頽落 - みる会図書館


検索対象: 実存主義入門
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1. 実存主義入門

であり、意味をなすものは、おもて立たない所にひそむからです。しかし、まれではあるとは いえ、私たちはこの頽落から身をひき離すことができます。この頽落に反して根源を受け取り 直すことができます。不本来態は本来態がおおわれたものだからです。 ともかく、現存在は、自分自身を世のなかから、伝統から解釈する傾きがあります。既に成 立している世界観や人生観から自分を解釈する傾向があります。頽落はこうした傾向を説明で きます。頽落は現存在の構成契機のひとつです。 頽落とならんで現存在を構成する契機は、事実態ないし被投態といいます。事実態とは、現 存在がある特定のあり方を存在しなければならず、ほかのあり方を存在しえないという状態を いいます。私がどこから来てどこへゆくのかは、信仰に訴えないかぎり、現存在の引き受けね ばならないあり方として見るかぎり、あるあり方に投げこまれた状態であります。誰が投げた のかわかりません。私の存在には、私が私として存在せざるをえないという被投態が属してい ます。 現存在の被投態や事実態をも 0 ともよく示すのは気分です。気分は、ある受動と感受の情態 です。何ということなしに気分に襲われます。気分は、そうした事実態と被投態としての、あ る情態を開き示しています。根本の気分は不安でした。不安こそ単独の自己という現存在が引 き受けねばならぬ根本の事実態と被投態を開き示します。気分は現存在の事実存在を開き示し

2. 実存主義入門

あた き投げられ、自己であり能うかいなかという、あれかこれかに迫られるときなのです。 それでは、日常態の現存在は自己ではないのでしようか。不安が開き示すような単独の自己 は眠っています。事実としてあるのは、ひととしての自己です。ひととしての自己とは、単独 な自己へと集注していない自己、自己だけに固有な世界に住まずに、世のなかに埋没している 自己、公開態や日常態へと拡散し、忘失した自己といわなければなりません。むしろ、こうし たひととしてのあり方に外れはしないか、それが気がかりなのです。世のなかでひとなみに生 きてゆくために必要な道具の調達に気をかけます。共同の現存在とのつきあいやならわしに気 をくばります。世のなかのひとと異ならないように気づかうのが日常態の現存在のあり方で す。それは、現存在の頽落というあり方です。身近な世のなかへの、世のなかの身近な存在者 目 への頽落です。 注 頽落とは一つの動きです。どこから頽落するのでしようか。根源的なものからです。どこへの 頽落するのでしようか。派生的なものへです。本来態から不本来態へ、自己からひとへです。方 自己とひととは同じ現存在のあり方の転化なのです。根源的なものは、水源である以上、たえあ ずおもて立っ傾きをもちますが、おもて立ったときは根源的な意味あいをなくしてしまいます。 人 しかし頽落は人間の現存在のあり方を構成する契機です。私たちはさしあたって、大ていの場 合、根源的なものから派生したもの、頽落したものに身を任せています。根源的なもの、根拠

3. 実存主義入門

実存するとは現存在が存在すること 「存在と時間』の大半は、現存在の実存することの分折にささげられています。実存すること は、各自の可能態を実存することです。各自の可能態の最終の法廷は死であります。実存とし ての可能態は、死において絶対の差別相ないし単独化に臨みます。これに対し、分析の出発点 は、実存することの無差別相である日常態です。日常態ないし平均態としての現存在は、実存 することも一様であり、平均的であります。 日常態は身近です。身近なものは熟知されています。身近で熟知されたものは、私たちにと 場 の って先立つものです。しかし、事柄の本性からいえば、先立つものではありません。 ハイデッガーは考察の出発点を、さしあたって大ていのあり方、身近で熟知されたあり方にガ おきます。 実存することは、すべてこの日常態から立ち出でてゆき、また日常態のなかへと立ち帰ってき ( ます。日常態の現存在も、実存しています。ほかのひとと異ならないようにと自分を気づかっ論 分 ています。単独の自己から目をそらし、本来の自分を忘却するとはいえ、やはり実存していま の す。死の終末を覚悟した単独の自己も実存しています。不本来態のひとから本来態の自己への存 転化も実存することであり、自己を見失って、ひとへと頽落し転化するのも、やはり実存する ことであります。前にのべた、現存在の事実態ないし被投態、投企ないし実存態、頽落ーーーこ

4. 実存主義入門

をはじめて先導できるのです。実存的な了解は、そのつど、いつも実存のある特定の可能態の 投げ開きであります。この事実は、実存のもともとの構造としての被投的投企によって解明さ れます。 本来的と不本来的との区別の根拠は : ・ それでは、日常態のひとは頽落の姿であり、根源からの派生態であり、単独の自己こそ実存一 の根源態である、というハイデッガーの主張は、被投的投企というもともとの構造から解明で場 の きるでしよ、つか。 日常態のひとも単独の自己も、いずれも実存のある特定の可能態を示しています。ひとも自 , デ 己も、存在と実存についてのある特定の姿の了解を含みかっ伴っています。実存の日常態とし てのひとも、実存の根源態としての単独の自己も、現存在の存在としての実存の様態であるこ一 とには変わりありません。ハイデッガー自身、ひとと自己とは、ともに実存の様態の転化、つ まり変容である、とのべています。ところで前にのべたように、日常態のひとは不本来態とさの れ、単独な自己は本来態とされていました。 したい一致し、フるでしよ、つ ひとも自己も実存の様態であるという考えとこの考えとは、 、。不本来と本来との区別はどこに由来するのでしようか。日常態のひとこそ本来態であり根

5. 実存主義入門

うと、なおざりにしようと、現存在はそのつど自分自身を決めています。 実存問題はいつでも、実存することによってのみ決着がつけられます。ひとから自己への転 化は、実存がっかみとられたことです。自己からひとへの頽落は実存がなおざりにされている ことです。実存の様態は実存することによって変容します。実存することを先導する了解は、 実存的な了解とよばれます。 場 実存的と実存論的 ふたたび実存的と実存論的という区別に立ち帰るときがきました。実存的も実存論的も、と一 もに実存という名詞から出た形容詞であり、ドイツ語としては等義です。しかし、ハイデッガ , ーは区別して使います。 実存の存在論的な構造を理論的に透察すること、つまり実存の実存論的性格についての了解→ / イデッガーの存在的 (ontisch) と存 が実存論的な了解とよばれます。実存的と実存論的は、、 在論的 ( on ( 0 一 0 ch ) の区別に対応するといえます。存在者に関わる態度は存在的、存在者のの 存在に関わる態度は存在論的とよばれます。ハイデッガーは、キルケゴールの実存問題の提出実 は実存的であるといいます。実存の問いを実存することで決着をつけるのは、現存在の存在的 0 な心がけのひとつであるともいいます。

6. 実存主義入門

発源は退化なのです。現存在の存在の存在論的な根源は、そこから発源した一切のものを、カ り、・つ嚇 の点で凌駕しています。根源は強力であって、一切をそこから発源させます。しかし、発源し たものは退化し、変質し、頽廃してしまいます。根源は自己自身を被覆し伏蔵することになり ます。したがって根源は、そこから発源した派生態にさからって闘い取られなければなりませ ん。ハイデッガーの存在論は、右のような考えを前提としています。現存在の実存論的な分析 論はこの前提から支えられています。 根源的な真理の内容とその範囲 ハイデッガーは明確に認めています。もしも実存的な了解がないとすれば、実存の構造、つ まり実存論的な性格の一切の分析は地盤のないものであります。 さて、日常態は頽落であり、不本来態であるとされています。また、本来態は死という終末一 に向かう覚悟をきめた単独の自己であるとされます。これらは、根源からの一切の発源は退化 であるという主張と関わりあいをもっています。こうした考えは、、 ノイデッガーにとっての実の 存的な了解の内容であり、範囲であると考えられます。ハイデッガーは、実存論的な分析の真実 理は、根源的な実存的な真理に基づいて形成されるといっています。根源からの発源は退化で 2 あること、存在者の存在は超越であること、現存在の存在の超越には、現存在が最も徹底的に ハイデッガーの場ロ

7. 実存主義入門

はどこに求めたらよいのでしようか。現存在は、事実態ないし被投態、投企ないし実存態、頽 落という三つの契機をもちます。これら三つの契機は、すべて平等に現存在が存在することを 構成する、とハイデッガーはいいます。したがって、現存在という存在者の存在は、投企ない し実存態という側面だけに求めてはなりません。ハイデッガーは右の三つの契機をひっくるめ て関心と名づけました。現存在の存在は関心です。それでは、この関心が実存ということで しようか。それとも、投企が実存態といわれる以上、投企するというあり方だけが実存の名に 値するのでしようか 現存在が自分をそれへとあれこれ関わらせることができ、またいつもある仕方で関わらせて いる存在することそのことを、私たちは実存と名づけます。ハイデッガーはこういいました。 この文章を手がかりとして、いったい現存在と実存とはどうつながっているのか、もう一度考目 の え直して見ましよう。 へ 方 あ の

8. 実存主義入門

であります。現存在が存在しうる可能態を裁く法廷は、死よりも高次なものはありません。 7 実存論を先導する理想 かくれた根源態とそこから発源したもの ハイデッガーにとって実存することを先導している、実存の自 私たちは、今こそようやく、 己解釈が示される言葉にゆきあたりました。「現存在が存在しうる可能態を裁く法廷は、死よ りも高次なものはない」この言葉はハイデッガーにとり、現存在の事実的な理想という意味あ いを含んでいます。「死へ先行して覚悟をきめている実存こそ本来的な実存である」という主 張は、現存在は、自らを被覆する、という現存在に固有な傾きをもっているという主張や、現 存在は頽落という動きを示しているために、現存在の存在は自らを被覆してしまう傾きにさか らって闘い取られなければならないという主張と関わりあいをもっています。日常態が不本来 態とされることも、本来態と根源態とは被覆され伏蔵されているという主張に基づいていま す。 身近でおもて立ったものは、根源から発源したものです。しかも存在論の領野では、一切の 6

9. 実存主義入門

ます。 現存在が存在することは、頽落して存在すること、事実態ないし被投態として存在すること 」、つい、つ でした。世のなかにもたれかかり、あるあり方へと投げられた事実を生きること 受動的で事実的な生き方のほかに、現存在の存在する仕方はないでしようか。人間の生き方は もっと積極的ではないでしようか。現存在の積極的で能動的なあり方はないでしようか。ここ に投企という重要なあり方がでてきます。 能動的なあり方・投企 事実態や被投態というあり方を開き示すのは気分でした。投企というあり方を開き示すのは 目 了解です。私たちは了解したときわかったといいます。わかったということは、それができ 注 る、それをなし能うという意味を含みます。了解は可能態の了解です。可能態の了解とは、可の 能態の投企ということです。私たちは、たとえ事実上かぎられた可能態であっても、ある可能方 態を投企します。可能態を投企するとは、可能態を可能態として了解し、可能態として存在せあ しめることです。 人 投企するとは、計画し設計し構想することをすべて含みます。現存在は、事実態と被投態と いうあり方において、存在者の唯中に投げこまれています。この投げこまれている情態が気分

10. 実存主義入門

まず現存在の時間性は、実存の構造の分析からわかるように、有限な時間性です。死という 終末〈向かう実存、死の可能態を見越して覚悟をきめている実存ーーこの本来の自己において こそ、現存在の存在の意味である有限な時間性が読みとられます。終末を見越して覚悟をきめ る実存は、覚悟をきめることによ 0 て現在の状況〈、行為の状況〈と立ち戻ります。現在の状 況、行為の状況への立ち戻りとは、出発点であった日常態のひとへと再び頽落するのではあり ません。覚悟して、日常態のひとには被覆されていた伝統と世界の真相を受け取り直すので す。 現在の状況〈の立ち戻りは、現存在が帰属する諸世代の、伝統の、遺産の受け取り直しを意 味します。覚悟して、自己が帰属する共同体の運命を引き受けるのです。有限な時間性は、終 末という将来を見越して、現在〈の到来であり、現在〈の覚悟した立ち戻りであり、過去の積 極的な受け取り直しであります。有限な時間性こそ本来的な時間です。本来的な時間において は、将来とは現在〈の到来です。現在とは過去の受け取り直しです。現在〈と到来しつつ、過 去を自己固有のものとして受け取り直し引き受けること、これが現存在の時間性です。 実存の有限性は時間の有限性に基づく 現存在の存在としての実存の本来態は、右のような時間性を根拠にしています。それゆえ実 ー 34