ッ ドマンコレクションのイスラム陶器 コ、 フレデリック・デュ・カーメ・ゴッドマン q834 彼が、地中海及び黒海を訪れたのは、彼がまだ学 ー 1 9 19 年 ) は、タイムズ紙の死亡記事欄によると、 生であった頃に一度だけであったが、 1919 年、彼が 海燕やアゾレス諸島の博物学に関する専門書を著し、 死亡するとイスラム陶器のコレクションが遺産とし 63 巻に及ぶ『中米の生物学』大全集の編集に加わり、 て残され、しかも、このコレクションは 1983 年に大 英博物館の所有となるにあたって、個人のコレク 鳥類学会及び鳥類学専門誌『アイビス』を創設した 人物となっており、それらの肩書のほうが知名度が ションとしては世界で最高のものであると鑑定され た。このコレクションが加わったことで、大英博物 高かったようである。 館のイスラム陶器部門は中東以外の博物館としては、 おそらく最も充実したものとなったのである。 ゴッドマンは生涯を通じて「イギリスの田舎の大 邸宅に住む紳士で科学者」たらんとし、イスラム陶 器の熱心なコレクター、すなわち、当時はまだよく 知られていなかった領域に手を広げた数少ない目利 きの一人になっていった。ヴィクトリア朝時代独特 の勤勉さで以て、ゴッドマンは見た目に美しい物の 蒐集ばかりに夢中になることはなく、むしろ、 1901 年に自費出版した彼の東洋及びスペインの陶器、ガ ラス器コレクションのカタログの序文で述べている 方針に即して蒐集を行った。 このコレクションは、ノ 865 年から業め始め、 欲しいと思うものが手にスった時に、随時加える というようにしてきたが、その第一の目的は、美 しい都セヴィリアから、なる中国に至る多くの 国々において、回教軍の占地のどこにでも自分 達のを築いた回教の南工達の作によってイ スラム陶器の歴史が一目でわかるように、芸術的 に優れたものと、歴史的に価値のあるものを嵬集 することであった。 製作年代や産地の点では、まだ多くの疑問が残る。 ゴッドマン・コレクションは、以前はその分野の研 究者が見る程度であった。しかし、現在では見応え のある特別展以上のものとなっている。というのは、 ゴッドマンの研究方法が現在の美術史家にとって、 有効な方法となっているからである。 ゴッドマン・コレクションは、便宜上、三つのグ ループに分けることができる。第一のグループは、 個人のコレクションとしては、世界で最も見事な建 築用ラスター彩タイルを含む約 164 点のベルシア・ 銅色を呈するラスター彩で装飾された、ブリオニア葉文浅鉢中央にはシチリアのアラゴン家の紋 ラスター彩陶器である。この中には十字形や星形の 章かスっている。ヴァレンシア出ノ 450 年。高さイ 4. 7c 乢 壁面タイルの一群があり、不透明白釉の上に、きら 蛇型把手付多彩水差し ( 多彩蛇型手付壺 ) 窯、猛性の低いユパ . ルト・プル・一、緑青色、赤で蓮花 めく緑褐色のラスター彩で文様が描かれたものも含 のメダイヨンとそのまわりの五弁花文の連続文や、帯状の糞文か描かれている。イスラノ、物器の個 まれている。これらはヴァラミーンにあるイマーム スコレクションとしては世界で最も重要なゴッドマン・コレクション旧歳イズ上ーク出 7560 ザーデ・ヤヒヤ聖廟の装飾に使われていたもので、 -80 年。高さ引 . 5cmo ノ 38
東洋古美術 東洋の芸術や古美術に関する本格的な研究が西洋で始まったのは、 19 世紀になってからであり、 1933 年に設けられた東洋古 美術部も、この分野の草分け的存在であるコレクター達の功績に負うところが多い。現在、この部門は新石器時代から 20 世紀 に至るアジア全域の文化を扱っている ( 但し、日本とイスラム教が興った 622 年以前の西アジア及びベルシアの古代文明は別 の部門の管轄となっている ) 。その範囲は西アジア、イラン、アラブ征服後の北アフリカ、アフガニスタン、ロシア、中国領 中央アジア、シベリア、モンゴル、中国、朝鮮、フィリビン、インド亜大陸、スリランカ、東南アジアを含む広大な地域に及 んでいる。また、民俗学部門 ( 同一地域のものを蒐集する ) と異なり、コレクションの対象は古い伝統が残る田舎とは対照的 な都市の文化遺産に集中しがちである。特に目を引くものとしては、古代中国の青銅器やあらゆる素材の中国装飾美術、東洋 絵画、版画、インド、東南アジア、中央アジア、チベットの宗教美術、イスラムの金属工芸、陶磁器、木工品のコレクション である。 左簷 ( 銘康侯 ) 中国西周時代初期の儀式用青銅器 前月世記成治世の銘よって年代か特定できる。 戦後、大英厚物館は世界的に評価の高い古代中国青新器の コレクションを青々と充実させている。高さ幻翩。 ィを物食 ビーマランの舎利容器歪にルビーがあ込まれており、アフガニスタンのス トゥーバ塔 ) にめられていた石製短 ( カロシュティー銘刻 ) の中から発見さ れた。幺館、 . 楚天、帝第と供養者か打ち出されている。た 2 世記高さ 6. 7 翩。 食用敵めのうの第彫り。インド北部アラハバードの水池 から発見された。ムガル帝国時代の作。ジャハーンおール王 ( 7605-27 年 ) の命によって作られたと思われる。高さ 50.2 翩。 275
オクサス遺宝 ノ 880 年 5 月、テジン谷一帯の行政官乙バートン大尉がカープルから三日の行程にあるセー・ババに 駐在していた時のことである。ブハラの三スのイスラム商スがカープルからペシャワールに向かう途中、 ロバに責金を満載していることを勘づ小れ、セー・ババとジャグダラクの中間地点で、クルド = カープル の男たち ( バルバハル = ヘルスととサラク = ギルザイ族 ) に襲撃された。スたちは無謀にも護衛隊より 先に進んでいたのだから、自業自得と言えないこともなかった。盜賊は、戦利とともに、ぐ間に丘の 彼方へ逃け去った・ 四頭立てニ輪戦車の黄金製模型ノ 880 年、旧ソ連領中契アジアのオクサス河近で発見された。 道宝は、コインやその他さまざまなものからなり、前 550 年から前ノ 75 年頃のものと推される。 前 5 世紀長さ 8. 8c 乢
古代西アジア部門 この部門のコレクションは、エジプトの東部やパキスタンの西部といった、西アジアの土地に昔住んでいた人々の遺物であ る。現在の西アジアはセム語やトルコ語、インド・ヨーロッパ語の人々が住むが、古代の遺物は過去の美術や生活を物語る。 今のイラクの地にいたシュメール人、バビロニア人、アッシリア人達。またアケメネス朝ベルシア人、パルティア人、ササン 朝ベルシア人を含む古代ベルシア人達。今のトルコからシリアにもいたウラルトゥ人やヒッタイト人。そして、カルタゴやア ラビア半島の国々にまで植民市をもうけたへプライ人やフェニキア人などシリアや古代パレスチナの人々。西アジアの紀元前 8000 年の最古の農耕村落の時代から、紀元後 7 世紀のイスラム時代の到来までの時代を対象としている。 ラチシュの町の包囲ニネヴェのセンナケリフ圧 ( 前 70 ィー 68 ノ年 ) の宮醍の一連の浅季き彫りにあり、センナケリフ王か前ノ年 にバレスチナのラチシュの町を攻撃し、そして町の陥落と、住スたちか血察りに上げられている場面か彫られている。厚物館の アッシリアのき彫りのコレクションは、他の追を許さない最高の質を誇っている。 ・ノい。 2 幻
イスラム陶器と中国陶器は長年、お互いに関わり 左フレデリック・デュ・カーヌ ・ゴッドマン ( 1834 ー 1 9 1 9 年 ) を持ち続けてきた。イズニーク陶器の初期に属する 物学者、東集実。彼のイスラム第 作品は、いわゆる「クフタヤのアプラハム」陶器と 器コレクションはノ 865 年から始 呼ばれていた。これらは、有名な中国の青花磁器が められ、死後、個スのものとして は、世界で最も優れたものとの評 なかなか手に人らないという不満に応えるために作 価を受けた。 られるようになったものであろう。それは、白地に 下ムーア人支配下のスペイン産 暖かい色調の鮮やかな青色もしくは薄いトルコ石の ラスター彩陶器長い頸部と高い プルーで、非常に細かく、緻密な文様が施され、光 台をもち、両に糞形把手がい た球の花で、コバル外・プ 沢のある透明な釉がかけられている。このコレク ルーと色のラスター彩で、な式 ションは、このグループに属する製作年銘がある作 化された葡萄曾草文か、描かれ、ビ 例だけを集めているが、その一つとして、龍形把手 工ロ・デ・メディチあるいはロレ ンツオ・メディチの紋章かスって 付水差しには、底部にアルメニア語で、アルメニア いる。と。工ロか、、ルイ〃世よりメ 暦 959 年 ( 1510 年 ) 銘が入っている。更に、ゴッドマ ディチ家の紋章にフランス国花の ン・コレクションには、アルメニア暦 978 年 ( 1529 ユグを加えることを許されたのか : 7465 年であるため、それ以降の作 年 ) 銘と、当時キュタヒヤ陶器が陶器の名称として であると特定できる。一時期、 定着しつつあったことを示す銘文の入った、有名な ホーラス・ウォールポールの所有 「金角湾製陶器」と命名された脚部が取り外せる西 となったことがある。ヴァレンシ ア出、高さ 57. 4c 乢 洋梨型瓶も含まれている。 二番目のグループが「ダマスカス様式」と、呼ば れるもので、おそらく 1560 ー 80 年頃のものと推定さ れるが、特に最後の 15 年間には、イズニーク陶器の 最高傑作が数々と産み出された。器形や釉は変わら ないものの、花文のデザインや色調は飛躍的に発展 して、新しい文様が編み出されたり、青とトルコ石 のプルーに加えて、くすんだ灰緑色やオリープ・グ リーン、紫、緑がかった黒が使われるなど、色の幅 も広がった。固く尖ったチューリップ、薔薇、カー ネーション、ヒヤシンスなどの新しい花や、風変わ りな虹色の鱗状文も見られるようになった。イズ ークの陶工たちは、中国磁器や時にはイタリアの マヨリカ陶器のデザインを模倣した。また、コレク ションの興味深い作例としては、青とトルコ・プ ルーと黒で彩色されたモスク・ランプがあり、これ は大英博物館が既に所蔵していた銘 ( 1549 年 ) の 入ったエルサレムの岩のドームからの出土品に匹敵 するものである。現在、大英博物館には、蔵品で銘 の入った 16 世紀のイズニーク陶器は 3 点しかない。 「ロードス様式」のグループは、 1555 ー 1700 年頃 すなわち、スレイマン I 世が岩のドームのタイルの 張り替えを命じたり、コンスタンチノープルに新し いモスクが次々に建立されたことに刺激されて、タ イルの製作が活発になった時期のものである。これ 以前の時代とは色調が変化しているが、これは、お そらく、初期の彩色がタイルを大量に焼くには困難 であったためと思われる。この時期の彩色の特徴は、 奇妙にも「アルメニア赤」と呼ばれるものである。 発色の良好なものは、明るい赤色を呈するが、退色 が起こることも多かった。これはアルメニア産の化 粧土を厚くかける技法から生まれた。しかし、次第 4 2
陶器と磁器 25 ゴッドマンコレクションのイスラム陶器 26 アッディス卿寄贈の中国陶器 27 クレオパトラの壺 職人の芸術 28 ポートランドの壺 29 ハル・グランディ寄贈の装身具 34 大英博物館の創設者ハンス・スローン卿 コレクターたちの情熱 33 デラニー夫人の花のモザイク ( 造花 ) 32 マールポロ公の金製アイスペール 31 時計 30 12 世紀のルイス島のチェス駒 36 ジョン・マルコム素描の名品の収集家 35 隠遁のコレクタークレイトン・モードント・クラシュロード尊師 138 143 147 152 157 175 172 168 164 192 188 182 37 ヴィクトリア時代の大学者オーガスタス・ウオラストン・フランクス卿 197 38 フェルディナンド・ロスチャイルド男爵とワディスドン遺贈 索引 参考文献一覧 写真出典一覧 大英博物館の歴史 博物館の各部門とそのコレクション 201 206 226 234 235 238 左モンタギュ・ハウス内の旧博物館の一角キグンの剥 製か置かれた階段室風景。ジョージ・スコッん兄ノ 845 年。 「剥製があまりに固ぐ、直していたので、ス々はストリ キニーネでしたに違いないと考えたノ ( コータンによる ) 右青銅製エジプト猫バステト女祕の化身で、首には、 ホルスの聖眼を施した銀製のべンダンをけ、には、 太陽の円盤を配した存翼のスカラベ ( 糞転がし虫 ) か配さ れている。ジャン・ゲイヤー ( ハ。シャ ) とメアクー・スタウ か 7939 年に寄贈した。前 600 年。高さ 29C 乢
古代エジプトの遺物 大英博物館のエジプト・コレクションは、 1753 年にハンス・スローン卿から約 150 点のエジプト遺物 ( 神の小像、アミュレッ ト ( 護符 ) 、スカラベ、ウシャプティなど ) の寄贈を受けて以来、この何世紀間で約 7 万点に達した。収蔵品は前 5000 年の遺物 から 10 世紀頃の中世キリスト教 ( コプト ) 文化までが含まれ、ナイル河流域を中心とした古代文明の全域にわたっている。最 初に取得した主要な作品は、 1801 年ナポレオンのエジプト遠征失敗後、フランスからイギリス国王に譲り渡された品々である。 この中には、ロゼッタ・ストーンや、アレクサンドリアで何世紀間も公衆風呂として使用されていたネクタネボの大石棺など が含まれている。記念碑的彫刻のコレクションの中核となるものは、 1820 年代に加わった。その殆どが、当時のカイロの英国 ー・ベルツォーニの仲買で手にいれたものである。 19 世紀末になると、収集の中心は、 総領事へンリー ソールトがジョバン一 緻密な発掘記録を持つ出土品となった。今日においても発掘調査が最も重要な資料源だという姿勢は変わらない。 ( イスラムの文物は「東洋の遺物」に入るので、エジプト部門に 641 年のアラブ人のエジプト侵入後のものは少ない ) ネプアメンの墓壁画虚地 での狩猟。狩ス、その妻と 娘、射止めた物を捕す る役劃の赤毛の縞猫なとが 描かれている。 厚物館か所するエジプ の彫像、壁画、その他あら ゆる種類の物を見ると、 エジプトスの癸術、工芸、 産業か、いかに発達していた かかよくわかる。テーべ、 前ノ 400 年高さ 82cmo 209
含んだ磁器用の石 ( 花崗岩が分解したもの ) を主原 青花蓮花菊文鉢 ノイ世記後半 高さ約ノ 6. 5 翩。 料とし、カオリンを加えることはなかった。この胎 土は西洋で発見されたものとは、成分が異なってお り、挽いて水と混ぜると非常に成形しやすく、また、 水と混せて、 1250 。以上の高温で焼くことができる。 おそらく、カオリンを加えるようになったのは、 14 世紀のある時期からであり、その理由としては、 元来の調合法ではロクロを用いて成形するには水分 が多すぎて、当時、モンゴル族の愛好した大皿を作 るには適さなかったことが考えられる。ダントル コール神父が見たのは比較的新しい製造法だったの である。 アッディス・コレクションは主に 2 つの王朝が支 配していた時代の作品である。第一の王朝は、アジ アの大草原地帯から興って各地を蹂躪し、宋を倒し て、モンゴル族による王朝を建てた元であり、北京 を国都としていた。モンゴル族は瞬く間に、地中海 からシナ海に至る一大帝国を支配するに至ったが、 元朝は、中国南部地方においては、いかなる国家の 規制も設けずに、広く自由貿易を認めるという南宋 青白磁刻花龍濤文瓶元代 ノ 4 世紀前半。高さ 27 。 の政策を引き継いだ。 この時代、磁器の世界では、装飾技法において実 験的試みが盛んに行われるようになった。染付の技 にヨーロッパに送った報告書の中で述べているのが 法は唐 ( 618 ー 906 年 ) の時代から知られていたが、 この方法であり、この胎土の調合こそが、中国の硬 この時代になって、磁器に赤や青の絵を描くという、 く半透明な磁器を模倣するためにヨーロッパの陶工 新しい趣向とそのための技術が発達したのである。 達が求めていたものだったのである。 しかし、近年になって、全てがこの方式にあては 赤色を出すには銅酸化物が用いられたが、これは失 まるとする中国磁器の定義は誤りであることが立証 敗することも多かった。色が火で消されてしまい、 された。まったく新しい学説が証明されたのは、 茶色がかった色調 ( ー名、ロバの肝臓 ) になってし ジョン・アッディス卿の功績によるところが少な まうのである。青色を出すためにはコバルトが使わ くない。 1982 年、上海において東西の専門家による れたが、こちらはもっと成功率が高い。 ( イスラム 世界では 9 世紀以降、青の染付が盛んに行われてい 会議が開催され、中国陶磁器類の技術面について たことから、この技法は、元代以前に、イスラム世 ディスカッションが行われた際に彼の果たした役割 界から中国に伝播していたものと思われる ) ジョン は特筆すべきものである。西洋では「磁器」である とみなされている中国の硬く焼きしめられた白色磁 ・アッディス卿は、感動をこめて次のように述べて 器に限っても、すべてがダントルコール神父が示し た標準的な方式に当てはまるとは限らない分析結果 澄んた深い青色か最も良く出ている。高い評価 が示された。その一例としては中国北部の珍しい磁 を受けている有名な花皿のどきどきするような 器が挙げられる。 ( 邪窯及び有名な定窯の乳白色の 深い色に劣らず実しい。青花白が全盛を極め 磁器。 10 世紀から 11 世紀にかけて作られたが、 1300 る中、釉第紅は、やかな紅色だけでなく、徴鈔 年頃、タタールやモンゴルの侵入によって、窯は衰 な栗色や灰色でさえも青と白を見飽きた目には持 退した ) 。これらは様々な胎土 ( 白暾子 ) から作ら に心地良い。 れており、別の鉱物を加えて、非常に高い温度 最も見事な磁器は、景徳鎮窯の町の周辺の村々に ( 1250 。以上で、 1350 。ほどになることさえあった ) 築かれた、長い伝統を誇るたくさんの窯から生みだ で焼かれた。更に有名な南部の磁器の場合は、その された。元代以前の景徳鎮では、白色磁器及び緑釉 中には、江西省の景徳鎮の中央部に集中して築かれ 磁器しか作られていなかったようであり、しかも殆 た窯で焼かれたものも含まれているが、初期におい ては、粉末状に挽いた絹雲母 ( 雲母と石英 ) を多く ど全て輸出されて残っていない。しかし、元の時代 ジョン・アッディス卿 ( 1914 ー 1983 ) 大英厚物館に贈られた 彼のコレクションは、中国風に作を破選し、体系化したも のである。 けいよう ノイイ
辺鄙なアウター・ヘブリディーズ 諸島にあるルイス島 こで 783 ノ 年にチェス駒が発見された。 4 3 ・マッデン卿はこれらを、『エッダ』の詩のなかで 半ば抜いた剣をひざに置いて座りオーディン神の言 葉を聞いているゲイルラウドウル王にたとえた。 5 体のクイーンは東洋のゲームにおける将軍または顧 問にあたる。クイーンも玉座に座り、びつくりした ように手を顔にしつかりと当て、ロをぎゅっと結び 一点をみつめている。インドのゲームにおける象は カズラまたは大外衣、ダルマチカ、えり掛け、チュ ニックという伝統的祭服に身をつつんだビショップ となった。ビショップは全員司教杖を持ち、何体か ( 象隊、騎兵隊、戦車隊、歩兵隊 ) で、本来はイン ドの軍隊用語であった。サンスクリット文献でチェ ス・ゲームに関する最も古い言及は 7 世紀に遡り、 雨期の時期であったことを想像させる記述である。 雨の時期はカエルをチェス駒にしてそのゲー ムをした。責色と録の駒たちは、あたかもラッ ク ( ラック分虫の分必物。塗料・接脅剤など に用いる ) でまだらに染まったように、庭床の 目の一たで跳びはねた。 インドからチェスは世界じゅうに広まった。広ま るにつれてルールも駒も新しいプレイヤーに合わせ て変化した。イスラム圏を通じて、つまり北アフリ 力、そしてムスリム = スペインを通じて西ヨーロッ パに到達したと考えられている。現在駒に使われて いる英語の名称はノルマン人によって紹介されたの だが、ドーセット州のウイトチャンプトンで 10 世紀 または 11 世紀の一群の駒が出土したことやクヌート 王 ( 存位 1016 ー 35 年 ) をチェスプレイヤーとして記 述している写本などから、ノルマン人の征服 ( 1066 年 ) 以前にもこの地でチェスが行われていたことが 推測される。 盤上の最も主要な駒はキングであるが、王を意味 するべルシア語シャーがフランス経由で伝わり、 「チェック」や「チェックメイト」 ( シャー・マト 王は死んだ ) という用語ができたのである。 大英博物館にはルイス島出土のチェス駒のうち 6 体 のキングが所蔵されている。キングはそれぞれ剣を 持ち、装飾された玉座に座っている。フレデリック キングとクイーンの装飾的に彫刻 された玉座この彫刻の様式は ノ 2 世記のスカンディナヴィアの他 の作例に類歿している。 3 ノ 65
を入れている。新設された中世以降の遺品部門の近代室には、 1930 年代のドイツ の紅茶・コーヒーセットやロシア革命の皿、ティファニーのガラスなど・ど並んて、 くウハウス出身のマリアンヌ・プラントがデザインしたティーポットが展示され こ数年間に購入した極めて驚くべき作品の一つど ている。この作品は、当館が しかし、これも結局は、ユグノーの銀器 ( 大英博物館は最高のコレク いえよう。 ションを所有している ) を経て、 ミルデンホール出土のローマ銀器の宝にまて遡 るヨーロッパの銀器を収集した当館には、欠かせないものてある。東洋の文物も、 長期にわたって大量に収集されている。中国の青銅器、ムガール絵画、イスラム の金属器などの他に、新たに日本の近世版画の収集が進められている。当館は、 今やこの分野の西欧における最も重要な拠点どまてなっている。近代の西欧版画 5 年間の購入作品を中心に、ほぼ博 の購入にも力を注いており、その結果 物館の所蔵品だけて、アメリカ版画やドイツ表現主義の版画の展覧会を開催する こどがてきた。近代のメダルのコレクションも最近充実してきている。 これど平行して、世界中の民族品の収集も進められている。たどえば、パプア ーギニアの民族資料を収集したり、最近ては、輸入品が優勢を占める直前の グアテマラの見事な伝統織物を購入した。現在も、マダガスカル諸島など各地て 収集活動を続けている。 1753 年の大英博物館法には、博物館開設の目的どして、学問的調査や好奇心の 満足だけてなく、公衆の利用・有益のために維持管理されるべきこど、どいう項 目がある。しかるべき請求の理由を提示てきる人は、どの分野の館蔵品ても利用 するこどがてきる。芸術家や鑑定家は、版画室へ自由に出入りして、大いに刺激 を受けてきた。学生達も、時には世界的な学者ど共に、人類が創造した傑作を詳 しく調査する機会が与えられている。博物館が提供する国際的な恩恵、すなわち 学者に対しては奨学金を気前よく出し、一般の人々に対しては美術品の一時貸与 ( 大英博物館て保管 ) の制度を設けているが、これらは極めてユニークてあろう。 当館はこれらの高い評価を今後も失わないよう努めている。大英博物館ほど幅広 く出版物を出し、かっ外部の学者にも当館所蔵品について出版物を出すこどをこ れほど自由に認めている館もなかろう。国際的な援助施設どして、当館に比すべ き博物館はない。 大英博物館は大規模な国際施設て、専門家が意欲的に管理し、常に増加し続け、 多様なコレションを有する、世界ても有数の博物館てある。まさに生きつづけて おり、博物館それ自体が世界の文化遺産の一つどいえる。扉の中に誘われた人々 が、充分に楽しみ、刺激を受け、学ふこどのてきる場たらんこどをめざしている。 本書を読んて、大英博物館を訪れた方々が、さらに理解を深めるこどがてき、 また、訪れたこどのない方々には、ぜひ訪れてみたいど思っていただければ幸い てある。 ノ 2