る。そんなことをまったく知らなかった二人の子は十歳になってから偶然に出会い、話合って いるうちに両親の離婚のことを知る。両親の離婚に伴って、二人も別れさせられたことを了解 したとき、彼女たちは、「ほんとうは、あたしたちを半分に分けてよいかどうか、まずあたし たちに、たずねなくちゃいけなかったんだわ ! 」と叫ぶ。 確かに子どもたちの言うとおりである。大人たちは自分の意志によって離婚できる。しか し、子どもたちの意志は一体どうなるのか。『ふたりのロッテ』には、たとえ両親が離婚して も、子どもにとっては、父や母というものがどれほど大切なものであり、かけがえのないもの であるかが生き生きと描写されていて、胸を打つ。物語の方は、この後、ルイーゼとロッテの 愉快な活躍によって、両親の再婚が成立するのだが、そちらの方は読者に読んで頂くことにし よう。ところで、ケストナーがこの本を書いた頃は、児童文学において「離婚」のことを取り あげることは、タブー視されていた。それにもかかわらず、子どもたちのために離婚について 語らざるを得ないことを、彼は作中で弁明し、「この世の中には離婚した両親がたいそうたく 機 さんいること、そのためにいっそうたくさんの子どもが苦しんでいること、また他方、両親が 危 の 離婚しないために苦しんでいる子どもがたいそうたくさんいること」を指摘している。両親の 離婚が子どもたちの心にもたらす傷を、これほどまでに描きながら、ケストナーが「両親が離家 婚しないために苦しんでいる子ども」の存在についても言及していることは大切なことと思わ
一家団欒の虚像 家族について、いろいろな面からの考察を書き続けてきたが、「これからの家族」について もっとも「これからの家族」について述べることが、どれ 述べることによって終りとしたい。 ほど難しいかを自覚しているだけに筆の勢いもにぶり勝ちであるが 現在の日本人にとって、「一家団欒」というイメージは極めて大切なものとなっている。 たとえば、昨年の総理府による「国民生活に関する世論調査」を見ても、「充実感を感じる 時」として、第一位にあるのは「家族団欒の時」である。これに「仕事にうちこんでいる時」、 「友人や知人と会合・雑談している時」が続くのだが、「社会奉仕や社会活動をしている時」、 「勉強や教養に身を入れている時」などはこれらよりずっと下になるのである。もっとも、三 十ー五十歳の男性では、「仕事にうちこんでいる時」が一位になるが、それに続いて「家族団欒 の時」になっている。このような結果から見ても、家族がそろって楽しい時をすごすことが、 日本人にとってどれほど大切であるかが感じとられるのである。しかしながら、現在の日本の 家庭において、そのような団欒の時が、どれほどもたれているだろうか、それは果たしてそれ ほどの価値をもつものだろうか、ということになると、疑問を感じざるを得ないのである。 ーマーケットでの盗が見つかって補導された。中学校のカウンセ ある女子中学生がスー 172
に、子どもは一人に制限しておこう」と夫婦で決めたのだと言われ、驚いたことがある。親が 子どもを大切にすればするほど、子どもは幸福である、そして、大切にするということは、物 を豊かに与えてやることだ、という極めて単純な考え方がそこには存在している。これは極端 な話であるが、このような考え方は、わが国の多くの親の心の中に大なり小なり存在している ようである。そこには、子どもの経験する悲しみや苦しみを、自らも共にする苦痛を逃れよう とする気持が、潜在しているようである。 きようだい間の「平等」 ほとんどの親は、自分の子どもたちを「平等」に扱っていると確信している。しかし、子ど もたちの目から見るとき、絶対の「平等」などは存在しないのである。そしてまた、それは不 可能なことである。きようだいは年齢が異なるので、その興味も関心も異なって当然である。 子どもたちに、し 、つも同じものを与えることなどナンセンスである。それに、何をするにして も、それそれ年齢相応の役割がある。長男であるために、次男であるために、あるいは末子で あるために「損をした」と思っている人は多い。子どもたちが「不平等」を嘆くとき、親は腹立 たしく思う。一見、不平等であるように見えることでも、親としては、それ相応の理由がある からしたことであり、本質的には平等であるという態度に変わりないと信じているからである。 117 きようだい
調すること、などを学んでゆくわけである。あるいは、竸争心をどのようにコントロールする か、という難しいことも、知らず知らずのうちに学んでゆくことになる。また、悲しみや喜び を他人と共にすることが、自分にとってどれほど意味あることかを体験することになろう。 子どもにとって、両親 ( 特に母親 ) と自分の世界は、絶対的と言ってよいほどのものである。 にもかかわらず、そこに他人 ( つまり、自分の弟妹 ) がはいり込んでくるのは、世界の崩壊にも 等しい大事件である。ともかく、そこにおいて、子どもは重大な世界観の改変を経験しなくて はならない。あるいは、次男、次女として生まれてくる子どもたちは、生まれてくるときか ら、自分より先に、自分と母親という絶対的な結合に割り込んでくるものが存在しているとい う事実を、受け容れねばならないのである。 しかし、このような受け容れ難いことを受け容れる体験こそ、人間が社会人として成長して ゆくための基礎となるものではなかろうか。親としては、そのような体験に潜む、子どもたち の悲しみを共感することによって、障害を少なくしてやることが大切だが、悲しみや苦しみを 味わわせないように、あるいは、そのような感情を存在してはならないものとして無視するこ とは、避けねばならない。 子どもの問題で相談に来られた両親に対して、お宅はどうして一人子なのですかと尋ねたと ころーーー実はそのことが大きい間題であったのだが 「子どもをできるだけ大切にするため 116
、何かの事が起ったときも、それをどのように全体の平衡状態の中に吸収してゆくかが大切 なことなのである。 このような状態は家の中だけにとどまらず、日本の社会全体が、そのような傾向を強くもっ ている。従って、自我の確立を願って家出をしても、結局はなんにもならないことになる。個 人。家・社会を通じてはたらく母性原理の強さは、まことに強烈なものである。しかし、この ことによってこそ、日本人はそのアイデンティティを保ってきたのではないかと考えられる。 私が私の存在を考えるとき、それは何がしかの意味で、永続的な存在とのかかわりのなかに 位置づけられることを願うことになる。それによってこそ、深い意味において、私という存在 が基礎づけられることになる。日本人の場合、その永続的なものとして「イエ」を大切にする。 と考えるところが日本的であ このとき、イエは必ずしも血縁によってつながらなくともよい る。「 x x 家」の先祖があり子孫がある。そのイエの流れの永遠性のなかに自分という存在が 定位される。このように考えると、イエのために個人が無視されるのも当然のことと考えられ会 上亠 る。 家 西洋人が個人の存在を強調する際に、それはキリスト教という支えをもっている。個人がイ 工や血筋などによって守られることなく、あくまで個人であることを主張するためには、それ個 は父なる神との結びつきを必要とするのである。一回限りの復活の約束を信じることによって
一見うるさく見える親類とのつき合いの中に、それを見出してゆくことも大切であろうし、核 家族の成員の内面の中に「妹の力」を見出してゆくことも必要であろう。そのような努力の裏 打ちによってこそ、核家族の幸福が得られるのである。 169 家族のうち・そと
母性原理と父性原理 ここに簡単に母親、父親の役割として述べたことは、人間の生き方を支える原理として抽象 化することができる。つまり、母性原理は、「包含する」ことを主な機能とし、すべてを包み こんでしまい、すべてのものが絶対的な平等性をもつ。これに対して、父性原理は母子の一体 性を破ったように、「切断する」機能にその特性をもっている。それはすべてのものを切断し 分割する。主体と客体、善と悪などに分類し、母性がすべての子どもを平等に扱うのに対し て、子どもをその能力や個性に応じて類別する。このようないわば相対立する二つの原理は、 もちろん片方のみでは不完全であり、相補ってこそ有効なものではあるが、実際にはどちらか 一方が優勢で、片方が抑圧されたり、無視されたりする状態になっていることが多い。 このような母性原理と父性原理は、共に大切なものであり、人間の成長のために必要なもの であるが、ヨーロッパの文ヒは、、 父性原理を極度に押しすすめた特異な文化であると考えられ る。西洋人の子どもは、強い父性の力によって、母親から分離し、はっきりと他と区別された 存在としての「個」の自覚をもつ。それに比して、日本では母子の一体感はどこまでも温存さ れ、われわれは他人に対して、個と個の関係をもっことはなく、自分と他人は同一の母の子とし て、「身内」としての一体感をもちうるか否かが大切となるのである。日本は早くから西洋文
夫婦は結婚に到るまで、それぞれの歴史を背負っている。それが結合されるのだから、これ は考えてみると大変なことである。各人の古い歴史からの呼びかけは、どうしても新しい結合 をゆさぶるものとして感じとられやすい。このような危険性を防ぐため、人間はいろいろな結 婚制度や、結婚に伴う倫理をつくりあげてきた。たとえば、日本の古い民法によれば、「家」が 大切にされ、女性は「家」に嫁入りをしていったのである。これは「ふたつの歴史」の相克を 避けるため、一方の家の歴史の中に嫁が組みこまれることを善とすることにしたのである。そ こには、女性の忍従を美徳とし、実家に帰りたがる娘を拒絶する父の厳しさを賞賛する倫理観 を裏づけとして持っていた。 新しい結婚観は「家」を棄て、「個人」を大切にしようとする。しかし、われわれ日本人は それをやり抜くだけの「個人」には、まだなっていないのではなかろうか。少なくとも、それ に伴うべき努力に対する自覚が少なすぎると思われる。女性は忍従を美徳とせず、自己主張を する。しかしながら、 2 章に既に述べたように、日本人の母性性は極めて強いので、一個の女 性として一個の男性との新しい関係を築くことよりも、古い母Ⅱ娘結合の場の吸引力が強くは 絆 たらいてくる。そこで、妻はしばしば実家に帰ったり、何かというと妻の親族との接触が増え の てきたりする。なかには、夫がそれに腹を立て「馬鹿げた」争いをすることもあるが、多くの夫 場合・・・・ーー特に夫が知識人であればーー、夫は古い「家」の倫理を持ち出すのがはばかられるの
れぞれの能力に応じて家事を分担し、そこには絶対的な権威などはなく、もっと協同的な雰囲 気が支配していた。ここで大切なことは、そのような協同的な雰囲気であり、筆者が先に述べ た表現を用いるなら、各人がうまくパランスがとれて存在しているという感情なのであった。 儒教的な倫理による旧民法が成立するとき、これはあくまで国家の統合性の観点から導人さ れたものである。統合というものは中心を必要とする。中心に向って統合されるためには、家 には中心を持たねばならない。先に述べた民衆の家族の在り様は、強いて言うならば、全体の ハランスと雰囲気というあいまいなものを中心にもつもので、それは明確な中心点を欠いてい る。このため、日本の戦前の家族は、国家とか社会に対しては、家父長を中心としたまとまり をもっ存在でありながら、他方では、みんなで仲良く、全体のパランスを考える家族の在り方 を大切にするという、二重構造をもっていた。 つまり、いかに儒教的家父長が強そうに見えても、基本的構造としては、あくまでも母性原 理が強かったのである。ところで、この次に新民法の時代がやってきたのである。既に述べて会 きたような点については考慮することなく、家父長の権力を奪って、「民主的」な家族をつく 家 ろうと、それは意図されたのであったが、これも結局のところ、基本構造を変えることは、ほ 人 とんどできなかった。むしろ、父親の権力がなくなったので、日本の家族の母性性が強力に前個 面に出てきたのである。
で、「主人の家」を大切にしろとは言い出せないでいる。そのため、妻の方の関係のみが密に なってくるである。これは、女性が自立しているのではなく、古い日本人の母性心理に遠慮 せすに従っ いるだけのことである。男たちは封建的な倫理に従っていると言われるのを恐れ るあまり、らずしらすのうちに弥生式とでもいうべき新しくて古い倫理に縛られているので ある。 おそらく、このようにあまりにも母性性が強く作用することに対する補償作用としてであろ う、日本人家族制度としては、父権を強くし、嫁人りをした娘は「他家にあげた」ものとし て、厳格に家とのつながりを切ろうとしたものであろう。このような倫理に基づくときは特 に、嫁入りをすなわち「娘の死」として象徴的に受けとめられる。わが国にある多くの嫁入り の儀式のなかに、葬式のそれと重なり合うものが多いのは、このためである。 ところで、われわれは古い考え方や制度を棄て去り、新しい結婚観によって夫婦の絆をつく りあげよう亠し始めた。しかし、それの裏づけとなる新しい倫理観をも 0 ているだろうか。弥 生式なら弥式で統一するのも、 しいだろうが、自覚的には西洋近代流であり、実質は弥生式と なると、本はともかく周囲のものは随分と迷惑を蒙るものである。 夫婦間でも実存的対決