父、よい夫とし生きてきたのだが、だんだんと酒が過ぎて失敗するようになった。その度に 反省して立ち上ろうと誓うのだが、どうしても駄目なのであった。ところで、彼は母一人娘一 人の家の婿養子なので、彼が家で自由をもたないためではないかと考える人もあったが、実際 は、まったく自由勝手に振舞っており、彼の妻もその母も、むしろおろおろしているといった 状態なのである。二人ともまったく大人しい女性で、いわゆる亭主を尻にしくようなタイプで 彼自身でさえ自分の状態が非常に「恵まれた」ものであることを認めているのだが、 一方で は、不可解な焦立ちのようなものを感じ、酒を飲んで散財せざるを得ない気持になることも事 実なのである。その原因は、この家の母・娘間の無意識的な結合の強さにある。母・娘結合の 強い世界に生きる他人は、自分の個性の存在が危くなってくるのである。不変の大地を基盤と して、芽をふき成長し、やがては枯れる草のように、それなりの変化はあるとしても、大地の 不変性に比べると、それは無に等しいものになってしまう。彼は最初のうちこそ、立派な家に 見こまれて養子になったことを誇りとして、仕事にも励んでいたのである。しかし、いつの頃 からか自分という存在の影がだんだんと薄くなってゆくのを感じとっていた。自分を取り戻そ うとして、彼は勝手なことを始めた。それに対して女性たちは何の抵抗もしなかったが、彼は 勝手な行為を重ねるほど、ますますむなしい気分に襲われるようになったのである。強烈な
うるさい親戚 「親戚の泣き寄り」などという言葉があるように、平素は疎遠にしているような親戚でも、不 幸なときには寄ってきて共に悲しみ慰めてくれる。こんなときは親戚の有難さ、血のつながり のもっ暖かさをしみじみと感じるものである。それは「血」という不可解なものによってつな がっているだけに「理屈抜き」の心の支えとなってくれる。 ところで、これとは逆に「厄介者」の親類縁者によって常に不愉快な気持を抱かせられてい といっていいだろう。長らく会 る人も、極めて多い。そのような体験のない人の方が少ない、 っていない従兄が立派な見なりでやってくる。話を聞いてみるとなかなか景気よくやってい て、今度事業を拡大すると言う。それについて少し資金を援助して欲しいとのことだが、親類 のことではあるし、それに相当な利益もあげそうだし、とのことで話に乗ってしまう。ところ が、その後何の音沙汰も無いので連絡してみると、相手は詐欺の常習犯だったなどということ もある。誰でもある程度の地位や財産ができると、人を援助したくなったり、財産を一挙に増 やしたいような心境になるものである。「あなたは親類の中の出世頭である」とか、「他人のた めにつくす親切な気持を小さいときからお持ちだった」とか言われ、しかも、他人の援助をす ることによって大きい利益を得るとなったら、つい金も出したくなるものである。ともかく、 156
ま見せつけられたように思った。言葉をうまく話せぬ父親の看病をしているうちに、 Z 夫人の 離婚の意志は消えていった。それは不思議な気持であり、この心の変化も彼女はうまく言えな かった。いろいろと口論したりしたので夫の態度も前より少しは変っていた。しかし、それほ ・ハーな言い方をする ・しかし、 Z 夫人の方は、少しオー どの大きい変化があったわけでもない。 と、この人とそい遂げるのだというような気持が心の奥から湧いてきたのである。そうする と、それまで立腹のもとになっていた、夫の何となく気のきかない野暮な行動が、むしろいと しいように思われてくるのが不思議であった。 転回点 危機が生じたとき、その重荷に耐えていると不思議な転回点がくるものである。われわれの ところに相談に来られる人は、苦労が限界に達してどうにもならない状況に追いこまれたよう に感じて来られるものであるが、それでもわれわれはなるべく急いで処置をせずに待つように 努めるのは、このような不思議な転回点がおとずれてくることが多いことを知っているためで機 の ある。 族 z 夫人の場合は、思いがけない父親の病気が転回点となった。病気というものは不思議なも家 のである。それは身体の状態ではあるが、思いの他に心の状態とも関連しているのではないか
じめた。中学生といっても随分と体格がいいので、本気でなぐられたりすると母親もたまらな とうとう父親に訴え、今まで我関せずの態度をとっていた父親も、娘を叱りつけた。とこ ろが、娘の方は負けていない。逆に父親に喰ってかかる始末である。果は父と娘のなぐり合 一来ることになっ いにまで発展し、たまりかねて両親は娘を引き連れて専門家のところに相談に た。娘の暴力はそれでもなかなか止まずに両親を手こすらせたが、話合いを続けているうちに 母親の気づいたことは、娘が父親に当たり散らしていることは、本当は自分が夫に対してやり たかったことではないか、という事実であった。 母親は夫に従うことが大切と考え、いろいろと言いたいことも言わずに、ひたすら夫に仕え てきた。それが女の生き方だと思っていた。ところが、その間に無意識内に貯めこまれたもの は、そのまま娘が引き受けていたのである。といっても、娘が意識して母親の代弁をしたので はない。彼女にしてみれば、ともかくわけの解らないのに気持がふさぎ、自分の気持の解って くれぬ両親に文句を言ったまでのことである。母親がそのような事実に気づき、娘の力に押さ といっても口論になることが多かったが , ・・・・、ーを続けてゆくうちに、 れながら父親と話合い 娘の暴力はまったく消失してしまったのである。娘に背負わせていた自分の影を母親が自らの娘 と こととして引き受けることによって、問題は解決していった。母親の成長にとってどうしても 必要な、このようなことを生ぜしめるために、娘の暴力が起爆力として作用したのである。
をみることができる。ただ、守り神は一生を通じて一定とは限らない。今までアテーネの庇護 のもとにあった女性が、それを失ったときは随分と苦しまねばならない。あらたな守護神を見 出すまでの苦難は、時に、あまりにも厳しく、その人を死に追いやるときさえある。 逆に、父があまりにもみじめであったり、父にあまりにも拒否されたりしたために、天なる 父の存在に気づく女性もある。ある中年の女性は信仰心もあっく、幸福な家庭を築いてきてい たが、あるとき、世の中でお金というものには、一番多くの細菌がついているのだと聞かさ とこの誰が手に触れているか解らないと思 れ、それ以後お金が汚なく思えて仕方なくなった。。 うとたまらなくなって、遂にはアルコールで拭いたりするようになった。そのうちお金に触れ た手でさわったものまで、すべて汚ないように思われて、たまらなくなってきた。 これは不潔恐怖と言われているノイローゼの軽い症状であるが、彼女はカウンセラーのとこ ろに相談にゆき話し合っているうちに、夫の持ち帰ってくる月給に対して、有難いと思う気持 、 , 彼女はこのことか と汚ないという気持が交錯して、一番強い葛藤に襲われることに気づした。 , ら、夫をはじめ男性一般に対する根深い不信感の存在に気づいた。結局のところ、話は父親の ことにまでさかのばり、彼女は天なる父の助けによって生きてきたものの、彼女を拒否してい た実の父に対する復讐心ともいえるものが、心の中に底流として流れ続けていたことが明らか になった。男性に対する信頼感と不信感の葛藤は、彼女の「二人の父」の像から生じていたも 107 父と娘
/ きようだいの力学 / 異性のきようだい / き ようだい喧嘩 9 ー家族の危機 : ・ 離婚 / 中年の危機 / 転回点 / 対話の場 / いけ ー老人と家族 : 老人の位置 / 祖父母との別居 / 老人の知恵 / 二つの太陽 / 死後の生命 ー家族のうち・そと : うるさい親戚 / 外からの問題提起 / 自立と孤 立 / 他人の飯 / 死を通しての再生 / 妹のカ ーこれからの家族 : 一家団欒の虚像 / カーは二台、子どもなし / 家族のパラドックス / 「父親の気持がわから ないのか」 / 自分のなかの潜在カ / 存在の確 1 1 155 127 141 171
に、子どもは一人に制限しておこう」と夫婦で決めたのだと言われ、驚いたことがある。親が 子どもを大切にすればするほど、子どもは幸福である、そして、大切にするということは、物 を豊かに与えてやることだ、という極めて単純な考え方がそこには存在している。これは極端 な話であるが、このような考え方は、わが国の多くの親の心の中に大なり小なり存在している ようである。そこには、子どもの経験する悲しみや苦しみを、自らも共にする苦痛を逃れよう とする気持が、潜在しているようである。 きようだい間の「平等」 ほとんどの親は、自分の子どもたちを「平等」に扱っていると確信している。しかし、子ど もたちの目から見るとき、絶対の「平等」などは存在しないのである。そしてまた、それは不 可能なことである。きようだいは年齢が異なるので、その興味も関心も異なって当然である。 子どもたちに、し 、つも同じものを与えることなどナンセンスである。それに、何をするにして も、それそれ年齢相応の役割がある。長男であるために、次男であるために、あるいは末子で あるために「損をした」と思っている人は多い。子どもたちが「不平等」を嘆くとき、親は腹立 たしく思う。一見、不平等であるように見えることでも、親としては、それ相応の理由がある からしたことであり、本質的には平等であるという態度に変わりないと信じているからである。 117 きようだい
問題が出て来たのですね」というカウンセラーの言葉を手がかりに、この母親は比較的早く自Ⅷ 分たちの問題点を探し出すことができた。つまり、祖父母のとばけた味が、両親のせつかちで ギラギラした愛情を、どこかでうまく緩和させることに役立っていたことに気づいたのであ る。特に彼女はどんなことにでも、すぐに一所懸命になるタイプだったので、たとえば、夫が 同僚などをつれてきて、その接待となると、それに心を奪われてしまう。それは子どもの体験 としては、自分がまったく棄てられたような気持になることである。子どもとしては、母親の 態度があまりにも急に変るので、一体自分は愛されているのかどうか解らなくなってくる。真 昼間から真夜中に変るような状態のなかで、祖父母は太陽に対する月のような存在として、急 激な変化を緩和し、真夜中にも柔かい光をおくってくれていたのである。 何事にも一心になる人なので、このように気づくと、もう一度祖父母と同居した方がいいの では、と主張されたが、そのようにせつかちなところが考え直すべきところではないかという カウンセラーの提言もあって、別居以来できるだけ敬遠していた祖父母との交際を密にしてゆ くことによって、子どもの夜尿の間題は解決されていった。 老人の知恵 老人の価値は目に見えにくいものである。老人の知恵は「進歩」につながってゆく知識とは
れる。 われわれ心理療法家は、子どもの神経症症状に悩み相談冫 こ来られる両親が、実のところ離婚 したいと思いながら子どものことを考えて決心がっかず、うやむやのうちに日をすごしてい る、という事実にあたることがある。両親は自分たちの悩みを子どもには隠しているつもりで いる。しかし、子どもは心の底のどこかで感じとり、それはノイローゼの症状となって顕現さ れるのである。このようなとき、両親が率直にお互いの気持を話し合い、それを機縁として愛 が復活し、子どものノイローゼも解消するという ハッピーエンドのときもあるが、結局は、 両親の離婚に至ることもある。しかし、このようなときでも、子どものノイローゼは解消す る。つまり、よい加減のごまかしよりも、結果は望ましくないにしても事態が明確にされる方 が、子どもにとっては幸福なことがあるのである。 人間の幸福や、生き方について簡単なルールはないようである。ただ、どこまで誠実に自分 の生き方について考え、生ききるかということになるのであろう。自分の幸福のみを単純に考 え、子どもの幸福を無視するのは、まったく馬鹿げているし、子どもの幸福のみを考えて、自 分たちの生き方をまげてしまうのも望ましいことではない。片方のみを重視する人は、結局は それをも失ってしまうことになるだろう。人生の問題は、あれかこれかの選択としてではな く、あれもこれも粕 = フことによって解・状に至ることが多一いよ、つに思われる。
ない。子どもの教育のことには熱心であり、娘のことを心配するからこそ、遠いところをわざ わざ出かけて、相談にも来られたのである。彼女を冷たいというのもあたってはいない。 し、言うならば、その母には「土」のにおいが無さすぎ , るのである。このような感じをうまく 表現することができなくて困るのだが、サラサラとし過ぎている、とでも言うのであろうか。 このようなことは、他人にはある程度納得して貰えるかも知れない。 しかし、本人に解って 頂くことは不可能に近い。他人に言われてすぐ気がつくような間題ではない。本人としては意 識的には良き母親として一生懸命なのである。娘の方にしても母親に対する不満を言葉で表現 できないことが多い。何が不満なのかと言われても、うまく言うことが出来ない。娘にとって 意識されるのは、ともかく家を出たいとか、男性に何となく心をひかれ、自分でも馬鹿げてい ると思いながら、駆りたてられる気持とか、である。もちろん、最近は、このような娘さんも ) ー・セッグスなどの理論武装をこころみて、鋭く論戦をいどまれることもあるが、それに 乗らすに落ち着いて聴いていると、結局は自分でもわけが解らない、というところまで話がす すんでゆくものである。 この娘さんは母親との一体感を得たいと望んでいる。しかし、それでも自分のあまり経験し てなかったものを、どのように表現していいか解らない。このような場合、実はこの母親を非 難できない , ) とが多い。というのは、この母親自身が母子一体感の経験の少ない人であること