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検索対象: 実存主義入門
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1. 実存主義入門

学んだフッサールやシェーラーやハイデッガー、またヤス・ハ ースなどからの影響なしには考え られません。ドイツの一九三〇年代の実存哲学が一九四〇年代以降のフランスの実存主義に影 響を与えているのです。少なくともフッサールの現象学とハイデッガーの存在論とが、サルト ルの対自と即自の差別と間柄のねばり強い分析の支柱となっています。そして対自存在の特質 である自由や超越や投企は、そのままサルトルの実存主義の実存の骨格となっています。 狭義の実存主義にこそ意味がある 私たちは自分の思考を実存哲学とよばうと、実存主義とよぼうと、あるいはよぶまいと、人 間の存在を実存とよぶ人の思考を実存主義と考えます。実存主義は批評の言葉ではありませ ん。思想を分類するときの記号でもありません。それは、可能態や本質態と区別された意味で の現実態、または可能存在や本質存在と区別された意味での現実存在などを、一般に思索の中田 ( 心に置く思想一般のことではありません。実存主義は、広くいえば人間の現実存在を実存とよぐ ぶ思想であります。これをもっと限定すれば、人間の現実存在を実存とよぶことを自分の思考を 実 の中核に置き、また置いた人のもっ思想であります。 ノイデッガー、ヤスパ この狭い意味では、キルケゴール、、 ース、サルトルなどの数人の思想 5 にかぎられてしまいます。こうかぎることは実存主義をせばめると思われるかもしれません。

2. 実存主義入門

であり、この体系の網の目には、どうしても現実存在、あるということは、はいってこないの です。普遍的で合理的で共通である本質は、ヘーゲルでは絶対の知として客体化されていま す。ヘーゲルは神をも、本質についての絶対の知として、客体化してしまったのであります。 シェリングはヘーゲルと異なって、個別的で特殊的な現実存在、それが現にあるという事 実、これから端的に出発しようとします。個的な現実存在から目を転じて、それらに共通な合 理的な本質だけをとりあげるのでは、いつまでも現実存在は説き明かされません。神の本質を 認識し、絶対の知にまで人間がたかまることは、生きた神を死せる神となすことであります。 神の現実存在こそ事実です。シェリングはこのように現実存在を思考の中心点にすえ、同時 に、この現実存在がもとづいている根拠をさぐっています。この根拠は、現実存在を、いわば 上からつつみこむ理念ではなくて、現実存在の根底にあります。シェリングは現実存在を導き あ 出すような理念や本質は認めません。現実存在は、いわばその根底にある根拠から発現したもの と のです。ですから現実存在とその根拠とを区別するわけです。 方 あ の 神こそすべての現実存在の根拠 さてシェリングは、ヘーゲルのような、普遍的であって共通の本質を対象とする哲学を、第 一哲学または消極哲学とよび、自分のように個別的な現実存在をその根拠から説き明かそうと

3. 実存主義入門

8 存在の意味は時間である 存在相互を区別するものーー時間性 ハイデッガーは存在論という立場をとっています。すくなくとも、いま問題としている「存 在と時間』においてはそうです。存在論は、存在するものごとの存在することを問題としま す。存在論の領野では、根源が強力であり、そこから発源したものは退化であり変質であると されます。根源とは存在者ではなく、超越としての存在であります。存在者と存在、発源した ものと根源とでは、身近なものと伏蔵されたもの、根拠づけられたものと根拠、意味づけられ たものと意味、導出されたものと原理という区別があります。 この区別は同等なものの差異ではありません。したがって、存在すること、実存すること は、存在者からそれら相互の区別の規準をうけ取ってはいません。それでは、存在すること相 互、実存すること相互を区別する規準は、どこに求めたらよいでしようか。 ハイデッガーはそれを時間、正確にいうと現存在の時間性に求めます。時間性は存在者では ありません。しかしまた、時間性は存在と等しいものでもありません。むしろそれは存在する ー 30

4. 実存主義入門

なぜ本質存在にさかのばらねばならぬか さて、実存を本質存在にまで還元して考えるとすれば、私たちは西洋の哲学のなかでくりか えしてでてくる、可能態と現実態、本質存在と現実存在という区別を筋道だてて考え、この筋 道をその根源〈とさかのばって考え直す必要があります。そしてこの必要は、ただそう考えら れてきたからそれをはっきりあとづける必要があるというだけではありません。むしろこのよ うな区別は、あるということは本当はどういうことをいうのか、という問いにささえられてい るのです。私たちは、あるが現にあるとおかれ、無や非存在にのそんでいることを認め、であ るやがあるといういい表わしで、いつも本当にあることにふれようとしていることを見てきま した。私たちが日常用いている、であるとがあるとが、それぞれェッセンティアとエクシステ ンティアとをさすというようには単純にいえません。ただ、であるやがあるは、真にあるに向 かおうとしています。西洋のエッセンティアとエグシステンティアの区別も、真にあることの あり方を問うて、この区別にいたっているのです。 あるの意味は、真にあることです。あるということはさまざまに語られます。しかし可能存 在であれ現実存在であれ、それらがみせかけや偽りでなく、真にあるあり方が問題なのです。 また、たとえ仮象や見せかけであれ、生成や消滅であれ、それらに固有のあり方とありようを

5. 実存主義入門

ースが「世界観の心理学』で精神または実存とよんだ無限なものとしての人間を、明確に 実存としてうけとり直そうとしたのは、一九二〇年代の半ばであり、その計画の最初の公表 ースの実存哲学に関するかぎり、実存という言葉がはじ は、右の第三版の序言でした。ャスパ めて登場するこの『世界観の心理学』こそ、実存哲学の実質的な誕生なのでした。 5 理性の強調 人間は包括者てあるということ ャスパースは『理性と実存』 ( 一九三五 ) で、実存は理性を欠いてはならないことを強調しま す。これと『実存哲学』 ( 一九三七講演、一九三八公刊 ) とで、ほばャス・ハースの人間存在の把握 がわかります。ャスパースは人間存在は個別科学の対象として認識されるものをいつも超えて いるといいます。『理性と実存』では私たち自身としての包括者と、存在そのものとしての包 括者という区別がなされています。 包括者とは私たちがどんな立場をとり、どんな視界をもっていても、それを端的に包囲し包 含してしまうものです。私たち自身包括者であり、それは現存在・意識一般・精神という特殊 ー 58

6. 実存主義入門

存在とその根拠とを区別しうるというわけです。この区別はいっさいの存在するものにあては まります。したがって、神もまた、現実存在とその根拠とを区別できます。 人間は神から創造されたものとされるかぎり、人間の現実存在の根拠は人間自身のなかにな く、神の現実存在の根拠のなかにあるとされます。神は現実存在とその根拠を、ともに自分の なかにもっています。神のなかにあって、神の現実存在とは区別されている現実存在の根拠の ことを、シ = リングは神のなかの自然ともよんでいます。したがって、人間の現実存在の根拠 は、神のなかの自然にあるとされるわけです。 シ = リングが現実存在ということを哲学の中心にすえたのは、大きな理由があります。当時 ヨーロッパで一番大きな勢力をもっ考え方はヘーゲルの体系でした。ヘーゲルでは、主体と客 体、思考と存在とが同一のものであるとされます。理性による思考は、思考されるものの本質 をまったくとりおさえ、概念としてつかみだしています。つまりこの合理主義の考え方にとっ ては、すべては普遍的な本質が概念としてつかみとられたこととなります。あるといわれるの は、理性によってつかみとられた本質なのです。ここでは、あるということ、現にあるという 事実は、とびこされてしまいます。すべてについて、普遍的であり共通である本質たけしか問 題となりません。 シェリングにとっては、この合理主義の体系は、普遍的で合理的な本質だけをすくいとるの

7. 実存主義入門

アリストテレスにおいて典型的に現われています。それ以来、存在者の存在は、時間のなかに あるかないかということが問題となります。そしてこのアリストテレス的な時間観は、今日に いたるまでの時間の解釈を貫いておりますし、また、存在者の存在を解釈するときの、ひとっ の枠組みともなっています。存在を区別するとき、私たちは、時間のなかにある時間的な存在 とか、時間をもたない存在とか、時間をこえた存在とかいいます。そしてこのときの時間解釈 は、右に見たような時間の本質に基づいています。 ここでハイデッガーの『存在と時間』の意図を思い出してみましよう。それは、存在の意味場 の とは何かという問いを、根本の問いとして提出していました。そして、既に見ましたように、 ガ この問いをたてる現存在の存在を、実存ないし関心とよんでいました。 それでは、実存ないし関心の意味とは何でしようか。それにあたるのが現存在の時間性であ るとされます。つまりハイデッガーは、現存在は根本的に時間的な存在であることを認めてい一 ます。そこで私たちは、まず現存在の時間性を考え、時間性が実存の意味であるとはどういう析 ことかを考え、さらにこの時間性が、前にのべたような通常の時間解釈とどういう差別があるの 実 か、この三つの点を簡単に見ることにしたいと思います。 有限な時間性こそ本来的な時間

8. 実存主義入門

ことの意味であります。存在することがそれに基づき、それに向かって了解されているもの、 つまり存在することの根拠にあたるものが意味であります。了解するものは現存在でありま す。了解されるものは、現存在の存在である実存、実存以外の手許存在や手前存在、実存の住 む世界などです。しかし時間性は、了解するものでも了解されるものでもありません。むしろ 存在を了解する現存在の、存在の根拠であり意味であります。現存在の存在は、実存であり関 心でありますが、実存と関心の意味にあたるのが時間性です。 時間性は現存在の存在の意味です。このいいまわしを明確にすることで、ハイデッガーの場 「存在と時間』の考察を終えたいと思います。 ガ デ 時間は「今」の連続した流れてある 昔から時間は存在するものごとを区画する枠組みのように考えられています。時間のなかに一 存在しているものごとに対して、時間を超えた存在とか、時間をまるでもたない存在とかが説 かれています。時間のなかにあるかないかが、存在の大きな区わけとなっています。時間と永の 実 遠とが区別されています。 時間は、これまで大てい、今から今への連続と考えられています。現在は今であります。過 去は過ぎ去った今であり、将来はまだきていない今です。今から今への連続が時間であり、立

9. 実存主義入門

か、その区別はどこに根拠をもち、どの程度まで区別しうるか 思想にとり、課題という意義をもっています。 存在的と存在論的 いまのべたように、実存的と実存論的の区別は、存在的と存在論的の区別に対応して考えら れており、存在者に関わる態度が存在的であり、存在者の存在に関わる態度が存在論的であり一 ます。存在者を存在者として規定するものは存在です。存在者と存在とは同次元ではありませ場 ん。存在者からすると、存在は超越であります。したがって、与えられた事実としての存在者一 に関わる広義の経験的な態度を存在的と考え、この経験を成り立たせている本質的な制約な , り、根源的な条件なりに関わる超越論的な態度を存在論的と解してもよいでしよう。そう考え ますと、実存的とは、存在者つまり現存在に関わる態度であり、実存論的とは、この存在者の一 存在つまり実存に関わる態度であるということができます。 前にも > いましたが、・ トイツ語のエクシステンツィエールとエグシステンツィアールは、どの ちらも実存の形容詞です。ことに後者には、日本語で実存論的というときのロゴスないし理論実 を示す意味あいはまずありません。実存論的と訳すのは存在論的という言葉の意味にあわせた 5 からです。また存在的というのも、ギリシア語で存在者を示すオンからの造語です。 この吟味は現在でも、実存

10. 実存主義入門

との区別は、前者の根拠を後者のなかに求めることになります。この区別はキリスト教神学の 思考の仕事でしよう。しかし、生きた神はただ信仰にとってのものです。 2 キルケゴールの実存問題 なぜキルケゴールは実存思想の開祖か 実存哲学でいう実存は、現実存在を一般に思考するのではありません。それは人間の現実存 在をめぐる思考です。そして思考という境地でしか、実存を関わりの的としません。もし信仰 の場面へ実存を移し、神の実存の信仰を告白するとすれば、それは哲学の範囲をこえるでしょ う。実存をめぐる思想は、ひろく解するなら、このような神の実存の信仰告白をも包括しまし す。しかし哲学としては、あくまでも人間の現実存在をめぐっての思考にかぎらなければなりぐ ません。この制限のもとで、やはりキルケゴールこそ、現代の実存思想のはじまりであるといを うことが確認されます。 もちろん、キルケゴールにおいては、教化的な著作と哲学的な著作とが、そうはっきり区別埠 できるかどうか問題です。しかし人間の存在を実存としてつかまえ、実存のあり方を内面から