「秋山参謀と二人、水雷艇の " 雉〃に乗って本艦を離れ、敵の旗艦へ行った。その日は 波が荒かった。その上、 " ニコライ一世。という軍艦は舷側の斜角が急なので上にあが れない」 木の葉のような水雷艇の上から仰ぐと、舷側がそそり立って大要塞を見るような感じ がした。 つなばしご そのうち上から索梯が降りてきた。ちょうど山本のいる場所のほうに降りたため、 山本は、 「お先に」 といって足をかけた。かれはいま登ってゆく艦内には降伏に反対する反乱兵とか、衝 撃で気が変になっている連中とかが存在すると覚悟していたし、もし殺されるなら自分 がさきに殺されるのが後輩としての道だとおもって一足さきに艦上にのばったのである。 すぐ真之ものばってきた。 「艦内ではやはり異様な昂奮状態にあった」 水兵や将校が、口々になにかののしりわめきながらあちこちを駈けまわっている。 パニック フ「容易ならぬ形勢の不穏さ」と山本は形容しているが、実際には恐慌がおこっているの げでもなんでもなかった。かれらは水葬の支度をしていたのである。上甲板には戦死者の しかばね ネ死骸がたくさん横たえられていて、それを運ぶ者、屍を包む者、それらを指揮する声、 さらにはひざまずいて大声で祈疇をあげる者などの諸動作や声がそのあたりを駈けまわ
この第三艦隊に所属する水雷艇は以下のとおりである。 ひばり さぎはいたかうずら 雲雀、鷺、鷂、鶉それに第四十三号艇など番号のついた水雷艇が十 , ハ隻、さらに 竹敷要港部や呉鎮守府に属する旧式水雷艇十四隻も参加。 当時の水雷艇というのは、およそひどい乗物であった。 汽罐をたいて煙突一本で走りまわっているハシケのようなもので、魚雷を何本か抱い ている。刺しちがえの覚悟で敵の大艦の舷側にぶつかるほどに接近し、魚雷を発射して 逃げるのだが、 その成功にはよはどの勇気と幸運を必要とした。 「平素は軍港付近の津々浦々や、島々のあいだのせまい瀬戸を縫って走りまわり、とき かじ どきそのあたりの岩に舵をひっかけて曲げたりしますと、艇を石崖に寄せて浜辺の村鍛 冶をよび、叩き直してもらってさらに走るというようなものでした」 と正木生虎氏は語っている。生虎氏の亡父は正木義太中将で、日露戦争の旅順閉塞の とき大尉で参加して負傷した。正木義太は明治三十三、四年ごろは呉の水雷艇の艇長を していた。そのときの思い出を、のちに海軍大佐になる生虎に語ったのが右の内容であ この当時、日本の海軍では水雷艇乗りのことを、 沖「乞食商売」 かわや さんたん といっていた。服装がきたなく、食事が粗末で、厠もなく、居住性という点では惨澹
タ闇がせまるころ、日本の駆逐艦や水雷艇が魚雷を抱いて戦場をかけまわりはじめた。 このころ、日本海軍にあっては水雷戦の特殊なシステムが考案され、実施されていた。 個々の水雷艇というのはあたかも指一本のように弱々しいものだが、しかし五本の指を げん」 握って拳固にすれば敵への打撃力は強くなるという考え方で、四隻ほどかたまって行動 することになっていた。 富士本梅次郎少佐は、第七十三号艇に乗り、四隻のちつばけな艇を指揮していた。か れらは敵と戦うよりその前に風浪のために覆没する危険性とたたかっていたが、午後七 時すぎ、スワロフを発見した。そのころ、日本の第三艦隊に属する小さな巡洋艦たちが すでにスワロフを発見しており、中小口径砲をもって射撃していた。その中小口径砲は カムチャッカを破壊し、あとで魚雷をもって沈めることができたが、しかしすでに漂泊 する廃墟とはいえ、戦艦のスワロフは容易には沈まなかった。 富士本の四隻の水雷艇は浪を蹴って直進し、三百メートルの至近距離まで近づき、数 本の魚雷を送った。二本が命中した。 そのとき、スワロフにたった一門残されていた艦尾の三インチ砲が最後の火を吐いた。 ほ、つ、 : っ 闘少尉候補生フォン・クルセリが発砲したものであり、この最後の咆哮がおわるや、艦体 は左舷が海中に入り、ついで赤い艦底をみせたかとおもうと大きな渦をのこして姿を消 死した。富士本はその報告において「スワロフの最後の砲火」について印象的な一句を書 き入れている。
59 沖ノ島 この第三艦隊司令部では、この風浪を押して水雷艇をつれてゆくかどうかについてだ いぶ議論があった。むしろ主力が先発し、波の静まるのを待ってかれらを後発させれば いいではないかという意見もあったが、司令長官の片岡七郎は、 「気の毒だが、連れてゆこう」 と、断をくだした。 旗艦の厳島から見ると、水雷艇群が波間をかいくぐったりスクリューを天にあげたり しながら懸命についてくるのがみえる。 「あまり気の毒で、なるべく見ないようにしていた」 と、厳島乗組の参謀百武三郎少佐はのちに語っている。この第三艦隊の第五、第六戦 隊は老朽艦ばかりでとてもバルチック艦隊には対抗できない。ただ水雷艇を随伴してい ると敵が甘くみないためで、かれらが何割途中で風浪のために沈没しようとも連れてゆ かざるをえなかったのである。 旗艦「三笠」以下が鎮海湾を出ると、風浪がはげしくなった。 「天気晴朗」 ししったが、実際には濃霧にちかいほどに濛気が立ちこめて視界は十分ではなかっ 「いずれ、この霧は晴れるでしよう」 っ ) 0
たるものであった。そういうかれらをささえているのは、短刀一本で敵艦を抱き刺しに する海の刺客という誇りだけであった。 日本側は水雷艇の数が多かった。 この五月二十七日までにとくに対馬の尾崎湾に待機していた水雷艇たちは、ながい月 日を哨戒勤務についやしてきたために艇体の塗料が剥げ、煙突と艇尾の旭日旗がなけれ ば朽ちた丸太が浮かんでいるようであった。 対馬の尾崎湾に待機しているこれらの水雷艇に出港用意が命ぜられたのが、二十七日 の払暁である。 「総員起し。出港用意」 キャプスタン と、どの艇でも号令が発せられた。午前五時四十分、いっせいに錨をあげた。揚錨機 ががらがらと鳴り、汽罐が燃えはじめた。 外洋に出ると風がひどく、艇を呑みこむような大波が間断なしに押しよせ、艇身は前 後左右にゆれた。艇上のコン。ハス台に立っている士官は柱にしがみつきながら指揮をと っているのだが、もし放せばたちまち海面にほうりだされるはずであった。しぶきがた えず全身を洗ってゆくのでふつう合羽とゴム長をはいているのだが、それらは戦闘動作 をさまたげるため、たいていの士官は江戸時代の盗賊のように手拭でほっかぶりをし、 ズボンをたくしあげて足には足袋をはき、首筋から海水が入らぬように手拭をぐるぐる 巻きにしていた。
と、その幕僚は拝むまねをした。提督は重傷の身である、という。 結局は曳航することにしこ。 ロープを渡す作業が終了して現場を出発したのはタ闇のせまるころである。 一晩、走った。 ( 万一のことがあれば撃沈するまでだ ) と相羽はおもっていたが、たしかに気味がわるかった。もし敵の巡洋艦でも出現すれ ば駆逐艦など一たまりもなくやられてしまう。 二十九日の夜が明けたころ、後方沖合に巡洋艦が一隻煙をはいていた。みると、三等 巡洋艦の明石 ( 二七五六トン ) だった。宇敷甲子郎大佐を艦長とするこの巡洋艦は駆逐 艦や水雷艇の保護者として二十七日の夜以来、じつによく働いていた。相羽は迷子が母 親に出遭ったような気がした、と語っている。すぐさま明石にすべてを通報した。明石 の宇敷艦長はおどろき、これを無電で三笠に打った。 ( 本当だろうか ) と、真之はその電文を見ながらくびをひねったほどだった。海戦の水域で敵の司令長官 島を拾うなどという話は先例にないことだったし、どういう空想小説の書き手でもここま 丿アリティ 陵での設定は現実感をうしなうとして抑制するかもしれないほどの事実だったからである。 鬱結局、ペドーウイを佐世保までひつばってゆき、ロジェストウエンスキー提督を佐世 保海軍病院に入院させた。
い彼が、さすがにいやな顔をした。しかし真之は知らぬ顔でいた。この男はやはり相当 へんぶつ な変物だったようである。 余談だが、この艦隊が鎮海湾を出てゆくとき、水雷艇の一艇長が、 りしゅんしん 「李舜臣提督の霊に祈った」 という記録を書いていたものがあったように筆者は記憶していたが、それがどの資料 にあったのか容易にみつからなかった。 ひろのり 当時、水雷艇第四十一号の艇長だった水野広徳という人が筆達者で、戦後、「一海軍 中佐」という匿名で「戦影」 ( 大正三年・金尾文淵堂刊 ) という本を書き、またこれより このいっせん 前、明治四十四年刊で「此一戦」 ( 博文館刊 ) という著者名を明記した本を書いている。 この二冊のどこかにあったとおもってさがしてみたが、なかった。 もう一冊、右の水野広徳とよく似た文体の書物で「砲弾を潜りて」というのがある。 著者名は川田功という海軍少佐で、この時期水雷艇の艇付少尉であった。この「砲弾を 潜りて」をみると、なるほど主人公が李舜臣の霊に祈るところがある。 「世界第一の海将」 と著者がいう李舜臣は、豊臣秀吉の軍隊が朝鮮へ侵略したとき、海戦においてこれを 抜あざやかに破った朝鮮の名将である。李舜臣は当時の朝鮮の文武の官吏のなかではほと んど唯一というべき清廉な人物で、その統御の才と言い、戦術能力と言い、あるいはそ
138 水没して長大な水煙をあげるだけだが、日本の砲弾はその鋭敏な伊集院信管によって海 面にたたきつけられると同時に海面で大爆発するのである。このため艦体に命中しなく ても弾体は無数の破片になって艦上を襲った。その破片が、舷側や甲板上の構造物に当 っては、するどくみじかい音をたてた。第二弾は、近すぎた。第三弾は前部煙突のあた りに命中した。 ついで第四弾が、艦尾左舷の六インチ砲塔に命中し、相次いで大火災がおこった。下 瀬火薬の特徴は、艦の装甲をぶちゃぶって艦内で爆発するという式ではなく 、触れた部 分が鉄であれ木であれことごとく火にしてしまうというところにあった。 前部煙突のあたりに巨大な火柱が立っており、艦尾も燃えはじめていた。 戦艦アリヨールの艦上で、日本の戦艦がぶっ放してくる砲弾をみていたノビコフ・プ リホイよ、 「飛んでくる水雷のようだ」 と言い、また巡洋艦オレーグの艦上 , しいた・ポソコフという士官は、 「これは砲弾という機雷である。炸裂すると不消散質の煙をばっと撒き、海中に落ちて さえ破片がとんでわれわれに被害をあたえた」 と、書いている。 スワロフの後部艦橋にいたセミョーノフは、開戦数分後に、艦尾にいた十二、三人の
叨かわいた靴下にはきかえた程度が、従兵の目撃した記録的な動作であった。 「わが方の損害は水雷艇三隻」 という、信じがたいほどの軽微さで、無傷というにちかかった。 世界の海軍がその世界での唯一最大の模範としてきたトラファルガーの海戦でさえ戦 勝軍である英国海軍はその乗員の一割をうしない、司令長官のネルソンは旗艦ヴィクト ーの艦上で戦死し、さらには敵の仏西連合艦隊三十三隻のうち十一隻をとりにがすと いう不完全戦勝であった。ところがこの日本海海戦にあってはまだ詳報をえないとはい え、ロシア艦隊の主力艦のことごとくは撃沈、自沈、捕獲されるという、当事者たちで さえ信じがたい奇蹟が成立したのである。 いったいこれを勝利というような規定のあいまいな言葉で表現できるだろうか。 相手が、消滅してしまったのである。極東の海上権を制覇すべく口シア帝国の国力を あげて押しよせてきた大艦隊が、二十七日の日本海の煙霧とともに蒸発したように消え とうてい信じられない。 という態度を、同盟国である英国の新聞でさえとった。バルチック艦隊は全滅し、東 郷艦隊は水雷艇三隻沈没という報が達したとき、これを冷静に記事にしたのはただ一紙 だけで、他の新聞は誤報ではないか、という態度をとった。
194 立案した戦法であった。むろん攻撃は夜間までつづき、終夜襲いつづける。よかろう、 と加藤はうなすいた 「駆逐隊・艇隊は、極力敵を襲撃せよ」 という信号が「三笠」のマストにあがった。 この海域に出ていた日本のこの種の肉薄用の戦力は、駆逐艦が二十一隻、水雷艇が約 四十隻であった。かれらは主力決戦がおこなわれているあいだは戦場の外縁で風浪とた たかいながら待機していた。かれらは動きだした。むろんこの刺客のような艦艇群は陽 日没とともに敵艦を見つけ次第、それへ抱きつくようにし のあるうちには肉薄しない。 て接近し、魚雷を放つのである。重装甲の戦艦を沈めるには砲弾をいかに集中しても困 難で、水線下に魚雷をぶちあてることによってそれが可能とされていた。 この間、旧式装甲艦や小型巡洋艦で構成されている第三艦隊は主として敵の似たよう な艦種をねらってはこれを攻撃しつつあった。 東郷、上村の主力艦隊はこのあと何度か敵を見うしない、あるいは発見し、戦闘をく りかえしていたが、午後七時十分、ついに日没に近づいたため、発砲を停止した。主力 による昼間戦闘から、駆逐艦や水雷艇による夜戦にきりかえられた。すべてプログラム どおりに戦闘が進行した。 午後五時すぎ、旗艦スワロフは、かってそのマストに聖アンドリュースの軍艦旗と、