現しょ , っとしていた。 これがようやく実現をみたのは、休戦の直前である。かれ一人の指揮下に騎兵二十六 個中隊が集中的に配属され、その装備火力も日本軍としては精一ばいの充実をみた。 「秋山騎兵団」 という名称のもとに依然乃木軍の隷下におかれた。すでにのべたように二人の参謀も 配置された。これによって数量的にはなお敵のミシチェンコ騎兵団よりも劣勢ながら、 日本における単独行動力をもった機動兵団が最初に成立したのである。ついでながら戦 後はこの思想が衰弱し、昭和十四年のノモンハンにおける敗北後、ふたたび日本軍の一 部でこの考え方が成立したが、十分されないままに日本軍そのものが敗滅した。 秋山騎兵団の成立は乃木軍司令部の若い参謀たちの気分をも昂揚させたらしい。ある 参謀が、好古の司令部に電話をかけてきて森岡守成という好古の中佐参謀をよび出し、 「新編制の秋山騎兵団を一度も戦場に用いることなしにこの戦役を了えるのは残念なこ とだから、一度やってみないか」 と、 いった。乃木軍司令部は旅順攻略の当初から司令部軍紀がみだれているという定 ひとつにはこういう気分もそれを物語っているといえるかもしれない。 坂評があったが、 の乃木希典の意見をきくことなくいきなり下部団隊の参謀をけしかけるようなことをいっ 雨てくるのである。 りようようわほう 攻撃すべき対象は、遼陽窩棚において強力な陣地を構築してしかも陣地外活動をし まれすけ
文の起草者がかれであるということになった。かれは秋山文学といわれたくらいに名文 家であったことも、その誤解を生んだ。 この電文は、真之が起草したものではなかった。 げんに、真之の目の前で、飯田久恒少佐や清河純一大尉らが、しきりに鉛筆をうごか している。 やがて飯田少佐が真之のところへやってきて、草稿をさし出した。 ただち 「敵艦見ュトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」 とあった。 「よろしい」 真之は、うなすいた。飯田はすぐ動いた。加藤参謀長のもとにもってゆくべく駈け出 そうとした。そのとき真之は、「待て」ととめた。 すでに鉛筆をにぎっていた。その草稿をとりもどすと、右の文章につづいて、 「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」 と入れた。 後年、飯田久恒は中将になったが、真之の回顧談が出るたびに、 「あの一句を挟んだ一点だけでも、われわれは秋山さんの頭脳に遠く及ばない」 かんべき と語った。たしかにこれによって文章が完璧になるというだけでなく、単なる作戦用 の文章が文学になってしまった観があった。さらにそれ以上の意味もふくまれているの はき一
254 「じゅんさんが、軍艦をうけとりに行ったげな」 かわひがしへきごどう と、後日、東京で俳人河東碧梧桐が、松山出身の連中との会合があったときその話 題になっこ。 へいこう 「秉公」 と、子規がやや年下の碧梧桐をそのようによんでいたように、真之も碧梧桐に対して は「秉公」だった。秉公のほうは真之が幼名を淳五郎といったために「秋山のじゅんさ ん」とよんでいた。 松山旧城下では士族町と町人町のこどもがたがいに団体を組んでけんかをしあうとい う習慣があって、その餓鬼大将が真之だった。碧梧桐は年下だけに手下になって駈けま わっていた。 「大将が二人いてな」 と、碧梧桐は少年のころのはなしをした。もう一人の大将というのは馬島某というこ どもで、こどもながらも温厚寡黙でおのずから年下の悪童たちをなっかせていた。馬島 某のその後の消息は碧梧桐も知らない。馬島とくらべて「秋山のじゅんさん」のほうは、 きはく 目がするどく体中に気魄がみなぎっていて、 「じゅんさんが先頭に立ってけんかをするときにはな、われわれ悪童どもは胸が一杯に こわ なってきて、天下に恐いものはいないというような勇気やら安心やらが湧いたもので
戦隊がそれを終了したときには、東郷の全主力は、各艦の片舷の諸砲あわせて百二十七 尸の主、副砲カ / ノ 。 : ヾレチック艦隊の先頭をゆく旗艦スワロフとオスラービアをめがけて 砲弾を集中させていたことになる。この意味ではこの戦術は数学的合理性のきわめて高 いものであるといえた。 「水戦のはじめにあたっては、わが全力をあげて敵の先鋒を撃ち、やにわに二、三艘を 討ちとるべし」 というのは、秋山真之が日本の水軍の戦術案から抽きあげた戦法であった。この思想 は、外国の海軍にはなかった。 東郷は真之の樹てた戦術原則のとおりに艦隊を運用した。秋山戦術を水軍の原則にも どすと、 「ます、敵の将船を破る。わが全力をもって敵の分力を撃つ。つねに敵をつつむがごと くに運動する」 というものであった。 このためロジェストウエンスキーの旗艦スワロフと、それと並航しているかのごとく 海にみえる戦艦オスラービアは、またたくまに日本の下瀬火薬につつまれた。その二隻を の とりまく小さな空間は濃密な暗褐色の爆煙でつつまれ、絶えまなく命中弾が炸裂するた 命 運め爆煙のなかで、閃々と火光がきらめき、やがて火炎があがった。 ロシア側も、撃ちに撃った。
かでこれをきき、し 、っせいに持ち場にむかって散った。 さねゆき このとき秋山真之は後甲板でひとり体操をしていたが、このとき近くにこの旗艦の砲 あばきよかず 術長の安保清種少佐がいた。安保の記憶では真之の動作が急に変化して片足で立ち、両 手を阿波踊りのように振って、 「シメタ、シメタ」 とおどりだしたというのである。 こおど 「秋山さんは雀躍りしておられた」 と、安保はのちのちまでいった。 敵は津軽へまわるのではないか。 という疑念が、えたいの知れぬ怪物のようになってここ一週間ばかりのあいだ真之の た 背後から重くかぶさっていた。もし敵が津軽まわりをしてくれば真之が樹てた七段構え の戦法は根柢からくずれざるをえず、いそぎ津軽へかけつけたところで、時間・空間と いう物理的制約のために敵をいくらも沈められない。対馬コースをとってきてくれれば、 真之は予定した作戦計画どおりに敵を迎えることができ、ウラジオストックまでのあい だ、十分な時間とゆたかな空間を戦闘につかうことができるのである。 戦術家というのは、「敵が予想どおりに来る」というこのふしぎな瞬間に賭けている 抜ようなものであり、戦術家としての仕事のほとんどはこの瞬間に完成する。 となれば、真之が勝利感を味わったのはこの「敵艦隊見ゅ」の瞬間であった。あとは こんてい
と、秋山真之は、参謀長の加藤友三郎少将にいった。加藤は不央気にだまっていた。 実際、開戦の時間になったころは、晴朗とまではゆかなくとも霧は薄くなったのだが、 加藤にすれば真之が「晴朗」と大本営へ打電したことが多少不愉快であった。すこしも 晴朗ではなかった。 きとうし しかし真之は一個の祈疇師のような心情になって、 ほほえ ( 霧はきっと薄らぐ。天運はわが艦隊に微笑むはずだ ) と、心中懸命に祈っていた。かれは後年、この日連合艦隊に幸いした天佑の連続のた めに神霊を信ずる人になり、山本権兵衛をして、 秋山は天佑々々と言いすぎる。後世、神秘的な力で勝ったように錯覚する者が出 てきては日本の運命があやぶまれる。 と、眉をしかめさせたほどの人物になってしまったが、実のところかれはこの海戦の ちのう 設計段階において智嚢のかぎりをしばってしまった。あとは天佑を待つのみであり、そ れを思うと気が狂いそうになるまでーーーというより狂ったほうが自然ーー・というまでに こんばい 心気を困憊させきっていたのである。かれはこの時期、神仏の名前をいくつも知らなか った。子供のころに母親からきいた神名、仏名を胸中でとなえ、さらに日本中の神々が、 やがて艦隊が敵と遭遇するであろう沖ノ島の上天にふり降ってくることを祈った。 「日露戦争において」 と、 いった人がある。 くだ
% しただけで、あとは人並はずれて視力のいいその肉眼によって敵をとらえようとしてい た。かれは両脚を休メのかたちにしてわずかにひらき、左手に長剣のつかをにぎり、身 動きというものをまったくしなかった。かれの統率上の信条はどうやら、司令長官は全 軍の先頭のしかも吹きさらしの空中 ( 前部艦橋 ) にあって身動きをしないというところ まりしてん に基本を置いているようであり、その姿は、一種不動の摩利支天を見るようであったと , っ この艦橋にあってクロノグラフをにぎっていた安保清種は、後年、 せつな そうごん 「その刹那の三笠艦橋における光景は、なんというか、荘厳としか形容のしようのない ものでした」 と、繰りかえし語っている。 先任参謀の秋山真之はこれらの群像の左後方にやや離れて立ち、秋山家系の容貌の特 徴である隆い鼻を風になぶらせながら、ノートをもち、うつむいてそれへ敵状を書きこ んでいた。そのあたりにも、なにか変人のにおいがあった。この場にいたってノートを とることがどれほど必要性があるのか、他の連中にはよくわからなかった。 レンジファインダー これらの幕僚たちのうしろに、測距儀をのそきこんで敵との距離を測定している士 官がおり、ときどき大声をもって距離をどなった。 眼鏡で拡大してみると 、バルチック艦隊の艦体は、日本の軍艦が濃灰色であるのに対 し、真っ黒に塗られていて空の色と区別することが容易であり、それに煙突が黄色に塗 たか
指示は総参謀長児玉源太郎の名前でもってし、命令は大山総司令官の名をもってした。 どうやら、それが真相らしい 遼陽会戦における首山堡攻撃については、昭和期に入っても陸軍大学校では論議の多 い教材だったらしい 私は「公刊日露戦史」というあのばう大なものを昭和二十九年だったか、道頓堀の古 本屋のタナのいちばん高い段でホコリをかぶっていたのを買って以来、首山堡のくだり が理解できなくてこまった。参謀本部が、戦後まもなく編纂しはじめただけに、おそら く記述すれば迷惑する現存者が多かったため、重要な二三の要素を抜いてしまっている からに相違ないと思ったりした。 そういう先入主が私にあったために、首山堡のくだりを書くとき、公刊戦史のその項 の記述を読むことに丹念さを欠いたきらいがある。 攻撃事前における首山堡の敵状については、搜索にあたっている秋山好古の支隊から 合 落しきりに報告がとどいていた。報告さきは奥軍司令部だが、総司令部にもとどいていた 堡はずであった。それを黙殺したのは落合でなく、松川だった。秋山の報告によれば、 首「敵の重砲兵の如きもの首山にあり」とか、「首山の後方に多数の天幕あり」とか、「三 塊石西方高地より首山にわたり防御工事を施しつつあり」とかいったぐあいで、これを
ネルギーをすいとるものだから、女性 ( や子供たち ) も政戦両力の意外なささえになっ ているはすである。それがあんまり出てこないのが寂しい それから宮古島の漁民や沖の島の島守などを点描して、庶民もこの戦争に参加した心 意気を忘れないように作者は心使いをしているが、それは当然な配慮であったろう。た だそうすると、頭脳戦に心血を注いだ学者たちの努力のあとも、もう少し大きな比重を しめて語るに価するものではなかったか。 序曲につづいて、中心部が展開する。この後半部は、ます山本権兵衛、小村寿太郎、 児玉源太郎の三人男ーーっまり、秋山兄弟より身分がもう一段高い層から政戦両略を構 想させる部分によって導入する。遼陽までは、戦況が比較的とんとん拍子にすすんだこ ともあって、事も筆も流れるようにすすんでゆく。それが旅順ロ、沙河で一停頓すると ころから、どうなるのかと読者たちは胸をワクワクさせる。 項目を眺めると、「砲火」とか、「黄塵」とか、「海濤」とか、無季の季題めいた詩的 印象語が、「遼陽」「旅順」「沙河」「黒溝台」「印度洋」というただ地名を伝える固有名 説詞のそっけない投げ出しと連鎖して、ふしぎに深々とした象徴性をおびてくる。 一九〇五年三月十日にきわまった日本陸軍としては大詰めの決戦「奉天」は、「会戦」 あら 解と「退却」という露わな二章の中にたたみこまれて、中心部のヤマの一つをつくる。 しかし、この戦争の大団円は陸戦によってつけられす、主人公の一人秋山真之が花形
日本海海戦は二日間つづく。しかし秋山真之は終生、 「最初の三十分間だった。それで大局がきまった」 とった。さらにこ , つもっている。 「ペリー来航後五十余年、国費を海軍建設に投じ、営々として兵を養ってきたのはこの 三十分間のためにあった」 「三笠」は、相変らず長蛇の陣をひきい、その先頭をすすんでいた。 海面は敵砲弾の落下のために沸きだち、その林立する水柱のなかに三笠の艦橋が宙に しぶき 闘浮かんでいるような感があった。東郷は依然としてかれの場所をうごかなかった。飛沫 がしばしばかれの双眼鏡をぬらした。そのつど東郷は小さな布をとりだしてぬぐった。 死それだけが東郷の身動きの唯一の変化であった。 「わが全線の砲火をもって敵の先頭に集中させる」