1857 年ハリカルナッソスのマウソ ロス廟の遺品が運びこまれている 彫刻、アッシリアの牛の彫刻といった種々雑多のも のを包括した扱いにくいこの古代部門を解体する好 機となった。ギリシア・ローマ、貨幣、メダル、そ して寄せ集めの「東洋」の三部門という新しい分割 はヴィクトリア朝の人々が何を優先させていたかを 反映している。東洋という名称にもかかわらず、 の部門には ( 現在、本腰を入れた研究・収集の対象 となっている ) プリテン・中世、民族学 ( 軽視され た分野で、大英博物館は資料は受け入れてもわざわ ざ購入したことはなかった ) 、エジプト・アッシリ ア ( 1886 年に独立した部門となる ) といった副部門 が包括されていた。プリテン・中世と民族学はフラ ンクスの下で 1866 年独立した部門となった。フラン クスは中国・日本コレクションの基礎を築き、大英 博物館はヨーロッパで最初に東洋を考古学・美術史 学の研究にふさわしい対象と認めた機関となった。 また、先史・民族学資料約 10000 点からなるクリス ティ・コレクションの獲得も彼の功績に数えられる。 西棟の陳列室はしばしば適当な空間に屋根をつけ う条件のもとにプルド卿によるスタンウィック出土 彫刻の一片を取り外す儀式シル クハットをかぶったひげのス物が るというやり方で、個々ばらばらに継ぎ足されて のコレクションが寄贈され、その後オーガスタス・ ノ 86 た 85 年ぞリシア・ローマ部門 いった ( ある部分では、スマークが建てた元の建物 ウオラストン・フランクスが雇用されると、デン 長を務めたチャールズ・ の外部排水管が今なお大英博物館の内部深く漆喰の マーク、フランス、イギリスの調査によって始まっ ン鹿である。「密には親しみや 奥に埋まっている ) 。正面ホールは 1877 年にリュキ たヨーロッパ考古学の新しい発展を利用する変革が すい部門長とは言えなかった。彼 のやり方は破しく独裁的で・ アの彫刻を陳列するため北に延長された。 1880 年代 おこった。 ・皆から尊敬されてい に大英博物館のコレクションの最初の分割がはじ 版画・素描は 1836 年に独立した部門となった。 た丿。ランドルフ・カルデコッ まった。博物学標本がサウス・ケンジントンへ移さ 1860 年に古代部門長のエドワード・ホーキンスが 臼 8 イ 6-86 年 ) 筆。 れたのである。「パンチ」誌は早くから次のように 80 歳で退職すると、理事会にとって、これは貨幣や 「象よ、イタチやスカンクと一 予言していた 民族学資料、エジプトのミイラ、ギリシアの大理石 2 引
大英博物館の諸部門 そのコレクション 本書の各章において、これまでに説明してきたものは、大英博物館の膨大な所蔵品のほんの一部に過ぎす、古代世界から現 代世界に至る広大な範囲を垣間見せただけである。そのコレクションは今日、 9 部門に分かれて管理されている。すなわち、 エジプト、ギリシア・ローマ、中世以降、東洋、先史・ローマ時代のイギリス、西アジアという古部門に加えて、コインとメ ダル、版画と素描、そして民族誌の各部門である。大英博物館のコレクションの領域がどこまで広がっているか、以下におい て若干の解説を試みておきたい。
民族学部門 この部門は 30 万点に及ぶ膨大な人類学のコレクションを有する。これは、世界でこの種のコレクションとしては世界最高の もので、アフリカ、オーストラリア、太平洋諸島、南北アメリカ、アジアやヨーロッパの一部に昔から住んでいる人々の美術 と生活の多様な様相を表している。古代そして近代や現代の文化もあり、ヨーロッパとの交渉が頻繁になる前の時代であるた め、資料の大半はきわめて興味深い。今日、この部門の収集の主要目的は、急速に消えつつある社会の生活、生産技術、科学 技術を物語るに相応しい資料を集めるという、緊急を要する計画にしほられている。この部門の図書館は今や、往時の王立人 類学研究所付属図書館と統合され、この分野では世界最大の規模を誇っている。 グアテマラの織物 ( 部分 ) ノ 98 ノ年に夜集され たコレクションである。大半の断片は 20 世紀に マヤの伝統的ないざり機で織られ、天然染料 で染められていた。スペイン風のシンボ、ルとと もにマヤのデサインの併用硼がある。たとえば、 子字はトウモロコシ畑の四を、双頭の鷲はマ ヤの神を表しているらしい。 ばた 223
ェドワードⅦ世ギャラリーのオー プンノ引 4 年、ジョージレ世とメ アリ王妃臨席の万で行われた。 緒に出ておいで、鼻 ( トランク ) に荷物をつめて、 よって引きつがれた。継続的に使用されたこの種の こにはそのうち、人間の作品しかなくなるだろう」。 研究所としては現在世界最古の研究所である。 科学的な考古学が発展していた。大英博物館は 第一次大戦後に発掘が中東で再開され、ウルでは 1860 年代にリビアのキレナイカ、小アジアのサル なばなしい成果をあげた。 1930 年代には、ジョセフ ディス、ロードス島、ハリカルナッソスなどの発掘 ・ドゥヴィーン卿 ( 1869-1939 年 ) が資金援助し、パ を行なった。ジョン・タートル・ウッドは 1863 年か ルテノン彫刻にふさわしいギャラリーがジョン・ ら 75 年にかけて小アジアのエフェソスの新旧のアル ラッセル・ポープ設計によって建設された。この建 テミス神殿の発掘を行なった。大英博物館はメソボ 物は 1938 年に完成したが、第二次大戦勃発のため開 タミア、小アジア、キプロス島、エジプトの発掘に 館は延期された。芸術品の疎開計画は 1939 年以前か 力を入れてきた。 1884 年にはこれらの発掘品を収め らたてられていたが、 8 月末ごろ移動命令がでた。 るためにジョン・テイラー卿 ( 1833 ー 1912 年 ) 設計に 貨幣、メダルのコレクション全てを含んだ最も重要 よる分館が本館の西に完成した。これはウィリアム な所蔵品のうち簡単に持ち運びができるものは数日 ・ホワイトという人物の遺贈を資金としていた。彼 で疎開したが、重いものの移動にはもっと時間がか はかなり以前 1823 年一に亡くなったのだか、 かった。 1941 年焼夷弾によって大英博物館の建物は 未亡人の生涯不動産権の切れたのが 1879 年だったの ひどい損傷を受けたが、コレクションは無事だった。 である。 戦後数年間は、離散していたコレクションを呼び 1895 年、理事会はべッドフォード家の地所から周 戻し再び陳列するために、大英博物館の予算のほと 囲の建物すべての自由保有権を購入した。ジョン・ んどが費され、また、学術上の進歩に合せて部門の ジェイムズ・バーネット ( 1859 ー 1938 年 ) によって壮 再編成が行なわれた。民族学はついに研究に値する 大な拡張が計画されたが、実現されたのは北側の計 ものと認められ、 1946 年独立した部門となった。工 画だけ、すなわち 1906 年に工事の始まったエドワー ジプトのコレクションは 1955 年に西アジア部門から ドⅦ世ギャラリーの建設だけであった。これらの 分離した。 1969 年にはそれまでの「プリテン・中 世」部門が先史・ローマ時代のプリテンと中世以降 ギャラリーは 1914 年にオープンした。資金は大蔵省 からと、法廷弁護士であり世界各国のことわざの権 の二部門に分割された。最も新しい部門は 1987 年に 威であるヴィンセント・スタッキー・リーンの遺贈 東洋部門から分離した日本部門である。 1963 年には新しい大英博物館法が施行されたが、 でまかなわれた。第一次大戦後、理事会は政府の科 これは 1753 年制定の旧法に代わるもので、いくっか 学産業調査局に所有品の現状報告と修復・保存の助 力を要求することを決定した。 1922 年に短期間の試 の条項は旧法から引きついでいた。理事会のメン バーは 51 名から 25 名に削減された。国王が前と同様 験的な研究所が認可された。 こでの作業が成功し たので、研究所は常設となり、 1 9 31 年に理事会に に理事のうち 1 名を、首相が 15 名を指名し、委員会 232
ウイクトリア時代の大学者 ス卿 オーガスタス・ウオラストン・フランク 吏集は道伝である。どうも、私は直る見必みか嘸さそうたし 朝 . ル : フランクス、手福第ノ糞「我かス生についての弁明 - / 日無し ) フランクスは退職する直前に次のように記してい るが、大英博物館のスタッフのなかでも、自分の功 績を誇張することなくこのように書ける者はそうい 「現在、私が部長を務めている部門を創設したのは、 私であり、しかも、国家に対して非常に少ない額の 財政負担しかかけていない事は断言して良いのでは ないかと思う。私が、 1851 年に大英博物館員に任命 された時、現在の部門の核となったコレクションは 壁面陳列ケース約 47m と、平ケースが 3 ~ 4 個分程度 の貧弱なものであった。それが、現在では 686m の壁 面陳列ケースと 90 個の平ケースと 31 個の縦型ケース を占めている。また、その他夥しい数の作品がケース の上や壁に陳列されているのは、言うまでもない」 フランクスとスローンには、一世紀の隔たりがあ るが、両者とも大英博物館の創設者として、人々の 記憶に残るに値する人物である。 ーリー家は印刷本や写 スローン、コットン家、 本、自然史に関して非常に重要なコレクションを残 し、その他、少しだけ名を挙げれば、エルギン、タ ソールト、レャード、ラッサム等はそれ ウンリー ぞれ大英博物館が所蔵する古代世界に関する膨大な コレクションの中の、ある特定領域の基礎を築いた。 しかし、東洋部門、先史・ローマ時代のプリテン部 門、中世以降部門、民俗学部門など現在大英博物館 彼はコレクター達の中心的存在であった。彼は最 にある 9 部門のうちの、 4 部門までを設立した最大 終的には大英博物館が、コレクションを引き取るこ の功労者といえば、丸Ⅳ . フランクスであろう。 とを目的として、自分で買ったり、他のコレクター 彼の研究論文や蒐集のテーマはインド彫刻、日本 に勧めたりした。彼の友人で、民俗学の草分けの一 の考古学、アングロ・サクソンの美術、ヒムヤル語 人であったヘンリー・クリステイからは約 10 , 000 点 の碑文、メダル、蔵書票、紋章、巨石記念物、真鍮 にも及ぶ大コレクションを手に入れ、これも友人で の記念額等、非常に多岐にわたっており、今日の専 あるフェリックス・スレードからは優れたガラスの 門家達の驚異の的となっている。また、このような コレクションの遺贈を受けた。また、レディ・ 多様性にもかかわらず、いくつかの分野における彼 シャーロット・シュライバーからは扇とトランプを、 の学識は、今でも尊敬に値するものである。 オクタヴィアス・モーガンからは、置き時計と懐中 資産家となり、社会的地位も得た彼は、大英博物 時計を、その他にも譲りけた例はたくさんある。フ 館理事会など、歯牙にもかけなかった。たとえ理事 会の怒りをかおうとも断固として、気に入ったプロ ランクス自身は、理事会の目を新しい分野へ向けさ せる手段として寄贈した。例えば、早くも 1855 年に ジェクトを進め、惜しげも無く私財を投じた。 オーガスタス・ウオラストン・フ ランクス ( 1826 ー 97 年 ) 学者、コ レクター。フランクスの親友の娘、 ジョアン・エノゞンス夫スか、また子 供のに、フランクスに会った時 の彼の挈象を次のように書いてい る。「彼は気で夢見るようなス 物た、った。彼はふいに、箕面目な 顔で冗談を言い、 いつもチョッキ の一番上のボ、タンをいじってい 797
東洋古美術 東洋の芸術や古美術に関する本格的な研究が西洋で始まったのは、 19 世紀になってからであり、 1933 年に設けられた東洋古 美術部も、この分野の草分け的存在であるコレクター達の功績に負うところが多い。現在、この部門は新石器時代から 20 世紀 に至るアジア全域の文化を扱っている ( 但し、日本とイスラム教が興った 622 年以前の西アジア及びベルシアの古代文明は別 の部門の管轄となっている ) 。その範囲は西アジア、イラン、アラブ征服後の北アフリカ、アフガニスタン、ロシア、中国領 中央アジア、シベリア、モンゴル、中国、朝鮮、フィリビン、インド亜大陸、スリランカ、東南アジアを含む広大な地域に及 んでいる。また、民俗学部門 ( 同一地域のものを蒐集する ) と異なり、コレクションの対象は古い伝統が残る田舎とは対照的 な都市の文化遺産に集中しがちである。特に目を引くものとしては、古代中国の青銅器やあらゆる素材の中国装飾美術、東洋 絵画、版画、インド、東南アジア、中央アジア、チベットの宗教美術、イスラムの金属工芸、陶磁器、木工品のコレクション である。 左簷 ( 銘康侯 ) 中国西周時代初期の儀式用青銅器 前月世記成治世の銘よって年代か特定できる。 戦後、大英厚物館は世界的に評価の高い古代中国青新器の コレクションを青々と充実させている。高さ幻翩。 ィを物食 ビーマランの舎利容器歪にルビーがあ込まれており、アフガニスタンのス トゥーバ塔 ) にめられていた石製短 ( カロシュティー銘刻 ) の中から発見さ れた。幺館、 . 楚天、帝第と供養者か打ち出されている。た 2 世記高さ 6. 7 翩。 食用敵めのうの第彫り。インド北部アラハバードの水池 から発見された。ムガル帝国時代の作。ジャハーンおール王 ( 7605-27 年 ) の命によって作られたと思われる。高さ 50.2 翩。 275
ジョージ・サーンダース ( 1762 頃ー 1839 年 ) の設計 になるパッラディオ様式の新しい「タウンリ ギャラリー」は、 1808 年にシャーロット王妃の臨席 の下に開設された。大英博物館の改築工事は決して 終わることがなく、現在なお続いている。 大英博物館は、科学的調査に常に関心を寄せ、学 術的水準に合わせるよう努力を続けたので、しだい に珍品陳列館の域を脱するようになった。 ( 以前は 「巣の中のカッコウ」っまり博物学の付録であっ た ) 古代コレクションの重要性がついに 1807 年の古 代部門の設立で認められた。 1808 年に版画・素描コ ンタギュ家の邸宅が大英博物館の最初の建物となっ レクション担当の館員の一人がこの部門の所属と なった。この任命劇の裏には、版画・素描コレク た。理事会は職員を任命し、コレクションを三つの 部門 ( 印刷物、写本、種々の自然物・人工品 ) に編 ションは当時印刷書籍部門に属していたのだが、 成した。 1757 年、理事会は邸宅の裏に北へ広がる素 の部門の館員に一紳士が魚と豆を贈ってとり入り窃 盗を働くという不快な事件があった。 晴らしい庭園を開放した。そこには通常の植物収集 モンタギュ邸は再び破裂しそうになった。バッサ 品に加えてエキゾティックな花々が植えられていた イのアポロン神殿のケンタウロスやラピタイ族、ギ が、 1759 年 1 月には大英博物館法で入館を許可され リシア人とアマゾン族などのフリーズ浮彫りが 1815 た「全ての学究の徒、知識欲旺盛な人々」に門戸が 年に届き、エルギン卿のコレクションが政府に買い 開放された ( 大英博物館法の下では理事会はゆっく 上げられ 1816 年に大英博物館に寄贈されたのである。 りとした見学を許可できなかったので、初期の入館 コペント・ガーデン・シアターや英国造幣局を設計 者は厳しく制限された団体の形で館員に案内されて したロバート ( 後にはサー・ロバート ) ・スマーク 手早く館内を回ったらしい ) 。 ( 1781 ー 1867 ) が 1815 年に労働省へ任命され、理事会 初期には、図書館と博物学のコレクションが目 付きの建築家となった。彼はまず工ルギン・コレク 立っていたが、次第に考古コレクションがスローン ションを収める間にあわせの建物の設計を任命され の収集品を核として拡大しはじめた。 1756 年にウィ た。理事会は当初北側に二つの翼を建設することを リアム・ルテュイエ陸軍大佐が遺贈したエジプト関 考えていたが、コレクションが増大するに従って、 係の品々とともに最初のミイラが入った。 1767 年か 計画もよりいっそう大がかりなものになった。 1823 ら 1779 年にかけてキャプテン・クックが行なった三 年ジョージⅣ世 ( 在 1820 ー 30 ) が他の蔵書と区別す 度の太平洋航海によって、まだョーロッパとの接触 ることを条件に、父から受け継いだ 62250 冊の書物 の影響を受けていない手工芸品がもたらされた。 と 19000 の未製本の小冊子からなる壮麗な蔵書を寄 1772 年、大英博物館は館の最初の重要な古代収集と 付したため、拡張案はさらに捉進された。議会は建 なるサー・ウィリアム・ハミルトンの比類ないギリ 設費として 40000 ポンドの予算を承認し、新古典主 シア陶器のコレクションを購入した。 1799 年には、 義様式の大きな四角形の建物を計画したスマークの クレイトン・モードント・クラシュロード師が精選 案が 1823 年理事会によって承認された。しかし不運 された蔵書の他に棚ーっ分の貨幣やメダル・彫玉、 一連の重要な素描を遺贈した。 1802 年、ジョージⅢ にも政府の資金は準備と開始の費用分にしかならず、 設計が建物の形をとって実現するまでには 30 年近く 世 ( 在 1760 ー 1820 年 ) がナポレオンの学術的遠征に の年月を要した。スマークは簡素な古典様式の大建 よってもたらされたロゼッタ・ストーンを含む古代 築を計画していたが、完成時にはこの様式は時代遅 エジプトのコレクションを寄付した。 れとなっていたため、内部は色とりどりのヴィクト 所蔵品が増えていったため、狭いモンタギュ邸で リア朝様式で装飾された。東翼の作業は 1823 年に始 は陳列しきれないほどになった。たとえ部屋があっ まり、 1827 年に完成した。これがロンドンで最も高 ても陳列には床が不適当であったので、理事会の意 貴な部屋の一つ、キングス・ライプラリーとなった。 見は新しい建物を建築する方向へ変わった。 1804 年 西棟と北棟は別々の様式で建てられた。西翼に平行 にエジプトのコレクションを収める新しい陳列棟の して完成した新しいエルギン・ルームは従来のよう 建築工事が始まったが、さらに古典彫刻のタウン な四角の建物ではなかった。 1847 年までには新しい ・コレクションが加わったため、それに対処す 玄関ホールがオープンしており、モンタギュ邸は実 るために計画が変更された。理事会お抱えの建築家 モンタギュ家の版画室ジョージ ・クルークシャンクによる工ッチ ン死ノ 828 年。部門長のジョン・ トーマス・スミスか第手に立ち、 大いに興味をそそられている 6. 人 の定家たちの前の、紙ばさみに はさまれた版画を称賛している。 一方、右手の女性は静かに画集の べージをめぐっている。 229
古代西アジア部門 この部門のコレクションは、エジプトの東部やパキスタンの西部といった、西アジアの土地に昔住んでいた人々の遺物であ る。現在の西アジアはセム語やトルコ語、インド・ヨーロッパ語の人々が住むが、古代の遺物は過去の美術や生活を物語る。 今のイラクの地にいたシュメール人、バビロニア人、アッシリア人達。またアケメネス朝ベルシア人、パルティア人、ササン 朝ベルシア人を含む古代ベルシア人達。今のトルコからシリアにもいたウラルトゥ人やヒッタイト人。そして、カルタゴやア ラビア半島の国々にまで植民市をもうけたへプライ人やフェニキア人などシリアや古代パレスチナの人々。西アジアの紀元前 8000 年の最古の農耕村落の時代から、紀元後 7 世紀のイスラム時代の到来までの時代を対象としている。 ラチシュの町の包囲ニネヴェのセンナケリフ圧 ( 前 70 ィー 68 ノ年 ) の宮醍の一連の浅季き彫りにあり、センナケリフ王か前ノ年 にバレスチナのラチシュの町を攻撃し、そして町の陥落と、住スたちか血察りに上げられている場面か彫られている。厚物館の アッシリアのき彫りのコレクションは、他の追を許さない最高の質を誇っている。 ・ノい。 2 幻
テル・エル・ヤフディーヤの墓 地における E ES ( エジプト調査 協会 ) の発掘現場 当時のエジプトは 1517 年以来オスマン・トルコ帝 国領であり、 1879 年副王イスマイルは退位して息子 にその地位を譲った。その後国が乱れ、フランスと イギリスの統治下に入ったが、フランスがすべての 公的事業をとりしきることになり、そのなかには考 古局も新設された。 以来 30 年にわたって考古学の分野はオーギュスト・ マリエット・パシャの采配の及ぶところとなった。 彼は 1858 年以来、発掘調査の監督官に任命されてい たが、後にカイロ郊外のプラークに国立博物館 ( カ イロ博物館の前身 ) を設立した人物である。工ド ワーズはマリエットに少人数による発掘の許可を求 めて、好意的な返事をもらったようだった。彼女は 資金面での援助者を探し始め宣伝に務めた。そして、 彼女の活動に新しい強力な味方が現れた。それは工 ラスムス・ウイルソン卿という裕福で著名な外科医 であった ( 彼はクレオパトラの針と呼はれるオペリ スクをロンドンに運ぶ費用を負担した ) 彼もまた、 エジプトを観光旅行するうちにエジプトに魅せられ、 工ドワーズの友人となったのである。工ドワーズは 大英博物館のコイン・メダル部門の部長であった工 ジプト育ちのレジナルド・スチュアート・プールの 協力を得たが、バーチ博士の賛同を得るまでにはい たらなかった。同博士は偉大な学者であり、重要な 文献を刊行するという大英博物館の伝統を築いた卓 イ 0 越した館員であったが、彼のいうところの「時の運 に左右されやすく、価値がわかりにくい考古学」に はあまり熱心ではなかった。そして、発掘するから には博物館に所蔵品をもたらすべきであると彼は考 えていたのだが、当時のエジプトの古代遺物に関す る厳しい法律ではその見込みが持てなかったのであ る。そのため、博士はエドワーズ達の活動には加わ らなかった。その結果、調査団創設の第 1 回目の会 合はプールの部門で開かれ、数日後ロンドン大学で 第 2 回目が行われた。 マリエットが 1881 年 1 月にこの世を去ると、ガス トン・マスペロがその後任者となったが、エドワー ズとマスペロは以前から親しい間柄であった。そし て、この組織の後援者の一人であったスイスの著名 なエジプト学者工ドウアール・ナヴィルがその冬マ スペロを訪ね、彼の支援を得ることにも成功した。 1882 年 3 月 27 日、エドワーズとプールの呼びかけに よって、大英博物館のプールの部屋で会合が開かれ、 こにエジプト調査基金が実現したのである。工ド ワーズとプールは共に名誉事務局長となり、エラス ムス・ウイルソン卿が財政面での後援者兼会計責任 者となった。ギリシア・ローマ部門の部長チャール ズ・ ートンも又、この委員会に加わった。工ド ワーズの夢は現実のものとなったのである。 1882 年 4 月 1 日付のいくっかの新聞には「長い間、望まれ
から 5 名が選出され、プリティッシュ・アカデ ( 大英学士院 ) 、ロイヤル・アカデミー ( 王 立美術院 ) 、ロイヤル・ソサ工ティー ( 英国学士 院 ) 、ソサ工ティー・オプ・アンティクアリーか ら 1 名ずつが選ばれた。 大英博物館史における第二の大変革は 1973 年に 行なわれた。このとき、書物の各部門 ( 印刷書籍、 写本、東洋の書・印刷書籍 ) が分離して新しい機 関「大英図書館」となった。これらは今世紀末ま でにセント・パンクラス駅附近の専用の建物に移 される予定である。こうして現在の大英博物館は ほほ全て旧古代部門の後裔となっている。 20 世紀後半に、大英博物館の公的サービスは大 巾に拡張され、教育・デザイン部、出版部が設立 された。最新の付加建築物としては、 1 9 8 0 年に オープンした「新館」と 1990 年の日本ギャラリー などがある。気前のよい寄贈者のおかげでギャラ リーが増大したが、こうした寄贈はこれからも活 発に行なわれ、大英博物館の図書館の移転で空く 40 % の空間も寄贈品で埋まっていくだろう。 設立以来、大英博物館は 10 人の国王の治世を経 験し、この間にさまざまな寄贈者が現われ、理事 1939 年 8 月、大英博物館から連び出される収蔵品。 会が三度交代した。数々の戦争・革命・暴動の後 大英博物館一帯の航空写真。 もほば無傷のまま存在しており、設立から約 240 年たった現在も、大英博物館は世界最大の博物館 であり続けている。 . い卩自′ 233