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検索対象: 実存主義入門
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1. 実存主義入門

人間のあり方を問い抜く しかしハイデッガーの意図は、存在の意味とは何かという問いを、一切の存在論の根本の問 いとして提出し、それを問い抜くことでした。ハイデッガーの実存問題の提出は、存在の意味 とは何かという存在への問い、存在問題の枠組みのなかではじめて意味があるのです。現存在 の存在を、実存ないし関心へ、その意味としての時間性へ、というように根源なり根拠なりへ 還元してゆくのは、存在の意味を時間という地平に求めるための地ならしでありました。です から『存在と時間』を中心として一九二〇年代に公刊されたハイデッガーの著作は、すべて、 存在とは何であるかに答えるための、存在の意味とは何であるか、という存在への問いを問い 抜くためのものでした。 ハイデッガーは、一切の解釈、とりわけ時間の解釈は、当時の神学界で華々しく登場してき た弁証法的神学とも、また中世以来の伝統的なスコラ哲学とも何ら関わるところはないと明言 しています。ハイデッガーはたしかに、現存在の存在に実存という名前を与え、また実存の不 本来態としてのひとの分析において、キルケゴールの実存の感性段階の特徴づけと酷似した特 徴づけを遂行してはいますが、キルケゴールがしたように、真のキリスト者となる方向へ人を 教化することとは何の関わりもありません。ハイデッガーは、現存在のあり方を、つまり実存 ー 38

2. 実存主義入門

なぜ本質存在にさかのばらねばならぬか さて、実存を本質存在にまで還元して考えるとすれば、私たちは西洋の哲学のなかでくりか えしてでてくる、可能態と現実態、本質存在と現実存在という区別を筋道だてて考え、この筋 道をその根源〈とさかのばって考え直す必要があります。そしてこの必要は、ただそう考えら れてきたからそれをはっきりあとづける必要があるというだけではありません。むしろこのよ うな区別は、あるということは本当はどういうことをいうのか、という問いにささえられてい るのです。私たちは、あるが現にあるとおかれ、無や非存在にのそんでいることを認め、であ るやがあるといういい表わしで、いつも本当にあることにふれようとしていることを見てきま した。私たちが日常用いている、であるとがあるとが、それぞれェッセンティアとエクシステ ンティアとをさすというようには単純にいえません。ただ、であるやがあるは、真にあるに向 かおうとしています。西洋のエッセンティアとエグシステンティアの区別も、真にあることの あり方を問うて、この区別にいたっているのです。 あるの意味は、真にあることです。あるということはさまざまに語られます。しかし可能存 在であれ現実存在であれ、それらがみせかけや偽りでなく、真にあるあり方が問題なのです。 また、たとえ仮象や見せかけであれ、生成や消滅であれ、それらに固有のあり方とありようを

3. 実存主義入門

であるナポレオンについても、まだきていない一九七二年についても、私たちは、真であるあ り方ないしありようを、であるという形でのべうるのです。つまり私たちは、真に、本当に : があるということを手びきとして、現実存在にふれているばかりでなく、真に : : : である を手びきとして、現実存在よりもひろく存在というものを考えうるでしよう。 とにかく、あるという言葉は、私たちのだれでも、またいつでも、使わないことはありませ ん。しかしこれほど使われながら、これほど反省されない言葉もありません。あるが問題とな るのは、あるか、ないか、これが問題となるときです。そのときこそ、あるの意味が問われて います。そしてそのときは、無ということ、非存在ということが、あるをおびやかすときなの です。あるの本当の意味が反省されるのは、無が経験されるときなのです。 3 「ある」の可能態と現実態 「あり、つる」と「ある」 ある、存在する、これは平凡きわまりない言葉です。しかし、真にある、本当に存在する、 これを反省するとなると、たちどころに大間題となります。私たちが現にある、現に生きてい

4. 実存主義入門

ッガーの実存的と実存論的の区別が、いまだに実存をめぐる哲学にとって課題であるように、 サルトルの実存主義の主張がはらんでいる哲学的な方向も、さらにその方向を掘りさげてゆく 必要があります。 自由こそすべての価値の基礎 ノの実存主義は無責任な不道徳を教えるものではありません。これまでのべてきまし たように、個人的な行為でも全人類を拘東するのであります。これはもちろん事実問題として ではありません。カントのいい方を借用すると、権利問題としてであります。 ノ ~ ししよす・ 人間は自分を作ってゆくものであります。はじめからできあがっているものではありませ ん。人間は自分の道徳を選択することにより、自分を作ってゆきます。この道徳の基礎となる のは自山であります。自由こそすべての価値の基礎であります、と。 そして自由は、私の自由を目的とするだけではありません。他の人間の自由をも目的として います。人間とは本質が実存から先立たれる存在であります。人間とはさまざまな状況のなか で、自分の自由を欲しないではいられない存在であります。そのとき人間はまた他の人間の自 由をも欲しないではいられません。 ー 92

5. 実存主義入門

る、これはだれでも疑う余地のないことです。しかし、私たちが現にあるありようが、真のあ りようであるかどうか、私たちの生き方が本物であるかどうか、これは私たちの各自に課せら れたことではないでしようか。この問いをつきつめてゆくと、私たち自身の現実存在そのもの ・、、いったい何であるのか、何でありうるのか、疑問となります。 それゆえ、いま問題としている「ある」の意味は、たんにあること一般の意味の問題だけで はなく、われありのわれ、この私自身の存在の意味として、やがて具体化してゆきます。もう しばらく、あるの様態を見ることにしましよ、つ。 アリストテレスは、存在するものごとは多様に語られる、といいました。存在するものごと は、多様な意味あいでもって、しかもひとしく存在するといわれます。アリストテレスはそれ をいくつかにわけてその理由を説明しました。ここでは、存在するものごとが存在するという ことは、可能態と現実態として説明できるということだけをとり出します ( 可能態というのは、まだ具体的な姿や形をととのえておらず、姿や形をうけいれうる能力とは と 素地にとどまっている潜在状態のことです。それが具体的に形をとり、姿をととのえ、実現さ れていって現実態となります。可能態とは潜勢の状態であり、現実態とは顕現の状態でありまあ す。そのかぎり、存在するということは、可能態という潜勢状態にも、現実態という顕現状態 にも、どちらにもいえます。しかし可能態から現実態へと実現し顕現する働きこそ、まさに存

6. 実存主義入門

うと、なおざりにしようと、現存在はそのつど自分自身を決めています。 実存問題はいつでも、実存することによってのみ決着がつけられます。ひとから自己への転 化は、実存がっかみとられたことです。自己からひとへの頽落は実存がなおざりにされている ことです。実存の様態は実存することによって変容します。実存することを先導する了解は、 実存的な了解とよばれます。 場 実存的と実存論的 ふたたび実存的と実存論的という区別に立ち帰るときがきました。実存的も実存論的も、と一 もに実存という名詞から出た形容詞であり、ドイツ語としては等義です。しかし、ハイデッガ , ーは区別して使います。 実存の存在論的な構造を理論的に透察すること、つまり実存の実存論的性格についての了解→ / イデッガーの存在的 (ontisch) と存 が実存論的な了解とよばれます。実存的と実存論的は、、 在論的 ( on ( 0 一 0 ch ) の区別に対応するといえます。存在者に関わる態度は存在的、存在者のの 存在に関わる態度は存在論的とよばれます。ハイデッガーは、キルケゴールの実存問題の提出実 は実存的であるといいます。実存の問いを実存することで決着をつけるのは、現存在の存在的 0 な心がけのひとつであるともいいます。

7. 実存主義入門

アリストテレスにおいて典型的に現われています。それ以来、存在者の存在は、時間のなかに あるかないかということが問題となります。そしてこのアリストテレス的な時間観は、今日に いたるまでの時間の解釈を貫いておりますし、また、存在者の存在を解釈するときの、ひとっ の枠組みともなっています。存在を区別するとき、私たちは、時間のなかにある時間的な存在 とか、時間をもたない存在とか、時間をこえた存在とかいいます。そしてこのときの時間解釈 は、右に見たような時間の本質に基づいています。 ここでハイデッガーの『存在と時間』の意図を思い出してみましよう。それは、存在の意味場 の とは何かという問いを、根本の問いとして提出していました。そして、既に見ましたように、 ガ この問いをたてる現存在の存在を、実存ないし関心とよんでいました。 それでは、実存ないし関心の意味とは何でしようか。それにあたるのが現存在の時間性であ るとされます。つまりハイデッガーは、現存在は根本的に時間的な存在であることを認めてい一 ます。そこで私たちは、まず現存在の時間性を考え、時間性が実存の意味であるとはどういう析 ことかを考え、さらにこの時間性が、前にのべたような通常の時間解釈とどういう差別があるの 実 か、この三つの点を簡単に見ることにしたいと思います。 有限な時間性こそ本来的な時間

8. 実存主義入門

ます。ハイデッガーの実存問題の提出の鍵は、実存の存在了解にあります。 4 存在了解 存在するものごとと存在的な態度 存在了解についてはこれまでもふれてきましたが、ここで改めて考え直しましよう。私たち は「 : ・・ : である」とか「 : : がある」とか「 : : がいる」とかい、フいい亠刀で、あるときははっ きり、あるときは漠然と気分的にではありますが、人やものごとが存在することをいい表わし ます。たとえば眠っているとか働いているというとき、活動態であるかないかがわかっていま す。存在することのあり方は昔から間題とされ、さまざまな名前がつけられ、さまざまに語ら れています。 私たちは、存在するものごと、つまり存在者について、それが存在することがわかっていま す。 ただしこのわかり方は、概念として明確にとらえられていないことが多いといえましよう。 確信をもって「・ : ・ : である」と断定するときもありますが、本当にそうであるかと問いかえさ 0

9. 実存主義入門

ればなりません。 ところが実存としての考え方は、すべて私たちの精神的な風土から生まれたものではありま せん。私たちはさらに、私たちの状況のなかで生きてゆかなければなりません。私たちが私た ちの状況のなかで、何が現にあるのか、何が本当にあるのか、と問い求めてゆくかぎり、私た ちは私たち自身の実存から出発しているのです。 それでは、私たちの実存としての生き方は、私たち自身の状況のなかで形成されてゆくので あって、よその風土で生まれた実存についての考え方は不必要なのではないでしようか。 まず実存についての考え方は、たしかにまだはじまったばかりのものです。そもそも実存を たえまのない超越や投企とみなすかぎり、実存についての考え方の完成をまってこれを自分の 生き方に適用しようとする考えは矛盾しています。さらに実存はいつも事実や所与を離れられき ません。それどころか、投企された目標や目的自身が、やがてまた所与や事実のなかにいつもと え くりこまれてきます。 こうした構えそのものは、私たちの精神的な風土であろうとなかろうと、人間に共通な構えの のものであります。むしろ問題は、立ち出でるとか、超越するとか、投企するとか、そういう実 構えをもっ実存が、人間の本質として、これまでとらえられたことのない精神的な風土そのも のにあります。

10. 実存主義入門

キルケゴールの実存問題の提出は実存的である、とハイデッガーがいうのは、実存すること がかならず特定の可能態の了解のもとでの活動であることを明確に意識して分析していないこ との指摘です。実存問題が実存問題として明確となるためには、まず実存を、人間の存在の固 有態としてとらえねばなりません。つぎに、 この実存を存在論的に解明しなければなりませ ん。いきなり、人間とは実存であり、単独者であり、主体であり、自己であるとして出発する ことに先立ち、また、実存することをある理想に従ってそれへと向けて導くことに先立って、一 実存こそ人間の固有態であり、人間を人間に規定するものであるということ、実存という人間場 の存在が道具や物の存在と異なること、これが先にとらえられていなければなりません。実存一 することが、ある実存的な了解によって先導されることの根拠は、実存が特定の可能態の了解 をもっことに由来することをつきとめていなければなりません。 したがって、実存的な了解とは、現存在が現存在として存在するかぎり、既に与えられてい一 る特定の可能態の了解と解釈できます。実存論的な了解は、現存在がもっこの了解の事実を、臨 現存在を規定する実存の性格としてとらえることです。実存論的な了解は、現存在が事実としの てもっている実存的な了解を、実存の構造から説明することです。現存在の自己了解を、たん実 に事実にとどめないで、現存在の固有な存在としての実存から根源的にとらえ直すことです。 9 実存的と実存論的の区別という問題の中核は、ハイデッガーのいう存在了解の性格に帰着し