の地に向けて出発した。マッケンジーにとって、短 かい滞在期間で目にしたほんの僅かのものも、今ま で見たどこのものよりも素晴らしく感じられた。 1816 年 3 月、彼はマドラスの主任調査官として、製 図者や助手達を引き連れて再びこの地を踏んだ。 1818 年までの滞在期間中に、例の領主が丘の頂上に 水槽を掘り目茶苦茶にしてしまったこの遺跡の平面 図や実測図を注意深く作成した。マッケンジーは彫 刻を幾つか掘り出し、後に学術雑誌に報告発表をし 0 次にここを訪れたのは、当時グントゥールの地方 長官だったウォルター・エリオットである。 1845 年 に来訪した彼は、丘の南西部分を掘って新たに夥し い数の石彫を発見し、マドラスに送った。工リオッ 3 トが各地域から入手した 121 点の彫刻は、 1859 年ロ ンドンに移された。 1867 年 1 月にジェイムス・ ファーガソンがこの彫刻群を見出し、その美しさに すっかり魅せられ、カメラにおさめ、 1868 年に『聖 樹と蛇の信仰」という大冊を出版した。彫刻は、南 ケンジントンの旧インド美術館に展示された。 1880 年にこの美術館が閉鎖されることになると、大英博 かった。 7 世紀前半に中国の高僧玄奘がこの地を訪 物館員オーガスタス・ウオラストン・フランクスが 彫刻に描写された仏塔アマラー ヴァティーの塔の回りには、豪 奔走して当館に所有権が移された。大英博物館は、 れた時、廃墟と化した仏教寺院が多数あったが、そ な手のこんた浮彫か施された欄 この時既に見事なアマラーヴァティーの彫刻を一点 れでもまだ 20 ほどの寺院は使用されており、比丘も ( 玉垣 ) か直径 58. 5m にわたって 所蔵していた。少々珍しい例だが、館員が行きつけ 千人ほどいたという。アマラーヴァティーの仏塔は めぐらされていた。欄術は、高さ の理髪師から 1860 年に購入したものである。 修復され守られていた。アマラーヴァティーにある 2. 74m の在約 736 本で構成され、 各な間は 3 本の円在状の貫 ( 在を 一方、 1875 年にロバート・セウェルが短期間だが シバ神を祀るヒンズー教寺院の塔の銘文 ( 1182 年 ) 貫通して連結する材 ) でつなぎ この遺跡を訪れた。彼は「インド最高の仏教建築」 には、この「仏陀のための聖なる塔」への寄進が記 合わされている。東西南北にある が無視され崩壊していくことを憂えた。政府に発掘 されており、 1232 年の銘文もこの仏塔について言及 スロの頂上は獅子の座像で飾られ の補助金を出してもらい、彼は酷暑と闘い、健康を している。しかし、スリランカのガダラデニヤの摩 た。欄術の頂きには苙石を置き、 欄術の内面にも、見事な彫刻が そこねながらも、貴重な記録を幾つも残した。セ 岩の銘文 ( 1344 年 ) を最後に、アマラーヴァティー 施されていた。欄の内に、幅 ウェルは調査を続ける予定だったが、マドラスの長 の仏教建造物について触れている銘文は消える。 の広い灰色の石灰岩で舗装された 官バッキンガム侯爵が発掘の指示を出したと知り、 14 世紀から 18 世紀末に至る当地の銘文を見ても、 右道 ( 供養者か回る道 ) があり、 この土地については頻繁に出てくるが、大仏塔のこ まずは調査報告書を公にすることを急いだ。セウェ その内に直径 49. 5m 、高さ約 ノ . 8m の円形基壥がある。基壥に ルの発掘品とバッキンガムの発掘品は合計 300 点に とを記しているものは無い。 は、ノ 00 枚の彫刻石板がはりめぐ 及び、さらにマドラスの考古局のジェイムズ・バー 1796 年、チンタピリーの領主が自宅をアマラー らされ、その上に半球形の覆鉢 ジェスが発掘した約 90 点の彫刻が追加された。その ヴァティーのシバ神寺院の近くに移そうとした。建 ( 塔身 ) がそひえ立ち、覆鉢の下 殆どがマドラス州立博物館に収められた。 築のために呼ばれた人々が、近辺の幾つもの遺丘か 部分の鼓部の壁も、背の高い長 方形の彫刻石板がめぐらされてい その後に発掘された彫刻も収蔵されている。 ら建築材として使えそうな石板が出てくることに気 た。頂上には、 7. 3m 四方の短型 現在、当館のアマラーヴァティーの彫刻は、朝日 付いたのである。この領主は、美しい彫刻が施され の囲い ( 平頭 ) があった。 た断片が多数発見されるのを知ると、秘宝が出ては 新聞ギャラリーに展示されている。これらを目にす れば、セウェルがいみじくも述べた次の言葉を理解 こないかと、さらに掘り進めるよう命じた。彼の秘 上 : 太子誕生 基境の石彫 ( 大英厚物館登録番号 宝発見の目論見は結局成功しなかったが、それでも できよう。 4 の 舎利容器 ( 現在マドラス博物館蔵 ) を一つ見つける 「彫刻の美は極限にまで達していた」 ことができた。 石彫発見のニュースが、アマラーヴァティーの近 くにいた考古遺物の研究と収集に熱心なコロネル・ マッケンジーの耳に入ると、彼は早速月夜の晩に
許可を得ることであり、手紙が、ルジェーリのもと に送られた。要求された勅許の文面は、エルギン付 きの牧師フィリップ・ハントが起草した。ハントは アテネを訪れ、パルテノン彫刻の破壊が続いている のを目のあたりに見ていた。 1801 年 7 月 6 日、エジ プト内のフランス軍がイギリスの遠征軍に敗北した ので、その勅許はトルコにとって大切な同盟国に与 えられた。この書類のイタリア語版が現存している。 それには、エルギン隊がスケッチしたり足場を組ん だりするのを誰も妨害してはならないこと、彼らが 「古代の刻銘や彫刻のある石を持ち去」ってもかま わないことが指示されていた。ェルギン隊が神殿か ら彫刻を取り外す許可として受けとったこの勅許の 言い回しについては、多くの論議がなされている。 それがトルコ政府の初めの意図であったにせよな かったにせよ、取り外しはその後はっきりと許可さ れた。工ルギンとハントおよびルジェーリは自分た ちが差し迫った破壊から彫刻群を救う作業に従事し ているのだと考えて疑いを抱かなかった。後にエル ギンは国会の特別委員会で以下のように述べている。 旅行者すべてが手の届ぐ彫刻に損傷を加えてお ・トルコスたちはひんは。んに彫刻の頭を 破損していた。彼らは実際、モルタルに転用する ために彫刻を打ち砕いたと私に度か告白したも のた私が出来る限り彫刻を取り外したのは、こ うした状況や毬情をみてのことであった。型 以外のものを持ち去ることは私の当勿の計画には 全くなかった。 パルテノンか そして、取り外しが始まった らはもともと 195 メートルあったフリーズのうちの 75 メートル分、 92 枚のうち 14 枚のメトープ、 17 体の 破風彫刻、エレクティオンからはカリアティード ( 女人柱 ) と円柱が取り外された。西破風の断片 ( ポセイドン、ニケ、ヘルメスのトルソ ) はトルコ 人兵士の家の下から発見された。多数のメトープの 断片やフリーズの一部が南側で発見された。発掘が 別のトルコ人の 手遅れという場合が多かった 家の下を発掘した後、その家の持ち主は笑って、こ の場所で見つけた彫像の大理石は家のモルタルにす るために使ってしまったと言った。工ルギンは 1802 年の春に作業場を訪れ一一一彼の二回のアテネ訪問 のうち最初の一回 、破風から月の女神セレネ の馬を取り外すのに立ち会った。彫刻をイギリスに 運ぶ仕事のためにさまざまな船が従事させられた。 工ルギンはメントール号をチャーターしたが、二度 目の航海であやうく災難にあうところだった。この 船は嵐の前に航海し、キテイラ島の港の入口の岩に 72 イ
まえがき 序文 宝物 1 埋蔵物 2 オクサス遺宝 3 アステカ帝国のトルコ石モザイク 埋もれた文明 4 アメリア・エドワーズとエジプト調査協会 5 ニムルドの発掘 6 ロゼッタ・ストーンとヒ工ログリフの解読 7 4 世紀のヒントン・セントメリーの舗床モザイク 彫刻 8 ラムセス大王とジョヴァンニ・ベルツォー 58 9 アッシュールバニバル王の「獅子狩り」 64 10 タウンリーコレクション古典彫刻の収集 68 11 アマラーヴァティーの大塔 12 ヒンドゥー・ステューアートとプリッジ・コレクションのインド彫刻 76 13 多羅菩薩 78 14 「ホア・ハカナナイア」イースター島からやってきた彫像 15 「ルビリャックのシェイクスピア」と俳優ディヴィット・ギャリック 84 新世界発見の航海 16 キャプテン・ジェームズ・クック 神殿と墓 17 エジプトにおける死 18 ウルの王墓の発見 19 グリーンウェル大聖堂参事会員と「フォークトンのドラム」 20 リラートンの黄金杯 21 ハリカルナッソスのマウソロス廟 古代の七不思議の一つ 22 工ルギン卿とパルテノン神殿 23 プリタニアの行政長官ュリウス・クラシキアヌスの墓碑銘 24 サトン・フーの船葬 目 次 C-D 4- ・ 0 11 ワ朝 CO 8 -4 画 11 -4 、 CO -4 よ尸 0 L-n 100 105 112 115 117 122 127 129
も自由にコレクションを見ることを許された。 タウンリーは「会話に一種の。アッティカ風の ( 洗練された ) 皮肉 " をこめる、上品な物腰の人 物」と記述されている。同時代の人たちとは異な り、彼は自分のコレクションを装飾以上のものと 見なし、学問的な興味を発展させ、数冊のカタロ グを書いたが、出版された唯一の著作はローマン ・プリテン時代のリプチェスターの兜に関する論 文であった。彼は 1780 年ごろまで絶えずローマを 訪れ、作品を購入してコレクションを増やしつづ けた。彼は 1791 年から大英博物館の理事をつとめ、 コレクションを大英博物館に遺贈することを期待 されていたが、死のわずか 12 日前に作成された遺 言補足書で彼は心を変え、彫刻を家族に残した。 5 年以内にバーンリーあるいはロンドンで少なく とも 450 0 ポンドでギャラリーを購入すること、そ れができなければコレクションは大英博物館に復 帰することという条件がついていた。遺族は遺言 の条件を満たすことができず、彫刻は 2 万ポンド と理事の椅子とひきかえに理事会に提供されるこ とで示談が成立した。国会の特別委員会は次のよ うに推薦した。 このよラなよぐ知られた比なきれた古代 彫のコレクション・・・が得られ、公の調と だに毋せられるといラことは、術の改の ために国にとってきめて重要なことであろラ。 理事会は 1802 年からエジプトの文物を並べる新 しい陳列室を計画していた。これは古典彫刻を収 めるのにも適していたので、その新陳列室 ( 即座 にタウンリー・ギャラリーという名を得た ) は 1808 年、記念式典とともにシャーロット王妃によって 開かれた ( これは四十数年後に解体され、その跡 地にスマークの新建築物が建てられた ) 。タウン リーの収集したプロンズ像や貨幣、彫玉、素描は 1 814 年に 8200 ポンドで購入された。ウルフソン・ ギャラリーのオープンとともにコレクションは再 び一堂に会し、現在、パーク・ストリートの家に あったとおりではないにしても、この 18 世紀のコ レクターの趣味を鑑賞できるよう配置されている。
( 列柱廊 ) に下から階段で登るという構造になって いた。その上には四頭立て馬車をのせた 24 段のヒ。ラ 、ツドがそびえていた。誰がこの馬車に乗っていた 誰も乗っていなかったか、 のかは分からない あるいはより可能性の高い説として、 1 人から 3 人 までの人物が乗っていたかも知れない。おそらく勝 利の女神ニケを伴い栄光へと進むマウソロス、ある いは太陽神ヘリオスとしてのアポロンが乗っていた のであろう。また、その他に、彩色された 330 にも 及ぶ立像があり、おそらくヒ。ラミッドの基部には 56 から 72 頭のライオン像、プテロンの円柱の間には 3 6 本の巨大な肖像彫刻があった。中央の階段には 72 体の肖像彫刻、基段には 88 体のギリシア風とベル シア風の衣装をつけた等身大の彫刻を置く余地が あった。彫刻の中にはギリシア人とベルシア人の戦 闘、犠牲を捧げる集団、狩猟の場面を表わしたもの があった。 マウソロス廟を設計し、施行したのは誰だったの だろうか ? G. B. ウェイウェルによれは、熟練した 石工が一体の等身大の彫像を仕上げるのに一年を要 するという。この計算でいくとマウソロス廟の立像 の完成には一人の職人だと 704 年かかることになる。 もしマウソロス廟が前 367 年から 350 年にかけて完成 されたものなら、約 40 人の彫刻家が参加していなけ ればならなかったことになる。プリニウスはスコパ ス、プリュアクシス、ティモテオス ( ウイトルウィ ウスは、ある文献ではプラクシテレスの名が挙げら れていると記述している ) 、レオカレスの名を挙げ ている。彼は馬車の群像の作者をビュテオスに帰し ているが、一方、ウイトルウイウスはピュテオスと サテュルスが参加したと述べている。そこでおそら く、少なくとも四人の親方とその工房がギリシア本 土から呼はれ、おそらくビュテオスとサテュルスの 設計のもとに協同作業をしたものと思われる。それ ぞれの親方が一側面ずつを担当したとする伝統的な 考え方は現在では疑わしいと見なされている。しか し、仕事は分業であったとしても、また、現存する ものがほんの少しであっても、参加した彫刻家たち にとって、それは今でも「彼ら自身の名声と彫刻家 の技倆を記念するもの」なのである。 上 : 戦うギリシア人とアマゾン一部分か発見された三枚のフグーズのうち一点。チャールズ・ ートンは、これらのフリーズについて一私の雇っていたトルコス労働者たちの唇から、こ を見たとき、第きと賞賛の言葉が一斉 の像ーー彼らが言うところの「子供ノや「少女丿 にこほ、れた。このとき初めて彼らは私か発 . 見したもの全てに見られる類歿を正しく認識したので ある丿と書いている。高さ 90.2 翩。 現在のポドウルム ( 古代のハリカルナッソス ) 港の上にそひえ立つのは聖べテロ城。ノ 5 世紀 に大部分マウノロスから連んた石を使ってヨハネ煢士翻か建てた。士団か、海賊たちに よって盜第された一金の衣装の断左と同し釜属の塾左か散らばったノ幕を発 . 見したという物 語か、ある。
7 0 ハカナナイアは、ラノ・ララク産凝灰岩以外の素材 上今日のイースター島「立ち 尽くす巨大な彫像が、謎めいた目 で作られ、鳥人崇拝にも使用された数体の彫像の中 で君を見万ろす。君の歩みは岩 では最良のものである。つまり、これは、古い時代 の一つ一つ、そして山中の窟か から新しい時代へ移行する時期の象徴的な存在なの ら . 見られている。そこにはまた生 である。図式的な顔だちは、彫像製作における一定 まれぬ巨スたち、そしてして壊 れた巨スたちかたわっているノ の規範を遵守したものであり、また珊瑚で作った眼 ( ヘイエルダール ) をはめこむように眼窩を作ってあるのは、かってこ の彫像が「アフ」という祭壇に立っていたというこ とを示している。しかし、背中の浅浮彫は鳥人崇拝 に関係があり、これは後になって、恐らく安全のた めに彫像がオロンゴに移されてからつけ加えられた と考えられる。 トール・ヘイエルダールは次のように記している。 ノ 50 もの目のない顔か熱って君を凝視している。 ている。立ち尽くす巨大な彫像が、謎めいた目で 君を見万ろ九君の歩みは岩の一つ一つ、そし て山中の海から見られている。そこには、まだ 生まれぬ巨スたち、そして死して壊れた巨スたち が、飼馮の中や床にいるかのように、カ無く 惹たえてたわっている。知的創造力が彼らの許 を去ったからである。君の頭上に流れる雲のほか に、動ぐものは何もない。彫刻またちか姿を消し た日もそうであったし、これからもず、つとそうで あろう。最も古い彫像、完成された彼らが、誇り 高く、儼然と、辱をひき締めてそこに立っている。 どんな鏨も、と、んな力もして自分のロを開き、 語らせることができないことを知り抜いているか のように。
レャードの人夫による城門の巨像 の発見「那、急いで、発し ている奴らの . 所へ急いで万さい。 まったんです丿。 奴らはニムロデそのスを見つけち して雄牛をコロの上に徐々に降ろしていく計画で あった。レャードはシェイフ・アブドウル・ラフ マーンとその部族を見物に招いていた。 ロープはよぐ耐えて、巨大な石魂は々に下・つ ていった。不安の一である。クルドス楽士のド ラムと高い荿の音が、興奪で半圧乱になったア ラブスたちのの声か、作る騒彦と混をさらに高 ノー 盛土にめぐらせた縄をかけた上で、梁を 1 本ずっ外 えられていたので、コロを地面に雄牛と平行に置き、 整った。この雄牛は壁面に立てかけた数本の梁で支 限られていた。 1847 年 3 月 18 日に雄牛の方は用意が ロックと 1 対のねじジャッキだけと彼の持つ装備は プ数本と太索 1 本、そして汽船から貰った 4 個のプ を掘った。バグダードから取り寄せた質の悪いロー 取って重量を軽減し、そして遺丘の麓までトレンチ を何とか入手し、彫刻されていない石の裏側を削り た。レャードは運搬車を作るのに充分なだけの木材 る、中央大広間の獅子と雄牛の 2 体を運ぶことにし 対の城門の守護神像のうち最小かっ最良の状態であ ようレャードに指示していたが、彼は、発見した 13 館の理事会は、輸送は後にしてひとまず引き上げる ンへ輸送する手筈を整えることに決めた。大英博物 レャードは、大きな彫像を出来る限り早急にロンド レャードの状況も予断を許さなくなった。それゆえ たペドウインの馬賊が数を増し、ニムルドにおける によって不毛な土地になってしまった。腹を空かせ 一方、前年まで美しかったこの地も、雨不足と凶作 有翼のスフィンクスが支えているという図柄である。 の頭部があり、それを低い柱や、獅子と雄牛の頭や、 さな象牙彫刻がいくっか発見された。枠の中に人間 新年を迎えて発掘が再開された。ある部屋では小 聖書との関係が明白となった。 ラエル王工ヒウもしくはその大使の姿が確認され、 が描かれていたが、後に楔形文字の碑文から、イス 発見された。 5 列の浮彫に、王に貢物を運ぶ征服民 は約 2 m で、地表から 3 m の深さに横倒しになって ( 前 858-824 年 ) の《黒いオペリスク》がある。高さ 最も大きな発見のひとつに、シャルマネセルⅢ世 グラト・ピレセルⅢ世の王宮も掘り出した。 めていった 。女たちはトレンチのに楽 まっていたが、彼女たちの絶え間ない 4 ひ声や、 耳を聾するような / - アッラーの他に神なし丿の文 句が、男たちの熱に唱和した。一直難牛かき 出すと、もはや何も聞こえなぐなった。難孕は支 えが耐え得る限り者実に降りていぐ・ かった。アッシリア王の宮を飾り、驚興をもっ 奇妙な運命について思いを . 地せずにはいられな てしまうまで筏を見送りながら、これらの重荷の 川の曲がり目となっていた。その陰に彫像か隠れ はるか向こうで川岸か芙き出しており、そこが を眺めていた。 像はバスラに向けて船出した。レャードはその光景 獅子がそれに続き、 1847 年 4 月 20 日には、 2 体の彫 から引き上げられ、筏の待っている河に到着した。 ことができる。更に次の朝、運搬車はどうにか穴蔵 マスケット銃の弾丸で孔を残し、それは今でも見る の襲撃を受けたが撃退した。だが盗賊どもは雄牛に てしまった。その夜、見張り番がアラブ人の盗賊団 が穀物の隠し穴に落ち込んで身動きが取れなくなっ 向かい、雄牛を河まで牽引し始めた。しかし運搬車 朝が来て、まだ歌っていたアラブ人たちは遺丘に 運ひむのかね。 興教たちと一にあの仭像をなむために呂に で学間をするのか。それとも、あんたの女王秘が の言うように、あんたの国のスたちは本当にあれ んなものにあれだけの金をかけるとはな。あんた しようと考えているのか教えてはぐれんかね。あ 那、神の名において、あんたがあの石でを 的な意義に関して、シェイフは疑念を呈した。 ぎを続けた。一方、古びた石を掘り出すことの現実 そのままにされたが、部族の人々は夜中もお祭り騒 しかし雄牛は無傷で着地していた。彫像は一晩中 ・。騒は突然沈黙に変わった。 てしまった・ ノ . 5m ) というところまで迂した時に一退に切れ で、彫像がコロからあとイ、 5 フィート臼 . 2 ー んで房を飛ばしていく。水をかけたがそれも無 ため、張りの度合いか増すにつれ、それらはきし とロープは張りを増していった。転した気候の
中世以降部門 この部門には、古代以後のヨーロッパの美術品や考古学的遺品の広い分野にわたる種々さまざまなコレクションが含まれて いる。象牙、銀、ガラス、陶器、宝飾品、彫玉、イコン、考古学資料、タイル、指輪、印章の型、金属製品、エナメル ( 七 宝 ) などで、この時代のヨーロッパ以外ー一例えば、ビザンテイウム、コプト教時代のエジプト、キプロス、シリア、小アジ のキリスト教・ユダヤ教文化も含まれる。しかし、大英博物館はあらゆる分野の包括的な ア、ロシア、インド半島のゴア コレクションを目指しているわけではなく、例えば、家具や中世の彫刻、ヨーロッパの民衆の生活、武器と甲冑、手写本、絵 画、印刷による本と小冊子、現代技術は他の国立機関に収集されている。 左竜の姿をした悪魔を踏みつける聖母子 ( ヨハネ黙示録 12 ) ゴシック時代の家牙彫刻。二スのス物の傾いたポーズは、牙 の形にあわせたもの。大英煙物館のイギリス及びョーロッハ。 大陸の家牙コレクションの重要なものの一つ。バグ製。 ノ 320 ー 30 年。高さ 33.2 翩。 左端死せるキリストの磔刑鍍金像おそらぐフランス西部 アンジュール地方製。〃 00 年。高さ 2 2 翩。 下左イギリスのシターン現存する数少ない中世の楽器の ーっ。 7578 年にエグサ・ベス / 世またはその寵臣レスター伯第 ロバート・ダドリーの所有となった。た 90 ヨ 330 年製作。 長さ 70 。 下食卓用舟形容器または船形時計 ( ネフ ) アウグスプル グのハンス・シュロットハイム臼 574 ー % 25 ) 作と考えられ る。おそらぐ神聖ローマ帝ルドルフ丑世 ( 在ノ 580 ー跖 0 の のために作られた。高さ 99 翩。 む 1 ・らい、 幻 3
ハリカルナッソスのマウソロス廟 古代の七不思議の一 つ 古代の七不思議のうちの二つの遺物が大英博物館 に納められている。ハリカルナッソスのマウソロス 廟とエフェソスのアルテミス神殿である。他の五つ のうち、エジプトのピラミッドは本来の場所にあり、 アレクサンドリアのファロス灯台はその基礎が知ら れているが、バビロンの空中庭園とロドス島の巨像、 そしてオリュンビアのフェイディアス作のゼウス像 は遠い昔に失われてしまった。 マウソロス廟はまさに驚異的であり、そのために この名は壮大な霊廟を意味するようになった。その 名声は建造物自体が消滅し、場所さえ不明になった 後も続いた。鮮やかに彩色された白大理石で構築さ れたマウソロス廟は、小アジア ( 現トルコ ) の南西 岸の小さな半島にある古代の町ハリカルナッソス ( 現在の名はポドウルム ) にそびえ立っていた。そ おそらく 300 体ほどの の名声は壮麗な彫刻群 に負っていた。 彫像と躍動感あふれるフリーズ マウソロス廟は前 350 年より少し前に死んだカリア の大守マウソロス ( 貨幣や碑文に用いられたスペル によると Maussollos) を記念して、おそらく前 367 年から 350 年の間に建造された。カリアの王朝は古 代エジプト王朝と同じく、兄妹婚が慣習となってい た。マウソロスがこの霊廟の建造を生前に始めたの だが、姉にして妃のアルテミシアが作業の大半を完 成したと考えられており、彼女が悲嘆にくれて前 3 51 年に死ぬと、次の兄妹 ( または姉弟 ) かっ夫妻の アダとイドリエウスが引きついだ。 マウソロス廟に関する最良の記述は、プリニウス ( 23 ー 79 ) が「博物誌」の中で記述しているもの ( 正確な記述かどうか議論はあるが ) である。プリ ニウスはマウソロス廟に携わった 4 人の彫刻家の名 スコパス ( 東面 ) 、プリュアクシス ( 北面 ) 、 ティモテオス ( 南面 ) 、レオカレス ( 西面 ) 挙げており、以下のように述べている。 これは、第ノ 07 オリンと。ア紀の二年目に死んだ カリアの大守マウソロスを記念してその妻アル テミシアが建てた。これに第わった芸術家達の この上なく見事な仕上げのおかげでこの作品は 世界の亡不思議の一つに数えられるようになっ た。この建物の周囲は全でノ 33 メートルあり、 南北の幅はノ引メートル、二つの正面はそれほど 広ぐない。高さは約た . 5 メートルあり、 36 本の円 住に囲まれていて、外周はプテロンとして知 られている・・・彼らの仕事が終わる前に王妃ア ルテミシアか死んたが、彼らはすぐさまそれが自 分たちの名声と彫刻実の長を記念するものにな 髪は前 4 世紀のアジアで流行した長く垂らした髪型をしている。 る言葉を思いおこさせる。ス生の盛りにある男性の頭部であり、 が「私は容姿の整った男であり、戦争では強かったノと語ってい 巨大な男性像 ( 部分 ) ルキアノスの「対話の中でマウノロス 5 ス目の芸術家も仕事に参加し そして今日でも、彼らのうちの誰か勝っているか のになると考え、仕事を放せずに完成させた。 は決定しがたい。
上ィースター島の石像 . 恐らぐ 境界標識としてわれていた。 高さ 3 イ . 3 翩。 下「イースター島の遺跡」 ジェームズ・クック船長の 2 度目 の航海に同行したウィグアム・ ホッジズ臼 7 イ 4 ー 97 年 ) か描いた 油彩画。彫像の上にはまだ「 子丿かっている。 れたのか、そして誰が立てたのか ? 1869 年に A. W. フランクスは、ホア・ハカナナ イアの顔は、長い耳たぶを除いて、既に大英博物館 に所蔵されているイースター島の木像とは異なって いると指摘した。そして「しかしながら、この顔は、 中央アメリカ彫刻にも見られるものであり、ポリネ シア的というよりメラネシア的である」と記してい る。クックは、彼が会った島民の皮膚の色や顔立ち や言語に、他のポリネシア人との密接な関係を見て いる。しかし、スペイン人やオランダ人は、島民に は多様な身体的特徴があったと報告している。アメ リカ大陸からの移住者であるという説も現われた。 しかし、近年の調査により、島に多数のアメリカ人種 が定住したことを裏付けるような、いかなる言語学 的、考古学的な証拠も全くないという説が確定した。 ホア・ハカナナイアは、恐らく 1500 年から 1722 年 の間に製作された。当時は、人口の増加、森林乱伐 や土壌流出といった自然環境の変化、住民の間の闘 争などの結果、島の文化に変化が起こり、古い彫像 信仰がすたれた過渡期であったと考えられる。代 わって現れたのが鳥人崇拝である。鳥人の形をとっ て顕現した、創造神かっ供給神たるマケ・マケを祭 り、オロンゴがその祭礼の中心地であった。ホア・