日本海軍も軍令部編纂で官修戦史を出している。海軍の場合は軍艦という大きな戦闘 単位が存在として明瞭で、むしろ明瞭すぎるほどであるため、あいまいな記述がしにく 、資料価値は陸軍のそれよりも高いようにおもわれる。しかも当時従軍した海軍軍人 の文章なり談話なりが比較的正直に残されているため、陸軍はどの苦労はすくなかった。 ただ苦の種は私の側にあった。私は海軍のことがわからず、一からそれを知らねばな らなかった。英国海軍の伝統とか、海軍的秩序感覚とか、築地に兵学校が開設された 早々の事情や状態、あるいはそれに参加した人々とか、帆船時代の海軍戦術とかを知る ことからはじめねばならなかった。なぜ海軍士官は両袖に金筋を巻いているのだろうと いうことや、海軍における軍医の位置とかいったような、素朴なことまで気になった。 もっともこまったのは、ネーヴィの気分というものであった。これを肌で知るために、 多くのひとびとの援助を乞うた。このことについては私は非常に贅沢な人間関係をもっ ことができた。私にとっての欲は、父上が海軍士官として日露戦争に従軍し、ご当人も 海軍軍人でしかも戦術教育の機関である海軍大学校を出たという経歴のひとに接したい そしやく ということであった。そういう人ならば父上の体験が、専門知識の中で十分咀嚼されて が伝わっているはすとおもったのである。その該当者が、正木生虎氏であった。正木氏は あ私の望みを理解してくださって、山屋太郎氏など多数のひとびとにひきあわせてくださ った。軍艦の機械的なことは、こんにち世界の海軍研究の第一人者である元技術少佐福
とであった。後続する各艦がおなじ信号をつぎつぎにかかげた。 ところで、東郷の麾下のなかでただ二人だけが、 ( スワロフは回頭したのではない。舵機の機能をうしなってよろけはじめたにすぎな と認識した者がいた。ただ二人だけではなかったかもしれないが、それを認識し、同 時に異常な単独行動を決断した者が一一人いる。 第二艦隊の旗艦出雲の艦橋にいた参謀佐藤鉄太郎中佐がそのひとりであった。佐藤の 横に、司令長官の上村彦之丞がいた。この両人である。 佐藤は、 秋山か佐藤か。 といわれ、海軍部内で早くから戦術の天才という評価をうけていた。もし真之がいな ければ、連合艦隊の先任参謀の位置にこの佐藤がついたにちがいなかった。 かれは慶応二年、出羽庄内藩士芳賀家にうまれ、家老の佐藤家を嗣いだ。真之におけ くじゅう 闘る伊予松山藩もそうであったが、ともに戊辰戦争のときには佐幕派に属し、苦汁をなめ た。この当時、海軍は「薩の海軍」といわれていたように東郷も上村も戊辰の官軍の薩 死摩の出身であった。真之と佐藤が、その旧官軍出身者の下につかえているというのはと 防りあわせとして多少数奇でなくもなかった。
いうことは、ゆるがせようのない予定だったのである。 田村がにわかに死んだため、田村よりはるかに先輩の児玉源太郎が、大臣の職をすて てみすから格下げし、参謀本部次長になり、やがては満州軍の総参謀長になった。児玉 が、開戦まではほとんど連日にちかい作業で田村案のやりかえをやったのは、田村案が 気に入らなかったのではなく、そこに「旅順」という新要素が入ったからである。 田村は、旅順要塞を置きすてていきなり満州の野で主力決戦をかさねてゆくというや り方で、敵の主力さえ殲滅すれば、遼東半島というしつばの先端にある旅順要塞などは 立ち枯れてしまうというものであった。陸戦をのみ考えればそのとおりかもしれない。 が、海軍が旅順の陸上からの攻撃を要請した。 海軍にすれば、制海権の確立のために旅順艦隊 ( 正称は太平洋艦隊 ) をことごとく沈 めてしまわねばならない。一隻でも残せば満州と日本のあいだの海上輸送がかきみださ れ、陸軍の安全が保障されなくなるばかりか、満州の弾薬や食糧の補給もあぶなくなり、 戦争そのものが運営できなくなる。要するに対露戦の作戦上の基礎は、旅順艦隊をぜん ぶ沈めるというところにあった。 ところが、ロシア側の対日戦の作戦上の基礎も同様で、旅順艦隊を温存して本国艦隊 ( のちのいわゆるバルチック艦隊 ) を回航させ、日本海軍の倍以上の勢力をもって東郷艦 隊を沈め、それによって満州の日本陸軍を孤立させてしまうというところにあった。こ のため東郷艦隊が旅順口外にあってしきりに挑発したが、旅順艦隊のほうは方針として
るほどに深いなにかを湛えていた。 戦艦富士の砲員だった西田捨市三等兵曹は、、 しまも大阪府下で健在である。 西田氏は大阪府摂津市浜町のうまれで、氏の語るところでは、明治三十四年に大規模 ました な海軍志願兵募集があった。当時摂津市は三島郡味舌村といったが、その味舌村の村長 さんが、 「わしの名誉のためにぜひたのむ」 と、応募をすすめた。このあたりの気分は宮古島の島司と五人の関係にやや似ている。 西田氏は頑健な若者で、みるからに海軍むきの体つきをしていた。三島郡内で三十九人 の応募者があって三人合格した。 訓練は呉海兵団で五カ月、横須賀の海軍砲術練習所で , ハカ月の教育をうけた。 かれの部署は、戦艦富士の後部主砲 ( 十二インチ砲 ) の砲員で、艦底の弾薬庫から百 , ハ貫という砲弾を揚弾機でひきあげて弾込めをする役目だった。 敵艦隊見ゅの報がったわってきたとき、氏はうずくまって砲の整備作業をしていたが、 頭がガンガン鳴ってきて手が動かず、 「日本がもし負けたら、どうなるかなあ」 錨 と、そればかりを思い、涙がこばれて仕方がなかったという。 抜加藤参謀長は、なお長官公室にいる。電報の翻訳文をみせたあと、蒼白のひたいを光 らせて、 たた
220 艦長はやむなく幕僚たちの部屋へゆき、この旨を報告してふたたび機関室にもどった。 かん その間、幕僚たちのあいだで降伏の申しあわせができあがったのである。この艦を日 本のどこかの浜に着け、提督をポートで上陸させたあと、艦を自沈せしめようというも ので、コロン参謀長らはその結論をもって提督の部屋へ行った。提督は、 「自分に顧慮するな。諸君がこのさい必要であると信ずる決心を断行せよ」 と、意味やや不明なことをいった。要するにまかせるということであった。 このあとコロン参謀長は、わざと艦長にはいわずゥールムという大尉をつかまえて 「白旗を用意せよ」といった。敷布でいし ともいった。同大尉はその命令に従って調 達した。 が、艦長はその直後、この事実を知り、敷布をひき裂いて海中にすて、 「この悲劇中に喜劇を演ぜんとするか。自分はロシア海軍の艦長である」 と、叫び、艦橋へあがってしまった。 あの男は、だめだ。 と、ロジェストウエンスキーは、この駆逐艦の艦長コロメイツオフ中佐の硬骨を不愉 央におもったかとおもわれる。コロメイツオフ中佐は敷布をひき裂くときに、 ふりよ 「この艦の指揮権は艦長としての自分にある。わがロシア海軍の司令長官を敵国の俘虜 としてひきわたすことはできない」
190 というのは、ロシア側にとって悪魔との邂逅のようなものであった。 海戦というのは広い海域のなかで艦艇が高速で走りまわるもので、しかも互いの認識 がんきよう は眼鏡程度のものに拠っており、 いったん敵味方が離れ、水平線上のかなたに没して しまうと容易に遭遇できない。まして視界をさえぎる濛気がある。しかもロシア側はふ りきってなんとか逃げようとしている。こういう絶対的な、あるいは相対的な条件下で あいあ ふたたび相遭うなど、奇蹟に近かった。 しかもただの遭遇ではなかった。上村の巡洋艦戦隊が、大浪を艦首でくだきながらロ シア側を南から追っかけているのである。そこへ東郷の三笠以下の戦艦戦隊が西方の沖 合からあらわれた。 ロシア側は挟撃されるかたちになった。 この日本側の光景を燃えあがる旗艦スワロフからながめていたセミョーノフ中佐は、 日本の戦術運動が神技というほかないというような感嘆をもって述べている。 しかし出雲の艦橋にあった佐藤鉄太郎は、 「運だった」 と、戦後、冷静に語っている。 なしばときおき 佐藤が戦後、海軍大学校の教官をしていたとき、梨羽時起という海軍少将があそびに きて、 「佐藤、どうしてあんなに勝ったのだろうか」 力い、 ) う
2 フ 0 筆者の机上に、三笠の艦内で真之がのそきこんでいた海図と同じものであろうとおも われる古い海図が幾種類かある。 「二十九日天明、鬱陵島において装甲巡洋艦ドンスコイが日本の小艦艇群と奮戦のすえ 自沈、残存乗員七百七十余人が上陸、捕虜となる」 と、その海図に書き入れたとき、二十七日以来、日本海の広大な海域を舞台にして争 われた二つの帝国の海上戦はその最後の幕をとじた。 ドンスコイの装甲は強力なものであった。日本の小さな巡洋艦や駆逐艦の砲弾は無数 にこの艦に集中したが、それらはこの艦の汽罐と舵機を破損させたのみで、装甲帯その ものは小石を投げられた程度といっていいほどにびくともしなかった。結局、この艦は 二十七日午後二時以来奮戦四十時間という記録をのこし、みずからキングストン弁をひ らいて沈没した。 雨の坂
せのように言いつづけたところの、 きちゅうこういん 「癸丑甲寅以来」 という歴史のエボックの一大完成現象というべきものであった。 癸丑はペリーがきた嘉永六年のことであり、甲寅とはその翌年の安政元年のことであ る。この時期以来、日本は国際環境の苛烈ななかに入り、存亡の危機をさけんで志士た ちがむらがって輩出し、一方、幕府も諸藩も江戸期科学の伝統に西洋科学を熔接し、つ いに明治維新の成立とともにその急速な転換という点で世界史上の奇蹟といわれる近代 国家を成立させた。 同時に海軍を、システムとして導入し、国産の艦船をつくる一方、海上よりくる列強 の侵入をふせぐだけの戦略を検討しぬいて確立し、山本権兵衛を代表とする、勝っため の艦隊の整備をおこなった。 要するにあらゆる意味で、この瞬間からおこなわれようとしている海戦は癸丑甲寅以 来のエネルギーの頂点であったといってよく、さらにひるがえっていえば、二つの国が、 たがいに世界の最高水準の海軍の全力をあげて一定水域で決戦をするという例は、近代 世界史上、唯一の事例で、以後もその例を見ない。 旗艦三笠が、つ いにロジェストウエンスキーの大艦隊を発見するにいたるのは、午後 一時三十九分である。
叨かわいた靴下にはきかえた程度が、従兵の目撃した記録的な動作であった。 「わが方の損害は水雷艇三隻」 という、信じがたいほどの軽微さで、無傷というにちかかった。 世界の海軍がその世界での唯一最大の模範としてきたトラファルガーの海戦でさえ戦 勝軍である英国海軍はその乗員の一割をうしない、司令長官のネルソンは旗艦ヴィクト ーの艦上で戦死し、さらには敵の仏西連合艦隊三十三隻のうち十一隻をとりにがすと いう不完全戦勝であった。ところがこの日本海海戦にあってはまだ詳報をえないとはい え、ロシア艦隊の主力艦のことごとくは撃沈、自沈、捕獲されるという、当事者たちで さえ信じがたい奇蹟が成立したのである。 いったいこれを勝利というような規定のあいまいな言葉で表現できるだろうか。 相手が、消滅してしまったのである。極東の海上権を制覇すべく口シア帝国の国力を あげて押しよせてきた大艦隊が、二十七日の日本海の煙霧とともに蒸発したように消え とうてい信じられない。 という態度を、同盟国である英国の新聞でさえとった。バルチック艦隊は全滅し、東 郷艦隊は水雷艇三隻沈没という報が達したとき、これを冷静に記事にしたのはただ一紙 だけで、他の新聞は誤報ではないか、という態度をとった。
世界中が、この海戦のなりゆきを見まもっていた。たとえば、この五月の十九日付で 刊行された英国の雑誌「エンジニアリング」にはきたるべき日露海戦がいかに注目すべ き世界史的事件になるかを論じている。 「きたるべきこの海戦は、その影響するところのものは史上かってない大きさになるだ ろ , つ」と一一 = ロい 「この海戦の争点は、海上権にある。島帝国である日本の地理的条件はわが英国のそれ とおなじで、満州における日本陸軍の勝利の価値を決して小さく評価するわけではない が、日露戦争における陸戦はあくまでも副位のたたかいである。日本の海軍が海上権を 錨 保持することによってのみ陸戦の戦果が評価されるというものだからである。日露戦争 抜における日本の段階は、たとえばナイルの戦いに勝ってなおいまだトラファルガーの海 戦を経てないものである。もしネルソン提督にしてフランスのヴィルヌーヴ提督にやぶ 抜錨