総て - みる会図書館


検索対象: 教養の基礎としての一般人間学
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1. 教養の基礎としての一般人間学

等は大人が他人と交わることを通して自分の力を磨いて行かねばならないのとは全く違う状態にあり、 全く違う課題を持っているのだということを認識していなければなりません。すなわち意識下深くに あり心性の中に住んでいるものに向かって、教育と授業は入り込んで行くことが出来なければならな いのです。これができなければ先へは進めないのです。それゆえに次のような問いが出されねばなら ないでしよう。「授業や教育の何が一体、人間の意志本性に働きかけるのだろうか ? 」と。この問題 は一度真剣にとり組んでみる必要があるものです。 皆さんが私の昨日の話を思い返してくださるならば、総ての知的なものは、すでに老化した意志で ある、すでに晩年を迎えている意志であるということを思い出されるでしよう。すなわち、一般に行 われている知的理解を求める一切の指導や、普通に行われている一切の勉強への強制や、教え込むた めに概念化されたものの総ては、教育を受ける年代にある子供には、まだ全く効力を持っていないも のであります。ここでもう一度事実をまとめて見ましよう。そうすると次のことが理解されるのです 「感情とは生成しつつあるまた出来上っていない意志である。だが意志の中には人間の総体が生きて いるのであるから、子供達の教育を考える時にも、彼等の意識下にある諸々の決意のことを考慮に入 れなければならない」と。ただその際に、「よく考え抜かれたものを用いれば子供の意志に対して影 響を与えることができる」というような功利的な考え方をしないように、十分注意をいたしましよう。 そこで私たちは、「一体どうしたら子供の感情本性に対して良い影響を与えることができるだろう か」と自分に問わなければなりません。それはただ、反復的な行為として用意されたものを通してし

2. 教養の基礎としての一般人間学

が総ての地上の営みの上に広がってしまっていたでありましよう。そして地球は、全体として大きな 結晶体へと移行してしまっていたに違いありません。それに反し個々の結品体は、自分の個体として の結品性を維持してはいなかったでしよう。私達は私達人間の進化に必要な限り、結晶体の総体から 個々の結晶体を切り離して所有します。ですけれども、私達はそうすることによって、地球の生命を も活發に保つのです。私達人間はつまり、地球の生命を活發に保つ存在であり、地球の生命から除外 され得ない存在なのです。ですからエドワルド・フォン・ハルトマンが、その悲観論的立場から、 「人類がいっか完全な成熟に達して、その結果、全人間が自殺をすることになって欲しいものだ」と 言ったのは、すでに一箇の真実を含む思想であったのです。ハルトマンが自然科学的世界観の持っ狭 い立場から何を言おうとしたかを、つけ加えて述べる必要はありますまい。彼は、総ての人間がいっ か全員自殺をして絶えるだけでは満足が行かなかったものですから、さらに地球が大規模な陰謀によ って空中にふっ飛ぶことを期待したのでした。実は彼は、そこまでする必要はなかったはずなのです。 彼は人間全体の自決の日を定めるだけで十分だったはずです。そうすれば地球は自ずから空中分解へ とゆっくり進んで行ったでしようから。なぜなら人間によって大地の中へ移し植えられるものが無か ったら、地球の成長は進行することが出来ないからです。この認識から出発して、私達は今度は感性 的にこれを確認しなければなりません。これらの事柄を現代の人達は理解する必要があるのです。 私の初期の著作の中には、くり返しくり返し或る考え方が出てまいりますが、これによって私は、 認識というものを今日それが立っている基盤とは別の基盤の上に据えようと望んだのでした。イギリ

3. 教養の基礎としての一般人間学

推し進めることになるのです。皆さんが子供に出来るだけ多くのイマジネーションを与えるならば、 もし皆さんがイメ】ジにあふれる言葉で子供達に話しかけるように努めるならば、皆さんは子供の中 へ、持続的な酸素保持を可能にする芽を、つまり絶えざる生成の種子を、植えつけることになります。」 なぜならば皆さんは子供を、未来つまり死後の要素に向けることになるからです。すなわち私達は 教育という仕事によって、私達人間が生まれる前に受けていた働きかけをこの世で継続することにな ります。私達は今、「表象作用とは、私達が誕生前ないし入胎前に体験したことに関する作像作業 (Bildtätigkeit) である」とはっきり認めなければなりません。誕生前には諸々の力ある存在が私達 に働きかけ、私達の中に誕生後までも影響を残すような作像作業を作り出してくれたのでした。私達 は子供達に心像 ( イメージ ) を与えることによって、教育活動を通してこの宇宙的営みを継続する作 業に着手するのであります。私達は子供の中へ未来の種子となりうる心像を植え込みます。なぜなら 私達は心像を肉体の働きの中へと植え込むからです。それゆえに私達は、教育者としてイメ 1 ジの中 で働きかけるという能力を身につけることによって、絶えず次のような感情を持ち続けていなければ ならないのです。「お前は人間総体に向かって働きかけなければならない。もしお前がイメ 1 ジを用 いて働きかけるならば、全人的共鳴が生じるのだ」と。 「誕生前に超感覚的世界で人間が受けた作用を継続するという作業こそ、総ての教育の中でなされ ねばならないことなのだ」という事を自分自身の感情の中へ植え込むこと、これが総ての教育に尊厳 を与えるのです。この尊厳なくしては、そもそも教育するということは不可能なのです。

4. 教養の基礎としての一般人間学

たならば、言語を通して相手に自分を理解させることを可能にするような意識的な生を、皆さんは営 むことが出来ないはずであります。人間はまず概念を得ると普通には信じられておりますが、これは 本当ではありません。人生においては最初の行為が結論なのです。つまり私達は次のように言えるの です。「動物園の中でのライオンについての私達の知覚を、それ以外の一切の総合的人生体験から切 り離してしまうということをしないで、これを人生体験の総体の中へ取り込むならば、私達が動物園 の中で行う最初の行為は、一つの結論を得ることに外ならない」と。私達が動物園に行きライオンを 見るということは一つの行動に過ぎず、生活の全体に含み込まれているものなのだということを、私 達は明確にしておかなければなりません。私達は何も動物園に足を踏み入れライオンを見た瞬間から、 人生を開始したわけではないのです。この行動は、それ以前の生活と結びついており、生活は現在の 行為の中へも作用を送り込んでおります。そしてまた私達が動物園から持ち帰った経験は、普通の生 活の中へと持ち込まれるのであります。 そこで私達が今、この過程を全体として眺めますと、一 体ライオンは、まず最初何なのでしようか ? ・ライオンはまず最初、結論なのであります。「ライオ ンは結論である」と私達は言い切ってよいのであります。それから少し経っと、ライオンは判断であ ります。さらに少し後には、ライオンは概念であります。 論理学の本を開いて御覧になりますと、結論の項の中に、そのうちでも最も有名となった「総ての 人間は死ぬ。カーユスは人間だ。それゆえカーユスは死ぬ」という結論が引用されているのにお気づ きになるでしよう。カ 1 ュスは実際、論理学上最もよく知られた人名です。ところで「総ての人間は 177

5. 教養の基礎としての一般人間学

ることができ、自然科学が解剖の対象とするこの粗い物質身 (Physische 「 Leib) とを対象にしている ことになるのであります。以上により私達は人間の総ての部分をとりあげたことになります。 さて、御承知の通り、私達がそなえております物質身は、動物もまた持っているものであります。 私達は人間を全体として捉え、この九個の構成要素に従って人間と動物界とを比較して初めて、人間 と動物との関係についての理解を、知覚に忠実に、しかも意志の本質を把握するのに役立つような形 で得ることができるのです。「人間の心性が物質身によ 0 ておおわれているのと同じように、動物も 一種の物質身によ 0 て包まれている。だが動物の物質身は多くの点で人間の物質身とは出来方が違 0 ているのだ」ということを私達が知った時に、人間と動物の関係についての私達の理解は確かになる のです。人間の物質身は、決して動物の物質身より完全に近いものとは言えません。人間以外の、 わゆる高等動物達の物質身を考えてごらんなさい。また、自分の家を作るときのビー ーのことを考 えてみてください。人間は学ばなければ、それも非常に手のこんだ練習をしなければ、つまり建第学 とかそれに類するものを身につけなければ、ビー ーの作るような家は作れません。ビ 1 ・ハーが、そ の物質身の形体の中に生きているものを自分のすみかの築造に使用できるように物質界に生まれつ いているのは、ただビー ーの外形的な物質身が、そういう形に作られているからなのであります。 ーの物質身自身が、この意味でビ 1 ーの教師なのです。私達は、すずめばちゃ、密蜂や、あ るいはその他のいわゆる下等動物を観察すると、彼等の物質身の形体の中に、人間の物質身の中には 到底これほどの規模と強度では見出せない或るものを見つけることができるでしよう。これらは総て

6. 教養の基礎としての一般人間学

私達が権威でないならば、私達には良い教育は出来ないのであります。 さて私達は、人間の総体的な活動をも、霊性の面から概観することが出来なければなりません。こ れまで色々な観点から眺めてまいりましたように、人間の総体的な活動は、一方の側では認識的な思 考作用となり、もう一方の側では意志作用となっておりまして、その中間に感情作用が位置します。 誕生から死に到る間の地上的存在としての人間は、認識的思考作用として現れて来るものを次第に論 理によって浸して行くように、つまり論理的に考える能力を人間に与えてくれる総てのものによって 認識的な思考作用を充填するように、運命づけられております。ただ皆さん自身は、教育者として当 然身につけていらっしやるこの論理的なものを表面に出さず、背後にしまって置く必要があります。 な・せならば、論理というものは学問的な性質のものだからでありまして、これは当面は教師の態度全 体から滲み出るものとして、子供に作用するにとどめておくべきなのです。ただし、いやしくも教師 たるものは、論理の根本義を体得していなければならないことは言うまでもありません。 私達が論理的な、つまり思考的認識的な活動をする際には、私達はこの活動の中に、常に三つの要 素を持っています。第一に、私達は思考的認識作用の中に「結論」と呼ばれるものを持っています。 通常の生活の場では、思考は言語の形で表現されます。皆さんが言語の構造を眺めて御覧になります と、話をされる時、いつも結論を作り出しておられるのだということにお気づきになられるでしよう。 この結論を作る行為こそ、人間における最も意識的な行為なのであります。もしも人間が絶えず結論 を言わないとするならば、人間は言語によって自己表現を行うことは出来ないでありましよう。もし 175

7. 教養の基礎としての一般人間学

四肢もまた頭部的性格を分有し、また同様に胸部的性格をも併せ持っているからであります。四肢は、 たとえば皮膚呼吸に参与しておりますし、その他色々の面からそう一言えるのです。 すなわち、もしも真実相に近づこうとするのならば、特に人間本性の真実相に近づこうと欲するな らば、分析作業というものは総て統一体の中で行われるものだということを、銘記していなければな りません。もし抽象的な統一性ばかりを追求しますと、何一つとして明らかにすることは出来ないで しよう。また分析ということを全く行わないならば、世界はいつまでたっても漠然としており、闇の 中では猫はみな灰色だというのと同じことになりかねません。ですから、総てを統一体という姿で抽 象的に把握しようとする人達は、闇の中で闇を見るように世界を見ているわけです。ひたすら分析し 分解し、総てをばらばらにするだけでは、これまた絶対に本当の認識には達せられないでしよう。っ まりこの場合は、ただ別々に違う個物を見ているだけであって、認識自体は生じて来ないに違いあり ません。 このようにして、人間の中にある総てのものは、少しばかり認識的性格であり、少しばかり感情的 性格であり、また少しばかり意志的性格をも持つのであります。認識的であることを主とする部分と いえども、同時に幾らかは感情的でもあり意志的でもあるのです。感じつつあるものは主として感じ ているのでありますが、同時に認識もしており、意志してもいるのです。意志しつつあるものについ ても同じであります。これと同様のことを、私達が昨日「感覚領域」と名づけたものの上にも適用す ることが出来ます。私がこれからお話しようとする事を理解しようと思われるならば、皆さんは屁理 159

8. 教養の基礎としての一般人間学

エネルギー不変の法則は人間理解を妨げる。創造の意味。知性は死減するもの を把握し、意志は生命あるものを把握する。純粋な思考作用と自由。地上世界 の発展に人間は生命を賦与する。人間本性の内部における死減作用の意。血 液ー筋肉組織。骨格ー神経組織。宇宙の動きの投影である幾何。認識の変化。 現代の教師は、自分が学校で行う総ての行為の背景として、宇宙の諸法則についての総合的な理解 を持っているべきであります。特に低学年クラスの授業には、教育にたずさわる人の魂と人類の最高 の理想との一致が要求されるのは当然のことであります。従来の学校の体質の癌となっておりますの は、低学年担当の教師が、いうなれば従属的な地位にあるものと見なされていることであります。っ まり低学年教師の存在は、高学年教師の存在より価値が低いと見なされております。もちろん私は、 ここで社会機構の精神的構成要素をめぐるこの問題に、深入りするつもりはありません。しかし、ど うしても次のことだけには、人々の注意を喚起しておかねばならないと思うのです。それは、「これ からは、教師集団に属する総ての人間が、お互に完全に同等でなければならない。そして、低学年の 教師は高学年の教師と精神的な質から言っても全く同等の価値を持つものであるということを、一般 の人達も強く感じるようにならなければならない」ということであります。ですから総ての授業の背 第三回

9. 教養の基礎としての一般人間学

として授けられるものの総ては、きよう私が皆さんに申しあげたような事実について、全く無知のま までいるように気を配っております。今日の教育によって、一体どんなことが生じているのでありま しようか ? ・実際に靴下や手袋を一度も裏返して見ないようでは、それらの本質を本当に知ったこと にはなりません。そうしなければ靴下や手袋の何が自分の皮膚に触れるのかは解らず、外側に出てい るところだけしか知らないことになるからです。それと同じように、今日の教育によって人々が知っ ているのは、外側に向けられたものばかりでありまして、人々は、人間の半面についての理解しか持 っておりません。人々は四肢の何であるかを決して理解することができないのでありますが、な。せな らば、これは霊性によって裏返されてしまっているからであります。 きよう述べてまいりましたことは、次のように言い直すことも出来るでありましよう。世界の中で 私達の前に立っている一個の総体としての人間を、まず私達が四肢的人間と見なすならば、それは霊 性、心性、肉体としての姿を示します。私達が彼を胸部人間と見なすならば、それは心性および肉体 として現れてまいります。大きな球は ( 挿図参照 ) 霊性、心性、肉体であり、中位の球は肉体と心性、 小さい球は肉体のみであります。八六九年に開催されたカトリック教会司教会議は、この大きな球に ついて知ることを人類に禁止したのです。司教達は、「中位の球と小さい球だけが存在し、人間は肉 体と心性とからのみ成り立っており、心性はその属性として幾分かの霊性的なものを含む。すなわち、 その一面に霊的性格を持つ」というカトリック教会の教条を宣言したのでした。八六九年以降、カト リック教から出発するヨ 1 ロッパ文化にとって、霊性というものは存在していないのであります。で 203

10. 教養の基礎としての一般人間学

視、熟睡という状態の内に経過して行くということを理解することがー少なくともまず始めには 非常に大切だということであります。第三には、生の営みの個々の場合に現れる特色を捉えるに貰 は、それらを完全覚醒の生命活動、夢見つつある生命活動、熟睡しつつある生命活動のいづれかの状 態として理解することが必要であります。さてここで私達は、次第に霊性から心性へ、心性から肉体 への下降を試みようと思います。そうすることによって、私達は人間を総体として捉えることが出来 るのであり、最終的にはこの一連の考察を、成長しつつある子供の、或る意味での保健衛生に役立た せることが出来るのであります。 皆さんも御承知のように、授業の対象となり、また総合的な意味で教育の対象となる年代とは、人 生の最初の二十年であります。私達はまた、子供の生活は、この二十年間がさらに三期に分けられる ことを知っております。交歯期までの子供は「模倣を本性とする存在であろうとする」ことに、その 特色を持っております。子供は周囲の世界の中に見るものの総てを模倣しようとします。七才から性 的成熟に到るまでの期間にある子供達と交渉を持っ場合には、私達は、彼等が知り感じ意志しようと するものを「権威に支えられて受け取って行こうとする」存在であることを知らなければなりません。 性的成熟の時期に到って初めて、彼等の中に「自分自身の判断によって自分と環境世界との関係を決 定しようとする」人間らしい憧れが生じるのであります。でありますから、私達は小学校の子供達を 対象にする時には、或る意味で最も深い本性の要求から「権威あるものを求めている人間」を教育し ているのだということを、片時も忘れてはならないのであります。この年代の子供達に対して、もし