親に似ているために、母親の考える「よい子」のイメージと異なることになって、どうしても 拒否されることが多くなる。次に生まれてきた妹は、これに反して、母親のもっ理想像にびつ たりであると、この子は「よい子」の典型になってしまう。 ここで重要なことは「よい子」のイメージが極めて単層的であるという事実である。父母の 考えが錯綜するのではなく、母親がむしろ父親の考えを排除した形でイメージをつくり「その 上、昔に比して母親のコントローレま ノカ子どもに及ぶ程度が強くなっているので、単純なよい子 とわるい子の対ができあがってしまうのである。しかも、母からみてわるい子と思える子も、 父からみるとむしろよい子とみえるとなってくると、ここに今まで何度も例にあげたような、 家族の中の分極作用が生じてくるのである。 このような場合は、きようだいの背後にある両親の関係が問題となってくるので、その改変 もなかなか困難である。ここで治療を受けた兄の方がよい子になってくると、妹の方がわるい 子になるという例もよくある。家族は全体として・ハランスをとっているので、それほど簡単 に、わるい子がよい子に変るだけというような変化は生じ難いのである。このようなときは、 次は妹の方を引き受けながら、両親の関係ともども、家族全体の在り様を変える努力を続けね ばならない 一人子の場合、親としては親類とのつき合いや、近所の親しい人との交流によって、きよう
害になって相談に来られる例は多い。親は三人を平等に扱っているようでも、長男 ( 女 ) や末 子に対するような配慮が、無意識のうちに、二番目の子にははたらいて居ないことが多いから である。あるいは、これは人間の気持としては、むしろ自然のことと言うべきかも知れない。 ちなみに、もし三人の子どもを持っておられる親は、子どもたちの写真の枚数を数えてみられ るとよい。何か他の要素がはたらかない限り、長男 ( 女 ) が一番多く、次は末子で、二番目が 一番少ないはずである。これは別に偏愛というのではなく、人間の心は自然にはたらくとむし ろこのようになることが多いのである。親にとっては自然でも、子どもにとってはそうではな 従って中にはさまれた子は余計な苦労をすることになる。もっとも、このような例は、両 親がその点に気づいて少し態度をあらためると、すぐ問題は解決する。しかし、次のような例 になると、その力学関係は少し難しくなってくる。 一人子は難しいと誰も考えるので、子どもが二人の家は多い。ところが、この頃よくある相 談に、一人の子は極端に悪い子だが、もう一人は極めてよい子である、という例がある。兄さ んの方は学校で乱暴をはたらき、皆から嫌われているのに、妹の方はまったくの優等生の模範 生というのである。これは、夫婦のことを述べた際に、夫婦の相補性という点を指摘したが、 相補的にはたらくべき夫婦の性質がうまく作用していないことに端を発している。つまり、夫き 婦のうちの一方ーー・多くの場合、母親ーーが家の中で支配性を強くすると、長男がたまたま父
するようなことはなかったが、親がたまりかねて相談に連れてきたのである。 その子を遊戯治療にさそってみると、随分と大人しくて、男の子とも思えないほどの静かな 遊びをしていたが、だんだんと慣れてくるに従って攻撃的な感情を表出するようになってき た。電車をレールの上に走らせたりしているときでも、突然に衝突が生じたり、脱線したりと いう事故を表現する。治療者に対してもチャンパラなどで向ってくるのだが、それは急激に凄 まじいものになってきて、治療者には小さい刀をもたせ、自分は大きい刀をもって、無茶苦茶 に斬りつけてくる。これらの遊びを通じて、治療者はこの子の心の底に蓄積されていた攻撃の 感情を表出させながら、その表現内容から、そのような感情が、彼の弟に向けられたものであ ることを感じとっていた。 一方、母親の方はカウンセラーとの話合いを通じて、この子が三歳の時に弟が生まれたが、 その時に家庭の事情で兄の方をかまってやることができず、ついなおざりにしたり、兄の方を 母が病院でお産をするとき、 叱りつけたりすることが多かったことを思い出し反省していた。 この子は祖父母のところにあすけてあった。病院に訪ねてきたとき、この子がむずかりもせ ず、むしろ早く帰りたそうにさえして、祖母と一緒に帰ってゆくのをみて「案外平気なものだ な」と思いこんでしまったのが失敗のもとであった、と母親は反省されるのであった。 小さい子どもたちでも状況に応じて相当に感情をおさえることができるものである。ただ、 114
確かにそのような面もあろうが、ここで青井氏がわざわざ「濃密」と「親密」という語を使 いわけているように、人間関係の在り方そのものに差があると考える方がいいのではなかろう か。その点について少し考察してみることにしよう。 人間関係のはじまりは、母と子との関係である。しかし、これは「関係」と呼べるかどうか 疑問に思われるほど、一方的な関係である。つまり、新生児はあらゆる点において母に依存し ており、それはむしろ一体としての感じをもつにしても、母親を対象として意識することはな いであろう。ここに、母親は子どもを自分の一部として、抱きしめて育ててゆくことになる。 このような母子の一体感が、わが国の家族関係のみでなく、人間関係の根本に存在していると 思われる。 母子の一体感を破るものは父親である「子どもは父親の存在を通じて、「他者」の存在を知 ることになる。一体感の多幸な状態を出て、子どもは他者と接し、他者と接してゆくために は、そこに存在している規範を守ってゆかねばならないことを、父親を通じて知るのである。 従って、子にとって父親は、社会の規範の体現者であり、それを守らぬときは罰を与える怖い 存在である。しかし、子が規範を守るかぎり、父親はそれを賞し、子が社会へと出てゆくため の知識や技術を授け、教えてくれる存在でもある。 27 個人・家・社会
たちの間に出来あがってくるのである。家族のしがらみを断ったはずの人が、文壇の誰かれの ことを気にしながら、ものを書くことになる。 母親と父親の役割 このようなことを考えると、日本の家族関係は、家族ということに限定すべきことではな く、日本的人間関係、日本人の在り方の根本問題につながるものとして考えるべきであると思 われる。 日本人のなかには、家族から自立してゆくほど、家族との関係は稀薄になると考え、従っ て、西洋人のように日本人より自立している人は、家族との関係が少ないと思いこんでいる人 がある。しかし、これはまったくの誤解である。これを親類づき合いにまで拡大してみると、 たとえば、青井和夫氏は『家族とは何か』 ( 講談社現代新書 ) の中で、「従来の調査によれば、 日本の親族づきあいの頻度は欧米にくらべていちじるしく少ないという、意外な結果がでてい る」ことを指摘している。これに続いて、「だからといって日本のほうが親族関係が弱いと断 定するわナこよ、、 冫をし力ない」と述べ、「同居子との濃密な接触と別居子との疎遠な交渉」が日本 の特色であり、「別居子との親密な交渉」を欧米は常態としているための差ではないかと考察 している。
いか解らない。あるいは、母親が男の子の腕白さということをきようだい関係の中で経験して いないため、子どもが少しいたずらをするだけで悪い子であると決めつけたりするようなこと もよく生じている。ここにも核家族化と、家族の人員の減少が問題を呈しているようである。 きようだい喧嘩 同性・異性を問わず、きようだい喧嘩は、どこの家庭でも悩みの種であろう。きようだいの 数が少なく塾へ行ったり、稽古にいったりで、きようだい喧嘩の暇もない、などというのは論 外である。これは既に述べたように「他人のはじまり」としてのきようだいとの関係によっ て、将来必要な人間関係の学習をする場を奪うようなものである。きようだい喧嘩は必要な学 習である。 と言っても、喧嘩が甚だしいほど良いなどと言えないことは、自明の理である。きようだい 喧嘩を少なくして欲しいと願う親は、子どもの個性に目を開かねばならない。 きようだい喧嘩の多くは、親の考えが単層的であるために、どちらかを良い子にしたり、ど ちらかを悪い子にすることによって助長される。主に顧みられなかったカインが、アベルを殺 すより仕方のなかったことを思うべきである。親に認められないと感じた子どもは、その敵対 感情をきようだいに向けて発散させようとする。
ないであろ、。西洋の父は、背後に天なる父を持っていたが、今はそれもゆらぎつつある。 日本人につて問題は複雑である。日本の母性の強さを嘆き、西洋の父性の強さを範とすべ きことを説としても、実のところ、西洋では既に天なる父による統合に対して、強い疑問が 生じてきてるのである。このようなことは家族関係の話を逸脱していると思われるかも知れ 、ここまで考えを広げて来ない限り、現在における父親の生き方の困難を理解で きない、 と不は田 5 っている 父と子の和解 最近テレ・でも再演されたが、イタリア映画の「自転車泥棒」は、父と息子の姿を描いた名 作である。・転車を盜まれて犯人を搜し歩く親子は、折角犯人を見つけながら逃げられてしま う。小さい子は父親を「油断するからだ」と批判し、父親は腹立ちまぎれに息子をなぐりつ ける。自 5 子幼いながらに怒って口をきかなくなる。ところで、最後になって、困り果てた父 親は自転車 ; なければ一家が食いはぐれるという追いつめられた状況の中で、自転車を盗もう として、つかまってしまう。先に帰したはずの息子は、父親の情けない姿を見ていて、かけ よってくる。許されて、みじめな思いに打ちひしがれ涙を流す父に対して、息子が手をさしの べる。手を握り合って歩く二人の姿がラストシーンになる。 8
「本当の母」がどこかに存在するという感情は、物語などによくある「二人の母」の主題へと つながるものである。継母にいじめられている子どもが実母を探し求めて旅に出たりする話 が、多くの人の心を打つのも、このためである。 このことは、父親に対しても言うことができて、「二人の父」の主題も多く存在する。子ど もたちは、信頼しうる年長の男性を家庭外に見出したとき、あの人がお父さんであればいいの に、と田 5 ったりする。 ギリシア神話の中の代表的な英雄ヘーラグレースは、人間の母アルグメーネーと神なる父ゼ ウスとの間にできた子どもである。ところが、ヘーラクレースには双子の兄弟があり、イー。ヒ グレースというが、それは人間を父親として生まれてきている。神の血を引くへーラグレース は英雄であるが、人間の血を引いているイービグレースは、普通の人である。この双子の兄弟 を、一人の人間の心の中にある、英雄的な側面と常識的で普通の側面を表わしていると考えて みると面白いのではないだろうか。すなわち、人間は常識に従って日常の生活をすごしている が、その半面には隠された英雄的な面をもっている。常識的な自分は、人間の現在の両親の子 であることをよく知っているのだが、英雄的な自分は、実は自分はこのような親の子ではな く、ゼウスという偉大な神を父とするのだと思っている。 という人もあろ 人間の心の中の英雄的側面などというと、そんなものはあまり存在しない、
うのでなかなか話を信用してくれない。どうも母親が誇張して話をしているように受け取っ て、しばらく様子を見てはどうでしよう、くらいのことしか言ってくれなかった。そこで、た まらなくなって専門家のところに相談に来た、という次第である。 この両親にとって , ーー・実は自 5 子にとってもそうなのだがーーー、家庭は憩いの場などというも のではない。恐ろしくて逃げ出したくなるくらいの場所である。 東京には、夫の暴力を避けて家を出てくる女性のための施設があるが、最近では夫ではな く、息子や娘の暴力に耐えかねて逃げ出してくる人の方が多いという。高校生の娘さんになぐ られて骨折したり、鞭打ち症になったりした母親の例もある。これほど凄まじくはなくとも、 母や祖母をプロレスごっこの相手にならせ、跳びげりなどをする中学生もいる。本人は悪ふざ けかも知れないが、ネ ~ 且母ことっては「生命の危険を感じる」ほどの恐ろしいことである。 母親の述べることに話をもどすことにしよう。彼女の言によれば、自分は世に言う過保護な どというのではない。子供をできるだけ自立的に育てようとしてきたし、女性も自立的に生き ねばと思うので、 ハートタイムではあるが職業にもついている。実際に子供は自分の期待に応 えてくれたのか、小さいときから自立的で、本当によい子であった。成績もよかったし、父母 がやいやい言わなくても自分から勉強した。まったく模範生のような子であった。 それが高校に人学したときから成績が急に下り出したので心配になってきた。それでも自主
次章に例をあげて示すことになると思うが、意志の力によって結婚したと思っている夫婦で がはたらいてい も、そこには測り知れぬ運命のカーーー無意識の意志力とも言えるだろうが るのであり、それをはっきりと自覚してゆくことが大切なのではないか。そして親子の場合 も、最初に運命的に結ばれるものではあっても、互いに相手を親として、子として認め合って ゆくためには、強い意志の力も必要なのである。このような自覚によってこそ、われわれは家 族の中の愛の十字架を背負ってゆけるものと思う。 母子一体性 家族の人間関係はいろいろな絆によって保たれているとは言うものの、人間関係のそもそも のはじまりは、前章にも述べた如く、母と子との関係である。どんな子どもでも、男も女も母 親から生まれてくる。生まれるまでは、子どもは母親と文字どおり一心同体であったのであ と る。この母子一体性を基礎として子どもが育ってくるのだから、ここに障害があると、なかな る か大変である。 高校生の娘が家出や不純異性交遊を繰り返すので困る、ということで相談を受けたことがあで る。このような娘をもっ母親がすべてそうだとは言えないが、この母親にお会いしてすぐ感じ親 たことは、母性の弱さということであった。といって、母親が娘のことに不熱心というのでは