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検索対象: 実存主義入門
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1. 実存主義入門

キルケゴールは、信仰にまでいたろうとする実存のあり方を、主体性と内面の反省に訴えて ースは、信仰でなく、あくまでも哲学に訴えます。哲学的な 説き明かそうとしました。ャスパ 思考は実存開明を中核としています。実存開明によって明らかにされる実存と超越者との関わ ースのいう超越者は、 りあいは、哲学的な信仰ということにほかなりません。ともかくャスパ 一切の包括者の包括者とされております。 ースの実存開明と同じではありません。し キルケゴールの実存問題は、かならずしもャスパ かし私たちは、人間の存在は神の存在に基づくという、双方に共通な実存解釈を認めることが できます。そのかぎり、ヨーロッパの伝統のひとつであるキリスト教からへプライズムへとっ らなっている、神と人間との間柄についての思考から生まれた人間解釈であるということがで きます。人間を実存としてとらえ、実存は客体についての思考ではつくしがたいということ、 スも、甓 つまり実存は客体とは異なるあり方であること、これを明示したキルケゴールもャスパ る 実存の自己解釈に関するかぎり、伝統的な人間解釈の地平のなかに住んでいるということがでぐ を きます。いったいこれは実存にとって必然的なことでしようか。 存 実 ヨーロッパの伝統的な人間解釈に立っ しかし、キルケゴールにしてもャスパ ースにしても、神ないし超越者がはじめから与えられ

2. 実存主義入門

求め、超越者へ舵を向けようとしています。つぎに、実存とは人間の自己のことですが、それ は超越者と関わりをもつ者であるということです。後者の点では、キルケゴールの実存の把握 を思い出します。実際ャスパ ースは、実存哲学の近代的な根源をキルケゴールに認めていま す。ャスパ ースはさらにシェリングとニーチ工とを先行者にあげています。 ともかく現代の実存哲学のはじまりにおいて、実存哲学とは人間存在の哲学であること、こ の哲学はふたたび人間をこえ出ること、このことが宣言されています。 本来的な自己存在をさぐる実存開明 ャスパ ースのいう実存は、たんなる主観性のことではありません。それはまた、独我論的なの 自我の存在でもありません。それは自己存在です。しかしこの自己であることは、けっして対一 象としては認識されません。実存哲学が人間とは何であるかを知っていると信じるやいなや、 ~ 実存哲学はただちに失われてしまいます。実存哲学がその対象を固定してしまえば、もう実存一 哲学ではなくなります。実存哲学はそれがまだ知っていないものをたえずよびさまし、開明し ながら動いてゆきます。つまり人間とは何であるかに答える人類学や心理学や社会学などの科実 学的な認識冫 こまず方向を定め、それらの認識に即しながら、まだ現われていない本来的な人間 の自己存在へいたろうと努力します。

3. 実存主義入門

実存の道具としての理性の重視 ャスパ ースは『理性と実存』のなかで、理性は包括者のあり方の紐帯であると考えていまし た。しかし包括者そのものとは考えていませんでした。しかし「哲学的な信仰』 ( 一九四八 ) で は、理性とは私たちのなかにある包括者であり、それ独自の根源は全くもっておらず、実存の 道具である、といっています。実存の道具であるとはいえ、理性は包括者の一つとされていま す。 また『啓示に直面しての哲学的な信仰』 ( 一九六一 l) では、超越者を一切の包括者の包括者と合 よび、実存は包括者の地盤とされ、理性は包括者の一切のあり方の紐帯とされています。『理の 性と実存』では、実存と理性は私たち自身としての包括者の三つのあり方の地盤であり紐帯で一 あるとされていました。戦後のヤス。ハ ースは理性をもって私たちのなかにある包括者と見、し ス かも、理性は私たち自身としての包括者のあり方の紐帯だけでなく、むしろ包括者の一切のあ一 学 り方を結ぶ紐帯であると考えております。 ャスパ ースが哲学を理性の哲学とよびたいというのも、理性のこのような重視と強調に基づ実 いております。ャスパ ースは実存の立場をけっして放棄しません。しかし実存哲学から理性の ースの哲学 哲学へ、という強調点の転移はあるわけです。この転移を念頭に置くなら、ヤスパ

4. 実存主義入門

ていて、実存がそれから導き出されるのではありません。キルケゴールの場合、神の本質を客 体的な思考で認識する態度は退けられます。そして自己とは自分が自分自身に関わる関わりあ幻 いであります。自己の主体性の思考と反省が神へ関わる第一歩であります。この自分自身への 関わりあいが自己閉鎖的であって、それ以外の何ものをも認めないという状態、つまり絶望と いう形態を意識することによってそれを突破すること、そこにしか神への関わりは開きませ ん。神への関わりもまた、実存を通してであります。 こよっては全面的におおわれえぬ実 同じようにヤスパ ースの場合も、個別科学的な対象認識を 存の自己開明の度合いがたかまればたかまるだけ、超越者に直面する空間が確保されるわけで あります。実存が実存することを通して、実存の開明を通して、はじめて神ないし超越者が、 自己に対する者ないし自己を包括する者として、はじめてあらわとなります。 自己が本来の自己となり、可能的な実存が現実的な実存となるのは、キルケゴールにとって もャスパ ースにとっても、神の前に直面する単独者となり、超越者を自分の根源として確認す ースも、実存することを先導している実存的 る実存となることでした。キルケゴールもャスパ な了解は、人間は神によって人間となったというヨーロッパの伝統的な人間解釈なのです。 ースの実存の把握を自分のものにしようとすると したがって私たちがキルケゴールやャスパ き、かならずこの伝統的な人間解釈にぶつつかります。それはヨーロツ・ハの正統的な人間解釈

5. 実存主義入門

までおしつめていって、そういう解釈の成り立っ本来の姿をふたたびとりもどそうとするの も、実存の含みかっ伴う存在了解に基づきます。 ースの実存についての考えが、ヨーロツ。ハの伝統的な人間解 私たちはキルケゴールやャスパ 釈のひとつの典型ではなかろうかと考えてきました。実存としての人間の把握が伝統的な人間 ノイデッガーがいうように、実存の自己解釈が実存の含みかっ伴 解釈に基づいていることは、、 う存在了解に基づくと考えることによって、説明がっきましよう。キルケゴールもャスパ も、私たち人間が伝統や世のなかや既成の世界観や人生観から自分自身を了解する傾向がある ということを前提としています。この前提をも実存の構造から説き明かそうとしなければなり ません。そのかぎり、ハイデッガーが努力した実存の構造の実存論的な分析論のメリットはあ るといえます。 実存とは何かという間いに対して、私たちはもう一度ハイデッガーの実存の分析論にたちも どり、そこで実存の構造をくわしく調べ直す必要があると思います。 6 ハイデッガーとサルトルの人間把握 238

6. 実存主義入門

4 キルケゴールの実存とヤスパ キルケゴールの神・ヤスパースの超越者 実存哲学や実存主義に属するとされる多くの人々は、多かれ少なかれ、すべてキルケゴール の実存の把握に依存しています。私たちは前に紹介しておいた『死に到る病』第一編のはじめ ースの実存の規定は、 の、自己を関わりあいとしてとらえる反省を思い出しましよう。ャスパ キルケゴールの自己の規定の響きをつたえています。 『哲学』ではこういっています。 実存とは、自分を自分自身へと関わらせ、そして自分を自分自身へと関わらせることにおい思 て、自分の超越者へと自分を関わらせるものである。実存とは、けっして客体とならぬものでぐ を あり、それに基づいて私が思考し行為するものなのである。 ースも対象的な認識実 キルケゴールが主体性の思考と客体的な思考を分離したように、ヤスパ と実存開明とを分かちます。キルケゴールは神と人間とのあいだに絶対の質的な差別をおき、 ースは、実存は対象的に認識 なおかつ自己とは神から置かれた関わりあいだとします。ャスパ ースの実存

7. 実存主義入門

です。しかしここでは哲学をむしろ理性の哲学とよびたいとさえいっているのです。ャスパ スはいいます。 二十年ほど前に実存哲学について語ったとき、私はつけ加えていいました。新しい哲学、特 殊な哲学が取り扱われているのではありません。そうではなくて、ひとつの永遠な哲学が取り 扱われているのです。たんに客観的なものに迷いこんでいるこの時機にあたり、この哲学には キルケゴールの根本思想が強調されてよいのです。しかし今日では、私は哲学をむしろ理性の 哲学と名づけたいと思います。哲学のこの最も古くからの本質を強調することが緊急だと思わ れるからであります。もし理性が失われるなら、哲学そのものも失われてしまうのでありま合 す の ャスパ 1 スのこの言葉から、ヤス・ハ ースは実存哲学から理性の哲学へと転回したような印象一 ス を受けるでしよう。 ャ 学 理性を強調しつづける実存哲学 しかしャスパースは実存哲学を放棄したわけではありません。この講演でも、十五年前の実 『理性と実存』と同じように、理性とは制限されない交わりの意志とひとつのもの、とされて います。実存と実存との交わりは理性によって推進されます。したがって理性は実存の間の連

8. 実存主義入門

は理性的な実存の哲学であるという解釈が出てくるのも不思議ではないでしよう。しかし理性 ースの哲学は実存を地盤とする包括存在論であります。 は実存の道具であります。ャスパ ー 74

9. 実存主義入門

ハイデッガーのヤスパース評 実存思想が実存哲学とよばれるようにな 0 たのは、ドイツの一九二〇年代の終わりのことで した。まずハイネマンが、一九二七年にハイデッガーの『存在と時間』で展開された実存の分 ースは一九三〇年に、自分の哲学を実存哲学とよび、合 析論を実存哲学と批評しました。ャスパ さらに一九三二年の『哲学』では、実存開明を真正面に掲げました。前にものべましたがヤスの ース自身は一九一六年からキルケゴールの影響をうけ、一九一九年の『世界観の心理学』で一 は、人間存在をすでに実存ともよんでいました。一九二五年には、その第三版の序言で、実存 ~ ースの実存一 を体系的に開明する仕事を別の本にゆだねたいといっています。したがってャスパ 哲学の構想は、 ( イデッガーの『存在と時間』の公刊よりも早いわけです。ただし、『世界観哲 の心理学』は生の哲学の立場からの世界観論と受け取られていました。それを実存論的な分析実 6 として了解したのは、ほかならぬハイデッガーでした。 ースの『世界観の心理学』について、世界観を構成する態度や世界像 ハイデッガーはヤスパ 6 ハイデッガーとヤス。

10. 実存主義入門

あるからであります。私たちが普遍妥当的な法則性や真理を求め、また伝達できるのは、私た ちが意識一般という包括者であるからであります。 それでは、私たち自身としての包括者のあり方の開明で、事は終わるのでしようか。そうで はありません。ャスパ ~ いいます。「私たちがそれである包括者は、存在そのものではな い。そうではなく、存在そのものという包括者における現われである ( 見せかけではない ) 」。 私たち自身としての包括者は、存在そのものとしての包括者の方向を指し示しています。個 個の自然現象や、普遍妥当的な法則性や、理念に即してただ間接的にのみ現われるのは、世界 としての包括者です。それは私たち自身としての包括者に対しての存在そのものです。これに 反し、私たち自身としての包括者の根拠である存在そのものは、超越者です。 実存は自己存在の根源 それでは実存は、そして理性は、どこに位置し、どういう働きをするのでしようか。ャスパ 1 スは現存在・意識一般・精神という私たち自身としての包括者のあり方の根源を実存とよび ます。現存在や意識一般や精神は、世界のなかへ現われた場合、経験しうる現実として探究さ れえます。しかし実存はどんな科学の対象でもありません。それは自己存在の制約であり条件 であります。むしろ自己存在とは実存です。 0