168 間として徹底的に扱っている点において、それはまさに画 終らしめるような壮大な目標と任務をもった革命なのであ って、そこでは生産手段の私有にはじまる強靱な全体系が期的であったと、具体的な歴史のなかに果たしたその事態一 まさに打倒されるべき真の《敵》であることに、繰り返しの意味をどれほど強調しても敢えて強調し過ぎることのな 思い至らねばならないのである。敢えて極端にいえば、そいほどであった。人間は条件によって可変的であること、 こには、《敵》から解放すべき人間は多くいこそすれ、《敵》また、たとえ条件がまだ充分に成熟しきっていなくともひ たすら認識によって可変的となること、の原則を厳密に貫 として抹すべき人間はただの一人もいないといってよい くらいである。何故なら、掌にまめの出来た勤労者は、たきとおそうとするその立場にとって、「どうやってみた所 とえ、《見せかけの敵》となっていても、積極的な強い努で叩き直せない者」など殆んどいないとさえ一一一一〔えたのであ る。第二次大戦において、敵兵である日本の兵士を単なる 力によって、《味方》に転化するはずであるばかりでなく、 、資本家・地主すらそれを支え捕虜ではなく、積極的な味方へと転化すべく試みたその柔 銃を向け直すべきツアーリ ていた制度がいまや廃止されてしまい、一人の人間として軟な創意はさらに朝鮮戦争の時代へも弛むことなくひきっ プレイン・ウォッシング その制度から全的に切り離されてしまえば、もはや頑強ながれて《洗脳》なる新しい言葉を広く国際化させ、また、 《敵》たり得なくなるのである。このような制度の変革の国内の資本家・地主を漸進的に転化させる各地の試みも着 実現は、生産力の増大、教育の普及、《味方》勢力の拡大実な成果をあげつつあることは私達にもすでに知られてい につれて、シトックマンの採ってきた人間抹殺の方式にいるが、ところでしかし、一方、それがまだ具体的な出発を よいよ頼らなくなり、その独自な新しい方法の大胆な採用開始して間もない部分的な萌芽であることと、他方、革命 を待っているのであって、そして、私達は、たとえ部分的全体の進行のなかにおいて広範な理論的吟味を充分には与 な努力にせよ、そのような例証がすでになされていることえられていないことと相まって、すでに私達が人類の連帯 を、第二次大戦以来の中国の創意に充ちた足取りのなかにの極まりない自然な深さと変幻を目のあたりに確認する驚・ くべき革命時代へ踏みこんでいることを確然と自覚せしめ 見ているのである。 その例証し ま、まだ部分的であり、また、萌芽的でもあつられるにはまだいささか不足の感がある。これは、指導的 た。けれども、戦争のなかの人間を同時に革命のなかの人理論である毛沢東の分析が生産力の発展のばねを掌のなか
「人生の暗澹たるもの」であることを知りつくし、「その事期の大正三年に書かれた作品であることも忘れてはならな 実を廻避する為に、洒落れのめしてゐた」人たち、たとえい。 ば山東京伝等にみられるもの ( 『澄江堂雑記』 ) がそれであ った。さらにひとつは、『或阿呆の一生』の一節にみられ芥川の自殺への足どりは実に必然であって、唯一人これ る次の言葉が示すものである。「彼は彼自身の他の一面、を止めうるものではないように見える。しかし、ここでも 冷かな理智に富んだ一面に近い『カンデイイド』の哲また僕等は西洋と日本との断層につきあたらざるをえない。 学者に近づいて行った。人生は二十九歳の彼にはもう少し「人生は一行のポオドレエルにも若かない」といい、雨に ヴォルテエルはかう云ふ彼に人けぶる架空線の紫色の火花に感動して、あれだけは「命と も明るくはなかった。が、 工の翼を供給した。彼はこの人工の翼をひろげ、易やすと取り換〈てもっかまへたかった」といったその同じ芥川 空へ舞ひ上った。同時に又理智の光を浴びた人生の歓びやが、同じところで、黄水仙の一鉢を買 0 て来た新妻に、 ・つか 悲しみは彼の目の下に沈んで行った。彼は見すぼらしい町「来匆々無駄費ひをしては困る」という小一『〔を、伯母の言 町の上〈反語や微笑を落しながら、遮るもののない空中をえというままに言っているのである。世紀末の鬼と優等生、 まっ直に太陽へ登って行った。丁度かういふ人工の翼を太芸術至上と孝行息子、芥川の不幸な死の有力の原因がそこ 陽の光に焼かれた為にたうとう海〈落ちて死んだ昔の希臘にある。もちろんその矛盾を滑稽と思わないほどの無神経 ではなかったが、それを意識すればするほど、ひょっとこ 人も忘れたやうに。」 芥川の『鼻』に始ま 0 て『河童』に終る一連の作品、た踊の平吉に近くな 0 てゆくことを感ぜざるをえなかったわ とえば『虱』『酒虫』『芋粥』『魔術』はそこから生れたもけであろう。 「彼はいっ死んでも悔いないやうに烈しい生活をするつも のであった。しかし『ひょっとこ』の主人公平吉を、ひょ っ りだった。が、不相変養父母や伯母に遠慮勝ちな生活をつ っとこ踊の最中に舞台から転げ落ちさせたこと、面をとっ 自てくれ面を、という平吉の苦しいうめきに、人々があわてづけてゐた。それは彼の生活に明暗の両面を造り出した。 て面を外してみると、すでに唇の色が変り、額には油汗が彼は或洋服屋の店に道化人形の立ってゐるのを見、どの位 流れていたという結末〈もてい 0 たこと、それが、最初彼も道化人形に近いかと云ふことを考 ( たりした。が、意
人々に認識させ、ひいては、すべての国家をして戦争を放葉において通し合えない親と子、親の世代と次の世代が、 棄せしめるにいたるまで、象徴として使いたまうことを願歌の世界でよび合っているわけである。 前の世代と後の世代が、思想においては通じ合えないな うものである」といって結んでいるのである。 ここには、平明にしてしかも沈痛なものがある。決してがらに歌の世界で、なまなかの共通感情をもちうるという 武張った肩をいからせたりなどしていない。言葉が言葉とこと、そこにツルゲネフの『父と子』の生れえなかった理 してそのままに通用する世界である。年齢を間わずに参加山がある。八紘一字、一億一心、さらにはまた一億総懺悔 できる思想の流通圏である。さきにも示したように、日本が無造作にでてきた理山もある。極端な転向が大量生産さ の学生は、その父とまともに話し合う共通圏をもたなかつれた理山もここにあろう。思想が思想の厳格性を最後まで た。「ともかく」とか「何にしても」とかで切ってしまわ維持できずに、抒情に流れてしまうのである。明治以来の ねばならないという点で、同じ家に住みながら別の領域のインテリゲンチャの悲劇も喜劇もそこにあった。日本知識 階級の特色もそこにあった。思想と感情に食いちがいがあ 住人の如きものであった。思想の流通交換という散文言語 の世界をもちえなかった子と親は、原始的な骨肉の情で直るのである。僕はここで、中学時代に博物標本室でみた人 接に交わらざるをえなかったわけである。「指をかみ涙流体模型、乳白色をした皮膚に青と赤の血管が浮びでて、 して遙かなる父母に祈りぬさらばさらばと」「眠を閉ぢて体から上の観音開きの扉をひらけば大脳小脳から五臓六腑 が染めわけられているあの模型を思いうかべ、あれの左右 母を偲べば幼な日の懐し面影消ゆる時なし」 ( 木村久夫 ) 。 「あすはゆくわれのほころびつくろはんとたらちねの母はを二寸くらい上下にすらした姿を想像してみる。われわれ あかりをつけぬ」 ( 榊原大一一 I) 。「ただ一葉端書に何はあら近代日本人には、右半身と左半身に一一寸くらいの高低があ ねどもわれ読みよみぬ母の手なれば」 ( 馬場充実 ) 。子の母るのではないか。そうしてその高低のために、さまざまな を思う思い方である。また父は父で、「誠もてみくにのたくるしみが生れ、ごまかしが生れ、自殺もでてこなければ ならぬのではないか。 めにつくすとき父は必ず御身らとともに」 ( 板垣征四郎 ) 。 「現身の折ふし妻子恋ふといへどますらたけをは死に遅れ あきら せじ」 ( 武藤章 ) という歌らしいものをつくる。思想と言
「充実感」ということはどういうことだろうか 自己を問われている存在として自覚し、誠実に応答する それはまず、空虚でないということであろう。中身があ ことをとおして、責任社会の一員として、主体的に参与し ていくことが、疎外状況からの人間の回復なのだ。と私がるということであろう。「充実感」という言葉自体が、「空 いうのも、フランクルがいうような「生命の意味について虚感」の反対の意味をあらわす言葉なのである。空虚とい の観点変更」を一度試みることなしにはありえないことでうことは、「意味がない」ことであるから、人生に充実感 あろう。 を感じるとい、つことは、・目分が生きていること、・目分がし 現代社会における人間の疎外状況は、いよいよ深刻の度ていること、つまり毎日の生活に生き生きとした意味を感 を加えてくるかもしれない。しかも私は、パッペンハイムじているかどうか、ということが、充実感の、、ハロメーター とともに、あえていいたい。 と考えることができるであろう。 だから、人生に充実感がないということは、生きている 「今日存在している疎外を、絶対にどうにもならぬ運命と して、あきらめて受けいれることには、反対である。私はことに意味が感じられないということなのである。虚無と 疎外の問題に立ち向かうという課題がわれわれにつきつけはそういうことなのであって、虚無感にとらわれている人 られていると信じているし、また今日この課題は、歴史のは、人生の充実感を知ることはできない筈である。そうし て、人間は無意味なことには耐えられない存在なのである。 以前の諸段階の場合よりも、ずっと大きいと考える」。 そのことについて、ドストエフスキイの『死の家の記録』 の一節が大変深い示唆を与えてくれる。 若者の不安はどこからくるか 悩 ドストエフスキイは二十代の若い日に、思想問題で捉え 安 このごろ、人生の生きがいとは何であるかという問題が、られ、シベリアの刑務所で四年間囚人として過ごしたこと のしきりに論じられているが、生きがいということと充実感があるのだが、その時の体験を書いたのが『死の家の記 現 録』である。囚人であるから、いろいろな刑罰としての労 とは、深くつながっているともいえよう。毎日の生活に、 心の底から生きがいを見出している人は、きっと人生にお働をしなければならないわけであるが、囚人にとっていち ける充実感を味わっている人でもあるだろうから。いったばん苦しい刑罰は何であったかということについて、ドス
存されているのは、人間感情の弱点に便乗しているがためことを指している。 であるとのみはいいきれないだろう。死後の表象が、反っ 近代の科学や科学文明は、経験論や帰納法の論理を基礎 て現世での生き方を規定しているというようなことが、い にして発達してきた。自然にひとまず服従して、自然の諸 まだなお田舎には残っている。それを自覚しているといな現象を観察し、また実験し、それによって自然を支配して とはまた別のこととしても。 いる諸法則を発見して、やがては自然を征服するという人 キリスト教国で、臨終にあたって懺悔僧をよぶという行間智の力を主張したフランシス・べ ーコンの方法が、ひと 事はいまなお残っているかどうかは知らないが、あれもまつの基礎であった。ここでは観察され、経験されるものだ けが対象になる。道いえざるもの、言詮を絶するものなど た新しい旅立ちへの用意であった。 は問題にならない。さきにも書いたように、死は経験でき 近代の関心は死にはなく生にある。如何に死するかといないもの、道いえないもの、不」道不レ道においてしか道い うことよりも、如何に生くるかに関心がある。生くること、えないものであった。近代において死が閑却され、問題の よりよく生くること、生の豊富、生の伸長、生の享楽を中埒外におかれたのは当然であった。いわば近代は死を喪失 心にして発達してきた近代文明が、その発達につれて反っしたのである。もちろん、死は科学的、医学的には研究さ て生の無意味を招来してきたことは、弁証法というくせもれ、死の科学、病気の科学は進歩した。死の因果関係は明 のの論理をまたなくとも現前の事実である。生の無意味やらかになったが、死の意味に対する実存的な関心はなくな 倦怠というのは、自殺の統計的な増加とか、また無意味をつた。死の意味はなくなっても、死への恐怖はもちろん残 表現する文学や文学者の出現とか、そういうことを指すのる。いや一層強くなる。生への執着、生の無限充への関 ではない。生そのものが、生の強調される社会や時代のな心が強くなればなるほど、死への恐怖は強まらざるをえな かで、次第に意味を喪失してきたことを指している。或い は無意味な一様の死にむかって進歩していることを指して近代を中世から区別するもうひとつの指標は合理主義、 いる。生の文明や文化が反って生を忘却させる作用となっ理性主義である。コギトをいったデカルトによって、理性 てきたこと、生の機械化、人間存在の物体化を招いているはそれを正しく、方法的に使用すればすべての謎を解きう
なぜだろうかと問うまえに、私たちは、同じ現代の日本 に生きるひとりの人間として、お互いに無責任ではすまさ人間は、どのような条件のなかで、自らが生きているこ れないと思うのだ。死にたい奴は死ぬがよい、そういったとに積極的な意味を見出すことができるだろうか。私は、 考えかたもたしかに成り立つだろうし、自分のことさえ処それは、私たちが相互関係において力強い心の通いにつな 理できないのに、他人の死などにかま 0 ていられない、とが 0 ているときにおいてだと思う。 communion とそれを いった気持にさえ、いまの私たちはおちいりがちなのであ私たちは呼ぶ。真実なる communion の絆を見失っていれ る。 ばこそ、今日、私たちは孤独にとらわれ、生きる意味が感 じられないのである。 私たちは「われわれ」と叫びうる共同の場を失っている。 社会が悪いからだ、そういいたい気持を誰しも抱くだろ う。つぎつぎと無気味な兵器がつくり出され、人々の善意同じ日本人であるということのなかにすら、私たちは「わ を結集してどんなに反対を叫んでも、原水爆の実験はいつれわれ」という実感が切実に感じられない。親子兄弟とい こうになくなりそうにない。学問はしてみても、ろくに就う親しさの中にあって、かえって、人々は自己の孤独を深 職もできない。まるで八方ふさがりのような現代の社会に、めている。どこにも私たちに力強い communion を保証し どうして力強く生きてゆく意味などが見出されるだろうか。てくれるものがない。そのことのなかにこそ、私は現代人 私はあえて問いたい。だからといって私たちは生きるこの孤独の悲劇があるのだと考えたいのである。 私たち人間に、真実なる心の通いを保証してくれる力は との意味を放棄してよいだろうかと、私たちが放棄したら、 苦誰が私たちの社会をよりよくしてくれるだろうか。どのよ何なのだろうか。私はためらうことなく、それは愛だと叫 鮟うな苦難のなかにあ 0 ても、それにうちか 0 てゆくだけのびたい。愛のカのみが人と人との communion を創造する。 2 力強い自己がつくり出されていないなら、私たちは社会をしかし、そのような愛はどこから私たち人間にくるだろう か。いったい、私たち人と人との交わりにおいて、愛とは 現よりよくしてゆこうとする決断をすら持ちえないであろう。 死を急ぐ若人たちょ、ちょっと待てと私は叫ばずにはい何を意味するだろうか。 られない。
イエスのいのちが、この身に現われるためである」 ( コリ よいだろう。ここには、人生はまったく無意味であるとい 芻ント人への第二の手紙四の一〇 ) う絶望感が支配しているのであるが、このことはかならす しも若い人々に限った現象ではなく、現代人に一般的な精 中大况であるともいえよ、つ。 人生は無意味か なぜ今日、このような人生無意味の虚無感が、これほど まず私は二人の高校生の文章を紹介してから主題に入ろまでに深刻に人間を捉えているのかということは、もちろ うと田 5- つ。 ん軽々しく判断できることではないし、このような現実を 前にして人生は無意味ではない、とお題目のように主張し 人生てなんだろう。人生には果して目的があるのだろてみたところでどうなるものでもあるまい。私にいうこと うか。人生には目的なんてあるのではなく、ただ生れてができることは、私自身にとって、やはり人生は無意味で きたから、生きているだけのことではないのか。死ぬまあるかどうかということだけである。 で生きている。ただそれだけのことではないのか。 ( 男 かって青春の日、私自身やはりこうした人生無意味の虚 子 ) 無感に襲われ、もはや生きていることに耐えないような状 私は時々世の中の人間が、一。へんに死んでしまったら况に追い込まれたことがあった。その私が今日、人生はけ よいと思うことがあります。今の世の中にはなに一つ楽っして無意味ではない、といいきることができるのである。 しいことはありません。人生の目的もなく、ただ学校にそのことのなかに、私は「人生は無意味であるか」という きて勉強しているだけです。なんのために勉強するのか、 間いに対する答えが見出されるように思うのである。 学校を卒案してなんになるのか、私にはわかりません。 ( 女子 ) それでは私にとって、人生の意味とはどのようなもので あるだろうか。なによりもまず、人生とは私にとってただ これは『婦人朝日』から引用したものであるが、今日の私独りだけのものではないということである。 若い人々の虚無感を典型的にあらわしている文章といって現代に生きるひとりの人間として、私もまた、しばしば
えないからです。好きという名の愛、私はいつもそういうら、いつでも " 浮気〃できるし " よろめき。うるのです。 いいかたをするのですが、たしかに、好きという名の愛が恋愛は " さめる〃という運命を本来もっているのです。愛 し合っているといいますけれども、じつは、自己と自己と 恋愛を成立させるのです。 がたがいに相手を客体化しているのです。ですから「わ ところで、そこに問題があると思うのですが、いったい 「好かれる」という関係は、ほんとうに人格れ」と「なんじ」の関係ではなくて、「われ」と「われ」 「好く」 と人格、魂と魂の力強い結合を意味するのでしようか。今の表面的な結びつきなのです。 なんだか私は恋愛否定論者のような口ぶりでありますが、 日好かれているということは、明日もまた好いてくれると いう保証を持っているでしようか。昨日まで好きだったけけっして恋愛を否定したり、無価値なんだというのではあ 「好かれる」と りません。そうではなくて、「好く」 れども、もう嫌いになったというようなふたしかさを、元 いう恋愛は、さらにそれを、力強い人格と人格との結びつ 来好きという名の愛は持っているのではないでしようか。 「好かれる」という関係で成きにまで高めてゆく何ものかによってささえられるのでな そうだとすると、「好く」 り立っ恋愛は、かならずしもそのこと自体が、人格と人格ければ、それだけで結婚の理想的な条件とはいえないと考 えるのです。 との結合を意味してはいない、というほかはありますまい。 恋愛と結婚は別だというのなら、話はちがってくるでし " 浮気とか。〃よろめき】とかいうことはそのことを意味よう。好き合っているあいだ楽しんでいればよいので、嫌 しているわけでしよう。つまり″好きれということの主体いになったらいつでも別れたらいいからです。そしてまた はどこまでも自己なのですから、好いている相手は単なる新しく好きな人をもとめたらいいでしよう。私自身は、と 客体にすぎません。「ぼくはきみが好きなんだ」というようていそのような考えかたに安住することができない人間 なのです。古いといわれるならそれまでの話です。ところ 、かならずしも、 うな表現はいたしますが、そのことは が、ここに、性というやっかいな問題が登場してまいりま 「われ」と「なんじ」という人格関係が成り立っているこ す。性の問題を無視して、恋愛と結婚を論じることはでき とを意味してはおりません。客体は変えうるのです。 くだけていいますと、″もっと“好きな人があらわれたないでありましよう。
二もいたが一一一木清もいた。学生の分際で高級下宿にいたも活者』という雑誌の十一月号に残りの部分が載った。これ のである。郷里に八百に育英資金を供するものがあった。 は私のいわゆる文芸評論の最初のものである。私は書くこ 八百は重いトランクの中から三木清の『唯物史観と現代のとによって芥川をぬけだし、河童の画などみるも嫌になっ 意識』をとりだし、殊にその中の一章、『マルクス主義のた。八百清顕は私にとって恩人である。 人間学的形態』を示して私にせまった。一泊したか、二泊昭和四年に大学を出た八百は、ほどなく日本大学のドイ したか。一泊なら一日一晩、二泊なら二日二晩、私にせまツ語の講師になった。私はその翌年、三木清氏の推薦で奉 った。私は八百の情熱に参った。敗北主義の芥川を超えよ、天の満洲教育専門学校へ転じたが、一年余在職しただけで、 汝自らを超えよ、芥川を書くことによって芥川を超えよ。 昭和六年九月満洲事変勃発の一一か月前に日本へ引揚げた。 引揚げたが職はなく、郷里の没落した生家の物置小屋の中 八百は卒業論文のテーマにシラーを選んでいた。シラ 1 が いかにしてカント哲学を超えたかを語って私にせまり、私に住んでいた。そしてその年の大晦日に八百清顕が東尋坊 から身を投げたのである。私は新聞にかなり大きく出た をなじり私を励ました。 「若き日大講師投身自殺」の活字をいまも頭に浮べること その年の夏、八百は卒業論文を書くために諏訪へきた。 ができる。私はいたい衝撃をうけた。八百よ、どうして死 今度は諏訪の山浦の温泉に滞在した。 八百に励まされて私は昭和四年に『芥川龍之介論』を書んだのか。あれほどに自殺の敗北をいった自身がどうして いた。七十枚ほどのもので、その年の九月、雑誌『思想』自殺したのか。 に一部が載った。その頃の『思想』の編集者の一人は谷川 徹三氏であった。三木清氏の紹介で谷川氏に私の原稿がい 八百が私宛に書いた書信百数十通、私は現にそれを大切 ったのか、この記憶はたしかでない。私は八百の紹介で菊に保存している。昭和三年からその死までの四年間、よく 富士で三木さんに会ったことはたしかだが、そして、そのも書いたものだ。三銭切手を一一枚一一一枚と貼った長い手紙、 ころの三木さんのいわばデモーニッシ = なものに、とまど葉書に 1 、 2 、 3 、とつけた三枚つづきのもの、いずれも いながら感心したこともたしかだが。『思想』に載った部青春の希望と悩みと挫折と、さらに進もうとする勇気と、 分を読んで倉田百三氏が関心を示し、氏のやっていた『生いわば抽象的な心の表白である。昭和初年という険悪な空
「親戚ほど、不愉央な他人はない。可笑しくもないのに、 ばならないということ。表現は許容と妥協なくしては行い えないこと。言葉による表現は、言葉の約東、従ってまた笑顔を見せねばならぬ理由が何処にある。」 その言葉を生んだ歴史と環境の約東を許容し、それに服従家を脱けだした原口の入ったのは、一高の寮生活という しなければなされえないこと。原口が多くの言葉を費して最も伝統的な匂いのするところだった。「僕は先輩が嫌い 言っている右のことは、「大連。ーー彼は植民地の子供でだった。先輩という奴は、傲慢な勿体ぶった顔をして過去 ある」につながりをもち、「値民地は野心の子を作る」にを語り、後輩の現在を彼等の過去と混同する。」先輩、「彼 つらなっている。「彼はアカシャの花にノスタルヂアの匂は僕より年が三つ上だ、というそれだけの理由で、僕に向 ってまじめに話が出来ない。」脱けだすところのなかった いを嗅ぎ、清澄な空の高さを仰いでは、希望の欣びを知り、 桟橋の人混みにまぎれて異国情趣に睦み、山の上から眼下原口は寄宿舎のなかで孤独の城に住んだ。 相互の意志疏通の社会的機関である言葉によって、己れ に横わる街々を眺めては、平和を愛し、中国人の顔をみつ インテリ めて首をかしげ、綺麗な道路と赤瓦の住宅とに於て知識人一人の情感を表現しようとする場合の、もどかしさという の表情と小市民気質とを理解した。そしてこれ等のものが一般的な問題には及ぶまい。「精神 ~ の冒険に旅立とう」 集 0 て、彼を不安に、気まぐれに、彼を海辺に追い立てた。とする若者が、の 0 びきならず突き当る日本語というもの 海に来て、彼は力を与えられ、英雄の生涯に憧れた。」歴の制約、親と子、先生と生徒、先輩と後輩、長上と目下、 史の制約を身近に知らない植民地の子は自由な可能性の中男と女との間の縦の線に於ては、主語をはぶいてもその語 に住む。その無垢な可能性をおびやかす「無数の怯臑と安り手が判然としているほどの階級的な言葉は、精神〈の旅 慰」の一つとして彼は家庭を挙げる。「僕が育 0 た家。父立ちの障害とならざるをえない。「われわれの国語は、元 て 母、兄達、姉達。此処では、見慣れた家具の類が、家族の来、人に聞かせるように作られていない。口に含んでいる っ 一員とな 0 て、僕を甘やかそうとする。僕にはその居心地言葉なのだ。」そういう一言葉をも 0 て精神の表現に向わざ るをえないというところに原口はいた。「新しい日本語」 自の温さが堪らなかった。僕は冷たくありたかったのだ。 『精神』〈の冒険に旅立ちたか 0 たのだ。それは一切の温を詩や創作において示そうとした若い野心も、結局は甲糴 の生えた言葉によって復讐されざるを得ない。階級的、感 いものを拒否すること、即ち『死ぬ』ことに帰着する。」