文の起草者がかれであるということになった。かれは秋山文学といわれたくらいに名文 家であったことも、その誤解を生んだ。 この電文は、真之が起草したものではなかった。 げんに、真之の目の前で、飯田久恒少佐や清河純一大尉らが、しきりに鉛筆をうごか している。 やがて飯田少佐が真之のところへやってきて、草稿をさし出した。 ただち 「敵艦見ュトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」 とあった。 「よろしい」 真之は、うなすいた。飯田はすぐ動いた。加藤参謀長のもとにもってゆくべく駈け出 そうとした。そのとき真之は、「待て」ととめた。 すでに鉛筆をにぎっていた。その草稿をとりもどすと、右の文章につづいて、 「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」 と入れた。 後年、飯田久恒は中将になったが、真之の回顧談が出るたびに、 「あの一句を挟んだ一点だけでも、われわれは秋山さんの頭脳に遠く及ばない」 かんべき と語った。たしかにこれによって文章が完璧になるというだけでなく、単なる作戦用 の文章が文学になってしまった観があった。さらにそれ以上の意味もふくまれているの はき一
かでこれをきき、し 、っせいに持ち場にむかって散った。 さねゆき このとき秋山真之は後甲板でひとり体操をしていたが、このとき近くにこの旗艦の砲 あばきよかず 術長の安保清種少佐がいた。安保の記憶では真之の動作が急に変化して片足で立ち、両 手を阿波踊りのように振って、 「シメタ、シメタ」 とおどりだしたというのである。 こおど 「秋山さんは雀躍りしておられた」 と、安保はのちのちまでいった。 敵は津軽へまわるのではないか。 という疑念が、えたいの知れぬ怪物のようになってここ一週間ばかりのあいだ真之の た 背後から重くかぶさっていた。もし敵が津軽まわりをしてくれば真之が樹てた七段構え の戦法は根柢からくずれざるをえず、いそぎ津軽へかけつけたところで、時間・空間と いう物理的制約のために敵をいくらも沈められない。対馬コースをとってきてくれれば、 真之は予定した作戦計画どおりに敵を迎えることができ、ウラジオストックまでのあい だ、十分な時間とゆたかな空間を戦闘につかうことができるのである。 戦術家というのは、「敵が予想どおりに来る」というこのふしぎな瞬間に賭けている 抜ようなものであり、戦術家としての仕事のほとんどはこの瞬間に完成する。 となれば、真之が勝利感を味わったのはこの「敵艦隊見ゅ」の瞬間であった。あとは こんてい
254 「じゅんさんが、軍艦をうけとりに行ったげな」 かわひがしへきごどう と、後日、東京で俳人河東碧梧桐が、松山出身の連中との会合があったときその話 題になっこ。 へいこう 「秉公」 と、子規がやや年下の碧梧桐をそのようによんでいたように、真之も碧梧桐に対して は「秉公」だった。秉公のほうは真之が幼名を淳五郎といったために「秋山のじゅんさ ん」とよんでいた。 松山旧城下では士族町と町人町のこどもがたがいに団体を組んでけんかをしあうとい う習慣があって、その餓鬼大将が真之だった。碧梧桐は年下だけに手下になって駈けま わっていた。 「大将が二人いてな」 と、碧梧桐は少年のころのはなしをした。もう一人の大将というのは馬島某というこ どもで、こどもながらも温厚寡黙でおのずから年下の悪童たちをなっかせていた。馬島 某のその後の消息は碧梧桐も知らない。馬島とくらべて「秋山のじゅんさん」のほうは、 きはく 目がするどく体中に気魄がみなぎっていて、 「じゅんさんが先頭に立ってけんかをするときにはな、われわれ悪童どもは胸が一杯に こわ なってきて、天下に恐いものはいないというような勇気やら安心やらが湧いたもので
と、秋山真之は、参謀長の加藤友三郎少将にいった。加藤は不央気にだまっていた。 実際、開戦の時間になったころは、晴朗とまではゆかなくとも霧は薄くなったのだが、 加藤にすれば真之が「晴朗」と大本営へ打電したことが多少不愉快であった。すこしも 晴朗ではなかった。 きとうし しかし真之は一個の祈疇師のような心情になって、 ほほえ ( 霧はきっと薄らぐ。天運はわが艦隊に微笑むはずだ ) と、心中懸命に祈っていた。かれは後年、この日連合艦隊に幸いした天佑の連続のた めに神霊を信ずる人になり、山本権兵衛をして、 秋山は天佑々々と言いすぎる。後世、神秘的な力で勝ったように錯覚する者が出 てきては日本の運命があやぶまれる。 と、眉をしかめさせたほどの人物になってしまったが、実のところかれはこの海戦の ちのう 設計段階において智嚢のかぎりをしばってしまった。あとは天佑を待つのみであり、そ れを思うと気が狂いそうになるまでーーーというより狂ったほうが自然ーー・というまでに こんばい 心気を困憊させきっていたのである。かれはこの時期、神仏の名前をいくつも知らなか った。子供のころに母親からきいた神名、仏名を胸中でとなえ、さらに日本中の神々が、 やがて艦隊が敵と遭遇するであろう沖ノ島の上天にふり降ってくることを祈った。 「日露戦争において」 と、 いった人がある。 くだ
と、い , つ。さらに碧梧桐は、 「われわれ悪童にとって馬島はやさしくて好きであり、じゅんさんはおそろしくて好き だった。人間というのは少年のころの感じのままの大人というのはめったにいないが、 じゅんさんはあのままひげがはえているだけじゃがな」 秋山家では兄の好古のほうがすきで、真之にはどこかきわどさを感じていたようであ る。 だが碧梧桐はかれの兄貴株であり師匠でもあった子規と真之がともに文学をやろうと ちかいあった仲だったということに無限の懐しみを感じていた。それが、兄の好古にど なりつけられてやめたという話も、好んでひとに披露した。 碧梧桐は、真之が電文や公報の起草者として名文家の盛名を世間で得たことを不満と していた。碧梧桐にいわせれは、 「舷々相摩す、などというじゅんさんの文章はあれは海図に朱線をひいてその赤インキ の飛ばっちりじゃ」 きち フという。真之が、碧梧桐の表現でいえば「他の窺知することのできない惨澹たる経営 ようげき げでもって智嚢を傾けつくした」バルチック艦隊の邀撃作戦こそじゅんさんの真骨頂で、 ネ くだらない美文で名を得ているのは可哀そうじゃ、ということらしい。ひとつには子規 を開祖としてひらかれた写生文の感覚からいえば、真之の文章というのは碧梧桐の気に
「作戦上の心労のあまり寿命をちちめてしまったのが陸戦の児玉源太郎であり、気を狂 わせてしまったのが海戦の秋山真之である」 のうしよう というのだが、 真之は発狂したわけではなかった。しかし脳漿をしばりきったあと、 戦後の真之はそれ以前の真之とは別人の観があったことだけはたしかである。戦後、真 之の言うことにしばしば飛躍があり、日常神霊を信する人になった。 濃霧ではいけよ、、 ということを真之はむろんわかっていた。霧にまぎれてバルチッ ク艦隊が逃げてしまう可能性が大きくなるからである。 しかし・晴朗でもいけなかっこ。 晴朗ならばロジェストウエンスキーは遠距離において東郷の艦隊を発見するであろう。 とすれば針路を変えて逃げることも不可能ではなかった。 現実に両軍が衝突したときは、濛気がなお残っていた。このためバルチック艦隊が東 郷の艦隊を発見したときは、すでに抜きさしならぬ近距離になってしまっていたのであ る。ロジェストウエンスキーにすれば全力をあげて戦闘をする以外になかった。晴朗と いうよりもむしろ薄霧であったことが東郷の艦隊に幸いした。 「東郷は若いころから運のついた男ですから」 島 というのは、山本権兵衛が明治帝に対し、東郷を艦隊の総帥にえらんだ理由としての 沖べた言葉だが、名将ということの絶対の理由は、才能や統率能力以上に彼が敵よりも幸 運にめぐまれるということであった。悲運の名将というのは論理的にありえない表現で
256 入るたちのものではなかった。 ともあれ、ネボガトフ艦長は機関をとめて、漂泊した。東郷は、 「秋山サン、ゆきなさい」 と、受降のための軍使として真之をえらんだ。旗艦ニコライ一世へ乗りこんでゆき、 ネボガトフと対面して降伏についてのうちあわせをせよ、ということであった。 ポート 敵艦へゆくためには短艇が必要だったが、たまたま三笠のそばに「雉」という名前の ついたちつばけな水雷艇がちかづいてきたので、 「関よ」 と、真之は艦上からまねいた。雉の艦長は大尉で、関才右衛門といった。 真之は、それに乗った。かれは東郷のまゆをひそめさせた例のふんどし姿 ( 剣帯を上 衣の上から締めた恰好 ) をやめていた。武器は腰に吊っている果物ナイフのような短剣 だけで、拳銃ももっていない。 ( 帰って来れるかどうかわからない ) とおもったのは、随行の山本信次郎大尉である。山本は三笠の分隊長をつとめていた が、フランス語が堪能であるため、通訳として従ったのである。 私は死を決していた。 と、山本信次郎がのちに語っている。以下、その談話である。
210 かれは、昼間、艦橋上からみた敵のオスラービアが、艦体をことごとく炎にしてのた うちまわっていた姿の凄さを同時におもいだした。真之はあの光景をみたとき、このこ とばかりはたれにも一言えないことであったが、 体中の骨が慄えだしたような衝撃を覚え こ 0 ( どうせ、やめる。坊主になる ) じゅもん と、みずから懸命に言いきかせ、これを呪文のように唱えつづけることによって、そ の異常な感情をかろうじてなだめようとした。真之は自分が軍人にむかない男だという よしふる ことを、この夜、べッドの上で泣きたいような思いでおもった。兄の好古はいま満州の 奉天付近にいるはすであった。その好古へのうらみが、鉄の壁にさえぎられた暗く狭い とも 空間のなかで灯ったり消えたりした。 秋山真之という、日本海軍がそののちまで天才という賞讃を送りつづけた男には、、 ひょわ わばそういう脾弱さがあった。かれは戦後、実際に僧になるつもりで行動を開始した。 しかし小笠原長生らかれの友人が懸命に押しとどめたためようやく思いとどまりはした ひろし ものの、結局、戦後に出生した長男の大を僧にすべくしつつこく教育し、真之が大正七 年に病没するときこの長男にかたくそのことを遺言した。大は成人後、無宗派の僧とし てすごした。この海戦による被害者は敵味方の死傷者だけでなく、真之自身もそうであ ったし、まだ未生のその長男の生活もこの日から出発したといえる。 ふる
戦隊がそれを終了したときには、東郷の全主力は、各艦の片舷の諸砲あわせて百二十七 尸の主、副砲カ / ノ 。 : ヾレチック艦隊の先頭をゆく旗艦スワロフとオスラービアをめがけて 砲弾を集中させていたことになる。この意味ではこの戦術は数学的合理性のきわめて高 いものであるといえた。 「水戦のはじめにあたっては、わが全力をあげて敵の先鋒を撃ち、やにわに二、三艘を 討ちとるべし」 というのは、秋山真之が日本の水軍の戦術案から抽きあげた戦法であった。この思想 は、外国の海軍にはなかった。 東郷は真之の樹てた戦術原則のとおりに艦隊を運用した。秋山戦術を水軍の原則にも どすと、 「ます、敵の将船を破る。わが全力をもって敵の分力を撃つ。つねに敵をつつむがごと くに運動する」 というものであった。 このためロジェストウエンスキーの旗艦スワロフと、それと並航しているかのごとく 海にみえる戦艦オスラービアは、またたくまに日本の下瀬火薬につつまれた。その二隻を の とりまく小さな空間は濃密な暗褐色の爆煙でつつまれ、絶えまなく命中弾が炸裂するた 命 運め爆煙のなかで、閃々と火光がきらめき、やがて火炎があがった。 ロシア側も、撃ちに撃った。
その電報が入ると、真之は海図に、 ー・ドンスコイ」 と、その正称を入れ、自沈場所に x 印をし、日時を記入して顔をあげ、 「どうやら終わりましたな」 と、加藤参謀長にいった。加藤は返事もしなかった。加藤はおよそ劇的表現のきらい な男であり、かれにとってこの世界史上空前の大海戦を運営するにあたっても、まるで 銀行員が事務を進行させてゆくようにして進行させた。後日、かれが東京にもどってか らもこの調子であった。戦勝を祝うために私宅を訪ねてくる客を拒絶し、たまに面接し ても、「なんのご用ですか」と、相手を鼻白ませ、とりつく島もない態度をみせた。 そういう無愛想さは真之のはうがもっとひどかった。 「大変な勝利ですよ」 と、各艦から来る入電の整理をしていた参謀の清河大尉がやや昂奮していったときも 真之は戦闘概報を書く筆をとめ、ちょっと清河の顔をみたが、返事もせずにふたたび鉛 筆を走らせた。このため幕僚室はちょっとした奇人クラブの観があった。加藤友三郎と 坂秋山真之がそういう調子であるため、他の幕僚たち・は大声をあげてはしゃぐわけにもい のかず、ぜんたいの空気は病院の手術室のようにしずかだった。 雨東郷は長官室にいた。かれは入電してくる戦果についてもほとんど無表情で聴いてい かん た。この間、かれはきわだった一一一一口動というものをいっさいせず、せいぜい湿った靴下を