できなくなるのに耐えられないと感じたからである。 彼女の生活はまったく楽しいものであった。仕事は思う存分できるし、適当に生活を楽しむ ポーイフレンドには事欠かない。収入が多いので旅行などもよく出来る。ところが四十歳近く なって、日本の支社に帰ってきた頃からひどい抑うつ症になってきた。会社の仕事が全然面白 くないのである。はじめのうちは、自分はやはりアメリカ向きで、日本の文化に合わないため かと思ったりしていたが、そのうち、自分では否定したいと思っていた原因をどうしても肯定 しなくてはならなくなった。彼女は結婚して子どもが欲しいと思いはじめていたのである。自 分の心に潜在する欲求に気づくと、彼女は電車に乗っても、子ども連れの女性をみると、たま らない気持におそわれるようになった。そんな女性を押し倒して、子どもを奪ってゆきたいと いう衝動をおさえ難いと感じるほどになった。彼女は衝動の暴発をおそれて外出ができなくな り、職場を放棄しなくてはならぬほどになった。 このような例に接すると、家族の意義をもう一度考え直すべきではないかと思われる。 家族のパラドックス 昭和五十五年一月三十一日の朝日新聞に、米国のウイメンズ・リプの方向転換を示す興味深 ・フリーダンは最近の論 し言事が掲載されていた。それによるとリプの有名な指導者べティ 176
文の冒頭に、ある中年の女性マネージャーの次のような言葉を引用していると言う。「生活の ートに戻る。その すべてを、男性分野への進出に打ち込んできた私は、毎夜一人っきりのアパ い。たとえ父親なしでも子どもを持て 、いをすさませる孤独には、もう耐えがたい。家族が欲し ば、も、つ少 - し寺しな ~ 暑し亠刀ができき 6 しよ、つに・ この言葉は先にあげた例のように、中年になるまでは独身生活の良さを謳歌しながら、急に 家族や子どもが欲しいと嘆く人たちのことを思い起こさせる。なかには、その他のことでは極 めて冷静な判断力を有していながら、結婚したい気持が強すぎたのか、みすみす結婚詐欺の手 口にひっかかってしまった人たちもある。このような女性たちに、家族がどんなうとましいも のであるか、たとえ子どもがあっても、気苦労なばかりであって、結局は親のことなどかえり みず、自分勝手なことをするものだ、と説明したとしても、それは全く無駄なことである。彼 女たちは、そんなのは持てるものの悩みであって、自分たちの孤独の苦しみはそれと比較にな らぬものだと主張するであろう。 いが、もちろん、これによって彼女は リプの指導者が家族を見直そうというところは興味深 「女性よ家庭に帰れ」などと主張しているのではない。人間の幸福の基盤としての家族の価値 を確認し、男性も女性も平等に力を合わせてゆこうということになるらしい。筆者としては、 既に述べたように、個性を確立するために、家族を一方的に邪魔者と考えるのには反対だが、 177 これからの家族
中年の危機 人生にはいろいろな節目があるが、中年というのも重要な節である。人生の軌跡を心に描い てみると、ある意味ではわれわれの人生は中年で頂点に達し、以後は下降に向かうことにな る。上昇から下降へと移行するとき、人はそれ相応の危機に遭遇するものだが、それは家族の 危機として体験されることが多い。家族は不思議な一体性をもつので、家族の中のある個人の 間題は思いがけず、他の家族たちにも影響を及ばすものである。夫婦は一般には同年輩のもの として、共に中年を経験するので、夫婦間の危機として中年の問題が感じられることは多い。 Z 夫人は四十歳をすぎたばかり、夫は真面目な公務員である。親の残してくれた土地があっ たりしたため生活にはあまり困らない。子どもたちはそれほどよくできるというのでもない が、普通に間題なく育っている。言うならば夫人にとって何の不足もない生活であるが、最近 はいらいらすることが多い。それも結局は、夫に対して何となく腹立たしく感じることが多い のである。しかし、 Z 夫人にとって、その理由をうまく他人に説明することは難しいことであ機 の った。夫は他人から見るかぎり非の打ちどころがないのである。女遊びや賭ごとなど一切しな い上に、帰宅は勤務の都合で遅くなる以外は、まるで判で押したように同じ時間に帰ってくる家 のである。妻や子どもに怒ったりすることなど全然ない。このように言ってゆくと、よいこと ふしめ
現代新書既刊より 日本の「家」は暗いイメージで、 西欧の「家」は合理的・近代的という印象をもつのは、なぜだろうか 川本彰『家族の文化構造は、「家」と「家族」の異町という 問いかけから出発し、家族の意味と役割を分析したカ作。 青井和夫「家族とは何かは、〈性と生殖 >< 断絶と疎外〉など 総合的視野から家族の本質をとらえ、社会の中てのその意義をさぐる。 松原治郎「生活優先の原理」は、産業優先の社会から 人間中心の住みよい社会へ、生活優先の論理の確立を訴える好著。 また、世中の関心を集めている《日本的》社会構造を鋭く分析した 中根千枝「タテ社会の人間関係」「適応の条件」「タテ社会の力学」は、 中根理論をあますところなく紹介した好評の三部作である。 特製ブックカバー贈員 右のマークを加枚集めて一 封書でお送 ) ーください ( 葉書は不可 ) ・・クスのマーク代用も可 ~ 講談社新書版売部プ′ッカ・ ( ー係 マーク日ノー・ヘル平和賞
の生活をたまらなく思いはじめたのも、自立の意志が生じてきたためであろう。そのとき、夫 は自分の自立を妨げる壁として意識される。ところが、彼女が老いた両親を見て決心を変えた とき、それはもとの状態への退却のように見えるだろう。しかし、彼女は自分の考えていた自 立がいかに他人に犠牲を強い、また自分にとってもどれほど孤立的な道となるかを悟り、夫と の生活を継続する上で自ら払わねばならない犠牲を引き受けることを決意したのである。外見 は同じでも内面は異なっており、彼女は前よりも豊かな人生をおくることができるであろう。 自立に伴なう自己犠牲についてまったく自覚のない人が、強い自立志向をもっと、その家族 の中から思いがけない、いけにえを出さねばならない。乱暴で情緒不安定、困った子どもだと 思われていた小学生の男の子が、学校で飼っているうさぎを残虐な方法で殺してしまった。こ の子の両親が、自分たちは「自分の人生」をしつかり生きていたら自分の子どもも自分の人生 をしつかり生きてくれると思っていたと反省まじりに話されるのを聞いて、あきれてしまった ことがある。確かに言われていることは正しいのだが、自分の人生と言うものの中に、自分の 機 子どもが全然はいっていないのだから困ってしまうのである。 の、 人生はパラドックスに満ちているが、われわれが「自己」とか「私」とか言うとき、それは 思いの他に他人を含んでいるのである。近頃はやりの「自己実現」という言葉も、自己という家 もののもつ、前述のパラドッグスに気づかないと、まったく馬鹿げたことになる。自己を生か
一家団欒の虚像 家族について、いろいろな面からの考察を書き続けてきたが、「これからの家族」について もっとも「これからの家族」について述べることが、どれ 述べることによって終りとしたい。 ほど難しいかを自覚しているだけに筆の勢いもにぶり勝ちであるが 現在の日本人にとって、「一家団欒」というイメージは極めて大切なものとなっている。 たとえば、昨年の総理府による「国民生活に関する世論調査」を見ても、「充実感を感じる 時」として、第一位にあるのは「家族団欒の時」である。これに「仕事にうちこんでいる時」、 「友人や知人と会合・雑談している時」が続くのだが、「社会奉仕や社会活動をしている時」、 「勉強や教養に身を入れている時」などはこれらよりずっと下になるのである。もっとも、三 十ー五十歳の男性では、「仕事にうちこんでいる時」が一位になるが、それに続いて「家族団欒 の時」になっている。このような結果から見ても、家族がそろって楽しい時をすごすことが、 日本人にとってどれほど大切であるかが感じとられるのである。しかしながら、現在の日本の 家庭において、そのような団欒の時が、どれほどもたれているだろうか、それは果たしてそれ ほどの価値をもつものだろうか、ということになると、疑問を感じざるを得ないのである。 ーマーケットでの盗が見つかって補導された。中学校のカウンセ ある女子中学生がスー 172
家族関係は、親子という「血」による関係と、夫婦という血によらない関係とが共存してい るところに特徴をもっている。 ここで、まず親子関係についてみると、これは運命的に決定づけられていることが、最も重 要な点であると思われる。そこには選択ということが存在しない。子どもはおのれの意志と関 係なく、そこに生まれてくる。親にしても、多くの子どもの中から、自分の子どもにしたい子 を選ぶわけではない。このようなわけだから、親子関係は絶対的なものである。それはいくら 否定しても否定し切れない。ある父親が「勘当したうちの息子」という言い方をされたので、 「いくら勘当しても『うちの息子』であることに変りはありませんね」と申しあげたことがあっ たが、まさにそのとおりなのである。「親でない、子でない」と意志によって否定しても、そ の絆は切れることはない。 これに対して、夫婦の関係は両者の意志によってきまる。もちろん、この点はその成員の属 する文化や社会によって程度が異なってくるが「近代的」な社会ほど、夫婦の関係は当人同士と の意志によって決まり、また、その意志によって関係を解消することが可能であると考えられる あ ている。人間生活における、運命と意志という、まったく相対立する力が家庭の中にはたらい ているので、この・ハランスをとることは極めて難しい。そのために、人間はこのうちのどちら親 か一方を主として考え、家族の在り方を規定してゆくように思われる。
よって解決してゆくように努めるのである。子どもが「他人の飯」を食べるにしても、それは ある程度の親子の絆の存在を前提とするときにのみ、良い効果を発揮するのである。 死を通しての再生 子どもが大人になるということは大変なことである。既に述べてきたように、子どもは真の 大人になるためには、内面的な母親殺しゃ父親殺しをやり遂げねばならない。このようなこと をいかに内的に遂行するにしろ、それは外的現実としての母親、父親とのかかわりにおいても 何らかの苦闘を必要とするものである。個々の人間が両親とのかかわりで、そのようなことを 経験することなく大人になれるように、昔の人々はいろいろな工夫をこらしてきたが、そのひ とつに若衆宿というものがあると考えられる。 青年がある年齢に達して若衆宿にはいることは、取りもなおさず母親からの分離を意味して と いる。そして、若者だけの生活をしつつ、時に社会の規範を破るような行為ーーーといっても許そ ち 容範囲内のものであるがーーー・を集団でやってみる。そこで指導者に叱られたり、反抗してみた り、そのような繰り返しの中で、青年たちは集団で、うまく母親殺しゃ父親殺しに相当する行の 家 為を、それらのことをよくこころえた指導者や長老たちを相手に行うことになる。その中に は、母親殺しゃ父親殺し、あるいは、子どもが死んで大人として再生することの象徴的な表現
る。実のところ、男性たちも、日本の男性は別にそれほどの自我の確立などもしていないのだ が、人生のそれまでの生活に疲れ果てて、今更二つの太陽を夢みるだけの剰余エネルギーを持 たないというのが実状であろう。二つの太陽の存在を知った人は、その葛藤に直面してゆくこ とにより成熟への道をたどることができる。しかし、老人になってから、上昇する太陽にのみ 同一化した人はどうなるだろうか。 七十歳になる女性が、「私は夫に仕え、姑に仕え、彼らが死んだ後は息子に仕え、最近では 嫁にまで仕えて生きてきました」と言われ、一度他人のことを考えずに自分のやりたいことを と言われたときの輝やかしいばかりの顔を私は忘れる やってみたいので、家出をしてみたい、 ことができない。それは、男子の高校生のような無鉄砲な力を感じさせるものであった。この ような青くさい自立の意志が老人の心の底で動きはじめると、この人は死の準備をすることが 非常に難しくなる。下降することによって高みに昇ったり、無為によって事を為したり、と、 うような老人の知恵を持っことができないからである。このような人がたとえ家出をしてみて も、あるいは、何か新しいことを始めても、なかなかそれによっては満足を得ることはできな族 、。表面的な満足を得られるにしても、それは既に述べたような自分の「存在」の確かめに 人 は、なかなかつながらないためである。
抗を感じたりしているわけではない。むしろ好ましいことと思っているくらいである。 人間の生き方には実にいろいろな生き方があって、どれが正しいなどということはまず言え ないことであろう。自分をおさえる生き方もそれなりに立派な人生であるし、自分をのばそう とする生き方もまた素晴らしいものではある。ただ彼女の場合、結婚のとき以来、あまりにも 自分をおさえてきた部分が、のびのびと生きる若い嫁の姿を目のあたりに見て強い刺激を受 け、六十歳になってから、活性化されることになったのである。つまり、彼女は下降するタ日 と、上昇する朝日の両方を心にもっことになった。これは随分と苦しいことである。彼女が重 荷に耐えかねて抑うつ症になったのもよく了解できる。彼女のそれ以後の仕事は、おくればせ ながら上昇する太陽の生活をある程度することによって、二つの太陽を一つにまとめ、つづい て下降へと向ってゆくことになった。抑うつ症はそれによって克服されたが、この仕事はなか なかのことであった。 老人の無為とか老人の知恵とかについて、先に述べたのであったが、ここに取りあげたこと は、老人が青年の人生を生きねばならぬ話であって、老人の知恵どころではない。この問題が 特に現在の女性にとって大きいことであると言ったのは、今、老人となっている女性たちは一 般に自分を殺すことを美徳として成長してきた人達である。ところが、老人になってから、自 我を確立するような青年の生き方が可能であることを知るのだから、大変なことになるのであ 150