286 戦闘で死んだよりもはるかに多数の人間が火薬庫爆発といういわば愚劣な事故で死んだ ことに、真之は天意のようなものを感じた。あの海戦は天佑にめぐまれすぎた。真之の 精神は海戦の幕が閉じてからすこしずつ変化しはじめ、あの無数の幸運を神意としか考 えられなくなっていた。というよりも一種の畏怖が勝利のあとのかれの精神に尋常でな おんちょう い緊張をあたえはじめていたのだが、 この旗艦三笠の沈没は日本に恩寵をあたえすぎ た天が、その差引勘定をせまろうとする予兆のようにもおもわれたのである。 真之が到着した朝、大本営から命令が入った。 旗艦が、敷島に変わった。あれだけ奮戦した三笠はその栄光を受くべき凱旋の日の旗 艦ではなくなったのである。 真之は文章家とされた。 はとう せんせん たしかにかれの文章は簡潔でしかも波濤のなかで砲火の閃々ときらめくような韻律性 に富んでおり、さらにはあたらしい観念を短切に表現するための造語力も持っていた。 ただかれは文士ではなく、その文章は公文書のかたちで発表されたものであったが、し かし同時代の文章日本語にすくなからぬ影響をあたえた。 かれの書いた文章の特徴は、たとえば連合艦隊司令長官東郷平八郎が海軍軍令部長伊 東祐亨へ送った戦闘詳報にもよくあらわれている。われわれはこの文章によって日本海 海戦の戦闘経過を的確に知ることができるが、その事実関係で組みあげられたばう大な
削に、弱者の特権である考えぬくことを行ない、さらにその考えを思いっきにせず、それ をもって全艦隊を機能化した、ということである。 とくに東郷は、 ようたい 「海戦の要諦は、砲弾を敵よりも多く命中させる以外にない」 という平凡な主題を徹底させ、かれの戦略も戦術もこの一点に集中させたのである。 いかなる国の海軍においてもこの時期の東郷ほどこれを徹底させた例はなかった。 しばらく砲火についてふれておく。 東郷が、鎮海湾での待機中、全艦隊に対し気がくるったかと思われるほどに射撃訓練 をほどこしたことはすでにのべた。 「弾というものは、容易にあたるものではない」 というにがい経験が東郷にあった。日本史上、洋式軍艦同士の海戦の最初は、明治元 年一月四日の「阿波沖海戦」といわれるものであった。幕府軍艦「開陽」と薩摩軍艦 えのもとたけあき 「春日」とが交戦した。開陽にはオランダ帰りの榎本武揚が座乗し、春日にはまだ少年 ポンドせじようほう のにおいのぬけない薩摩藩士東郷平八郎が、左舷四十斤施条砲を担当していた。双方、 二千八百メートルで砲火をひらき、千二百メートルで砲火たけなわになった。結局は春 日が優速を利用して開陽をふりきったたために戦闘はおわるのだが、この交戦中、双方 一発の命中弾もなかったのである。 海上の射撃はそれほど困難で、敵味方とも船が動いているだけでなく、風浪のために
の名残りをのこしている程度だった。 当夜、死者は、三百三十九人であった。 他の半数は半舷上陸していたために危難をまぬがれた。火薬庫が爆発した。が、なぜ 爆発したかとなるとよくわからす、推測の手がかりもない。下瀬火薬が貯蔵の条件によ ってどう変質するかということも、この火薬が開発されてそれが試されるだけの十分な 時間が経っていないためいっさい不明であった。不平水兵が放火したのではないかとい 戦勝後でもありまた士気の一般的状況からみて考えられなかった。結 う説もあったが、 局は火薬の自然変質による爆発というごく常識的な観測が佐世保の現場での大かたの考 え方であるようだった。 「現場をご覧になりますか」 と若い士官が真之にいったが、真之は見るにしのびなかった。かれとともに日本海の 海上で戦ってきた三百三十九人の戦友が、敵弾で斃れることなく戦勝後事故で一挙に死 んだ。数奇というよりもこの奇怪さが、真之の多分に宗教性を帯びはじめている感情に は堪えられなかったのである。 坂 ついでながら日本海海戦における侵入軍ーーーロシア側ーーの死者は約五千で、捕虜は の六千百余人である。防御軍である日本側の戦死は百数十人にすぎなかった。真之はロシ 雨ア人があの海戦であまりにも多く死んだことについて生涯の心の負担になっていたが、 それにひきかえ日本側の死者が予想外に少なかったことをわずかに慰めとしていた。が、 たお ため
のである。 「東郷は八月十日とおなじ陣形でやってきています」 と、セミョーノフ中佐が叫んだその陣形というのは、かれの言うとおりではない。東 郷は八月十日 ( 黄海海戦 ) とはべつなかたちできた。 しかしセミョーノフは叫ばざるをえない。幕僚のなかでかれだけがかって旅順艦隊に 属し、あの激烈だった黄海海戦に参加した生き残りなのである。かれのロぐせによれば、 しもせ 「下瀬火薬のにおいを知っているのはおれだけだ」 ということであった。さらにかれはその文章で兵学校一番とか二番とかいう履歴をも った他の幕僚たちをのろい、「かれらは机の上の秀才であるかもしれないが、実戦を知 らない。まして東郷の癖も知らない。それらのすべてを知っている自分をのけものにし て東郷と戦えるはずがないではないか」という意味のことをいっているように、かれに とって「八月十日」ということが自信のよりどころであり、自己顕示の場所でもあった。 明治三十七年八月十日の黄海海戦は東郷にとってつらい戦いであった。旅順艦隊が六 海隻の大戦艦をもっているのに対し、東郷は初瀬と八島を機雷でうしなっていたため、三 命笠以下四隻の戦艦しかもっておらず、戦いの運命を決する戦艦主砲の数は、ロシアの二 運十四門に対し、日本は十七門でしかなかった。 そのうえ東郷にとって致命的なことは、戦艦の補助をすべき装甲巡洋艦四隻 ( 上村艦
世界中が、この海戦のなりゆきを見まもっていた。たとえば、この五月の十九日付で 刊行された英国の雑誌「エンジニアリング」にはきたるべき日露海戦がいかに注目すべ き世界史的事件になるかを論じている。 「きたるべきこの海戦は、その影響するところのものは史上かってない大きさになるだ ろ , つ」と一一 = ロい 「この海戦の争点は、海上権にある。島帝国である日本の地理的条件はわが英国のそれ とおなじで、満州における日本陸軍の勝利の価値を決して小さく評価するわけではない が、日露戦争における陸戦はあくまでも副位のたたかいである。日本の海軍が海上権を 錨 保持することによってのみ陸戦の戦果が評価されるというものだからである。日露戦争 抜における日本の段階は、たとえばナイルの戦いに勝ってなおいまだトラファルガーの海 戦を経てないものである。もしネルソン提督にしてフランスのヴィルヌーヴ提督にやぶ 抜錨
というのは、陣形のことである。たしかに、東郷の八倍の双眼鏡にうつったバルチッ ク艦隊は、へんな陣形をしていた。 「堂々たる二列縦陣」 という印象をうけた目撃談が多いが、しかし実際はそうではなかった。ロジェストウ エンスキーはロシア海軍におけるとっておきの秀才提督であったとはいえ、東郷のよう な実戦の経験はもっていなかった。 当然、海戦をやる場合、単縦陣でやらなければ味方の砲火の効果を十分にあげること ができないということをロジェストウエンスキーはよく知っていた。ただこの秀才は、 この日本海の玄関に入ろうというぎりぎりの段階になって、うるさくつきまとう日本の 捜索艦隊 ( 出羽の第三戦隊 ) のちつばけな巡洋艦たちを追っぱらおうという無用のこと をして陣形を変えた。これがロジェストウエンスキーの重大な失敗であったことはすで にのべた。二列縦陣になった。それを単縦陣に変えようとしてあわただしく信号をあげ たり速力の調整をしたりしているうちに合戦 ( 海軍用語 ) の時間と場所へ突入してしま ったのである。 厳密には、二列でさえないのである。第一戦艦戦隊の右舷にそれに付き添うがごとく 海 の第一駆逐隊が並航し、その第一駆逐隊のうしろに特務船隊がいて、その特務船隊の後尾 運の左舷に第二駆逐隊がならんでいる。さらに第一戦艦戦隊の左舷からすこし遅れて第二 戦艦・第三戦艦戦隊の縦陣が走っており、それら全体の中央後方に第一巡洋艦戦隊がい
するこの海戦において日本側がやぶれた場合の結果の想像ばかりは一種類しかないとい うことだけはたしかであった。日本のその後もこんにちもこのようには存在しなかった であろうということである。 そのまぎれもない蓋然性は、まず満州において善戦しつつもしかし結果においては戦 す・い、わう・ 力を衰耗させつつある日本陸軍が、一挙に孤軍の運命におちいり、半年を経ずして全滅 するであろうということである。 当然、日本国は降伏する。この当時、日本政府は日本の歴史のなかでもっとも外交能 力に富んだ政府であったために、おそらく列強の均衡力学を利用してかならずしも全土 がロシア領にならないにしても、最小限に考えて対馬島と艦隊基地の佐世保はロシアの 不イ地になり、そして北海道全土と千島列島はロシア領になるであろうということは、 この当時の国際政治の慣例からみてもきわめて高い確率をもっていた。 むろん、東アジアの歴史も、その後とはちがったものになったにちがいない。満州は、 すでに開戦前にロシアが事実上居すわってしまった現実がそのまま国際的に承認され、 また李朝鮮もほとんどロシアの属邦になり、すくなくとも朝鮮の宗主国が中国からロシ アに変わったに相違なく、さらにいえば早くからロシアが目をつけていた馬山港のほか のに、元山港や釜山港も柤借地になり、また仁川付近にロシア総督府が出現したであろう 運という想像を制御できるような材料はほとんどないのである。 日本海海戦は、幕末から明治初年にかけての革命政治家である木戸孝允が、生前ロぐ がいぜんせい たかよし
いま一面は戦略的にそれをしなければ日本海海戦の意味はうしなわれるのである。こ ちらがたとえ半分沈んでも敵を一隻のこらす沈めなければ戦略的に意味をなさないとい う困難な絶対面を東郷とその艦隊は背負わされていた。 しいからウラジオストック 「バルチック艦隊は、戦艦、巡洋艦のうち、たとえ何隻でも、 に逃げこみ、日本の海上権を攪乱する可能性を残せば、それで十分ロジェストウエンス キーの勝利である」 という専門家の論評さえ外国の新聞に載ったほどであった。ロジェストウエンスキー はウラジオストックに逃げこむのが戦略目的であった。自己の戦略目的を達成すること は、たとえより薄い勝利にすぎなくあっても、成功であることにはまちがいなかった。 その「成功」によってロシアは今後日本の海上交通をおびやかし、満州の日本陸軍をひ ばしにするという重大な戦略的優位に立ちうるのである。これを逆にいえば東郷の場合、 ロジェストウエンスキーがもっている軍艦という軍艦をぜんぶたたき沈めてしまわなけ れば、勝利にならなかった。戦略上、東郷は「之ヲ撃滅」すべく要求されていたのである。 次いで真之がつけくわえたところの、 「天気晴朗ナレドモ浪高シ」 について、のち海相山本権兵衛が、 「秋山の美文はよろしからす、公報の文章の眼目は、実情をありのままに叙述するにあ ふんしよく る。美文は動もすれば事実を粉飾して真相を逸し、後世をまどわすことがある」 やや
叨かわいた靴下にはきかえた程度が、従兵の目撃した記録的な動作であった。 「わが方の損害は水雷艇三隻」 という、信じがたいほどの軽微さで、無傷というにちかかった。 世界の海軍がその世界での唯一最大の模範としてきたトラファルガーの海戦でさえ戦 勝軍である英国海軍はその乗員の一割をうしない、司令長官のネルソンは旗艦ヴィクト ーの艦上で戦死し、さらには敵の仏西連合艦隊三十三隻のうち十一隻をとりにがすと いう不完全戦勝であった。ところがこの日本海海戦にあってはまだ詳報をえないとはい え、ロシア艦隊の主力艦のことごとくは撃沈、自沈、捕獲されるという、当事者たちで さえ信じがたい奇蹟が成立したのである。 いったいこれを勝利というような規定のあいまいな言葉で表現できるだろうか。 相手が、消滅してしまったのである。極東の海上権を制覇すべく口シア帝国の国力を あげて押しよせてきた大艦隊が、二十七日の日本海の煙霧とともに蒸発したように消え とうてい信じられない。 という態度を、同盟国である英国の新聞でさえとった。バルチック艦隊は全滅し、東 郷艦隊は水雷艇三隻沈没という報が達したとき、これを冷静に記事にしたのはただ一紙 だけで、他の新聞は誤報ではないか、という態度をとった。
208 づけていた。あれだけの海戦が、まるで白昼夢であったかのようであり、たれの心にも どういう感動もあたえていないようでもあった。 このぶきみすぎるほどに静かな空気は、かれらが身につけている規律正しさというよ うなものでは説明ができなかった。 ちょ 理由は、かれらの仕事がまだ緒についたばかりだったからであろう。あの海戦ではた しかに五隻のおそるべき戦艦のうちの四隻までは沈めた。群小の艦の何隻かは沈むか、 沈んだも同然になっているかもしれないが、詳細はまだわからなかった。敵は四十隻あ まりいたが、それらが艦隊のかたちをなさないまでに混乱していることだけはたしかで ある。それらが、広大な日本海のほうばうに散りつつあるであろう。それらを一艦々々 捕捉してゆくのは今夜の水雷攻撃の成否にかかっており、さらにあすの第二日目の決戦 レかかっていた。 参謀長の加藤友三郎は、 ( 妙なやつだ ) と、真之の挙動をみて、にがにがしく思わざるをえなかった。 真之のやることは、。 とうみても軍人らしくなかった。第一、戦闘終了後に加藤とひと ことも口をきいていない。机にむかって何か書きつづけているのはい、 しとしても、従兵 が食事をはこんでくると、食器類を書類のわきにひきよせ、物を食いながら筆を動かし