噴きあげるように飛び散った。上甲板はかすかに一 高一低している。そのなかにあって軍医は撥をたたき、「川中島」を弾じはじめた。 艦長の奥宮にすれば士気を鎮静させるつもりで琵琶を弾じさせたのだが、聴いている うちにかれ自身がひどく昂奮してきた。艦は風浪を衝いて走っている。曲は一急一緩し つつ、やがて琵琶歌が佳境に入って上杉謙信が長剣をあげ、単騎馬をあおって敵陣に突 入するあたりになると、艦のあちこちにいる士官からかけ声がかかったりした。松島の 立場はあたかも単騎敵陣に突入する謙信に似ていた。ただし突入が任務ではなく、敵に どうきらわれようとも、東郷の主力部隊が出現するまでのあいだバルチック艦隊に密着 するのがこの第三艦隊のしごとであった。密着とはいえ、敵の射程内外に位置している 以上は、突入以上に危険であった。 つづいて中将出羽重遠がひきいる第一艦隊の第三戦隊も第三艦隊の第五、第六戦隊に 続く形で接触していた。かれらは敵が射って来ないためにしだいに図々しくなり、さら に敵との距離をちちめた。わすか三、四千メートルまで接近したとき、右正横の敵艦隊 から閃々と火光がきらめき、やがて海を圧する砲声がきこえ、笠置や音羽の前後左右に 巨弾が落下しはじめた。 第三戦隊は巡洋艦のあつまりだけに、敵主力との砲戦ではとてもかなわない。あわて て遠ざかった。しかし遠ざかりすぎても敵を見うしなうおそれがあり、この間のかねあ ばち
1 18 る。この十五分間で敵は無数の砲弾を東郷の艦隊へ送りこむことができるはすであった。 戦艦アリヨールの艦上からこの東郷艦隊の奇妙な運動をみていたノビコフ・プリポイ 、も、 「ロジェストウエンスキー提督にとって、一度だけ運命が微笑したのである」 と、書いている。 戦艦朝日に乗っていた英国の観戦武官・ペケナム大佐は東郷を尊敬することのあっ かった人物だが、この人物でさえ、このときばかりは東郷の敗滅を予感し、 「よくない。、 じつによくない」 と、舌を鳴らしたほどであった。 稀代の名参謀といわれた真之でも、もしかれが司令長官であったならばこれをやった か以」 , つかは疑わし い。かれはおそらくこの大冒険を避けて、かれが用意している「ウラ ジオまでの七段備え」という方法で時間をかけて敵の勢力を漸滅させてゆく方法をとっ たかもしれない。 が、東郷はそれをやった。 かれは風むきが敵の射撃に不利であること、敵は元来遠距離射撃に長じていないこと、 波が高いためたださえ遠距離射撃に長じていない敵にとって高い命中率を得ることは困 難であること、などをとっさに判断したに相違なかった。 「海戦に勝っ方法は」
75 沖ノ島 がわかりにくい場合が多い。片岡が疑って第六戦隊を敵の前方へ出そうとしたのはそれ であった。 片岡の第三艦隊の指揮下ではなく第二艦隊に属する第四駆逐隊 ( 司令・鈴木貫太郎中 佐 ) もこの現場にいたことはすでに触れた。 鈴木は四隻の駆逐艦をひきいて、 ( いっそ敵の前面を通過してやれ ) と、片岡とおなじことを考えたのである。 鈴木の駆逐艦朝霧以下は二十九ノットという快速力をもっていた。敵は十二ノットで ある。 鈴木はしだいに敵を追いぬいて行って、ついに前面を横切った。 「前から見ればよく判るからこれほど正しい測定はないのです」 と鈴木は後年語っている。前へ出てみると、おどろくべきことに和泉の測定はまちが っていなかった。 きようがく ところがこの朝霧らの行動は、ロジェストウエンスキーをして驚愕させたのである。 「かれらはわれわれの進行方向に機雷を撒いた」 と誤認したのである。 鈴木にとっては敵の針路を一分の狂いもなく確認したいという、ただそれだけの目的 いちぶ
214 日本海という広大な洋上において、ロシア側の主将のロジェストウエンスキーとその 幕僚がぜんぶ捕虜になったのである。海戦史上、類のないことであった。 この運命劇の主役として登場するのは、三〇五トンの小さな駆逐艦だった。漣とい あいばつねそう う艦で、相羽恒三という少佐が艦長だった。 しののめ かすみ 漣は東雲、薄雲、霞とともに四隻で仲間を組み、第三駆逐隊を構成している。司令は 吉島重太郎中佐であった。 この二十七日の夜は星がなく、海上はまったくの闇であった。ときどき光るロシア艦 の探照燈をみつけては走った。相羽はこの索敵行の心境をこう語っている。 「海上はおそろしく静かで、マストに騒ぐ風の音と、機関の響きだけが物音のすべてで あった。波浪にもまれてゆくうちに生死のことなどはわすれてしまった。功名をしよう あだ という欲もなかった。ただ日本国家に仇をなす敵をほろばしたいという一念のみで、 まこのときのことを思いだすと、自分にもあのような気高さがあったのかと、ふしぎな 思いがする」 とい , つ。 この駆逐隊は、四隻の敵艦隊をみつけた。魚雷を射つのには敵と向きあったかたちが効 果的だとされているから、駆逐艦は敵の単縦陣のまわりを一時間ばかりぐるぐるまわり、 ついに敵の嚮導艦のヘさき四百メートルというところを突っ切るという冒険をおかして 魚雷を発射した。敵もこれに気づき、小口径砲をさかんに撃ってきたが、距離があまり近 さぎなみ
成川は、戦死を決意したらしい 哨戒に熱中するあまり、ひどく滑稽なことに、気がついたときは敵の大艦隊の真っ只 中に入りこんでしまっていたというようなことは、世界の海戦史上例のないことであっ た。すでに形態としては包囲環の中にいる以上、脱出は不可能とみるしかない。 プリッジ 成川は船橋にいる士官たちに言った。かれ自身気づかないことだったが、 口調が漢文 ; 口になっていた。 「不覚なるかな、すでにわれらは死地に入った。全力をもって脱出を試みるもあるいは 能わざることあるべし。そのときこそ、この船非力ながらも敵の一艦を求め、激しく衝 撃してともに沈むべし」 ただ、この発見を鎮海湾の東郷閣下に報らせなければならない、と成川はいった。送 信を開始すれば当然、敵は電波で妨害する一方、砲をもって信濃丸そのものを無線機も ろとも沈めるにちがいない。 「船が浮かんでいるかぎり送信をつづけるのだ」 というと、転舵一杯を命じた。船が傾ぎ、波が右舷に盛りあがって、たちまち甲板を 洗い、やがて左舷のほうへ滝のように流れ落ちた。船は離脱すべく全速力を出した。と ゅ 見同時に、 敵「敵艦隊見ゅ」 との電波が、四方に飛んだ。この付近のことを、海軍ではあらかじめ二〇三地点とし
やがて艦首は水に突っこみ、次いで午後三時七分から十分ごろにかけて右舷がかたむき、 やがて海面に大きな渦をつくって沈没してしまった。 にへつな直感をもった。 出雲の艦橋にいる佐藤は、オスラービアの沈没とほば同時刻 ) 、・ ( 敵は、北方へ逃げるつもりではないか ) と、そのうごきをみて判断し、さらに敵の頭をおさえるために陣形を転じた。 「よろしい」 と、上村はその案に同意した。艦隊はただちに左十六点の正面変換をおこなった。と いうのは、各艦が逐次に左へ百八十度転ずるということであり、これによって艦隊の左 舷の砲火をぜんぶ敵にそそぐことができた。艦隊は西北西に新針路をとった。 このとき、敵の旗艦スワロフは猛炎と舵機の故障で孤立状態におち入っていたが、上 村のメッセンジャーをつとめている通報艦千早 ( 一二三八トン ) という小つばけなふね 一種、滑稽 がにわかに走り出てきて、みるみるスワロフに接近し、魚雷二本を放った。 な光景でもあった。 闘ロシア側は、惨澹たる状況になった。 出雲の艦橋に立っている佐藤が、 死 敵は、北走するつもりではないか。 と判断していそぎ陣形を変えたのは、的確であった。佐藤はやや奇癖性をもっ作戦臭
ほば二時間、早朝の海をかけまわった。海上には濛気が、走りゆくにしたがってときに しかし空は申しぶんなく晴れていた。 濃くなったり、ときに淡くなったりしたが、 和泉が、沖合に無数の黒煙をあげて航進するパルチック艦隊を見たのは、午前六時四 十五分である。 北緯三十三度三十分、東経百二十八度五十分、五島の北西約三十海里の地点において である。おりから濛気が濃くなり、展望はわずか五、 , ハ海里であった。この濛気のため に和泉はより接近するしかなかった。しかし接近すれば敵に射たれるであろう。 、和泉は猛然と接近した。距離がちちまってついに八、九千メートルにすぎなくな っこ 0 石田は望遠鏡をもって、陣形を見、艦数をかぞえた。 望遠鏡にうつる敵の大艦たちは、すでに和泉に気づいていただけでなく、その巨砲群 をねじむけてこの小さな猟犬にむかって照準をつけつつあった。 しかし、石田は観察と報告に没頭した。艦を、敵艦隊に並進させた。 その、バルチック艦隊の勢力、陣形、針路などをじつに綿密に報告した。東郷はの ゅ 見「自分は、敵艦隊のすべてを、敵に遭う前に手にとるように知りつくしていた。それは 敵和泉の功績である」 といったが、和泉は東郷のために忠実な目になろうとしていた。ただ一艦をもって、