ビルト 象には映像 ( 描像 ) の性質があることに直ぐに気がつくはずです。表象は映像の性質を持ってお ります。表象の中に実在物の性質を求めたり、現実的実体を見つけようとするのは、大変大きな幻想 に身をまかすことになります。もしも表象が一つの存在物 ( 物体、実体 ) であるとしたならば、それ は私達にとってどんな役割を持つものでありましようか ? ・私達は私達の内部に確かに存在物 ( 実体ご 物体 ) の要素を色々持っております。私達の肉体的な存在物要素を思い浮かべて下さい。たとえばご く大雑把に言って皆さんの目は物質的 ( 実体的 ) 要素であります。鼻も胃袋も、みな物質的要素であ ります。皆さんはこれらの物質的要素の中で生きているのでありますが、それにも拘らず、それらを 用いて表象を作ることは出来ないのであります。皆さんは御自分の本質を伴なって、この物質的要素 の中へと流れ込んで来て、自分とこの物質的要素とを同一者と認めるのであります。まさにこの事実 が、私達が表象によって「何かを把握する」可能性を生み出すのです。つまりこの事実が、表象が映 像の性質を持っということを可能にし、表象が私達と共に流れて行くということが生じないことを、 可能にしているのであります。なぜならば、私達は表象の中に住んでいるのではないからです。表象 はつまり「本当には存在していない単なる映像に過ぎない」ものなのです。存在と思索とを同一のも のと見なしたのは、最近数百年間に人類が歩んだ発達期の出発点にあたって犯された大きな誤りであ りました。「考えるゆえに我あり」という思想は、近世の世界観の発端に築かれた最大の過誤であり ます。なぜならば、「考える」ことの中にはどこを探しても「存在」は無く、「非存在」があるだけだ からです。すなわち、私の認識の及ぶ範囲内には私は存在してはおらず、存在するのはただ映像だけ
皆さんは、私達の思考の中に生きている少なからぬものが、どのような方向において歩みそこねて いるかがおわかりになったと思います。人はたとえばエネルギーと物質の保存の法則というようなも のを設定し、これを普遍的世界の法則だと宣言します。この法則には、私達の表象生活の持つ、いな 心の生活そのものの持っ或る種の「一面的にものをいう傾向」が根底を成しております。実は私達は、 私達の表象作用の中に展開するものの中から証明不要の真実のみを提示すべきなのです。ところが皆 さんは、たとえば物理学の本の中に物体の相互不可入性の法則が一つの公理として提示されているの を御覧になります。「一つの物体の存在する空間の同一個所に、同時に別の物体が存在することは出 来ない」という公理であります。これが総ての物体に共通する性質として提示されているのでありま す。しかし本当は次のように言うべきなのであります。「それが占める空間の一定部分に、これと同 質の別の物体が同時に存在し得ないような性質を持つ物体ないしは存在は、不可入性を有する」と。 概念とは、ある領域を他の領域から分離するためにのみ用いられるべきものであります。そして私達 は、証明不要の真実のみを提示すべきであって、普遍的に通用することを主張するような定義は、決 して下してはならないのです。このようにして、エネルギーと物質の不変という法則などを設定して はならないのであります。そうではなくて、「いかなる存在にとってこの法則が意味を持つか」を追 求すべきなのであります。一つの法則を作り、これが総てにあてはまると主張するのは、実に十九世 紀の学間の方法でありました。私たちはこれに反して、事実の本質にせまり、私達が事物に即して何 を体験するかを見きわめるために、私達の心の生活 (seelenleben) を用いるのであります。
ものになろうとする瞬間にこれを殺してしまうのであります。この或るものというのが、実は血液な のでありまして、血液は神経と正反対な位置にあるのであります。 血液は実際「特別な液体ーなのであります。なぜかと申しますと、もしも私達がこの体液をあくま で本来の血液のままに保ち変質させず、しかも別の物理的原因のために破壊されるということのない ようにして、人間の肉体から外へ取り出すことができるならば、勿論これは地上の生という条件の下 では出来ないことなのですが、もしもそういうことが出来るとすれば、血液はたちまち霊となって舞 い昇って行くでしよう。血液とは、そういう体液なのであります。血液が霊となって舞い昇ってしま わないように、私達が地上にいる限り、死ぬまでこれを私達の内部に保持することができるために、 血液は殺されなければならないのです。こうして、私達は血液を絶えず体内に持っているのです。血 ・ : という働きを、吸気と呼気によって続けてい 液を造り、血液を殺し、血液を造り、血液を殺し : ・ るのです。 私達は自分の内部に、対極的な作用過程経路を持っています。私達は自分の内部に血液にそって、 つまり血路にそって走る経路を持っておりますが、これは私達の存在を霊的なものの中へ連れ出そう とする傾向を絶えず持っております。普通一般に流布してしまったような形で運動神経というものを 問題にするのは、間違っております。なぜならば、運動神経とは本来は血路のことであるはずだから であります。血液とは正反対に、総て神経というものは常に死減、つまり物体化する傾向を持っ性質 のものであります。神経経路にそって存在するものは、それは本質的に言って死減してしまった物質
分が内部に向かって延びて行ったものであります。乳は動物界および人間界においては、四肢の性質 と内的なつながりを持っている唯一の物質であり、 いわば四肢の本性から生まれて来て四肢の本性の 持っ力を内部に残存せしめている唯一の物質なのであります。そして私達が子供に乳を与えますと、 この独特の性質を持つ物質は、少なくともその本質的な作用として、眠っている霊性を目覚めさせる ように働きます。これが総ての物質の中に住み、姿を現すべき所に姿を現す霊性なのであります。乳 は自分の内に霊性を持っており、この霊性は眠っている子供の霊性を目覚ませる任務を持っているの であります。自然の中に住み自然の不思議な底層から乳という物質を生み出させてくれる守護霊が、 子供の中に眠っている人間の霊性を目覚めさせてくれるのだということは、決して単なるたとえでは なく、深い根拠を持つ自然科学上の事実であります。私達は世の中に存在するものの間で働いている このような深い秘密に満たされた諸関係を見通すことが大切です。それが出来て初めて、いかに素晴 しい法則性がこの宇宙に内在しているかが理解され、こういう物質的存在が、原子とか分子とかに分 解できるものの適当に集まって出来ている存在に過ぎないというような理論で身を鎧うことが、いか に本質的な意味で無知となることなのかを理解するのであります。物質とはそんなものではないので す。たとえば物質の一種である母乳は、眠っている人間の霊性を目覚ますという止みがたい欲求を持 って世界に生み出されて来るのであります。人間や動物の中に「欲求」、つまり意志作用の根底をな す力が存在するのと同じように、私達は物質についても広く「欲求」という言葉を用いることが出来 ましよう。そして「乳が作り出されると、乳は子供の持つ人間霊性を目覚ますものとなろうと欲求す 217
皆さんは食物を摂られる時、色々の礦物質をも体内にとり人れられます。皆さんがスープに塩で味 をつけられる時も、 ( 塩は食物の中にも含まれていますが ) 皆さんは礦物質を摂取されるわけです。 皆さんには、礦物質を摂ろうとする欲求も備わっているのです。こういう礦物質で、皆さんは一体何 をなさるのでしようか ? 頭部組織はこういう礦物類に対して関係を持っていませんし、胸・胴部組 織もあまり関係がありません。皆さんの四肢組織が、これと関係して来るのであります。四肢組織は、 これらの礦物類が体内で固有の結品形体となるのを妨けているのです。もしも皆さんが四肢組織の持 っ力を発達させておられないとするならば、塩分を塩の結品と化してしまわれることでしよう。四肢 組織、つまり骨格構造と筋肉組織とは、大地の礦物形成作用に対抗する性質を常に保持しておりまし て、礦物を解体する性質があるのです。つまり人間の体内で礦物質を解体する力は、四肢組織から生 じるのであります。 病状が植物的なものの範囲を越えますと、つまり肉体が植物的なものを体内に生成させ始める傾向 を示すにとどまらず礦物性の結品化現象をも体内に許すに至りますと、病気は一そう重大な危険な形 態をとることになります。たとえば糖尿病がこれでありますが、このような場合に人間の肉体は、宇 宙から受け取 0 た四肢組織の力を用いて絶えず分解して行かねばならないはずの礦物質を、実際には 分解することが出来ないでいるのであります。人体内部における病的な礦物化作用に起因する病気に 対して、今日の人間が何の支配力も持っていないのは、私達がこの種の病気に対して十分に治療薬を 用い得ていないことに原因があります。こういう治療薬は総て、視覚器官、脳、神経索等の生み出す 240
こういう考え方は今日のところ、ある人達にとってはもちろん理解しにくいものでありましよう。し かし、こういう見方も十分に身につけていなければ、絶対に真の教育者にはなり得ないのであります。 では人間本性の中で、具体的に一体何が起るのでしよう、 ? ・ カ一方の側には骨格・神経的本性があ り、もう一方の側には血液・筋肉的本性があります。この両者の共同作用によって、絶えず物質 ( 素 材 ) とカ ( エネルギー ) とが新しく生み出されて行きます。地球が死減から守られているのは、人間 自身の中で物質と力とが新しく生み出されることによってなのであります。私が今申しました「血液 は神経と接触することによって、物質と力との絶えざる創造を生み出す」という事と、私が前回に申 しました「血液は絶えず霊化しようとする傾向を持ち、それが抑制を受けている」という事とを、皆 さんは今一つにまとめることがお出来になるでしよう。この二回の講話の中でとり上げた考え方を私 達はお互に結びつけ、さらにその上に考えを積み重ねてまいりましよう。すでに、もう皆さんには普 通一般に説かれている「エネルギ 1 と物質の保存法則」の思想がいかに誤ったものであるかがおわか りになったと思います。なぜならばこの思想は、人間本性の内部で生じている事実によって否定され ているからであります。この思想は、人間の本質を本当に理解する際には、ただ妨けとなるだけなの です。たしかに「何かが無から生じるということはあり得ない。しかし、あるものが死減し別のもの が生成すると言えるほどに完全に変質してしまうものがある」という総合判断がそこから得られたと きに初めて、そしてこの考え方を「エネルギーと物質の恒久不変」という思想と置きかえたとき初め て、学問にとって有益なものが得られるでありましよう。
序に矛盾するようにみえることの多いのを皆さんは奇異に感じられるかもしれませんがーーそれは睡 眠と覚醒との交替を、人間の本質に適した在り方で行うことであります。勿論たんに外面的に見るだ けでしたら、子供はよく眠ることができます。大きくなってからよりは、幼い時の方がずっとよく眠 ります。それどころか、子供は普通の生活の中まで眠りをもちこむものだといえましよう。ですけれ ども、内面的な意味で睡眠と覚醒との根底にあるものを、子供はまだ支配できていないのです。子供 は物質界でいろいろなことを経験します。子供は自分の身体に備わる道具を使用し、食べ、飲み、呼 吸します。しかしこのように物質界で色々なことをやり、睡眠をとったり目覚めたりしていても、子 供は物質界で体験したことの総てをーーー目で見、耳できき、手でさわり、足でけとばすことの総てを、 霊の世界へ持ち帰り、そこで加工し、その仕事の結果を再び物質界へ持ち帰ることはできないの であります。子供の睡眠は大人の睡眠とは違う性質のものだという点に、まさに子供の睡眠の特色が あります。大人の行う睡眠の中では、まず何よりも、その人間が目覚めから就眠に至る間に体験した ことが加工されます。子供には、目覚めから就眠に至る間の体験を睡眠の中へもち込むことができま せん。子供は眠りに入る瞬間に普遍的世界秩序の生の中に入りきってしまい、物質界で外面的に体験 したことを、睡眠の間に普遍的世界秩序の中へ持ち帰ることはしないのであります。人間が物質界で 体験したことを、心霊ないしは霊心が就眠から目覚めまでの間に行なっている仕事の中へ持ち込むよ うにすることこそ、正しい教育の達成すべき目標なのです。私達は教育者であり授業者ではあっても、 より高き世界に属する何物をも子供達に与えてやることはできません。なぜかというと、より高き世
てしまっているでしよう。今日繁茂しつづけている植物も、この力が無かったなら、とっくに成長す ることを止めてしまっているはずなのです。下等動物についても全く同じことが言えます。人間は体 内にある釀酵々素を、いわば進化発達のためのパン種のように大地に与えているのであります。 でありますから、人間が地球上に住んでいるかどうかということは、決してどうでもよいことでは ないのです。人間が存在しなくても、鉱物界・植物界・動物界の地上的発達がそれと関係なく進んで 行くだろうというのは完全な誤りであります。自然の営みとは総合的統一的なものであって、人間も そこに含まれているのです。人間は死ぬという営みにおいてさえ宇宙の営みの内に含まれているのだ ということを知って初めて、人間についての正しい表象が得られるのであります。 皆さんが以上のことをお考えになりますと、私が次のことを申しあげても、もう不思議には感じら れないでしよう。人間は霊の世界から物質界へと降りて来て、物質的肉体という衣を身につけます。 ですがこの物質的肉体は、生まれる際にこれを得たときと年をとって死ぬときとでは、同じものでは なくなっております。物質的肉体には何かが生じたわけです。何かが生じたとすれば、それはこの肉 体が、人間の心的霊的な力によって滲透されたことによって生じたのだとしか言いようがありません。 もちろん、私達は動物が食べるのと同じように物質を食べます。つまり私達は、外界の物質を動物が 変質させるのと同じように変質させます。しかしながら私達がこれを変質させるときには、動物が持 っていない「あるもの」の協力の下にこれを行うのです。この「あるもの」とは、物質的人間の肉体 と合一するために霊の世界から降りて来たものであります。この事実によって、私達は物質素材から
動物や植物が作るのとは全く違ったものを作り出します。それゆえ人間の 屍体の中にあって大地に帰って行く物質は、変質した物質なのであって、 人間が生まれるときに受けとったものとは違うものになっているのであり ます。ですから私達は次のように言うことができます。「人間は誕生の際 に受け取る物質及び力を、地上での生の期間に新しく作りかえ、すっかり 別の形にして地球の進化過程にゆずり渡すのである」と。人間が死ぬ時に 地球の進化過程にゆずり渡すのは、生まれた時に授けられた物質やカその ものではありません。人間は、超感覚的世界から絶えず物質的感覚的な地 上的存在の中へと流れ込んで来るものを、こうして地上の進化過程へゆず り渡すのです。人間は生まれて来る際に、超感覚的世界から何かを携えて 降りて来ます。この何かを、人間は生きている間に自分の肉体を形作って いる物質と力とに融合合一させますので、彼が死ぬと、大地がそれを受け とることになるのです。このようにして人間は、超感覚的世界から感覚的 世界すなわち物質界へとしたたり落ちるもののための仲介の役を、絶えず 果しているのであります。「超感覚世界から感覚世界へ絶えず何かが雨の ように降りそそいで居り、もしも人間がこのしずくを身にうけて、身をも って大地にこれを仲立ちしてやらないと、このしずくは、大地の栄養とは 生 人問の一生 変質した 物質 ならびにカ 物質 カ
人間の肉体について考えてみます時には、これを、私達をとりまく物質的・感情的な環境世界と関 係づけて考える必要があります。なぜなら人間の肉体は常に物質世界と相互に関係し合っており、物 質世界によって支えられているからであります。私達の周囲の物質的・感覚的世界を眺めてみますと、 そこに見出されるのは礦物、植物、動物であります。物質的存在としての私達の肉体は、礦物や植物 や動物と近親関係にあるのです。しかしながら本当の意味での近親関係は、外面的な相似を眺めただ けで完全に解るというものではありません。人間と物質的・感覚的環境世界との相互関係を知ろうと 思うならば、自然界というものの本質の中へ、一そう深く入って行くことが必要となってまいります。 人間を物質的・肉体的な面に限って観察する時、私達は真先に、堅牢な骨格および筋肉を目にしま す。さらに深く人間の内部に入って行きますと、血液循環とそれに関係する諸器官のあるのがわかり ます。呼吸作用にも気づきます。消化機能もありますし、生物学でいうところの脈管組織より成る諸 第十二回 肉体という視点から人間を見る。肉体は生理過程から理解されなければならな 。頭部と動物界。思考形成。胸部と植物界。病気の本質。呼吸と栄養。骨格、 筋肉、礦物界。 226