ているとき、お互いの対立部分は見事に相補性を発揮している。しかし、その目標が達成され たときに、危機が訪れる。共通目標を失った対立部分が、次には敵対的にはたらきはじめるか らである。いわゆる中年の危機であるが、このような点に関しては、 9 章に詳述する。 一番最初にあげた例にしても、実のところ、娘夫婦の離婚間題として相談に来ている母親の 夫婦関係も、本当はその時期に間題にされるべきことを、私は感じとっていた。 簡単に言って しまえば、この夫婦はいわゆる安定型の夫婦として、互いの間に発展性を掘り起こす努力はせ ず、むしろ娘の成長に期待していたのだった。従って、娘の良縁は嬉しいことでもあるが、淋 しいことでもあった。実家に逃げ帰ってきた娘を抱えて、離婚してしまえという父親は、そこ に娘を取り返した喜びをも感じていたのである。しかし、実のところ、この父親のなすべきこ とは、娘に対して抱くだけの感情の流れを妻の方に向け、そこに新しい夫婦関係の発展をはか ることにあった。娘の結婚の破綻は、両親の夫婦関係の在り方に対する批判でもある。夫婦関 係の間題は、子どもの間題として顕現されることが、実に多いのである。このようなとき、娘 の夫の家族を非難してばかりいるよりも、自分たちの夫婦の在り方を検討してみる方が、間題 解決は・早いものである。 の 男と女の相補性の次元は極めて深く、おそらくそれを知りつくすことは不可能であろう。そ却 れ故にこそ、われわれは唯一の異性を相手として一生をすごすことができるのである。最初に
れることが多い。恋愛の場合、先に「のばせ」と書いたことは、将来の発展の可能性に対する 無意識的な予感とも言えるわけだから、相補性によって揺り動かされているのだが、そこには 維持機能を担う面について思慮がはたらきにくいのである。ところが、われわれが実際に夫婦 にお会いしてみると、多くの場合、見事な「選択」が行われていることに驚かされる。見合結 婚の場合でも、それをすすめた人はもちろん、当人たちも最初は気づいていなかった相補性が 存在していることが多いのである。あるいは、恋愛結婚の人が相手の美点を数えあげ、両性の 「意志」によって結婚したと思っていても、当人たちの知らぬところで相補性がはたらいてお 後になって、それが りーーそれこそが二人をのばせあがらせた原動力かも知れないのだが 意識されてくると、問題となって離婚の原因とさえなってくるのである。 個性の実現 夫婦関係における相補性について説明するために、離婚の相談に来られる夫婦に次のような 話をすることがある。夫婦というものは、川の中の二本の杭であり、夫婦の関係はその間に網 を張るようなものである。近くの杭を選んだ人は網は張りやすいが、魚の収穫は少ない。遠く の の杭を選んだ人は、網を張るのに苦労するが、張 0 てしまうと魚の収穫は多い。あなた方は欲 張って随分遠くの杭を選び、間に網を張るのを放棄しようとしておられるけれど、将来の収穫
と見揮所 と例 勿 、要た婦 いを 乢な は て係 はれ た所 、を ラ少生め ス遊 はわ 、せ多こ イ系 , の相 と反 の部 保せ の対 。多 並的 の 、力分を で生 方個 々失 の少 る = い発 ど う家 るれ存活 の冷 父関補が在態 し あ′ た的は能 な度 さ強 も のな 力や て必的で 占 る敵 え通 が柄 し要ば部土対 る上 か 立子 どお れ俗て通 る にれ で 韭 勉か 通 、切盤れ ヌ寸 分 にあ 立関組必 でれ 対ろ に現 つ実性も る 配見 で男 部み持せ 夫効あ性 が結 払婚 のを 少大 わ 思発長性 、に 韭 係通関 の て財た 産 家 丿虫 ( 習 の慣ま な 、ど の も の い と き の 維分は通部 持は魅部分 を し、 い も の と っ し フ オょ が 分 並 対 も あ く 。多 は 分 韭 る く が 局 破 弱 が 韭 る ん そ と し す る そ 、と展分 め に 必 し い の で あ 0 て対を 分 が 拡 き れ必保夫防 れ し、 の で あ る も っ し に 夫 て婦対 は るそ部 丑 通 ク ) の た ノ ) に 関 の 白 い と 。ろ で あ そ の析れ機す 韭 と 立 の分共 と の る部適地そ な 、部係み要壊 ム の維わす到 に よ て た め に そ ' 対補 を 建 双 。的 に せ 分台関 と し て の を と る つれれ が ぐ対切 る の が に た ら か し、 イ系 に な 、る と キ は イ皮 に る を 適 ハ が た て い る の で 、る親 も っ ば る へ き と い フ れ は 対 あ る よ フ だ が 並 し て い る か ら そ 、対す 並 が る い だ現在 象 と も し し る も も つ と 、強 せ よ つ と す 母 と を も っ い 面 に な る を ぎ よ り の柔て き事軟あそ い的格 な 婦カれ る の イ に よ を 、要 と 。す る は 何 柄 て あ げ た れ は ど の し、 て も る し も 、そ と 、女 観 生 オよ っ よ の あ そ的生 。補や る相観 て点人 の く の も っ
至るのが、ひとつの典型例であるとすると、結婚後数年というところにも、ひとつの節が存在 するようである。俗に七年目の浮気などと言われたりする。このような現象は「熱烈な」恋愛 結婚をした人に生じやすいようである。 このような夫婦にお会いすると、ガソリン切れの自動車のように、「のばせ切れ」の現象を 起こしていることが解る。恋愛というものは不思議なものである。それは互いに抗し難い強力 な相ひき合う力を感ぜしめ、その本質については当人たちも不可解である。 七年目の危機を迎えた夫婦にお会いして、よく聞く言葉は「なぜあんな相手を選んだのか、 自分でもわけが解らない」とか、「こんなに人間が変るとは思いもよらなかった」とかいうこ とである、しかし、よく聞いていると、なかなか良い相手を選んでいることが多いのである。 ある男性は、彼の妻があまりにも無ロで不愛想であり、自分の家族や友人に対していかに不親 切なふるまいをするかを訴える。自分は華やかで、人づき合いも多いほうが好きであるのに、 妻はまったく逆である、というよりは、人間が冷淡にできているのだと思う、という。しか し、このような話を聞き、妻の方にもお会いすると、この夫婦は、むしろ外向的な夫と内向的 な妻との間に、適当なパランスが存在すれば、極めてうまくゆくはすなのにと感じられるので 6 ある。 夫婦には何らかの意味で相補性の原理がはたらいているように思われる。外向と内向という
に、「嫁は家の風習に従う」という頭ごなしの倫理があれば、ともかく辛くはあ 0 ても危険 0 性は少ない。 ところで、われわれは自由を求めて「頭ごなしの倫理」を否定したが、さりとて、よりどこ ろをもたずこ右往左往しているとも言うことができる。これを積極的に言えば、夫婦関係にお いても実存、な対決と創造が必要となってきた、ということになるのであろう。従って、のば せているだでは夫婦関係は続けてゆけないのである。そこには相当な努力を払わねばならな 相補性と共通性 今までは婦の絆を他の人間関係とのからみ合いの中で見てきたが、夫婦だけのこととして 見てみるとうなるだろうか。わが国には「相性」という極めて便利で含蓄の深い言葉があ る。相性がし 悪い、というと「なるほど」と感じさせられるが、開き直って「相性とは何 か」と言わると答え難い。この簡単には言い難い相性というものが夫婦関係の本質には存在 しているの ' あろうが、それはそれとして、少し説明可能なことについて述べることにしょ 先に示し ' ように、結婚に対する態度が定まっていないため結婚後一年足らずの間に離婚に
先程の電話の一件に戻ってみよう。姑と電話で話合っている夫は、母子の一体感から抜け出 ていない男性として、楽しい時をすごしているのであるが、彼は自分を「愛して」くれている 妻も、それを喜び、はては妻自身も姑と話すことは楽しいことであろうとさえ錯覚する。個人 と個人が関係をつくりあげるのではなく、ひとつの場の中に二人がとけこむことを得意とする 日本人にとっては、何人であれ場の外から声をかけるものは侵人者なのである。それがどれほ ど優しく親切であろうとも、侵入者であることに変りはない。このような妻の感情に夫はまっ たく無知である。妻の方もまた、これを契機に実家に逃げ帰り、親同士に代理戦争をやらして 固人対個人としての夫との対話 いるのだが、これは自我を確立した個人のすることではない、イ を放棄しているのである。 人間のアイデンティティというものは、ごくごく些細なことによっても支えられているもの である。毎朝みそ汁を飲んでいる人は、それをやめることによって、案外にもアイデンティティ をゆさぶられる。毎日帰宅したときに「お帰り」と言ってくれる人があったのに、それが無く なることによって、人は相当に安定感を失うものである。 の 夫婦の背負ってきた、ふたつの歴史の統合は、実はなかなかに大変なことなのである。大変 な統合をやり抜くとき、「頭ごなしの倫理」をもっことは一般的に言って、むしろ便利なこと夫 である。ふたつの歴史のうちどちらが「正しい」かなどは考えて解るものではない。そのとき
で、「主人の家」を大切にしろとは言い出せないでいる。そのため、妻の方の関係のみが密に なってくるである。これは、女性が自立しているのではなく、古い日本人の母性心理に遠慮 せすに従っ いるだけのことである。男たちは封建的な倫理に従っていると言われるのを恐れ るあまり、らずしらすのうちに弥生式とでもいうべき新しくて古い倫理に縛られているので ある。 おそらく、このようにあまりにも母性性が強く作用することに対する補償作用としてであろ う、日本人家族制度としては、父権を強くし、嫁人りをした娘は「他家にあげた」ものとし て、厳格に家とのつながりを切ろうとしたものであろう。このような倫理に基づくときは特 に、嫁入りをすなわち「娘の死」として象徴的に受けとめられる。わが国にある多くの嫁入り の儀式のなかに、葬式のそれと重なり合うものが多いのは、このためである。 ところで、われわれは古い考え方や制度を棄て去り、新しい結婚観によって夫婦の絆をつく りあげよう亠し始めた。しかし、それの裏づけとなる新しい倫理観をも 0 ているだろうか。弥 生式なら弥式で統一するのも、 しいだろうが、自覚的には西洋近代流であり、実質は弥生式と なると、本はともかく周囲のものは随分と迷惑を蒙るものである。 夫婦間でも実存的対決
夫婦は結婚に到るまで、それぞれの歴史を背負っている。それが結合されるのだから、これ は考えてみると大変なことである。各人の古い歴史からの呼びかけは、どうしても新しい結合 をゆさぶるものとして感じとられやすい。このような危険性を防ぐため、人間はいろいろな結 婚制度や、結婚に伴う倫理をつくりあげてきた。たとえば、日本の古い民法によれば、「家」が 大切にされ、女性は「家」に嫁入りをしていったのである。これは「ふたつの歴史」の相克を 避けるため、一方の家の歴史の中に嫁が組みこまれることを善とすることにしたのである。そ こには、女性の忍従を美徳とし、実家に帰りたがる娘を拒絶する父の厳しさを賞賛する倫理観 を裏づけとして持っていた。 新しい結婚観は「家」を棄て、「個人」を大切にしようとする。しかし、われわれ日本人は それをやり抜くだけの「個人」には、まだなっていないのではなかろうか。少なくとも、それ に伴うべき努力に対する自覚が少なすぎると思われる。女性は忍従を美徳とせず、自己主張を する。しかしながら、 2 章に既に述べたように、日本人の母性性は極めて強いので、一個の女 性として一個の男性との新しい関係を築くことよりも、古い母Ⅱ娘結合の場の吸引力が強くは 絆 たらいてくる。そこで、妻はしばしば実家に帰ったり、何かというと妻の親族との接触が増え の てきたりする。なかには、夫がそれに腹を立て「馬鹿げた」争いをすることもあるが、多くの夫 場合・・・・ーー特に夫が知識人であればーー、夫は古い「家」の倫理を持ち出すのがはばかられるの
「愛する二んが結ばれると幸福になる」という危険思想にだけはかぶれないようにして一欲し い、と願 い ) くなってくるのである。 前章にも、、べたように、夫婦の絆は親子の絆と十字に切り結ぶものである。新しい結合は、 古いものの断を要請する。若い二人が結ばれるとき、それは当然ながら、それそれの親子関 係の絆を切離そうとするものである。一度切り離された絆は、各人の努力によって新しい絆 へとっくりえて行かねばならない。 この。切断の痛みに耐え、新しい絆の再製への努力をわか ち合うことこそ、愛と呼べることではないたろうか。それは多くの人の苦しみと痛みの体験を 必要とするのである。このような努力を前提とせず、ただ二人が結ばれたいとのみ願うの は、愛など いうよりも「のばせ」とでも呼んでおく方が妥当であろう。 ふたつの歴史 姑からの一話に嫁がでるかでないか、ということだけで嫁さんが実家に帰ってしまった、な どというと、「そんな馬鹿な」と思われるかも知れない。 しかし、このような例は多いのであ る。それは ) 事者たちが大学出の「教養ある」人であっても同様である。せめて離婚にまで到 ることは「養」が防いでくれるが、このような「馬鹿げた」夫婦げんかを繰り返している知 識人も案外
無理解に腹を立て家を出てしまったというのである。その後は、夫と妻の間よりも、その両親 の間で厳しい言葉の応酬があり、お互いに相手の欠点をついて戦っている最中であるという。 このような相談は随分と多い。それに子どもができてしまってから、同様のことが生じ、問 題を一層複雑にすることもある。子どもを引き取る引き取らないということが、愛情の問題や 子どもの将来の幸福のこととしてではなく、相手に対する嫌がらせや、意地をとおす手段とし て考えられるからである。ところで、このような話を聞いて、夫の方が悪いのか、妻の方が悪 いのかという問題以前に、むしろ当然起るはずの相手の両親との間のいざこざに対して、若い 夫婦が何らの予想も覚悟もなく結婚し、少しの事柄で右往左往しているのは、まったく不甲斐 ないことと私には思われる。不甲斐ないと言えば、この娘の両親にしても、まるで娘の逃げ帰 ってくるのを歓迎していると言いたいほどの態度で、娘を抱きこんでいるのである。このと き、相手が一人息子で、親子のそれまでの結びつきなどを考えると、結婚に伴うごたごたは当 然のことと思われるのに、そのようなことを結婚前に少しも予想しなかったのか、と尋ねてみ ると、娘さんが「愛し合っている二人が結ばれるのだから、幸福にいくと思っておりました」 と答え、母親は「まったくそのとおり」という感じでうなすかれたので、私はゲンナリとして 6 こんな例に多く接していると、私としては、若い人たちに対して他の何事をしてもいいが