ではない」とか、「出てゆきなさい」と言ったりする。何を言おうが母子の絆の切れないこと を前提として行動している。前章にも述べたように、わが国は母性原理の強い国であるから、 母親の肯定的な像というものは、疑いを許さぬ存在として考えられてきた。 しかし、子どもが自立しようとするとき、その母親がどんなによい母親でも、母親の否定的 側面がにわかに意識されてくる。母親の親切は子どもにとって、自分を呑みこもうとするたく らみとさえ感じられる。家庭内暴力をふるう子どもに接すると、このような子どもが母性の否 定的側面に極めて鋭敏に反応していることが感じられる。このような子どもの母親は、母性の 善意ということに絶対的な信頼をもち、子どもに「親切に」接しようとする。しかし、子ども たちにとって、その親切は子どもの自立性を奪いとろうとする力の侵人として受けとられる。 母親自身は、救済者としての観音像を心に描いているとき、子どもの目にはそれは、何ものを も呑みこんでしまう山姥の姿と映るのである。このような「二人の母」の姿はまったく悲劇的 である。山姥の害を防ぐため、子どもが母親に打ちかかるとき、母親は観音に打ちかかってく る子どもの心を測りかね、気が狂ったのではないかと思い悩むのである。 母親の姿の中に山姥を見た子どもは、「お前なんか親でない」と叫ぶ。しかし、これは母親 を否定したのであろうか。多くの場合、その否定は中途半端に終ることになる。というのは、 子どもは親に向って暴力をふるったりしながら、結構その家にとどまって、親のつくった食事
れる。 われわれ心理療法家は、子どもの神経症症状に悩み相談冫 こ来られる両親が、実のところ離婚 したいと思いながら子どものことを考えて決心がっかず、うやむやのうちに日をすごしてい る、という事実にあたることがある。両親は自分たちの悩みを子どもには隠しているつもりで いる。しかし、子どもは心の底のどこかで感じとり、それはノイローゼの症状となって顕現さ れるのである。このようなとき、両親が率直にお互いの気持を話し合い、それを機縁として愛 が復活し、子どものノイローゼも解消するという ハッピーエンドのときもあるが、結局は、 両親の離婚に至ることもある。しかし、このようなときでも、子どものノイローゼは解消す る。つまり、よい加減のごまかしよりも、結果は望ましくないにしても事態が明確にされる方 が、子どもにとっては幸福なことがあるのである。 人間の幸福や、生き方について簡単なルールはないようである。ただ、どこまで誠実に自分 の生き方について考え、生ききるかということになるのであろう。自分の幸福のみを単純に考 え、子どもの幸福を無視するのは、まったく馬鹿げているし、子どもの幸福のみを考えて、自 分たちの生き方をまげてしまうのも望ましいことではない。片方のみを重視する人は、結局は それをも失ってしまうことになるだろう。人生の問題は、あれかこれかの選択としてではな く、あれもこれも粕 = フことによって解・状に至ることが多一いよ、つに思われる。
う。しかし、筆者は人間が親から自立するということは、まさに英雄的行為であり、そのとき こそ、各人の心の中の英雄が活躍するのだ、と思っている。英雄となった子どもは、こんな父 が自分の父であるはずがない、自分の真の父はどこか他にいるはずだ、と思うことであろう。 このようなとき、子どもは自分の生みの親を拒否しようとする。そして、中には、「お前なん か親ではない」と自分の親に向って叫ぶ子どももいる。 母親の否定 二人の父、二人の母の間題はまた、違った観点からも考えることができる。母を例にとる と、母なるものは「包含する」機能を主とすると述べたが、これは肯定的、否定的の両面をも っている。子どもを包みこんで養ってゆく肯定面と、包みこむ力が強すぎて子どもの自由を奪 い、呑みこんでしまう否定面とが存在する。子どもは一人の母の中に、このような二つの面を と 見ていることが多い る ところが、親が、特に母親が子どもに対するとき、自分が親であることの絶対性を疑うこと あ で 二人の母とか、母性の否定面などということは全然念頭に浮かんで来ない。母親とい うものは子どもにとって、かけがえのないものであり、絶対的に肯定的な存在であることを確親 信している。母親はこのような確信に支えられて、子どもに怒るときには「あんたはうちの子明
福にすることだと錯覚している親のために、子どもは家の外に出て「奉公」の苦しみを体験す るどころか、親の監視のゆきとどかぬことをよいことにして、安逸な生活をおくることになっ てしまうからである。現在の親は子どもに何かをしてやるよりも、できることでも敢てしない 愛情をもっことが必要なように思われる。 子どもに「他人の飯」を食べさせるとよいのではないか、と主張する親の中には、もう少し 考え直して欲しいと思わされることもある。よくあるのは、登校拒否の子どもをもった親が、 この子は廿えているのだから、もう少し厳しくするために他の家にあずけたり、施設にあずけ たりしてはどうだろうかと提案される場合である。こんなときにその提案に乗って、子どもを どこかにあずけるとすぐに登校し始めることがある。親も喜んで暫く様子を見た上でーー・・ある いは一年位たって進級してからーーー家に引き取ると、再び不登校が始まってどうにもならない ときがある。これは、子どもの方は家から離れることによって多少の進歩が期待できるにし ろ、親の方に全然変化が生じていないので、元の木阿弥になってしまうのである。 一般に子どもを他にあずけようと言い出す親は、子どもだけでなく親も変わらないと問題が 解決しないということに、気づいていない人ーーーというよりも、気づきたくない人 , ー , ・・なの で、これはなかなか簡単にことが運ばないのである。このようなときは、われわれは親の希望に 反対して、子どもを他にあずけたりせず、親子ともどもに苦しみ、ともに変化してゆくことに
る。そんなことをまったく知らなかった二人の子は十歳になってから偶然に出会い、話合って いるうちに両親の離婚のことを知る。両親の離婚に伴って、二人も別れさせられたことを了解 したとき、彼女たちは、「ほんとうは、あたしたちを半分に分けてよいかどうか、まずあたし たちに、たずねなくちゃいけなかったんだわ ! 」と叫ぶ。 確かに子どもたちの言うとおりである。大人たちは自分の意志によって離婚できる。しか し、子どもたちの意志は一体どうなるのか。『ふたりのロッテ』には、たとえ両親が離婚して も、子どもにとっては、父や母というものがどれほど大切なものであり、かけがえのないもの であるかが生き生きと描写されていて、胸を打つ。物語の方は、この後、ルイーゼとロッテの 愉快な活躍によって、両親の再婚が成立するのだが、そちらの方は読者に読んで頂くことにし よう。ところで、ケストナーがこの本を書いた頃は、児童文学において「離婚」のことを取り あげることは、タブー視されていた。それにもかかわらず、子どもたちのために離婚について 語らざるを得ないことを、彼は作中で弁明し、「この世の中には離婚した両親がたいそうたく 機 さんいること、そのためにいっそうたくさんの子どもが苦しんでいること、また他方、両親が 危 の 離婚しないために苦しんでいる子どもがたいそうたくさんいること」を指摘している。両親の 離婚が子どもたちの心にもたらす傷を、これほどまでに描きながら、ケストナーが「両親が離家 婚しないために苦しんでいる子ども」の存在についても言及していることは大切なことと思わ
に、子どもは一人に制限しておこう」と夫婦で決めたのだと言われ、驚いたことがある。親が 子どもを大切にすればするほど、子どもは幸福である、そして、大切にするということは、物 を豊かに与えてやることだ、という極めて単純な考え方がそこには存在している。これは極端 な話であるが、このような考え方は、わが国の多くの親の心の中に大なり小なり存在している ようである。そこには、子どもの経験する悲しみや苦しみを、自らも共にする苦痛を逃れよう とする気持が、潜在しているようである。 きようだい間の「平等」 ほとんどの親は、自分の子どもたちを「平等」に扱っていると確信している。しかし、子ど もたちの目から見るとき、絶対の「平等」などは存在しないのである。そしてまた、それは不 可能なことである。きようだいは年齢が異なるので、その興味も関心も異なって当然である。 子どもたちに、し 、つも同じものを与えることなどナンセンスである。それに、何をするにして も、それそれ年齢相応の役割がある。長男であるために、次男であるために、あるいは末子で あるために「損をした」と思っている人は多い。子どもたちが「不平等」を嘆くとき、親は腹立 たしく思う。一見、不平等であるように見えることでも、親としては、それ相応の理由がある からしたことであり、本質的には平等であるという態度に変わりないと信じているからである。 117 きようだい
ても、現実に「無能な」老人に接していると、尊敬や感謝の念がだんだんと薄くなり、遂には 憎悪の感情をもたねばならなくなるのではなかろうか。 祖父母との別居 小学三年生の男の子が夜尿がひどくて困る、と相談に来られた母親があった。夫は一流会社 のエリー ト社員、彼女も大学出の才媛であった。夫は一流大学出身だが、夫の両親はあまり教 養がなく、同居中は何かとわずらわしいことが多く、いろいろと苦労して家を新築し、両親と 別居してやれやれと思っていたら、子どもが夜尿になったと言うのである。母親は子どものこ とが大切なので、勤めに出たい気持もおさえ、専ら家のことに力をつくしてきている。両親と 同居中は気晴らしによく外出したりしたが、リ 男居してからは子どものことを考え外出もひかえ ている。夫の両親は孫がかわいいのと、無教養のために、やたらに甘やかしたり、馬鹿げた非 科学的なことを教えたりして困ったものだったが、別居によってはじめて、自分たちの教育方 針で子どもを育ててゆけると喜んだのだった。 一体自分たちの育て方のどこに欠陥があるのだ と ろうか、それを明らかにして欲しい、とのことであった。 人 子どものことにはもともと熱心な人であるし、勘も鋭い人であったので、「子どもさんの教老 育に邪魔たと思っていた、おじいさん、おばあさんが居なくなられて、かえって子どもさんの
ここに「母なるもの」という表現をしたが、われわれ人間の心の奥底には「母なるもの」と いうべき存在の元型が潜んでいるように思われる。前章に母性原理について述べたが、そのと とんなものでも、どんなときでも、 きに何ものをも「包含する」母性機能について言及した。・ すべてを包みこんでくれる、母なるものの元型は、われわれの無意識界の奥深くに存在し、わ れわれの意識に影響を与える。 たとえば、子どもの心の中で、この元型がはたらくとき、子どもは絶対的に自分を包みこん でくれる母なるものの存在を期待する。しかし、現実の母は人間であるかぎり どんなにい い母であろうとーーー・子どもの絶対的な期待を満足させることはできない。そのとき、子どもは 「ひょっとすると、僕の本当のお母さんはどこかに居るのではないか」と思う。こんなふうに 思いはじめると、他の兄弟に比して自分だけはあまり可愛がられていないように思えてきたり するものである。自分は「貰い子」ではないのか。このような疑問を抱かない子は、実は非常 に少ないのではないか、と筆者は思っている。 と このような疑問は、子どもの自立の動きのはじまりである。子どもはこのような体験のなか る で、母親が絶対的な存在ではなく、一個の人間であることを知ってゆく。そして、絶対的な母で なるものは、実は自分の心の内に存在することを知り、これによって母から自立してゆくこと親 が可能となるのである。
調すること、などを学んでゆくわけである。あるいは、竸争心をどのようにコントロールする か、という難しいことも、知らず知らずのうちに学んでゆくことになる。また、悲しみや喜び を他人と共にすることが、自分にとってどれほど意味あることかを体験することになろう。 子どもにとって、両親 ( 特に母親 ) と自分の世界は、絶対的と言ってよいほどのものである。 にもかかわらず、そこに他人 ( つまり、自分の弟妹 ) がはいり込んでくるのは、世界の崩壊にも 等しい大事件である。ともかく、そこにおいて、子どもは重大な世界観の改変を経験しなくて はならない。あるいは、次男、次女として生まれてくる子どもたちは、生まれてくるときか ら、自分より先に、自分と母親という絶対的な結合に割り込んでくるものが存在しているとい う事実を、受け容れねばならないのである。 しかし、このような受け容れ難いことを受け容れる体験こそ、人間が社会人として成長して ゆくための基礎となるものではなかろうか。親としては、そのような体験に潜む、子どもたち の悲しみを共感することによって、障害を少なくしてやることが大切だが、悲しみや苦しみを 味わわせないように、あるいは、そのような感情を存在してはならないものとして無視するこ とは、避けねばならない。 子どもの問題で相談に来られた両親に対して、お宅はどうして一人子なのですかと尋ねたと ころーーー実はそのことが大きい間題であったのだが 「子どもをできるだけ大切にするため 116
、子どいは手を差しのべる。キリスト教徒同士が血で血を洗う争いを続けていたとき、 黙ってみてた天なる父と人間がいかに和解するかというのが、この映画の主題ではないかと 私は感じる。泣きぬれて、打ちひしがれて、子どもに助けられ手をひかれて歩く「父」は、現 代の父の在様を厳しく描いている。父は子どもと和解ができた。しかし、彼はもはや天にあ って、普遍戒律を人に課す父ではない。彼自身が戒律を破ったのだから。 なく子ども ' 拒否されるだけであろう。もちろん、日本には土なる父の伝統が未だに生きてい るので、そが「身についたもの」としてはたらく人はいいだろう。ともかく付焼刃は駄目で ある。父親怒りを取り戻そうとするにしても、借物としてではなく、自分の存在の根から掘 り出したもに従わねば、何の効果もない。土なる父はあきらめたとしても、さりとて、天な る父の声の弁者として、子どもたちを統制することも難しいであろう。わが国で天なる父の 声を聞くことは大変困難であるし、本家のヨーロッパでさえ、天なる父は己の過ちを恥じて か、黙し勝ちのように思われるからである。われわれ父親はそこで、まったく頼りのない存在 として、自分の全存在をかけて子どもに対するより仕方がないのである。そのときこそ、子ど もは手を差しのべてくれるであろう。ただそれは、しばしば外見的に見栄えの悪いものとなる ことを覚悟ておかねばならない。