は母性原理の背後に存在するスビリットとして、人格化されず創業以来の「社訓」などの形態 をとっていることもある。人間は、どこかで父性と母性の両方を必要とする。しかし、その文 化にとってはどちらかが優勢であり、もう一方はいろいろな形態をとって、それを補償するも のである。 父・娘のパターンを、日本人の心性と結びつけて考えるならば、日本人の好きな外柔内剛の 姿勢ということも、これにあてはまる。つまり、外に向っては娘のような、あるいは母のよう な柔かさを示すのだが、その背後に男性原理の厳しさが存在していることを理想と考えるので ある。父性原理が直接的に作用するのを日本人は好まないのである。 このような観点から日本の神話をみると、なかなか興味深い。アマテラスは父親のイザナギ から生まれ出た、まさに「父の娘」である。それはアテーネほどの凄まじさを持たぬにして も、光輝く存在であるし、弟のスサノオと対決するときは、武装して雄々しい姿を見せる。日 本人が天に戴く最高神が女神のアマテラスであることは、われわれの心性における母性原理の 強さを象徴するものであろうが、その姿は地母神の姿とは異なっている。それに興味深いこと には、アマテラスが重大な決定を行うとき、その背後にタカギの神という神が存在しているこ娘 とが多い。タカギの神はタカミムスビの神格と考えられているが、これはカミムスビと対をな父 し、一般に、タカミムスビの方が男性原理、カミムスビの方が女性原理と関連していると思わ剏
原理をもった個人が増加することは、日本の社会を改革してゆくために絶対に必要なことであ ろう。さもなければ、例としてあげたウイメンズ・リプの女性のように、父性原理と母性原理 の間で安易なシーソーゲームを繰り返すだけの「改革」に終始しなくてはならないだろう。日 本に男性原理をもたらそうとする真の改革者たちは、家庭内の問題児としてまずその姿を顕現 することが多いことは、今までに何度も例をあげてきたとおりである。 ひと頃盛んとなったマイホーム主義は、日本の男性が職場の母性集団に組みこまれるより は、自分の生活を考えようとしたと見るならば、それも一種の男性原理の導入として評価され るべきであろう。しかし、そのマイホームがべたべたの母性原理によって運営されると、今度 は家庭が個性を破壊する場となってくる。一家団欒の象徴として家、マイカー、あるいは新式 の台所セットなどが、手のとどかぬものとしてあるうちは、むしろまだよかったのである。経 済の高度成長によって、それらが手にはいった途端に、マイホームの虚像が消えはじめたので ある。一体、家族は何を目標とし、何を中心として存在してゆくのかが解らなくなってきた。 家 おそらく、われわれは何かの物を外に求めてゆくのみではなく、自分の内にも目標を見出さねの ばならなくなってきたのであろう。この世に自分が存在していることを、家族とのかかわりの れ なかで確かめる、いま流行の言葉を用いるなら、アイデンティティの確立ということが、家族こ との関係のなかで間われているし、それをどの程度までやり抜いてゆくかが、これからの家族
の心はますます近くなるのだが、遺書という言葉がでてきたのはやはり意味深く感じられる。 結婚は乙女の死を意味するものとして、結婚式が古来から葬式と類似の点を多くもっことは 4 章に述べたところである。 結婚にあたって、父・娘結合はどこかで切らねばならない。 しかし、日本においては、それ が切られてしまうことはない。母性的な裏づけはあくまで、そこにはたらいており、言語的説 明を超えた次元で存在している。いかに西洋の劇をよく演じ得る宇野重吉氏にしても、日本人 であるかぎり、家庭においてはエレグトラの出番はないように思われる。 父の娘 すべての男性は心の中に、「永遠の女性」の像をもっている。内なる女性像は外界の現実の 女性に投影され、そこにいろいろな関係が生じる。すべての女性の心の中にも男性像が住んで いる。このような内なる異性像は、一般に自分の親をモデルとして形成されてゆく。娘にとっ て、父親は内なる男性像のモデルとなる。娘はその後の人生経験の中で、これらの像を発展せ しめ、それに呼応する男性を見出し結婚してゆく ところで、父親が自分の内なる異性像を娘に投影することがある。わが国では夫婦間に内な る異性の投影が存在することは少ないようである。もちろん、恋愛中や結婚してしばらくは、
「のばせ」否定的に述べたが、後にも述べたように、それを発展の可能性〈の無意識的予感 ととれば、定的にも考えられる。要はそのような予感を実現へと結びつける努力の有無であ る。夫婦によってそれを実現し、また新たなる「のばせ」を感じて、その実現化に努力する、 再生の現象。つきものであるが、そのような夫婦にとっては、離婚と再婚が内面的に生じるこ とになるでろう。そのような苦しい過程を経てこそ、夫婦関係の維持と、個性の実現とが両 立するのでるし、夫婦関係というひとつの枠が、個性を生み出してゆく容器として役立っこ とにもなるである。 一人の人間の心の中にも生じるものであ 人間の心相補性は、人間の関係のみではなく、 る。実のと一ろ、一人の男性の心の奥には女性的なものが存在し、女性の心の奥には男性的な ものが存在ている。今まで夫婦間の相補性として記述してきたことは、それを通じて各人の 心の中でや抜くべき統合過程であるということができる。従って、そのような内面的統合過 程を目標とるときは、結婚を外的には経験しなくても、それを内面的にやり遂げるような稀 な場合が存することも指摘しておかねばならない。真の個性実現が問題となる場合、二人の 関係の間に限りない孤独感が存在しているし、孤独に生きている人も、内面的な二人の世界 をもっていものなのである。
家族がそろって楽しい生活をおくる。このことを単純に、表層的におしすすめてゆこうとす ると、家族内の成員の誰かの個性を壊してしまうことが多い。いつも楽しくしていなくてはな らないので、家庭内でもョソユキの顔を強いられることになってしまう。このような反省に立 って厳しく考えると、人間は真に自分の個性を生かそうとするかぎり、家族を持たない方がよ ということになってくる。実際、欧米の現代人のなかには、家族あるいは家庭ということ について、否定的な判断をもっている人が多く存在している。あるいは、たとい結婚するにし ても、お互いの自由をできるかぎり尊重し合い、子どもはつくらないと考えている人もある。 日本でカーツキ・イエッキ : : : というような表現がはやっていた頃、あちらで「カーは二台、 子どもなし」という表現を聞いたことがある。つまり、夫婦がそれぞれ自分の車をもち、子ど もをつくらないのが、新しい夫婦の生き方である、ということを示している言葉である。 家族のしがらみによって個性を殺される危険を痛切に感じるのは、男性よりも女性に多いと 思われる。ある女性は高校卒業以来、親に頼らずに生き抜いてきた。大学の学資は家庭教師の族 の アルバイトによって得た。大学時代は成績は優秀で、男性たちの人気も高かった。日本の会社 、り では能力が生かせないと思ったので外資系の会社に就職した。そこで能力を認められ、アメリ れ 力の本社勤務になった。その間にポーイフレンドが次々と出来て、同棲したりすることもあっ たが、どうしても結婚する気がしなかった。家庭に縛られることによって、自分の能力が発揮
文の冒頭に、ある中年の女性マネージャーの次のような言葉を引用していると言う。「生活の ートに戻る。その すべてを、男性分野への進出に打ち込んできた私は、毎夜一人っきりのアパ い。たとえ父親なしでも子どもを持て 、いをすさませる孤独には、もう耐えがたい。家族が欲し ば、も、つ少 - し寺しな ~ 暑し亠刀ができき 6 しよ、つに・ この言葉は先にあげた例のように、中年になるまでは独身生活の良さを謳歌しながら、急に 家族や子どもが欲しいと嘆く人たちのことを思い起こさせる。なかには、その他のことでは極 めて冷静な判断力を有していながら、結婚したい気持が強すぎたのか、みすみす結婚詐欺の手 口にひっかかってしまった人たちもある。このような女性たちに、家族がどんなうとましいも のであるか、たとえ子どもがあっても、気苦労なばかりであって、結局は親のことなどかえり みず、自分勝手なことをするものだ、と説明したとしても、それは全く無駄なことである。彼 女たちは、そんなのは持てるものの悩みであって、自分たちの孤独の苦しみはそれと比較にな らぬものだと主張するであろう。 いが、もちろん、これによって彼女は リプの指導者が家族を見直そうというところは興味深 「女性よ家庭に帰れ」などと主張しているのではない。人間の幸福の基盤としての家族の価値 を確認し、男性も女性も平等に力を合わせてゆこうということになるらしい。筆者としては、 既に述べたように、個性を確立するために、家族を一方的に邪魔者と考えるのには反対だが、 177 これからの家族
母・娘結合の心性は、もっとも自然で根源的なものであり、そこから抜け出して人間特有の 文化を築く上で、今まで述べてきたような、母・息子とか、父・息子などのパターンが生じて きたものと思われる。そして、それらのパターンを維持するために、宗教や社会制度などがい ろいろと生じてきたとも言えるのだが、現在のように一般に倫理観の混乱があるときは、もっ とも根源的なものとしての、母・娘結合のパターンが思いがけないところに顔を出したり、有 力なものとして機能したりすることになるのであろう。 そのような意味でも、今までは息子をもたぬ親は跡とりが居ないことを嘆いたものである が、これからは、娘をもたぬ親、特に母親は、年老いてから娘のいないことを嘆かねばならな いだろう。母・娘の関係は、既に述べたように娘が一時的に反抗的になるにしろ、もっとも自 然なものとして、どうしても切れない関係として、両者に安住の地を提供するものである。こ のような場をもたず、さりとて旧来の母・息子のパターンによる規制も弱いとなると、娘なし で安らかな老いと死を迎えるためには、親は相当の覚悟と努力を必要とすることになろう。 母性の強いわが国においては、母・娘結合の心性として述べたことはすべて、男性の心性に おいても当てはまるところが多いことを、最後に指摘しておきたい。男性社会においても、 嫁・姑類似の関係が常に生じていることは誰しも体験的に知っていることである。
母・娘結合に対抗し得るだけの個性を自分の中に見出すことは、大変な努力を要する仕事であ る。酒を飲んだり、散財を繰り返すだけでは、うまくゆかないのである。 母・娘結合を破ることの凄まじさは、神話的なレ・ヘルにおいては、ギリシア神話におけるハ ーデースによるべルセポネーの強奪の話に如実に示されている。大地の女神デーメーテールの 娘ベルセポネーが野に花を摘んでいるとき、冥界の王ハーデースが突然地下から現われ、彼女を 強奪して去る。娘を失ったデーメーテールは嘆き悲しみ、そのためにすべての植物は枯れ果て てしまう。その後デーメーテールは娘の探索に出かけ、ギリシアの主神ゼウスのはからいによ り、デーメーテールとハーデースの間に和解が生じる。この神話の全体は、母・娘結合の文化 に男性が侵人してくる過程をあますところなく描いている。ここでは詳述できないが、ともか ーデースによる乙女ベルセポネーの強奪の姿に示されるように、それがい力に 荒々しいハ 凄まじいものであるかを強調しておきたい。 このことを女性の内的世界に注目して述べるならば、娘は母との結合を断ち切るためには、 その内界においてハーデースの侵人を受けいれねばならないことになる。このようなとき、娘 は今まで敬愛していた母に対して、わけの解らない攻撃的な感情を向けることになる。思春期娘 と 母 の娘が母親と急に話をしなくなったり、いろいろ批判がましいことを言いたてたりするように なるのは、このだめである。しかし、このような時期を経た後で、娘は母性ということを受け
そのような状態にあるが、それも案外早く消滅してゆく。そして、男は仕事に、女は子どもに 熱中する、というのが一般のパターンである。そして、内なる異性の問題は、時に浮気という 形で、歪んだあらわれ方を示したりするが、西洋ほど大きい意味をもっていないように思われ る。 ある男性にとって、内なる異性を自分の妻に投影し得ず、さりとて他の女性にもなし得ない とき、それは娘に向けられることが多い。特にわが国では親子の情愛の深いことは、むしろ美 徳とされるので、このことが余計に生じやすい ( 西洋と異なり、異性に人間的に接する機会が少な いことも、これにプラスされる ) 。娘のほうは内なる男性像を父親をモデルとして作ってゆくので、 これらのことはある程度は起って当然であり、望ましいことである。その度合が強いときにの み、娘は結婚することが難しくなったり、最初に示した例のように、結婚後も苦しむことにな る。 母・娘結合は相当強くても、結婚を阻むことは少ない。結婚したところで、両者の結合はゆ るぎのないことが明らかなので、それはかえって容易に行われる。苦しむのは、相手に選ばれ る男性の方である。ところが、父・娘結合の方は、特にその父親が母親を兼ねているようなと娘 父 きは、結婚が極めて困難となる。つまり、母親があまり母性的でなく、母・娘結合が弱いとき は、父親は無意識的に母親的役割を演じてしまうことになる。このようなとき、父・娘の関係
は極めて深いものになり、両者ともに離れ難くなる。 あるいは、父親との深い絆と、それをどうしても断ち切って他の男性を求めようとする自然 の欲求との葛藤の末、判断力を失って、相手を選ばず男性に身をまかせるような行動に出る女 性もある。これほどでもないが、父親からみると、もっとも気に入らない男性を選ぶ、という 形をとるときもある。 ニ人の父 結婚のことをいろいろと書いたが、男性にしろ女性にしろ、別に結婚しなくてもいい人や、 しない方が幸福という人もあることを忘れてはなるまい。人間の道は個別的だから、一般の傾 向に無理して合わすことはない。ギリシアの女神アテーネは、ゼウスの頭から甲冑に身を固め、 ときの声をあげて生まれてきたという。まさに「父の娘」の典型である。彼女は父から生まれ たので、母を知らない。彼女はあくまで女性としての美しさをもちながらも、男性を寄せつけ ない威厳をもっている。彼女は従者としての男性たちをもつにしても、夫をもっことはない。 アテーネを守り神とする女性は、結婚しない方が幸福なようである。彼女にとって、父はゼ ウスと近似する姿になっている。あるいは、彼女は父の姿を通じてゼウスを見、その娘となっ ているので、下界の男性たちは相手になれないのである。これは偉大な芸術家の娘などに実例 106