存的対決 / 相補性と共通性 / 個性の実現 5 ー父と息子 : 父権喪失 / エデイプスと日本人 / 父なるもの / 天なる父と土なる父 / 現代の父 / 父と子の 和解 6 ー母と娘 : ・ 思春期拒食症 / 母・娘結合 / 嫁と姑 / 円型の 心理 / 根源にある母・娘結合 7 ー父と娘 : ・ 嘔吐に苦しむ少女 / 父・娘結合の解消 / スサ ノオの怒り / 父の娘 / 二人の父 / 父・娘パタ ーンと日本人 8 ーきようだい カインとアベル / チッグ症の少年 / きようだ いは他人のはじまり / きようだい間の「平等」
を期待するということも出来ずにいる。反抗する者もされる者も、母性によって包まれた中 で、不徹底な戦いを続けているのである。 天なる父と土なる父 父性の弱さということが現代日本の問題であることを指摘する人の中には、昔の父の強かっ たことを強調する人がある。このような観点から復古調の家庭論や育児論も盛んになりつつあ るように思われる。しかし、本当に昔の父は強かったのであろうか。この点については、次の ようにも考えることができる。父なるものにも、天なる父と土なる父とがある、と考えてみて はどうであろう。象徴的な意味において、前者は精神と、後者は身体と結びついていると言っ てもいいだろう。土なる父は肯定的には、力強くて暖かく、生命力を与えるものであり、否定 的には、恐ろしく、生命を奪い去る強さとして感じとられる。これに対して、天なる父は、肯 定的には、人間に生きるべき法則を与え、輝かしい未来を約束してくれるものであり、否定的 には法則に少しでも従わぬものを処罰する恐ろしいものと感じられる。このような分類に従う 子 ならば、わが国における父性は、土なる父の要素が強く、天なる父の要素が非常に少なかった と言えるのではなかろうか。そして、土なる父は、結局のところ、土という太母の領域に存在父 するものとして、どこかに母性原理の影響を身につけているのである。時に、土なる父たち
、子どいは手を差しのべる。キリスト教徒同士が血で血を洗う争いを続けていたとき、 黙ってみてた天なる父と人間がいかに和解するかというのが、この映画の主題ではないかと 私は感じる。泣きぬれて、打ちひしがれて、子どもに助けられ手をひかれて歩く「父」は、現 代の父の在様を厳しく描いている。父は子どもと和解ができた。しかし、彼はもはや天にあ って、普遍戒律を人に課す父ではない。彼自身が戒律を破ったのだから。 なく子ども ' 拒否されるだけであろう。もちろん、日本には土なる父の伝統が未だに生きてい るので、そが「身についたもの」としてはたらく人はいいだろう。ともかく付焼刃は駄目で ある。父親怒りを取り戻そうとするにしても、借物としてではなく、自分の存在の根から掘 り出したもに従わねば、何の効果もない。土なる父はあきらめたとしても、さりとて、天な る父の声の弁者として、子どもたちを統制することも難しいであろう。わが国で天なる父の 声を聞くことは大変困難であるし、本家のヨーロッパでさえ、天なる父は己の過ちを恥じて か、黙し勝ちのように思われるからである。われわれ父親はそこで、まったく頼りのない存在 として、自分の全存在をかけて子どもに対するより仕方がないのである。そのときこそ、子ど もは手を差しのべてくれるであろう。ただそれは、しばしば外見的に見栄えの悪いものとなる ことを覚悟ておかねばならない。
に基づくものである。このため、日本人の心性を考えるためには、精神分析理論を用いるにし ろ、エデイプス期以前についての理論を用いる方がはるかに適切になってくるのである。 父なるもの ここで、私はフロイトよりもむしろュングの考えを踏まえて、父と息子の問題を論じてみた い。それはフロイトの理論が十九世紀末の西洋の文化に対しては適切であったろうとは思う が、ユングの考えの方が、日本人と西洋人とを比較して考察する上においては、より適切なよ うに思われるからである。そこで、ユングにならって、個人としての父ではなく、人間の心の 奥に存在する父なるものの元型について考えてみよう。 われわれの無意識界の深層には、母なるものの元型が存在するようこ、 冫父なるものの元型も 存在する。しかしながら、既に述べてきたように日本は母性の強い国であるから、父なるもの の存在は意識され難いようである。父なるものは、子どもが母親より離れ自立してゆくとき、 自立を支える規律を与えてくれる。ところで、息子たちは既に述べたように父親に反抗するの であるが、結局は父親と同一化し、その社会の成員となってゆく。このとき、父親はその成員息 と の属する社会の文化や伝統の担い手としての役割をもっている。息子たちは、そのような文化 父 や社会が「父なるもの」の規律によっていると感じて、それに従うのであり、言うなれば、自
になってゆくために必要なものとして役立ってくれていたのである。 あるいは、「妹の力」だけでなぐ、伯父、叔父の存在も意味をもっていた。昔はきようだい が多かったので、父親の弟妹たちがよく同居していたものである。 3 章 ( 親子であること ) に、「二人の母・二人の父」ということを述べた。子どもにとっての父親 ( 母親 ) 像は時に分 裂して、善い父、悪い父、となったり、天の父、地の父、となったりする。このようなとき、 もう一人の父としての叔父が存在することによって、分裂した父親像を外的にも体験しなが ら、それを統合することが容易になるのである。あるいは、既に述べた「父親殺し」というこ とも、実の父に向って戦いをいどむことが難しいとき、叔父と口論することによって、ある程 度その代理としたり、「練習」を積んだりすることもできる。あるいは、父との対決の場にお いては、叔父はむしろ子どもの理解者として援助してくれるかも知れない。 / 父ー息子という直 結した関係があまりにも凄まじいものとなり勝ちなとき、伯父・叔父という斜めの関係が緩衝 剤として役立ってくれるのである。 何のかのと言っても同居人がいることはうるさいことが多い。核家族は気楽であるし、合理 的である。しかしながら、今まで述べて来たことによって明らかなように、核家族化によって 失ったものも大きく、その害は最近とみに顕在化されつつある。われわれとしては、核家族化 をすすめつつも、それによって失ったものを回復することを常に考えねばならない。つまり、 168
ない。彼らは、天なる父をよびおこす手段を知らないのである。もちろん、よびかけられてい る側の大人たちもそれについて無知なのである。 現代の父 現代は父親の受難の時代である。先に述べたように、父親殺しを成功させるのは少数の創造 的英雄のみであることを知ってか知らずか、人間は世襲制度という便利な手段を用いてきた。 そこでは父親は安泰であった。息子に対して圧倒的な優位を保ち、息子は父親に同一化する。 ところが、「自由」を求めて、われわれはそのような制度を棄てつつある ( ヨーロッパでは、 本人の想像する以上に世襲的な考えは強く保たれている ) 。しかも、文化や社会の変化のさのため に、伝統や規範の荷い手としての父の役割は、急激に稀薄になりつつある。たとい、息子が父 親と同じ職を継ぐとしても、技術革新の速さのため、息子の方が父親の知識をすぐに追い抜い てしまう。世襲制度は現代では何も便利な制度ではないのである。 ッパにおいての大きい問題は、天なる父 このような現象に加えて、天なる父を頂くヨーロー の律法が全世界に通用するものではないことを認識しなくてはならなくなったことではなかろ息 うか。最初は、彼らは彼らの父の教えこそが唯一の正しいものであり、それによって世界を救父 うことを考えたであろう。しかし、現在でもそのような考えをそのまま持っている欧米人は少
の症状を契機として、彼女の母は父・娘結合を解消し、はじめて夫との結婚をなしとげるし、 それを通じてこの家の二極分解作用にも終止符が打たれることになったのである。 それにしても、この母親の結婚を決定するときの彼女の父親の心の在り方を推察すると興味 深い。彼は意識的には、娘の幸福のためには少しくらい妥協しても結婚させなくてはと思い 無意識的には、彼女が不満足な結婚にあきたらず、父親のもとに帰ってくることを期待してい たのではなかろうか。しかし、実のところ、それらを超えた父なるもののはからいによれば、 この父と娘にとって自らを成熟させる上で、もっともふさわしい相手を選んでいたのである。 結婚において、当事者たちの意図をはるかに超えた選択の意志のはたらきを感じさせられるこ とは、実に多いものである。 スサノオの怒り 先の例に示したように、、 父・娘の結合があまりにも強いときは、いろいろと間題を生ぜしめ る。フロイトは、母・息子関係に注目してエデイプス・コンプレックスの存在を強調したが、 これを父・娘の場合にもあてはめて、エレグトラ・コンプレッグスと呼んでいる。エレグトラ娘 はギリシア悲劇の女主人公で、父への愛のために、母を殺害した人物である。ところで、 5 章父 にエデイプス・コンプレックスは日本人にとってあまり大きい意味をもたないと言ったこと
終戦後、各国に非行少年が急増したとき、イタリアは敗戦国でありながら非行少年があまり 増えなかった。不思議に思ったアメリカが専門家による調査団を派遣した。そして、彼らの得 た結論は、「父親の権威」がイタリアでは保たれているからだ、ということであった。そのイ タリアにおいて、この映画がつくられたことも意義が大きい 父親が怒って子どもをなぐりつけたとき、このような土なる父の強さは、子どもがいかに なくとも反抗をさそうだけのものであった。それでは、天の父はこのとき助けとなったであろ うか。この映画は、このつつましい正直な父親に対して、理不尽なことばかりが生じ、彼が んだんと追いつめられてゆくところを巧みに描いている。私はこの幼い子がイタリアであり、 このひ弱い父が、天なる父であるかのように思われた。あるいは、キリスト教徒たちが当時心 に描いた、人間と神の関係といっていいかも知れない。 「父」は救いの手段を見出せなかった。正しい者に救いはもたらされなかった。弱い父親に とってなし得る唯一のことは、彼自身が泥棒になることであった。今まであれほどまで自転車 泥棒を憎みつづけていた彼が、それと同類となることを決意する。これは悪を犯すか犯さない かという次元ではなく、存在の根っこまでぎりぎりに追いつめられた人間が、全存在をかけて息 と 父 行為するか否か、という次元で受けとめるべきであろう。 己の全存在をかけて行為した父に対してーー・・それがいかに外見的にみじめに見えようとも
分の父親のに父なるものの威厳を感じているわけである。 ところが、真に創造的な人間は、個人としての父と、父なるものとの差異を感じとる。父な るものは生キていく上において必要な規律と法則を与えるが、創造的な人が把握するものは、 伝統的な古法則と異なるものである。この際は、息子は英雄となり、父なるものを背後に持 迫害しようとし、時には息子が敗北することもある。あるいは、この迫害によってこそ、息子 は英雄として又えられてゆくと言ってもいいだろう。 最初にあげたさんと息子の例について考えてみよう。息子は父親の路線に従って大きくな ってきたのだが、少し「英雄的」な素質をもっていたのであろう。父親に反抗して新しい法則 を生み出そうする。父親が頑張りやで、多くの収入を得る人であったので、彼はその反対に 怠惰になり、費的な生き方をしようとする。ただ、残念ながら、彼は自分の導き手となり、 古い父親と戦っ手段を与えてくれるはずの、父なるものの存在を明確に見出すことができな い。それはむろ当然である。というのは、彼は父親殺しに先立ってなされるべき、母親殺し を行っていな、からである。彼はどうしても母性の方に助けを求めることになり、父親を非難 しつつ、父親金を浪費することによって生きるという矛盾した生活を送っている。父親の方 も、父なるもの威厳を背後にもって、その反抗する息子を打ち殺し、強い息子としての再生
ないであろ、。西洋の父は、背後に天なる父を持っていたが、今はそれもゆらぎつつある。 日本人につて問題は複雑である。日本の母性の強さを嘆き、西洋の父性の強さを範とすべ きことを説としても、実のところ、西洋では既に天なる父による統合に対して、強い疑問が 生じてきてるのである。このようなことは家族関係の話を逸脱していると思われるかも知れ 、ここまで考えを広げて来ない限り、現在における父親の生き方の困難を理解で きない、 と不は田 5 っている 父と子の和解 最近テレ・でも再演されたが、イタリア映画の「自転車泥棒」は、父と息子の姿を描いた名 作である。・転車を盜まれて犯人を搜し歩く親子は、折角犯人を見つけながら逃げられてしま う。小さい子は父親を「油断するからだ」と批判し、父親は腹立ちまぎれに息子をなぐりつ ける。自 5 子幼いながらに怒って口をきかなくなる。ところで、最後になって、困り果てた父 親は自転車 ; なければ一家が食いはぐれるという追いつめられた状況の中で、自転車を盗もう として、つかまってしまう。先に帰したはずの息子は、父親の情けない姿を見ていて、かけ よってくる。許されて、みじめな思いに打ちひしがれ涙を流す父に対して、息子が手をさしの べる。手を握り合って歩く二人の姿がラストシーンになる。 8