きます。存在することをどこまでも問題とし、関わりの的とする関わりあいを含んでいます。 意識することや知ることはこの関わりあいに還元されます。 現存在は、それが存在するという事実において、たえず存在することへと関わりあいます。 関わりあいの的として、存在することはもともと開き示されています。存在することは何らか の仕方で了解されています。現存在は存在了解をもっています。存在了解は現存在が存在する ことに基づきます。しかも、存在しつつ、この存在することへ関わりあうこと、存在すること一 を的としてたえず関わりをめぐらせることに基づきます。 現存在に固有な存在することは実存することでした。実存することは、このような存在了解一 をもちつつ実存することです。実存することにとっては、いつも自分の存在することを関わり の的とし、関わりの的として了解することが固有です。意識や知は、実存の存在了解に潜んで います。サルトルが非難するように、、 ノイデッガーははじめから意識という次元を現存在から一 奪ってしまったのではありません。意識や知は現存在の実存することの様態なのです。 関わりの的としての実存 ここまでふりかえって、ようやく、現存在があれこれと自分を関わらせることができ、そし ていつも何らかの仕方で自分を関わらせている、存在することそのことを、私たちは実存と名 ′実存の分析論 ハイデッガの場 - 合
割であります。そしてこの実存主義は、投企と了解による全体化を、根源的に個人の実存に帰 しています。実存主義とは人間学であります。この人間学は構造的で歴史的な人間学とならね ばなりません。 終わりに私たちは、もう一度だけ対自と即自の差別を思い出しておきましよう。対自は実存 や投企の根本の構造です。たえず自己の外へと自らを乗り越える躍動がサルトルの実存です。 実存のこの構造に忠実であるかぎり、目的とされる自由の哲学は、たえず獲得されるべきもの にとどまります。それは、与えられたものとなり、獲得されたものとなるとき、死滅してしま います。実存の構造に基づくかぎり、歴史的な人間学は、人間的な実在を了解し、知にもたら一 そうとする経験のたえざる全体化として、いつまでも未完結にとどまるでしよう。 幻 3 実存主義ーサルトルの場合
な自己であります。本来の自己は神に直面する自己であり、自己と絶対に質的な差別のある神 の前の単独者であるということは、キルケゴールにとって実存することを先導している実存的 な了解であります。 これに対してハイデッガーの場合、現存在は現に存在することを自分で置いたのか、それと も現に存在するように他者から置かれたのかということは、少なくとも「存在と時間』では問 題となりません。しいていうと、事実態であり被投態である現存在から出発し、そのありうる 可能態の投企を関わりの的とするだけです。死を見越して覚悟をきめる単独な自己が本来の自 己であるというのは、この頃のハイデッガーの、実存することを先導している実存的な了解と いえます。 ハイデッガーの現存在は、しかし、自分で自分自身を置いたものではありません。さらにま た神によって置かれたものでもありません。ハイデッガーは現存在をもろもろの存在するもの思 る ごと、つまり存在者の真ん中に投げられているひとつの存在者としますが、現存在こそ一切の め 存在者の中心となる最も本来的な存在者であるとは考えていません。むしろ現存在はかぎりのを あるものであり、有限態なのであります。有限な現存在はたえず存在することを関わりの的と実 しています。死という終末へ向かっている現存在は、たえず、自分の実存を関わりの的とし、 実存以外の存在することへと自分を関わらせています。
アリストテレスにおいて典型的に現われています。それ以来、存在者の存在は、時間のなかに あるかないかということが問題となります。そしてこのアリストテレス的な時間観は、今日に いたるまでの時間の解釈を貫いておりますし、また、存在者の存在を解釈するときの、ひとっ の枠組みともなっています。存在を区別するとき、私たちは、時間のなかにある時間的な存在 とか、時間をもたない存在とか、時間をこえた存在とかいいます。そしてこのときの時間解釈 は、右に見たような時間の本質に基づいています。 ここでハイデッガーの『存在と時間』の意図を思い出してみましよう。それは、存在の意味場 の とは何かという問いを、根本の問いとして提出していました。そして、既に見ましたように、 ガ この問いをたてる現存在の存在を、実存ないし関心とよんでいました。 それでは、実存ないし関心の意味とは何でしようか。それにあたるのが現存在の時間性であ るとされます。つまりハイデッガーは、現存在は根本的に時間的な存在であることを認めてい一 ます。そこで私たちは、まず現存在の時間性を考え、時間性が実存の意味であるとはどういう析 ことかを考え、さらにこの時間性が、前にのべたような通常の時間解釈とどういう差別があるの 実 か、この三つの点を簡単に見ることにしたいと思います。 有限な時間性こそ本来的な時間
ます。 現存在が存在することは、頽落して存在すること、事実態ないし被投態として存在すること 」、つい、つ でした。世のなかにもたれかかり、あるあり方へと投げられた事実を生きること 受動的で事実的な生き方のほかに、現存在の存在する仕方はないでしようか。人間の生き方は もっと積極的ではないでしようか。現存在の積極的で能動的なあり方はないでしようか。ここ に投企という重要なあり方がでてきます。 能動的なあり方・投企 事実態や被投態というあり方を開き示すのは気分でした。投企というあり方を開き示すのは 目 了解です。私たちは了解したときわかったといいます。わかったということは、それができ 注 る、それをなし能うという意味を含みます。了解は可能態の了解です。可能態の了解とは、可の 能態の投企ということです。私たちは、たとえ事実上かぎられた可能態であっても、ある可能方 態を投企します。可能態を投企するとは、可能態を可能態として了解し、可能態として存在せあ しめることです。 人 投企するとは、計画し設計し構想することをすべて含みます。現存在は、事実態と被投態と いうあり方において、存在者の唯中に投げこまれています。この投げこまれている情態が気分
である これはたしかに、『存在と無』で行なったような対自存在としての人間的な実在の基礎的な刀 分析と記述を、抽象的として退けているように読めます。しかし、対自存在として実存を把握 したからこそ、実存は自らを状況づけうるのであります。実存が投企であり自由であり選択で あるからこそ、マルグス主義という知の余白に寄生するとされる実存主義が、生きたマルグス 主義という可能性へと乗り越えうるのであります。サルトルのねらいは、マルグス主義の人間 学の人間的な基礎として、実存の了解を提出することにあります。 廿・ . ル z—レ亠よ、、 ノ ~ しします。マルグス主義は、その基盤である人間そのものを、もし自らのうちに 再統合しないなら、マルクス主義は非人間的な人間学となってしまうであろう、と。 それゆえにサルトルは、マルグス主義の内部に人間を復活させることを目的としています。 人間学としての実存主義の役割 ノの遠い目的、つまり現在 現在、世界は多くの価値をもっ諸世界に分裂しています。サルトレ の向こう側にあり、そこから現在を見かえす将来、それは、歴史がただひとつの意味しかもた ない時期、共同で歴史を作る具体的な人間のなかに、歴史そのものが解消してしまうような傾 向をもっ時期であります。この時期を近づけることが、人間学そのものとしての実存主義の役
されず、い くら対象としてつかもうとしても身をひき離してしまう自由をもち、その自山に訴 0 ースは、あくまでも哲学の範囲内で、超越者を えて開明される包括者とします。そしてャスパ 認め、超越者を一切の包括者の包括者とします。 ャス。ハ ースは実存哲学のはじめから、実存哲学とは人間の実存を開明するが、実存の開明は 同時に実存の根源である超越者の確認であり、したがって実存哲学は人間の存在を超えて問う のだといっています。キルケゴールは、客体的な思考か主体的な思考かとせまりますが、主体 的な思考が客体的に不確実であっても存続しうるのは、主体が神から置かれた自己であるとい ースの場合も、実存が客体的な知に解消しきれないのは、実 う大前提があるからです。ャスパ 存はもともと超越者に基づくからであるという前提があるからです。 いすれも人間を超えたものに関わりあう ースの実存とは単純に比較できませんが、キルケゴールの場合 キルケゴールの実存とヤスパ ースの場合は人間の根拠である超越者と、それそれ関わ は人間と質的に差別のある神、ヤスパ りがあることにおいて、人間は本来の自己であり実存であるという点は同じことです。神とよ ばれようと、超越者とよばれようと、人間の存在を置き、またその根拠となっているのは、人 間を超えたものであります。それへの正しい関わりあいは信仰であります。
は継続的な内面化に伴う思考であり、たえざる生成に伴う思考であります。 しかしこの反省と思考は、客体的なものの思考において生じる、反省の無限性、悪しき無限 性ではありません。無限につづく悪しき反省は、飛躍と決断によってとどめられます。いっ飛 躍し、いっ決断が生じるか、それは予見も予知もできません。実存の内面性、自己の主体性、 それを反省することは、内面性と主体性が所有しているものを反省することであります。内面 性の反省は主体性が内面に所有するものの反省であります。所有の反省は内面性の反省を強め ます。主体性と内面性の反省の強まりは、それ自身主体性と内面性のあり方となります。そし てキルケゴールがいうように、最も情熱的な内面性をわが物とすることにおいてかたく保持さ れている、客体的な不確実性・・ーーこれこそ真理なのであります。これこそ実存する者に対して 存在する最高の真理なのです。 キルケゴールはこの真理の規定は信仰に対するひとつの書きかえだといいます。信仰とは、 る 内面性の無限の情熱と客体的な不確実性との間の矛盾にほかなりません。もし私が神を客体的 め に把握しうるならば、私は信仰しません。しかし私はそれができないからこそ、信仰しなけれを 実 ばなりません。 キルケゴールの実存は、内面性の反省をかぎりなくたかめてゆき、主体性を反省と思考によお って再生し自分のものにしようとします。そして、この内面性の無限の情熱にもかかわらず、
す。サルトルは社会学や精神分析学などの提示する経験についての資料を、全体化という総合 へと統合し、現存のマルクス主義をあるべきマルグス主義へと変え、たかめねばならないと確 信しています。 実存主義がおかれた基礎的状況 私たちはここで「弁証法的理性の批判』の内容をくわしく点検する必要はないでしよう。こ れまで見たことからも明らかなように、サルトルの実存主義は、現存のマルグス主義のふとこ ろに寄生するとされ、それを生きたマルクス主義へとたかめようとする理想をいだいています。一 対自存在は即自存在に対して存在し、即自ー対自という理想をかかげてたえず挫折するもので場 した。この構造は、ここにいきなりあてはめてはならないでしよう。しかし実存は必ずある特ル 定の状況のなかに存在しています。かっ必然的で普遍的な基礎的な状況との関わりにおいて存ル 在しています。マルグス主義を生み出した状況は、今日でも乗り越えられていません。サルト 義 ルは実存主義が位置する人間の境涯ないし基礎的な状況をこのように把握しているわけです。主 実存はたえず自己の外へと乗り越えてゆき、たえず自己から距離をとって存在することを欲実 しています。人間の存在は自由です。そしてこの自由はいつもある状況内での自由です。自由 8 はいつも与えられたものからの脱出であり、事実からの脱出であります。そして人間は自由の
らせることにおいて、自分をある他者へと関わらせている関わりあいでした。この他者とは神 のことでした。 ハイデッガーの場合、現存在は存在しているという事実態から出発します。この事実態ない し被投態がどこから来てどこへ行くのか、それはキルケゴールのような信仰によっては決定さ れていません。関わりの的とされるものは、まず各自のものである実存であります。現存在は 事実態において各自の可能態を関わりの的とします。現存在は被投態において自己でありうる 可能態を投企します。それと同時に、道具や物の存在することも、現存在が住み、道具や物が そのなかにある世界が存在することも、開き示されています。現存在は実存として存在するこ とにおいて、存在することそのことを関わりの的としています。 こう考えますと、キルケゴールのように、自分を自分自身へと関わらせる関わりあいという 自己ないし実存だけが間題とされるのではありません。 ハイデッガーの自己は神学的てはない これ さらにまた、キルケゴールの自己は、自分で自分自身を置いた関わりあいであるか は強情であり、絶望であり、罪であるとされますーーあるいは、神によって置かれた関わりあ いであるかーーーであり、キルケゴールの本来の自己はもちろん後者であります。それは神学的 234