自分自身 - みる会図書館


検索対象: 教養の基礎としての一般人間学
179件見つかりました。

1. 教養の基礎としての一般人間学

自我感知器官について人々は語らないのです。この自我感知器冨の作用は、私自身の自我を体験する 作用とは別のものなのであります。それどころか、自分自身の自我を体験することと他人の自我を感 知することとの間には、大変な違いがあります。と言いますのは、他人の自我を感知するのは、本質 的に言って一種の認識作用であります。少なくとも認識作用に似た活動であります。ところが自分自 身の自我を体験するのは、意志作用の一つなのであります。 さてここで、皮肉屋が喜びそうな事態が生じてまいります。彼等は「君は昨日の講演で、あらゆる 心的活動は、主として意志活動だと言ったではないか。今度は自我感知感覚というものをこしらえて、 これが主として一種の認識感覚だというのは、おかしいではないか」と言うでありましよう。しかし、 私が拙著『自由の哲学』の改訂版の中で試みたようにして、皆さんが自我感知感覚の性格を明らかに しようとなさるならば、この自我感知感覚というものが非常に複雑な働きをするものだという事に、 お気づきになるでしよう。他人の自我を感知することは、何に由来するのでありましようか ? 観念論 者は全く驚くべきことを申しております。彼等は「人は他人の外側からその姿を見、その声を聞くが、 自分自身もこの人と同じように人間としての外形を備えていることを知っている。また、自分の中に は考えたり感じたり意志したりする存在、つまり、心的霊的にも一個の人間である存在があることを 知っている」と申します。これから類推して「私自身の中に思考し、感じ、意志する存在があるのと 同じように、他人の中にもそれがある」と結論するのであります。こうして、自分自身からの類推を 他人の上に及ぼして判断するのであります。この類推は愚かの極みであります。一人の人間と他の人 162

2. 教養の基礎としての一般人間学

時、その人はまず自分自身の心性の在り方について考えます。普通はそれで満足してしまいます。心 理学者達もほとんど同じであります。私が私自身について体験することを総合して、その総計を自我 と呼ぶ場合と、私が私以外の誰かと向かい合い、その人と私が結ぶ関係の在り方を通してこの人間を も一つの自我と呼ぶ場合とは全く違うのだということに、彼等は思いを致さないのであります。この 二つは全く異なった精神活動なのであります。私が私の生命活動の一切を総合して「自我」という形 にまとめる場合には、私は純粋に内的なものを問題にしております。私が別の人間と相対して、その 人と私とが結ぶ関係を通して、「この人もまた私の自我と同じような自我を持つのだ」と言う場合に は、私は、私とこの人間との間に生ずる相互関係の中に流れ去って行く或る行為を前にしているので あります。それゆえ私は、「私の内部にある私自身の自我を感知することと、私が私以外の人を一個 の自我であると認識することとは、全く違うことなのだ」と言わざるを得ないのです。他の人の自我 を感知するのは自我感覚があるからであって、これは色彩が視覚の存在により、音が聴覚の存在によ り感知されるのと同じことであります。事物を見る際の感覚器官を識別し得るようには、自我を感知 する感覚器官は、外からは見えません。自然は人間をそういうように作ったのであります。ですけれ ども、人間が色彩を感知する際の感覚作用を「見る」という言葉で表現するように、自分以外の自我 を感知する作用を表現するのに「自我感知する」という言葉を使用することは十分可能でありましょ う。色彩感知のための器官は人体の外側に着いておりますが、自分以外の自我存在を感知するための 器官は人間の総ての部分に広くゆきわたっており、非常に繊細な実体から成り立っておりますので、 161

3. 教養の基礎としての一般人間学

みようと思うのですが、実はそうすることによって、人間本性の別の二つの面である認識的作用と意 志作用を一そう深く理解する可能性も、また生じるのであります。 ただ私達はその際に、これまでにも色々な場合に私がくり返して述べてまいりましたことを、もう 一度はっきり思いかえしておく必要があります。すなわち、「心性の持っ能力というものは、思考、 感情、意志の三つに、そう図式的に区分できるものではない」という事を。と言いますのは、生きて 働く心性の中では、一つの働きは別の働きの中へ常に入り込んで行き移行しているものだからであり ます。 まず一方の側を占める意志について、考えて見ましよう。皆さんは、表象の、つまり認識的作用の 浸透していない何かを意志しようとしても、出来るものではないということが、おわかりになること と思います。ほんの表面的な意味で結構ですから、自分自身を観察して、御自分の意志の上へ自己を集 中してみてください。そうすれば、意志の働きの中に常に何等かの表象作用が入り込んでいることに、 そのつど気づかれることでしよう。もし皆さんが意志作用の中に何の表象作用をも混入しておられな いとするならば、皆さんは人間ではないでしよう。もし皆さんが、意志から湧き出て来る行動を表象 行動によって満たしていないとするならば、皆さんは意志から流れ出て来る総てのものを朦朧とした 本能的な行動を通して実現していることになります。 あらゆる意志作用の中に表象作用が入り込んでいるのと全く同様に、あらゆる思考作用の中には意 志が入り込んで居ります。たとえどんなに表面的にであろうとも、皆さん御自身の自己 (selbst) を

4. 教養の基礎としての一般人間学

にいる人が、どこかに行こうとしたからだ」「どうしてその人はどこかに行こうとしたんだろう ? ・」 現実に即しての問いかけはいっか終りとなるものですが、抽象にとどまっている限り、どこまでも 「どうして ? ・と問い続けることができます。つまり問いの車は、どこまでもころがり続けるのです。 具体的な思索は必ず終結しますが、抽象的な思索は、まるで車輪の如く無限に思考を回転しつづける のです。身近でない分野に関しての問いについても、全く同じことが言えるのです。人々は教育につ いて思索し、誕生前教育について質問します。ところが、誕生前の人間は物質性を超越した存在達に 守られているのです。この存在達に私達は、世界と個々の人間との直接的個別的な関係を委ねておく ほかはありません。従って誕生前の教育は、まだ子供自身の課題とはなっておらず、両親、特に母親 のなす行為の無意識的結果だけが問題となるのであります。母親が子供の誕生まで正しい意味で倫理 的であり、かっ知的に見て間違いないものを自分自身の中で実現するように努めてさえいれば、この たえまない自己教育によって母親が作り出していったものが、全く自然に子供へと流れ込んでいくで ありましよう。この世の光を見る以前に子供を教育しようという考えを捨てれば捨てるほど、子供に とって良いのであり、そのかわりに、自分自身が正しい生き方をしようと考えれば考えるほど子供の ためになるのであります。教育という営みは、子供が地上的存在という世界秩序の中へ位置づけられ た時に初めて、意味を持ち得るのであり、それは子供が外気を呼吸し始める時なのであります。 さて子供が物質界の秩序の中に入ってきた時、この時にこそ私達は、霊界から物質界へと移行する

5. 教養の基礎としての一般人間学

しつつ破壊しようとしているからであります。霊性は総てを壊し去ろうとし、肉体は霊性のこの破壊 作用を抑制します。この霊的心的なものの破壊的な力と、絶えず肉体を作り上げて行く肉体の働きと の間には、平衡がとれていなければなりません。この破壊的な流れの中へ投入されているのが胸・腹 部組織なのでありまして、これこそは浸入して来る霊的心的なものの破壊作用に対抗し人間を物質で 満たして行く存在なのであります。しかし人間の四肢組織は胸・腹部組織をつき抜けて外に張り出し ておりまして、実に「人間における最も霊的なものである」ということが、お解りいただけることと 思います。なぜならば、ここでは物質からの形成作用が最も僅かしか生じていないからであります。 物質代謝という形で腹・胸部組織から四肢部分へ送り込まれるものだけが、四肢部分の物質的状況を 作り出しているのです。四肢部分は高度に霊的であり、それは自分自身を運動させる時、私達の肉体 を食いつぶす存在なのです。そして肉体は、誕生して以来素質として持っているものを、自分の内部 で発展させるという任務を持っております。もしも四肢が十分に活動することをしなかったならば、 もしくは適当な仕事をしなかったならば、四肢は肉体を十分に消耗することはできません。そうすれ ば胸・腹部組織は幸福な状態 ( 自分にとって気持のよい状態 ) になります。四肢によって食い減らさ れることが無いからです。こうして食い残された部分を、肉体は内部に過剰な物質性を生み出すため に使用します。この過剰な物質性は、人間が誕生以来その素質として持っているものに滲み透ります。、 この素質は、肉体に付与されているものなのですが、それが本来持つべきでは無いものによって浸透 されるのです。すなわち、地上的人間として物質的に持っているだけのもの、霊的心的な素質を何等 245

6. 教養の基礎としての一般人間学

内面から溢れ出す力によって、生徒達と皆さんとの間に「ある一つの関係」が生みだされます。最初 のうちは外面的な現実が、これと正反対な結果となる場合も起りえます。皆さんが学校に行かれると、 腕白小僧ゃいたずら娘が一緒になって皆さんを嘲笑することになるかもしれません。皆さんは、ここ で養い育てようとしている思考を通して十分に自分を強め、このような嘲笑に動じないようにならな ければなりません。このような事柄を単なる外面的な出来事として、ちょうど雨傘を持たずに外出し た時に突然雨が降り出したというような出来事と同質の事件として、受けとめられるようにならなけ ればなりません。実際それらは、いずれにせよ不愉快な出来事でありましよう。しかし普通一般に人 々は、嘲笑されることと傘を持たないでいる時に突然雨に降られて驚くこととを、同じ感情で受けと ることはしません。それとこれとは違うと区別して考えます。しかし私達は、この区別をしないよう に、嘲笑をまるで突然の雨と同じように受けとれるように、強い思考を発達させなければなりません。 私達がこういう思考によって満たされ、なかんずく思考に対しての正しい信頼の念をもつようになれ ば、前述のような境地が私達に開けてくるのです。そのために一週間かかるか二週間かかるか、ある いはもっと長い期間を要するかわかりませんし、その間中、子供達からは笑い続けられるかもしれま せんが、そのうちに必ず私達にとって望ましいと考えられる関係が私達と子供との間に開けてきます。 この関係を生み出すためには、私達は私達自身を作りかえることによって抵抗にうちかっていく必要 があります。私達はとりわけ私達自身を変革すべきであること、内面的で精神的な関係が教師と生徒 の間に成り立っていること、単に言葉や生徒にむかって発する警告や授業の巧みさばかりでなく、前

7. 教養の基礎としての一般人間学

この事実は「教師自身がいかにあらねばならないか」という問題に、光を投げかけてくれます。教 師は生活のどの瞬間におきましても、心の新鮮さを失ってはならないのであります。そして生命が生 き生きと繁栄しなければならないとするならば、教師の仕事と、知識をひけらかす態度は、絶対に一 緒になってはならないのです。万一、教師という職業が知識のひけらかしと一緒になりましたならば、 この結婚から生じる禍は、人生で生じ得るどんなものよりも大きなものとなるに違いありません。か って或る時代に「教職と知識のひけらかしとが一体のものであった」などという愚論を認める必要は 絶対にないと、私は思うのであります。 このことから「授業には或る種の内的な倫理性がある」ということ、すなわち「授業をする際には 或る内面的な義務がある」ということが御理解いただけたと思うのです。つまり教師には、本当の意 味での至上命令と言えるものがあります。教師にとってのこの至上命令とは、「汝自身のファンタジ 1 を新鮮に保て」ということであります。そして、もしあなたが知識をひけらかすようになっている と感じられた時には、「知識のひけらかしは、他人に対して禍をなすものであり、自分にとっては卑 劣にして非倫理的行為であると言いきかせよ」という以外にないのであります。これが教師たる者の 持つべき気持とならねばなりません。これを自分の気持とすることの出来ない教師があるならば、そ の人は教師となるために身につけた技能を、次第に別の職業に転用して行くように試みるべきであり ましよう。このような事柄は、人生において完全に理想的な形で実現できるものではありませんが、 しかし何が理想であるかは知っている必要があります。

8. 教養の基礎としての一般人間学

る。意志は人間自身には計り難く不安定なもののように思われるが、感覚作用の内部に深く浸み透っ ているのである」と。 これまで述べてきたことを皆さんがしつかりと見すえた時、自然に対する皆さんの関係が、皆さん にとってどんなに生き生きとしたものに変って来るかを考えてみてください。この時、皆さんはきっ とこう言われるでしよう。「私が自然の中へ入って行くと、光と色とが私に輝きかけて来る。私は光 とその色とを受ける時、自然が未来に向けて送り出しているものと私とを一つに融け合せているのだ。 そして部屋に帰り、自然について省察し自然についての法則を考え出している時、私は自然の中で次 々と死減して行っているものを研究対象としているのだ」と。自然の中では常に死と生成とが結び合 っております。私達が死を理解するのは、私達が自分の内に自分の誕生前の生の鏡像を持っているか らであります。これは理知の世界であり思考の世界であって、この誕生前の生の鏡像たる思考世界を 通して、私達は自然の根底に横たわる死せるものを観照することが出来るのです。また一方では私達 が未来の自然の中に生じ来るであろうものを観照できるのは、私達が理知や思考生活だけをもって自 然に相対しているのではなく、私達自身の中にある意志的な要素をもって自然に向かうことが出来る ことによるのであります。 さて、ここでもしも人間が、地上での生の間ずっと継続して自分の中に保持し続けるべきあるもの を、誕生前の生から取り出して来ることが出来ないとするならば、つまり人間が、前回の誕生前の生 の間に純粋に思考生活上の実在と化して終ったものの中から、何かあるものを、今回の地上の生のた

9. 教養の基礎としての一般人間学

になるからです。いうまでもなく或る分野では、皆さんよりも遙かに能力ある秀れた人間達を育て上 げるという事態が生じますが、それが可能であるのは、教育が関わり得る部分は人間総体のうちの一 部分だけだからであります。教育の対象となる部分は、私達自身が利ロでもなく才能をも持たず、こ とによると子供が素質として持っている才能、分別、善良に遠く及ばないかも知れないにも拘らず、 それでもなお教育できる部分なのであります。すなわち、私達が教育によって行いうる最上のことは 意志教育であり、また感性教育の一部分であります。なぜならば、私達が意志作用、つまり四肢人間 を通して教育するものと、感性、つまり胸部人間の一部分を通して教育するものとについては、私達 自身が達しているものと同じ完成度にまで子供達を高めてやることが出来るからです。召使い、否、 目覚し時計ですら、自分よりはずっと利ロな人間を目覚めさせることが出来るのと同じように、才能 においても善良さにおいても遙かに低次の人間が、自分よりも優れた素質を持つ人間を教育すること が出来るのであります。ただ私達がはっきり自覚していなければいけないと思われますのは、知的な まさ ものに関しては育ち行く人間にあらゆる点で勝っている必要はないに致しましても、善良であるとい う点については、 ( これはいずれ意志形成という視点から眺めることにいたしますが、 ) 意志の発達 に関連する事柄でありますから、出来るだけの力をふりし・ほって可能な限り努力しなければならない ということであります。子供は私達よりも遙かに優れた人間になる可能性を持っていますが、もし私 達の教育に、もう一つ別の世界ないしは他の仲介者の手による教育が加わらなければ、絶対にそうは ならないでありましよう。 214

10. 教養の基礎としての一般人間学

影である諸々の現象」についての重要な心理学上の概念に行きあ たります。すなわち、好感 (sympathie) と反感 (Antipathie) とを 反映する現象のことであります。ここで私たちは前回の話しで述 べられたことに戻って来るのでありますが、私達はもはや霊的な 世界にとどまり得なくなった時に、物質界へと降りて参ります。 私達はこの世に降ろされることによって、霊的なものの総てに対 して反感を持つようになり、霊的な誕生前の現実を、自分も意識 していない反感の中で映し返す (zurückstrahlen) のです。私達は 反感の力を自分の中に持っており、その力によって、誕生前の要 素を単なる表象像に変えてしまうのです。また、死後に意志とい う実在として私達の存在から輝き出て行くものを、私達は好感の 中で私達自身と結び合わせるのです。この好感と反感の二つを私 達は直接に意識することはありませんが、両者は無意識のうちに 私達の中に住んでおります。つまり、この両者は私達の感情のこ とでありまして、感情は一つのリズム、すなわち好感と反感とが 交替 ( 交互 ) することから生じて来るものなのであります。 私達は自分の内部に感情の世界を作り上げて行きますが、これ 象 表 種子 反感好感 感情