夫 - みる会図書館


検索対象: 家族関係を考える
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1. 家族関係を考える

ばかりのようだが、 Z 夫人にすれば、それが気に入らないとでも言いたい心境なのである。万 事が安定して安泰であれば幸福で・あると信じ切っているような夫を見ていると、「安定」とい う名の牢獄に自分はつながれており、夫はまるでその看守であるような感じさえしてくるので ある。毎日六時半頃になると、きまったように聞こえてくる夫の帰宅の足音は、まさに看守の 一見まわりの足音のように思われて、いらいらとしてしまうのであった。 夫人は外出することが増えてきた。いろいろな会合や稽古ごとなどにも出かけていったが、 あまり面白くなかった。友人たちに離婚したいと打ち明けたが、誰も賛成してくれなかった。 友人たちから見ると彼女の夫はむしろ理想の夫にも近いものであり、離婚など、「まったくも ったいない」というのである。夫人の外出が増えても、夫は相変らず模範的な態度を変えなか ったが、あまりにも家事が放棄されているのを見て文句を言い始め、この家庭にも夫婦のいさ かいが生じはじめた。夫人にとってやり切れないのは、自分の気持を夫がまったく解ってくれ ず、口論するかぎりいつも正しいのは夫の方になってしまうことである。 夫人は家出するしかないと考え、実行に移そうと決意しかけていたとき、父親が脳溢血で倒 れたという報告を受けた。すぐにかけつけてゆくと父親は半身不随で寝ていた。介抱していた 母親は娘の夫人に対して、自分は外出が多く老いた夫のことをかえりみずに過ごしてきたこと を反省して語った。 z 夫人は話を聞き、両親の姿を見ているうちに、自分の老後の姿をそのま 132

2. 家族関係を考える

とに腹が立ってしまって、妻は夫に対して、「大体、あなたの兄弟は意志が弱いから駄目よ」 と言ってしまう。このような不平の中には、彼女が常々何となく感じていた夫に対する不平も 共にこめられているし、それを感じとった夫は「あなたの兄弟」という言い方に、何か妻が夫 をも含めてそれを全体として他人と見なしているように感じて不愉快になる。ここで夫の方も 負けずに、「何を言っているか、お前の方の家族こそ : : : 」などというと、平素はあまり意識 されていないが、夫婦と言っても他人に過ぎないことが急に意識され、思いがけない亀裂が生 じることになる。 夫婦であれ、親子であれ、「言ってはならない真実」というものは存在する。このようなと きに逆上して、夫婦のどちらかがそれを口にするとき、両者の間の亀裂は癒し難いものとな る。 家族の外から、親類の間題として衝撃が加えられ、家族の関係がそれによってゆるがされる と そ どきごも、よくよく考えてみると、それは家族内に潜在している断層を露わにするためのもの であると受けとめられることが多い。親類の存在を嘆いたり、親類の存在を借りて互いに悪口ち を投げあったりするよりも、家族関係をより緊密にするための機会を与えられた、と考える方の が得策のようである。

3. 家族関係を考える

いっ帰ってきても構わないよ」とつけ加えるのを忘れなかった。 父・娘結合の解消 こんな話を聞いていると、はじめにつくられた父・娘結合のパターンが破られないままに、 娘の結婚が生じ、そこにまた二代目の父・娘結合が生じていることは明らかである。家族の中 に起こる問題は、このように先代から継承されたものであることが多い。夫よりは父親の方が 素晴らしいと言いながら、そのような夫との結婚をすすめた父を非難しようとしない妻に対し て、それではあなたはどうして離婚して父親のもとに帰らないのかーーーそれは父親のひそかな 願いを成就することにもなるはずだが と問いかけてみた。これに対して、彼女は自分はい ま、夫に対してあらたな魅力を感じつつあると答えた。男らしいということは、父のように派 ハリ行動することだけではなく、夫のような地味な仕事を忍耐強く続けることかも知 れない、 と思い始めたのである。 これを聞いて、私は少女の嘔吐の謎がとけたように思った。二代にわたる ( ひょっとすると、 もっと続いていたかも知れない ) 父・娘結合の歴史も、そろそろ変革すべきときがきつつあったの である。そのときにあたって、小学三年生の小さい革命家はひとつののろしをあげたのだ、彼 女は、そのような歴史の繰り返しに「へどをもよおす」ことを宣言したのである。彼女の嘔吐 100

4. 家族関係を考える

先程の電話の一件に戻ってみよう。姑と電話で話合っている夫は、母子の一体感から抜け出 ていない男性として、楽しい時をすごしているのであるが、彼は自分を「愛して」くれている 妻も、それを喜び、はては妻自身も姑と話すことは楽しいことであろうとさえ錯覚する。個人 と個人が関係をつくりあげるのではなく、ひとつの場の中に二人がとけこむことを得意とする 日本人にとっては、何人であれ場の外から声をかけるものは侵人者なのである。それがどれほ ど優しく親切であろうとも、侵入者であることに変りはない。このような妻の感情に夫はまっ たく無知である。妻の方もまた、これを契機に実家に逃げ帰り、親同士に代理戦争をやらして 固人対個人としての夫との対話 いるのだが、これは自我を確立した個人のすることではない、イ を放棄しているのである。 人間のアイデンティティというものは、ごくごく些細なことによっても支えられているもの である。毎朝みそ汁を飲んでいる人は、それをやめることによって、案外にもアイデンティティ をゆさぶられる。毎日帰宅したときに「お帰り」と言ってくれる人があったのに、それが無く なることによって、人は相当に安定感を失うものである。 の 夫婦の背負ってきた、ふたつの歴史の統合は、実はなかなかに大変なことなのである。大変 な統合をやり抜くとき、「頭ごなしの倫理」をもっことは一般的に言って、むしろ便利なこと夫 である。ふたつの歴史のうちどちらが「正しい」かなどは考えて解るものではない。そのとき

5. 家族関係を考える

ても、現実に「無能な」老人に接していると、尊敬や感謝の念がだんだんと薄くなり、遂には 憎悪の感情をもたねばならなくなるのではなかろうか。 祖父母との別居 小学三年生の男の子が夜尿がひどくて困る、と相談に来られた母親があった。夫は一流会社 のエリー ト社員、彼女も大学出の才媛であった。夫は一流大学出身だが、夫の両親はあまり教 養がなく、同居中は何かとわずらわしいことが多く、いろいろと苦労して家を新築し、両親と 別居してやれやれと思っていたら、子どもが夜尿になったと言うのである。母親は子どものこ とが大切なので、勤めに出たい気持もおさえ、専ら家のことに力をつくしてきている。両親と 同居中は気晴らしによく外出したりしたが、リ 男居してからは子どものことを考え外出もひかえ ている。夫の両親は孫がかわいいのと、無教養のために、やたらに甘やかしたり、馬鹿げた非 科学的なことを教えたりして困ったものだったが、別居によってはじめて、自分たちの教育方 針で子どもを育ててゆけると喜んだのだった。 一体自分たちの育て方のどこに欠陥があるのだ と ろうか、それを明らかにして欲しい、とのことであった。 人 子どものことにはもともと熱心な人であるし、勘も鋭い人であったので、「子どもさんの教老 育に邪魔たと思っていた、おじいさん、おばあさんが居なくなられて、かえって子どもさんの

6. 家族関係を考える

夫婦は結婚に到るまで、それぞれの歴史を背負っている。それが結合されるのだから、これ は考えてみると大変なことである。各人の古い歴史からの呼びかけは、どうしても新しい結合 をゆさぶるものとして感じとられやすい。このような危険性を防ぐため、人間はいろいろな結 婚制度や、結婚に伴う倫理をつくりあげてきた。たとえば、日本の古い民法によれば、「家」が 大切にされ、女性は「家」に嫁入りをしていったのである。これは「ふたつの歴史」の相克を 避けるため、一方の家の歴史の中に嫁が組みこまれることを善とすることにしたのである。そ こには、女性の忍従を美徳とし、実家に帰りたがる娘を拒絶する父の厳しさを賞賛する倫理観 を裏づけとして持っていた。 新しい結婚観は「家」を棄て、「個人」を大切にしようとする。しかし、われわれ日本人は それをやり抜くだけの「個人」には、まだなっていないのではなかろうか。少なくとも、それ に伴うべき努力に対する自覚が少なすぎると思われる。女性は忍従を美徳とせず、自己主張を する。しかしながら、 2 章に既に述べたように、日本人の母性性は極めて強いので、一個の女 性として一個の男性との新しい関係を築くことよりも、古い母Ⅱ娘結合の場の吸引力が強くは 絆 たらいてくる。そこで、妻はしばしば実家に帰ったり、何かというと妻の親族との接触が増え の てきたりする。なかには、夫がそれに腹を立て「馬鹿げた」争いをすることもあるが、多くの夫 場合・・・・ーー特に夫が知識人であればーー、夫は古い「家」の倫理を持ち出すのがはばかられるの

7. 家族関係を考える

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8. 家族関係を考える

り、一応片づいたと思われたとき、『道草』の主人公健三の妻は喜ぶが、彼はまだまだ片づい ていないと言う。妻は不審顔でどうすれば本当に片づくのかと問うと、彼は「世の中に片づく なんてものはほとんどありやしない。 一ペん起こった事はいつまでも続くのさ。ただいろいろ ひと な形に変わるから他にも自分にもわからなくなるだけの事さ」と答える。これはなかなか意味 の深い言葉である。 人間の一生を自己実現の過程としてみるとき、それは生きているかぎり , ーーひょっとして死 後でさえーーー終ることなく続くものであり、そこには真の意味で「片づく」ことなどあり得な われわれが何か片づいたと思っているとき、それは実のところ次の一連の事象のはじまり であることもある。生きることに伴う、このようなやり切れなさ、あるいは緊張感を、われわ れはともすると忘れて安逸な生活に流されそうになる。そんなときに、「うるさい縁者」が出 い。なんとも世 現して、人生における連続性の存在を想起させてくれるようになっているらし の中はうまくできている。 夫婦関係が夫の親類、妻の親類の存在によってゆさぶられることは多い。 4 章 ( 夫婦の絆 ) のところで既に述べたことであるが、夫婦はそれそれ別の歴史を背負っているものである。夫 婦の間に存在する微妙なずれが、親類の行動によって急激に拡大され、癒し難い亀裂にまでな ってしまうこともある。たとえば夫の弟が酒癖が悪くて、失敗して泣きついてくる。毎度のこ 158

9. 家族関係を考える

中年の危機 人生にはいろいろな節目があるが、中年というのも重要な節である。人生の軌跡を心に描い てみると、ある意味ではわれわれの人生は中年で頂点に達し、以後は下降に向かうことにな る。上昇から下降へと移行するとき、人はそれ相応の危機に遭遇するものだが、それは家族の 危機として体験されることが多い。家族は不思議な一体性をもつので、家族の中のある個人の 間題は思いがけず、他の家族たちにも影響を及ばすものである。夫婦は一般には同年輩のもの として、共に中年を経験するので、夫婦間の危機として中年の問題が感じられることは多い。 Z 夫人は四十歳をすぎたばかり、夫は真面目な公務員である。親の残してくれた土地があっ たりしたため生活にはあまり困らない。子どもたちはそれほどよくできるというのでもない が、普通に間題なく育っている。言うならば夫人にとって何の不足もない生活であるが、最近 はいらいらすることが多い。それも結局は、夫に対して何となく腹立たしく感じることが多い のである。しかし、 Z 夫人にとって、その理由をうまく他人に説明することは難しいことであ機 の った。夫は他人から見るかぎり非の打ちどころがないのである。女遊びや賭ごとなど一切しな い上に、帰宅は勤務の都合で遅くなる以外は、まるで判で押したように同じ時間に帰ってくる家 のである。妻や子どもに怒ったりすることなど全然ない。このように言ってゆくと、よいこと ふしめ

10. 家族関係を考える

じめた。中学生といっても随分と体格がいいので、本気でなぐられたりすると母親もたまらな とうとう父親に訴え、今まで我関せずの態度をとっていた父親も、娘を叱りつけた。とこ ろが、娘の方は負けていない。逆に父親に喰ってかかる始末である。果は父と娘のなぐり合 一来ることになっ いにまで発展し、たまりかねて両親は娘を引き連れて専門家のところに相談に た。娘の暴力はそれでもなかなか止まずに両親を手こすらせたが、話合いを続けているうちに 母親の気づいたことは、娘が父親に当たり散らしていることは、本当は自分が夫に対してやり たかったことではないか、という事実であった。 母親は夫に従うことが大切と考え、いろいろと言いたいことも言わずに、ひたすら夫に仕え てきた。それが女の生き方だと思っていた。ところが、その間に無意識内に貯めこまれたもの は、そのまま娘が引き受けていたのである。といっても、娘が意識して母親の代弁をしたので はない。彼女にしてみれば、ともかくわけの解らないのに気持がふさぎ、自分の気持の解って くれぬ両親に文句を言ったまでのことである。母親がそのような事実に気づき、娘の力に押さ といっても口論になることが多かったが , ・・・・、ーを続けてゆくうちに、 れながら父親と話合い 娘の暴力はまったく消失してしまったのである。娘に背負わせていた自分の影を母親が自らの娘 と こととして引き受けることによって、問題は解決していった。母親の成長にとってどうしても 必要な、このようなことを生ぜしめるために、娘の暴力が起爆力として作用したのである。