存在とその根拠とを区別しうるというわけです。この区別はいっさいの存在するものにあては まります。したがって、神もまた、現実存在とその根拠とを区別できます。 人間は神から創造されたものとされるかぎり、人間の現実存在の根拠は人間自身のなかにな く、神の現実存在の根拠のなかにあるとされます。神は現実存在とその根拠を、ともに自分の なかにもっています。神のなかにあって、神の現実存在とは区別されている現実存在の根拠の ことを、シ = リングは神のなかの自然ともよんでいます。したがって、人間の現実存在の根拠 は、神のなかの自然にあるとされるわけです。 シ = リングが現実存在ということを哲学の中心にすえたのは、大きな理由があります。当時 ヨーロッパで一番大きな勢力をもっ考え方はヘーゲルの体系でした。ヘーゲルでは、主体と客 体、思考と存在とが同一のものであるとされます。理性による思考は、思考されるものの本質 をまったくとりおさえ、概念としてつかみだしています。つまりこの合理主義の考え方にとっ ては、すべては普遍的な本質が概念としてつかみとられたこととなります。あるといわれるの は、理性によってつかみとられた本質なのです。ここでは、あるということ、現にあるという 事実は、とびこされてしまいます。すべてについて、普遍的であり共通である本質たけしか問 題となりません。 シェリングにとっては、この合理主義の体系は、普遍的で合理的な本質だけをすくいとるの
5 投げられて投企する 実存のもともとの構造 実存することは、ある特定の可能態を実存することであります。可能態を投げ開き、もちこ一 たえ、存在せしめること、つまり投企という実存することの中核は、実存が存在しなければな場 らぬ投げられた事実態に基づいてであります。私たちは、実存することのこのような逆説的な一 構造を直視しなければなりません。実存の構造の了解は、この被投的投企という構造の全面的 な了解であります。実存の実存論的な了解とは、実存を存在者のように対象としてとらえ、傍 観者の立場からこれを観察して、いくつかの要素へ分解し、この要素から組み立て直すことで→ はありません。実存の構造は、実存から距離をとって自ら実存でない所から考察されるのでは櫪 ありません。特定の可能態を実存するという実存の有限態の、それ自身有限な構造が見取られの 実 なければなりません。実存に身を置いてこそ構造は浮かび上がります。 事実態と可能態。被投態と投企。存在者からとりまかれ、存在者に依存し、存在者に内在す 9 ることと、存在者を超えた存在への超越。可能態の剥奪と奔騰。無力と力。依存と自由。実存
求め、超越者へ舵を向けようとしています。つぎに、実存とは人間の自己のことですが、それ は超越者と関わりをもつ者であるということです。後者の点では、キルケゴールの実存の把握 を思い出します。実際ャスパ ースは、実存哲学の近代的な根源をキルケゴールに認めていま す。ャスパ ースはさらにシェリングとニーチ工とを先行者にあげています。 ともかく現代の実存哲学のはじまりにおいて、実存哲学とは人間存在の哲学であること、こ の哲学はふたたび人間をこえ出ること、このことが宣言されています。 本来的な自己存在をさぐる実存開明 ャスパ ースのいう実存は、たんなる主観性のことではありません。それはまた、独我論的なの 自我の存在でもありません。それは自己存在です。しかしこの自己であることは、けっして対一 象としては認識されません。実存哲学が人間とは何であるかを知っていると信じるやいなや、 ~ 実存哲学はただちに失われてしまいます。実存哲学がその対象を固定してしまえば、もう実存一 哲学ではなくなります。実存哲学はそれがまだ知っていないものをたえずよびさまし、開明し ながら動いてゆきます。つまり人間とは何であるかに答える人類学や心理学や社会学などの科実 学的な認識冫 こまず方向を定め、それらの認識に即しながら、まだ現われていない本来的な人間 の自己存在へいたろうと努力します。
としての諸可能態を投げ開き、それらを、死という終末にいたるまで思考することを試みたの です。 それは存在の問いへの基盤である この試みが、現存在の解釈学とか実存の分析論とかよばれていることは、既にのべた通りで す。私たち現存在は、時間を根拠として実存します。この分析は、それ自身として、存在の意一 味とは何かという存在論の根本の間いの地平の獲得でした。実存への問いは、存在への間いの場 なかにはめこまれています。実存が含みかっ伴う存在了解は存在論の基盤です。したがってハ一 イデッガーは、現存在をあらゆる観点からくまなく分析するのではありません。現存在の完備 した存在論を提示しようとしたわけではありません。現存在の実存論的な分析論はそれだけで 完結した領域ではありません。したがって、それは実存論的な人間学でもありません。 実存の分析論は、実存を全体として根源からとらえようとします。そのかぎり、人間を全体櫪 として把握しようとするシェーラーの哲学的な人間学や、生きることを生きることそのことかの ら把握しようとするディルタイの生の哲学や、現われの本質を直覚して分析し記述しようとす実 るフッサールの現象学などの意図や方法が、ハイデッガーから生かされています。 しかしハイデッガーは、実存論的な哲学を考えているわけではありません。問うこと、とり
に全人類の存在ないしあり方も選択しているといいます。選択は同時に選択される当のものの 価値を肯定しています。あるいは、私は常にある価値を肯定し決定するように選択していま す。選択にあたって肯定されているこの価値は、普遍的なものであることが同時に肯定されて います。選択し肯定するのはいつも私です。しかし私の選択と肯定はいつも普遍性を要求しう るものでなければなりません。それゆえ、どのように個人的な行為であっても、それは人類全 体を選び、人類全体の行為に関わり、全人類を拘東していることになります。私は私を選択す ることにおいて、同時に全人類を選択しています。私の行為はいつもある理想像を含みかっ伴 っています。私は瞬間ごとにこのような規範的な行為をするように仕向けられています。 サルトルはこう説くことによって、実存ないし主体性へと個別化し個体化した人間が、けっ して普遍性を否定してしまうのではなく、主体性を通していわば相互主体性ともいうべき普遍ル 性に関与しており、それに責任があることを説きます。ただしこの普遍性は、与えられているル のではなく、築かれ獲得され建てられるべきものです。人間は自らを作りあげてゆくものであ一 義 ります。 主 人間は自分自身で自分自身の行為を選択し、価値を肯定してゆきます。このことは同時に、実 たえず普遍的な価値を肯定し、万人に妥当しうる行為を選択するように仕向けられていること 5 を意味しています。
それでは、現代の精神的な状況について語ることは無意味でしようか。そうではありませ ん。人間はだれでも状況のなかにいます。具体的な状況のなかで、現存在としての人間はいか なる状況にあるか、意識ないし精神としての人間は状況についてどれだけ知りうるか、これは 把握できます。私たちは、この可能的な展望の限界を知ることを通して、この状況のなかで本 来何が問題であるかによびさまされます。現存在の状況も、精神の状況も、それだけで状況の 全体像だと誤認してはなりません。現存在の状況開明も精神の状況開明も、自己が状況のなか むち で本来の自己に目覚めるのに不可欠な鞭なのであります。 場 の 科学の対象としての人間 現存在としての人間は、個別科学の認識の対象として探究されます。しかし人間は、現存在一 であるだけでなく、意識をもっ精神であります。人間は精神をもっことにより、ただ知るだけス でなく、自分が何であるかを行為において自由に決定します。人間についての諸科学は、現存一 在を認識の対象とします。しかし科学は意識と精神の所産です。人間は科学の客体として現存哲 在であり、科学の主体として意識をもっ精神です。人間は精神をもっ現存在です。しかし科学実 は、人間の現存在を部分的に対象とするだけです。精神をもつ人間は自由であり、行為しま 9 す。科学の成果はそれを所有する人間いかんで有意義にも有害にもなります。人間は現存在と
き示されており、 開き示された存在が受けいれられ、見取られています。存在は了解におい て、いつも既に出会われており、発見されているのです。 存在了解をふくむ実存の構造 ハイデッガーがいう実存論的な了解とは、実存の構造の了解です。実存の構造の了解は、実 存がもともと存在了解を含み伴うという構造に基づいています。その構造はこれまでのべまし た。了解される存在は、現存在それ自身が関わりの的としている自分の存在しうる可能態であ ります。了解される存在はこれと同時に、現存在以外の存在者の存在であり、現存在の住む世 界の存在であります。実存が含み伴う存在了解は、実存の自己了解であると同時に、実存以外 の存在の了解であり、世界の了解であります。現存在が含み伴う存在了解は、自分の存在の可 能態の了解だけでなく、道具の手許存在や物の手前存在の了解であり、道具や物の存在に意義 づけを与える現存在の住む世界の了解であります。 実存は、かかる存在了解を含み伴う構造をもっています。実存は、それが存在了解を含み伴 う構造をもっ点で、道具の手許存在や物の手前存在と異なります。 実存的な了解と実存論的な了解 4
ここで現象学とは、フッサールのそれを方法として受け取っています。また、解釈学はディ ルタイの精神を受けつぐとともに、ディルタイの友人ヨルク伯の考えをも受けいれています。 存在論とは、ギリシア以来、アリストテレス以来の西洋の伝統的な哲学のよび名です。それ は、存在者を存在者として規定する存在を求めます。つまり存在論は、存在者と存在とが異な ることを前提としています。しかし、存在とは何であるかについてさまざまな答えがあり、し かも一義的な意味を欠いています。もう一度存在の意味とは何かと問わなければなりません。 つまり、 ハイデッガーの根本の姿勢は、存在論の根本の問いは存在の意味とは何かという間い であること、この問いを、問いとして明確に打ち立てることでした。この問いへの通路としの ガ て、現存在の解釈学、実存の分析論にまず着手したのです。 現象学の方法を手助けに根源的なものヘ 実存の分析論という以上、実存は分析にたえる構造をもっことが含蓄されています。実存の儲 構造を構造としてとらえる手助けは、現象学的な見方に求められています。現象学は方法であ分 ります。事柄そのものへ、これがそのモットーです。現象をそれ自身に即して、それ自身が示存 現する通りに示現させ、示現する通りに見取ることです。現象とはここでは存在者の存在のこ とです。存在者に即し、また属してはいるが、さしあたって大ていは伏蔵されているもの、つ
参考文献 まえがきでものべましたが、実存主義の一般的な参考文献で手ごろなものは、そう多くあり ません。まず松浪信三郎氏の『実存主義』 ( 岩波新書一九六一 l) をあげます。つぎに引用文献表 が、飯島宗享・岩永達郎両氏により、ハイネマン『実存哲学・その生けるものと死せるもの』 ( 理想社一九六四 ) と訳されています。また、講座『現代の哲学』 ( 有斐閣一九五八 ) 第一巻『実存 主義』があり、現在刊行中の『実存主義講座』 ( 理想社一九六八以降 ) は完結すれば八巻となりま す。外国の文献からは、クーンの『無との出会い』 ( 一九五〇 ) 、グニッターマイヤーの「実存 の哲学』 ( 一九五一 l) の二冊だけをあげておきましよう。 一般的な参考文献のつぎは、おのおのの哲学者の一般的な研究書ですが、ハイデッガーは原 佑氏のハイデッガー』 ( 勁草書房一九五八 ) をあげます。サルトルは竹内芳郎氏の『サルトル 哲学入門』 ( 河出文庫一九五六 ) 、白井浩司氏の『「サルトル」入門』 ( 講談社現代新書一九六六 ) 、矢又 ースは林田新参 内原伊作氏の「サルトル』 ( 中公新書一九六七 ) がそれそれ特色があります。ャスパ 二氏の『カール・ヤスパ ース』 ( 塙新書一九六八 ) でしよう。シェリングでは藤田健治氏の「シェ リング』 ( 勁草書房一九六一 l) があります。キルケゴールは一般的なものが見あたりません。し
数えうる等質的な時間は、この有限な時間でない時間、かぎりのない時間です。有限な時 間、本来的な実存の時間から離れれば離れるだけ、このかぎりのない時間が支配します。とも かく在来の時間は、有限でない時間、かぎりのない時間であり、真の瞬機、持ちこたえと受け 取り直しという正しい持続としての有限な時間ではありません。 この有限な時間こそ、死を見越して覚悟している実存が、現在の状況へ立ち戻り、覚悟し これを引 て、自己が帰属する真の伝統、自己に固有の世界、自己を含めての共同体の運命 き受け、受け取り直すことの根拠であります。有限な時間が根拠であるからこそ、実存は有限 なのであります。現存在の存在の意味はかかる有限な時間性にあります。 現存在は存在者です。現存在の存在は実存です。実存の意味は有限な時間性です。実存が含 みかっ伴う存在了解もまた時間的な性格を免れえません。存在了解において開き示されている 存在は、ことごとく時間的な性格を免れないことになります。それゆえここから、現存在は有 限な時間性を存在の意味とするといいえます。 しかし、存在の意味は一般に現存在の有限な時間性であるといえるでしようか。それともた 存在の意味は時間であるということの地盤が獲得されただけでしようか。これに答えるこ とから『存在と時間』の後半は書きつがれる予定でした。しかし公約された形では出版されな かったことは、前にものべた通りです。 6