この事実は「教師自身がいかにあらねばならないか」という問題に、光を投げかけてくれます。教 師は生活のどの瞬間におきましても、心の新鮮さを失ってはならないのであります。そして生命が生 き生きと繁栄しなければならないとするならば、教師の仕事と、知識をひけらかす態度は、絶対に一 緒になってはならないのです。万一、教師という職業が知識のひけらかしと一緒になりましたならば、 この結婚から生じる禍は、人生で生じ得るどんなものよりも大きなものとなるに違いありません。か って或る時代に「教職と知識のひけらかしとが一体のものであった」などという愚論を認める必要は 絶対にないと、私は思うのであります。 このことから「授業には或る種の内的な倫理性がある」ということ、すなわち「授業をする際には 或る内面的な義務がある」ということが御理解いただけたと思うのです。つまり教師には、本当の意 味での至上命令と言えるものがあります。教師にとってのこの至上命令とは、「汝自身のファンタジ 1 を新鮮に保て」ということであります。そして、もしあなたが知識をひけらかすようになっている と感じられた時には、「知識のひけらかしは、他人に対して禍をなすものであり、自分にとっては卑 劣にして非倫理的行為であると言いきかせよ」という以外にないのであります。これが教師たる者の 持つべき気持とならねばなりません。これを自分の気持とすることの出来ない教師があるならば、そ の人は教師となるために身につけた技能を、次第に別の職業に転用して行くように試みるべきであり ましよう。このような事柄は、人生において完全に理想的な形で実現できるものではありませんが、 しかし何が理想であるかは知っている必要があります。
根拠は、人間は自分の行うことによってのみこの世の中での仕事を果すものではなく、主として自分 の存在そのものによってそれを為すのだという事実の重みを洞察するためなのであります。という 教師がクラスのドアを開けて生徒達の前に現れるか、同じことをという教師が行うかでは、すでに 大きな違いが生じるのであります。この大きな違いは、一人の教師の方がもう一人の教師よりも教育 上の外面的な技術が上手であるということだけから生じているのではありません。授業の際に現れて とのような方向に自分の理念を向けて くる本質的な違いは、その教師が自分の生活の総ての瞬間に、・ 生きているかにかかっております。この理念の方向性をそのままひっさげて教師はクラスのドアを開 けて入ってくるからであります。成長しつつある人間の上に思いを致している教師は、このような事 を全く知らないか、あるいは全く考えない教師とは、根本的に違った作用を生徒に対して及ぼします。 いいかえれば呼吸過程とその教育の場での展開が 皆さんがこのような考えを心に持つようになると、 いかなる宇宙論的意味を持つのか、睡眠と目覚めのリズムがいかなる宇宙論的意味を持つのかを認識 し始めるようになりますと、その瞬間に何が起るのでしようか。皆さんがそのような思考を始められ ますと、皆さんの内部において何かが、単なる個人的精神にすぎないものの総てに対して、戦いをい どむのであります。この瞬間に、個人的精神に根ざしている総ての判断が、おさえられるのでありま す。人間が物質的人間であることによって一番多く持っているものの中から、何か或るものが消し去 られるのであります。 そして皆さんが個体性の捉われの消去されたこのような境地に住み、クラスに入って行くならば、
エネルギー不変の法則は人間理解を妨げる。創造の意味。知性は死減するもの を把握し、意志は生命あるものを把握する。純粋な思考作用と自由。地上世界 の発展に人間は生命を賦与する。人間本性の内部における死減作用の意。血 液ー筋肉組織。骨格ー神経組織。宇宙の動きの投影である幾何。認識の変化。 現代の教師は、自分が学校で行う総ての行為の背景として、宇宙の諸法則についての総合的な理解 を持っているべきであります。特に低学年クラスの授業には、教育にたずさわる人の魂と人類の最高 の理想との一致が要求されるのは当然のことであります。従来の学校の体質の癌となっておりますの は、低学年担当の教師が、いうなれば従属的な地位にあるものと見なされていることであります。っ まり低学年教師の存在は、高学年教師の存在より価値が低いと見なされております。もちろん私は、 ここで社会機構の精神的構成要素をめぐるこの問題に、深入りするつもりはありません。しかし、ど うしても次のことだけには、人々の注意を喚起しておかねばならないと思うのです。それは、「これ からは、教師集団に属する総ての人間が、お互に完全に同等でなければならない。そして、低学年の 教師は高学年の教師と精神的な質から言っても全く同等の価値を持つものであるということを、一般 の人達も強く感じるようにならなければならない」ということであります。ですから総ての授業の背 第三回
であります。なぜならば教師は、自分の興味を世界の中で生じたことと結び合せて行かなければなら ないからであります。まことに教師は、世界の中に生じる諸々の事実を根底から知っているべきなの であります。 私達はきよう「どうして私達の時代が物質主義的になったか」ということを、これとは全く別な観 点から、すなわち球形、三ヶ月形、四肢の持っ放射状輻形ということから出発して、明らかにしよう と試みたわけであります。つまり私達は、ある巨大で深刻な文化史的事実を明瞭にするために、一見 これとは正反対なことから出発したのです。文化上の諸々の事実を根底から把握しようとする姿勢は、 特に教師にとって大切でありまして、それがないならば、育ち行く人間達に対して全く何もしてやる ことができないのであります。この姿勢があれば、教師が子供との無意識的関係を通して正しい教育 を行いたいと内側から望むとき、そのために必要なものを自分の中へ採り込んで行けるでありましょ う。なぜならば、このとき教師は人間の形姿に対して、本当の意味で畏敬の念を持っているであろう からであります。彼は人間の形姿のすべての点に偉大なる宇宙との関連を見るでありましよう。そし て単に発達した動物や進歩した動物的肉体を人間の中に見ている時とは全く違った態度をもって、人 間の形姿に相対することでありましよう。今日の教師達は、この点に関していかに頭の中で色々な幻 想を思い描いていようとも、その本音をただせば「子供というものは小さな動物であって、自分達は この動物を ( 自然がこれまで育ててくれたのより、少しばかり先まで ) 発達させてやらなければなら ないのだ」という意識を持って、自分以外の人間存在に対しているのであります。もし教師が「ここ
教師には、たとえば次のようなことが出来なければなりません。それは学年の始めに、自分の持っ 生徒全体について或る種の総合的な見通しをつけておく、というようなことです。それは前にも申し ましたように、九才児と十二才児とに関係の深い生活科授業を開始する際に特に大切です。この時に 教師は、子供の肉体的な発達度について、全体的な見通しをつけておかなければなりません。また自 分の受け持っ子供達が、どのような肉体的外観をしているかに常に気をつけていなければなりません。 そして、年度末ないしは或る周期授業が終りに来た時に、再び全体的な概観を行なって、その間に生 じた変化を捕捉するのであります。この二回の総点検の結果として、「という子供は、当然発達し てしかるべきであった地点までは成長できなかった」とか、「という子供は、少し背が伸び過ぎた のではないか」とかいう事実を掴むのが眠目なのであります。教師はこの結果をもとにして、次の学 期ないしは次の学年度に「一体どのようにしてファンタジーと記憶との間に。 ( ランスをとり、子供の 異常成長、ないしは成長遅滞に対応したらよいのか」を考えなければなりません。 ここからもお解りくださると思うのですが、在学期間を通して子供を一人の教師が受け持っことは 非常に重要なことであり、子供を毎年違う教師の手にまかせるという制度は、実に気狂いじみたもの と言わねばなりません。事情は全く逆なのでありまして、本当は教師は年度の始め、ないしは子供の 成長期の始まり ( 七才・九才・十二才 ) にあたって、自分の担任する子供のことが少しずつ解ってく るのです。総てを与えられたのとは違う形に作りかえてしまう完全な夢想児タイ。フの子供達のいるこ とがわかり、どんな事柄もそのまま覚えてしまう極端な記憶児タイプの子供達のいることも解ってま
私達の持っ頭部に関する限り、これは動物界から出て来たものであります。このことは頭部がただ発 達した動物的器官にすぎないということでは決してないのですが、もし私達が頭部の先祖を見つけよ うと思うなら、下等動物界にまで遡源しなければならないという意味なのです。私達の胸部は後にな ってから頭部につけたされたものであって、これはもはや頭部ほど動物的ではありません。胸部は後 になって初めて、私達が手に入れたものなのです。そして私達人間は四肢を最後の器官として得たの です。四肢は最も人間的な器官なのであります。四肢は動物の器官から変形して作られたものではな 、後になって加えられたものなのです。動物の四肢器官は動物達のために独自に宇宙から作り出さ れ、人間の四肢器官は後世になって独立して胸部につけ加えられたのです。ところがカトリック教は、 宇宙と人間との関係、すなわち人間の四肢の本来の性格についての人間の意識を覆い隠してしまうこ とによって、それ以後の時代に対して、胸部についての幾分の意識と、頭部ないしは頭蓋についての 完全な意識とだけを伝えたのであります。こうして物質主義は、「頭蓋が動物から生じた」という事 実に達しました。そして人間全体が動物から生じたのだと言っているのでありますが、実は胸部器官 と四肢器官とは、後になって初めて人間につけ加えられたものなのであります。カトリック教会は人 間の四肢の本性と、四肢と世界との関係を人間に見えなくしてしまうことによって、後の物質主義の 時代が、頭部のみを意味ありとする理念に陥り、これを人間総体の上に適用してしまう種をまいたの でありました。カトリック教会は本当のところ、進化論の分野における物質主義の生みの親なのであ ります。このような事実を知っていることは、今日若い人達を指導する教師にとって特に大切なこと
のような方法は、子供がファンタジー豊かな像をもって、理解力を吹き飛んで行く塵の中へと入れて 行くことを、助けてやれるのであります。子供は自分のファンタジーを用いて平面の意味を捉え、ビ タゴラスの定理を、舞い昇り沈下する塵というイメージを通し、ファンタジ 1 によって理解するであ りましよう。さらに塵は真四角に吹き寄せられなければなりませんが、それは現実には起り得ないこ とでありますので、一そうファンタジーは刺戟されるのであります。 このように特にこの年代におきましては、ファンタジーを生み出しながら教師から生徒へと流れ込 んで行くものを常に感動的に作り出して行くことが、絶えず教師の念頭に置かれていなければならな いのであります。教師は教材を自分の中で生命豊かに息づかせていなければならす、教材をファンタジ ーで充満させていなければなりません。それが出来るためには、教材を、感情の織り込まれた意志作 用で浸し切るより外に方法がありません。これは後年になってからも、しばしば実に不思議な働きを するものであります。小学校高学年において密度を高めて行くべき非常に重要なことは、教師と生徒 の間の協力であり、心を一つに合わせた生き方であります。それゆえ、自分の扱う教材の全体をファ ンタジー豊かに組織し、一回毎に新鮮に形づくる努力を絶えず行なって行けないような人間は、良い 小学校教師にはなれません。なぜかと申しますと、一度ファンタジ 1 豊かに作り上げたものでも、こ れを何年後かに再現いたしますと、それは理屈が勝って冷たく凍りついてしまっているのが実状だか らであります。ファンタジーは、絶えず生き生きと生命を保ち続けていなければならないものであり まして、そうでなければ、ファンタジ 1 の生み出した産物は、理屈つ。ほく固ってしまうのであります。
ないのです。そのためには、本当の所ただ一つの道しかありません。それは芸術と自分との関係を生 命の通ったものにして行くことを一瞬たりともゆるがせにしないことであります。な・せならば、世界 を動物的にではなく人間的に味わい楽しもうとする時には或る前提が出発点となっていますが、その 前提とは「世界は美しいものだ」という信念であります。そして交歯期から思春期にかけての子供は 「世界は美しいものだ」という無意識の前提を持って生きております。「世界は美しい」それゆえ 「授業も美しいはずだ」という子供のこの無意識の確信に正しく対応するためには、月並で功利的な 観点から作製されたものの多い実物教育の諸規則を眺めていてはだめなのでありまして、教師自身が、 この時期の授業を芸術的なもので浸し切るように、芸術的な体験の中へ深く身を沈めて行くように努 めなければならないのであります。現代の教授法の本を読み、授業を喜びの源泉にしようという善意 が本来の意図に反する結果を生むという例を目にいたしますと、しばしば耐えられないほどの悲しみ をおぼえることがありますが、それというのも、教師の生徒への語りかけが美的でなく低俗であるか らであります。今日子供達に対してソクラテスの方法を用いて実物教育をほどこすことが好まれてお ります。ですけれど、子供に向けて発せられる問いは、著しく功利主義的な性質を帯びており、美の 中に憩うものを含むような性格は全く持っていないのです。そうなれば、どんな模範的実例を示して 見たところで何の役にも立ちません。実物教育のための実例を選ぶにあたっては、これこれしかじか の種類のものを入れるようにと教師に指示しても駄目なのであって、教師自身が芸術の中に生きるこ とによって、生徒達と話し合う対象に深い味わいが出てくるように心を用いて行かねばならないので
来上っていた。シ、タイナー自身が直接にこの計画を指導することに最終的にきまったのは四月一一十五日であっ たが、校舎の入手や教師の準備等の困難な課題を解決し、多忙を極めるシ = タイナーの日程と合わせて、ようや く教師達のための特別講習会を開くところまでこぎつけたのが、実に開校の一一週間前にあたる八月一一十一日であ った。二週間の講習の後に一日だけ準備のための休みがあり、その翌日、一九一九年九月七日の日曜日にヴァル ドルフ学校の開校式が開かれ、エ ーミル・モールトの挨拶とシュタイナーの記念講演が行われた。この二つは共 に筆記されて『ヴァルドルフ学校におけるシ、タイナー』 (Rud01f Steiner in der Waldorfschule, Stuttgart 1958 ) の中に収められているが、シュタイナーの講演の一部はこの本の附録として載せたマリー・シュタイナー の序文の中に引用されているので、これでおおよその内容は推察できると思う。 八月一一十一日から九月五日までの間に十四回にわたって行われた講習は、マ リー・シュタイナーの序文にもあ る通り、午前中の「一般人間学」、午后の「教授学と授業方法をめぐって」、夜の「演習とカリキュラム論」とい う三つのシリ ーズの組合せであり、全日程を終了した九月五日には、これら三つの連続講演が同時に完結すると いう構成であった。この三つのシリーズはそれぞれ独立しておりながら、前日に午后の部で話したことを踏まえ て次の日の午前に同じ内容の理論的深化が見られるなど、徴妙に相互に響きを交わしている。従ってこの三シリ ーズは併行して同時に読んで行くことが一番好ましいわけであるが、翻訳する場合には原理的に言って各シリー ズの独立性を第一に尊重すべきことは言をまたず、午后と夜の部の紹介は今後の機会にゆずることにした。 『一般人間学』は右に述べた事情からも推察できるように、シュタイナーの教育学にとって、また特にヴァル ドルフ学校教師達にとって、極めて重要な意味を持っ作品である。それはこれから教師となろうとする人達を前 に、実際に仕事の始まる直前に、シュタイナー自身が、自分の考えている真の教育とは何かを、理論的な根拠と
後には、直接に子供達に向かって用いることは出来ないにしても、教師としては絶対に知っていなけ ればならないものが存在するはずであり、低学年の授業の場合にも同じことが言えるはずだと申し上 げましても、皆さんは不思議とは思われないでありましよう。この「背後にあるもの」を欠いては授 業は生命の無いものとなってしまうに違いありません。 私達は授業の中で子供に、一方では自然の世界を教え、他方では精神の世界を教えます。私達は地 上に住み、この物質界の中で誕生から死までの期間を過している限り、人間として、一面では自然界 と結ばれており、他面では精神界と結ばれております。 ところで、私達の時代において特に発達の遅滞しているのが、まさに心の認識なのであります。心 に関する認識は、八六九年に教会が行なったあの教条定立の害を今もって受け続けております。この 教条はそれ以前の直感的な洞察力に根ざした認識、つまり人間は肉体と心と霊 ( 精神 ) とから成り立 っているという認識を曇らせてしまいました。今日、人間の心理について語られるところではどこで も、人間存在は二つの要素からできているのだという説がなされているのを、皆さんは御存知のこと でしよう。「人間は肉体と心からできている」とか、「身体と精神からできている」とか言うわけで あります。このように言うとき、肉体と身体とは同じ意味で、また心と精神とはほとんど区別のない 意味で用いられております。ほとんど総ての心理学は、人間の本質を二つの要素から成るとする、こ のような誤謬の上に成り立っているのです。こういう二重構造性にのみ目を向けている限り、人間の 本性を正しく洞察することは出来るものではありません。ですから今日、心理学、つまり心の学問と