であるようにも思われてくる。 とにはならないのである。だから、観念論の立場からは、 やはり、私が誰かを愛するなどということは実践されない そのように単なる人間の限界内で考えるかぎり、私は自 のである。観念論の立場では、愛はけつきく理想主義に なってしまって、私の実践の場でなにひとっ現実性を帯び分が人格であることをついに知ることができない、ところ が、そのような私に向かって〈一 love you 〉私はあなたを てこないであろう。 人間は人格であるなどといってみても、現実に生きてい愛すると呼びかけてくれるものがある。それがほかならぬ る人間のことを考えてみると、自分をもふくめて、人間くイエス・キリストなのである。その呼びかけのなかでは、 らい恐ろしい動物はないようにも思われる。人間はかんた私はいつでも「あなた」として召し出される。すなわち、 んに他人を裏切るし、好きな人のためには、尊い人命をすイエス・キリストはいつでも、「わたし」と「あなた」と ら平然として抹殺してしまう。妻が夫を殺してその死体をいう関係においてのみこの私にかかわりを持ってくれる。 ( ラ、、 ( ラにして床の下に埋め、その上で情人と官能のよろそれを逆にいうなら、イエス・キリストの前では、私はい こびにふけるなどということは、人間以外の動物にだってつでも、「わたし」と「あなた」という関係においてしか イエス・キリストに向かいえないのである。イエス・キリ そうかんたんにできるものではない。 いったい人間は人格であるなどと、大きな顔をすることストから「あなた」という呼びかけで召し出されるその場 がおかしい。大や猫のほうがかえって人間という動物くら所でこそ、私は、自分が人格であることを知らしめられる い恐ろしいものはないと思っているかもしれないのである。のである。そこで私はほんとうの「わたし」を知るのであ 苦原子爆弾などととんでもないものをつくったりして、互いる。 だから、単なる人間の限界内では、「自分を愛するよう 安に殺しあうなどということは、やはり人間でなくてはでき のないことだからである。そのように考えてくると、人間はに隣り人を愛せよ」という命題は成り立たないのであって、 現人格であるなどということは、単なる気休めにすぎないの私たちは、「イエス・キリストの内にあって」のみ、その ではないかとも思われてくる。そうして、やはり、人間が命題がリアリティを持っことを知るのである。。 ( ウロが好 人間を愛するなどということは、とうていありえないことんで用いた〈 in Ch 「一 4 〉「キリストにありて」という表現は、
が好き合っているからといって、「家」の秩序を無視して、 自由に愛情をちぎるなどということは、もってのほかのこ とだったのです。恋愛そのものが否定されたというよりも、・ 恋愛が条件として持っている自由の行為が否定されたのだ 1 といったほうがよいのかもしれません。 明治二十年代のロマンティストたちが、恋愛の自由を主 張することをとおして、封建的な考えかたに反逆していっ 恋愛と結婚 たのも、けっして彼等が単なる恋愛至上主義者であったこ 私自身の貧しい体験から言 0 ても、たしかに私たちの社とを意味してはいなか 0 たのです。恋愛の自由がかくとく 会では、ひとりの男性とひとりの女性とが自由に愛情を交されない社会で、人間に自由などはありうる筈がないこと を、彼等は洞察していたのだと思います。北村透谷の「恋 わすことが、一種の罪悪のように見られてまいりました。 恋は秘めごととよくいわれるのですが、恋愛は二人のあい愛は人世の " ひやく。なり」という一言葉が、一種どくとく だだけでその幸福を味わうものですから、あまり人前におの重みを持ってひびいてくるのも、そういう意味からでは ないでしようか おっぴらにみせびらかさないほうが楽しいということも、 戦後の崩壊と解放のなかで、事情はひじように違ってき もちろん考えられましよう。 しかし、私たちの社会では、恋愛をかくしごとにしなけたといわれます。たしかに今日の青年たちは、私の経験し たようなうしろめたさを、その恋愛のなかで感じないです 苦ればならないように人間を追い込んでゆく、いわゆる世間 んでいるのだろうと思います。もっとも、農村などでは、 の眼というものがあったのです。なぜでしようか。 の この問題はやはり、「家」という間題に深くつながってかならずしもそうとばかり言えないような状況が、まだか 代 現 ゆくように思われます。人間が「家」の附属品のようにまなり残っているということを、しばしば聞くのですが、少 くとも、新しい憲法が保証している意味においては、私た ったく客体化されていて、そこに人格の自由というような ものがゆるされないような状況のなかでは、自分たちだけちは恋愛の自由が成り立っ条件だけは、かくとくしている 愛するということ
368 は、他者はハイデッガーのいわゆる人一般として意識され自分を人格として愛するように、他者をも人格として愛 ているにすぎないのであって、かならずしも主体的存在とすること、そこにまことの愛の関係が成り立つのであるが、 してとりあっかわれていないからである。 しかし、私が人格であるとはどういうことであるか。そし イエスが「自分を愛するように隣り人を愛せよ」といって私は自分が人格であることをいかにして知るのであるか。 て、「自分を愛するように他人を愛せよ」といわなかった人間は人格である、といくら自分にいいきかせてみても、 ことに注意しなければならない。私はここで愛の実存的条それだけでは観念的にしか理解しないのであって、人格性 件のもっとも大切な間題点に到達したようである。隣り人がリアリティを持っことにはならない。そして人格性とい とは私の前に、私が「あなた」と呼びかける人格として存うことが、道徳的にすぐれていること、すなわち聖人君子 在する他者のことなのである。私がその人に客体としてでのようなことを意味するのだとすれば、私はとうてい自分 なく、主体としてかかわりを持つ、そのような関係においは人格であるなどとはいえないし、努力すればするほどと て私の前に存在する人、それが私の隣り人なのである。そうてい自分が人格者になどなりえないことを知るのである。 のときにのみ、他者は主体的存在として私の前に立つので人格性ということが私自身が自分の努力で自分の内につく ある。 り出すものだとしたら、私にはそういうことはできないで 人格は絶対に客体化しえないものなのである。他者を客あろう。そうすると、私は自分が人格であるなどといって 体化するとき、私たちはすでにその人を人格としてでなく、みても、そして、自分を人格として愛するなどといってみ 単なる価値としてとりあっかっているのである。真実の愛ても、そこにはなにひとっ現実性が感じられないのである。 とは、つねに主体と主体とのあいだにのみ成り立っ関係のまして、他者を人格として愛するなどといったところで、 ことである。「あなたがたは互いに愛し合いなさい」とイ具体的にはなんのことかさつばりわからないのである。 エスがいうとき、互いにとは相互に主体的にということで人格性ということを、そのように観念的な次元において ある。私たちが相互に主体的な間柄関係において結ばれる理解しているかぎり、「自分を愛するように隣り人を愛せ よ」というイ h スの命題は、その意味がわかっているとい ことが、私のいうところの愛の実存的条件なのである。 うだけのことであって、ほんとうにわかっているというこ
的に生きるということと同じことになってくるであろう。 格」なのだということが大切なことなのである。人格とい うことももちろん価値であろう。なによりも尊い価値であいや、生きるということがすでに主体的存在を意味してい るともいえよう。しかし、それはタレントというような価るのである。主体的に生きるとは、自分を手段化されたり 値ではない。昨日まで価値があったけれども、今日は消え道具化されたりすることに、「否」をつきつけうるという ことである。人間を手段としてでなく目的としてとりあっ てなくなってしまったというような価値ではない。それは、 私よりももっと価値のある人が出てきたらその人に席をゆかうこと、それが人間を人格としてとりあっかうことだと いったカントの説明は、やはり人間の人格性について、も ずり渡さなければならないというような価値のことではな っとも急所をついている言葉だというほかはないであろう。 い。私は私であって、ほかのなにものによっても置きかえ だから、自分を人格的存在として、深く自覚しえないなら、 られないという価値である。 自分をそのような人格として愛するということが、真に真に自分を愛するということは生じてこないであろう。 自分を愛するということである。しかしここで人格という 自分を人格として愛することが真に自分を愛することで ことについて、もう少しいっておかねはならない。ふつう 私たちの社会では、「あの人は人格者だ」というふうにいあることを考えてきたが、そこでもう一度、あのイエスの いあらわされるが、それは道徳的に立派であるとか、人柄「自分を愛するように隣り人を愛せよ」とのいましめに立 ちもどると、どういうことになるか。自分を人格として愛 力いいとかという意味に使われる。しかし、私がここで、 私は人格だというのはそういう意味ではない。私は道徳的するように、他人をも人格として愛せよということである。 苦な規準に照らして、自分を人格者であるなどとうぬぼれた自分が主体的存在であるように、他者をも主体的存在とし 鮟ことをいえるような人間ではない。それにもかかわらず、てとりあっかえということである。 2 私は人格であるというのは、もう少し違 0 たいいかたをす他者を人格として、主体的存在としてとりあっかうとき 現れは、私は主体的存在であるということである。私のうちにのみ、他者は私の隣り人なのである。「秋深し隣りはな にをする人ぞ」、これは芭蕉の有名な句であるが、この句 なる主体性、それが人格である。 だから自分を人格として愛するということは、真に主体における隣りとは隣り人のことではないであろう。そこで
の社会は、そういう風潮をけっして清算しているとはいえ噫人生を厭悪するも厭悪せざるも、誰か処女の純潔に遭う て欣楽せざるものあらむ」。 ないのだ。 いうまでもなくこれは北村透谷の『処女の純潔を論ず』 売春婦などと世間から白眼視されている女性が、じつは、 親からみると孝行娘だったりするのである。娘からの仕送 ( 明治二十五年 ) の書き出しの文章である。「恋愛は人世の ひやく りの金が、どうような人間の汚辱にまみれているか、人間秘鑰なり : : : 」と歌った北村透谷がその恋愛至上を主張し の生活における性の意味に目ざめないところから生れる悲たとき、私たちはそれが、いわゆる「男女七歳にして席を 劇というほかはない。性と人格とをきりはなすところから同じくせす」といった近世封建社会の秩序のなかでつくり 生じる汚辱である。どのようにそれが美化されて、たとえ上げられた、きわめてゆがめられたモラルに対するプロテ ば、体だけがけがれているけれども、心はあなたに捧げまストを意味していたことを、見逃すわけにはゆかない。そ して透谷のそのプロテストに力強い支柱となってくれたの す、などということになっても、問題は同じことである。 そういう心と体との二元化が起らない次元にこそ、性のは、彼が受け入れていた。フロテスタンティズムの人格観念 深い意味があるのであって、私はそれを性と人格とはきりであったことも無視してはならない。 しかし、いま私たちが、北村透谷の性における Chastity はなせないというのである。 ( 純潔 ) の観念をしさいにながめるとき、やはりそこにき 「天地愛好すべき者多し、而して尤も愛好すべきは処女のわめて男性本位の性格を見出さないわけにはゆかない。男 純潔なるかな。もし黄金、瑠璃、真珠を尊とせば、処女の性の立場から女性の処女性を嘉賞している、という感じを 悩チャスチチイ 苦純潔は人界に於ける黄金、瑠璃の真珠なり。もし人生を汚否定することができないのである。そこにはまだ封建的な 濁穢染の土とせば、処女の純潔は燈明の暗牢に向ふが如しものの考えかたの残滓がきわめて濃厚に漂うている。これ 2 と言はむ、もし世路を荊棘の埋むるところとせば、処女のは透谷や啄木など、明治期の反逆者たちが、生涯背負わな 現純潔は無害無痍にして荊中に点する百合花とや言はむ、わければならなかった宿命だったのかもしれないのだ。 結婚の条件としての処女性が女性に対してのみもとめら れ語を極めて我が愛好するものを嘉賞せんとすれど、人間 れたことと、姦通の罪が妻に対してのみ問われたこととは、 の言語恐らくは此至宝を形容し尽くすこと能はざるべし。
えないからです。好きという名の愛、私はいつもそういうら、いつでも " 浮気〃できるし " よろめき。うるのです。 いいかたをするのですが、たしかに、好きという名の愛が恋愛は " さめる〃という運命を本来もっているのです。愛 し合っているといいますけれども、じつは、自己と自己と 恋愛を成立させるのです。 がたがいに相手を客体化しているのです。ですから「わ ところで、そこに問題があると思うのですが、いったい 「好かれる」という関係は、ほんとうに人格れ」と「なんじ」の関係ではなくて、「われ」と「われ」 「好く」 と人格、魂と魂の力強い結合を意味するのでしようか。今の表面的な結びつきなのです。 なんだか私は恋愛否定論者のような口ぶりでありますが、 日好かれているということは、明日もまた好いてくれると いう保証を持っているでしようか。昨日まで好きだったけけっして恋愛を否定したり、無価値なんだというのではあ 「好かれる」と りません。そうではなくて、「好く」 れども、もう嫌いになったというようなふたしかさを、元 いう恋愛は、さらにそれを、力強い人格と人格との結びつ 来好きという名の愛は持っているのではないでしようか。 「好かれる」という関係で成きにまで高めてゆく何ものかによってささえられるのでな そうだとすると、「好く」 り立っ恋愛は、かならずしもそのこと自体が、人格と人格ければ、それだけで結婚の理想的な条件とはいえないと考 えるのです。 との結合を意味してはいない、というほかはありますまい。 恋愛と結婚は別だというのなら、話はちがってくるでし " 浮気とか。〃よろめき】とかいうことはそのことを意味よう。好き合っているあいだ楽しんでいればよいので、嫌 しているわけでしよう。つまり″好きれということの主体いになったらいつでも別れたらいいからです。そしてまた はどこまでも自己なのですから、好いている相手は単なる新しく好きな人をもとめたらいいでしよう。私自身は、と 客体にすぎません。「ぼくはきみが好きなんだ」というようていそのような考えかたに安住することができない人間 なのです。古いといわれるならそれまでの話です。ところ 、かならずしも、 うな表現はいたしますが、そのことは が、ここに、性というやっかいな問題が登場してまいりま 「われ」と「なんじ」という人格関係が成り立っているこ す。性の問題を無視して、恋愛と結婚を論じることはでき とを意味してはおりません。客体は変えうるのです。 くだけていいますと、″もっと“好きな人があらわれたないでありましよう。
「利益社会」の別名でしかなかったのかもしれない、そんを備えることなくして、私たちは「世」に生きることはひ 、 3 なふうに私には思われるのである。 とときも許されないであろう「世」はそれほど甘くはない 利用価値としての価値は、手段的価値であるがゆえに、 のである。これほど人々が「学校」に行きたがるのも、今 「それ」として客体的にしか処理されないものである。「物」日では、大学卒くらいの資格を持っていないと「世」に利 とはそういう存在のことなのであろう。物件的存在に対し用価値を認めてもらえないからであろう。しかし、そのこ ては、たしかに私たちはそういう態度で処理してよいのでとを教育の問題として考えるなら、「技術」や「知識」と ある。利用価値があればこそ高い金を出して買うのであり、 いった利用価値を伝達することにすべての教育の機能がっ 利用価値がなくなれば捨てもしようし、取り換えもするのいやされていて、「人格」としての内面を充実するような である。 教育がほとんど無視されているところに、今日の、とくに しかし、本来的に物件的存在ではない筈の「人」にまで、学校教育の問題があるのだともいえるのであろう。 利用価値的な価値判断の法則が適用されると、もはや、 経済成長政策などと呼ばれてきたことの中身は、要する 「人」は「人格」ではなく「物件」としての存在にまでつ に「人」を「国民」を、経済力の発展や、生産性向上の手 きおとされるのである。早い話が、私たちにとって耐えが段として、利用価値しか考えないような政治のことだった たい苦痛は、自分が利用されているに過ぎないということのである。かって六〇年代に叫ばれた「人づくり政策」と がわかった時である。愛してくれるようなそぶりをみせては、高度の技術革新に適応できるような技術人を養成する いて、けつきよくは利用されていたに過ぎないことがわかという文教政策であったことは、もう誰しもが認識すみの ったとき、私たちは、ひとときも早くその人との関係を断ことであろう。エコノミック・アニマルとは、高度の経済 ちたいと願うであろう。私たちは、「物」にされることに成長がその背後に、必然的に生み出してきた人間類型のこ は耐えられないのである。 とにほかならないのである。 もちろん、「利益社会」としての現実の社会を無視して ほ生きられない。もともと「世」とはそういうものなので人の世の現実は、たしかに、地獄よりも、もっともっと ある。自己の存在の中に、何らかの「利用価値」的な条件地獄的になっていくようである。人間がもはや人間でなく
352 まったく同じ考えかたから出ていたのであって、それはことをロノンスは思ったのだ。 「家」という閉ざされた社会にしばりつけられた女性にも 私たちは、どこでそういう男性と女性との平和を見失っ とめられた、きわめて男性本位なモラルであったのだ。 たのだろうか。これをキリスト教の偽善性にのみもとめる 制度化された「家」からの解放なしに、私たちの社会でのは、あまりにもヨーロッパ的な図式ではないだろうか。 女性と男性との人格的な人間関係の成り立ちがつくり出さ裸を恥じるどころか、七歳にして席を同じくすることすら れるとは考えられないが、女性と男性とが平等の人格としを恥じてきたのである。私のような大正生れの現代人です て交わりをもとめるところにのみ、私たちの性に純潔の観ら、恋人と二人で村の道を歩くことに恥をおぼえさせられ 念が生れてくるのである。処女性や貞節が無意味になったたことを鮮明に記憶する。私たちの社会では、それはけっ のではなく、私たちを支配してきた旧い美徳が無意味になしてキリスト教がつくり出した偽善性ではなかったはすで ったのである。 ある。 男性の側からの要求としてでも、女性の側からの哀願と 今日の若い人々が恋人と道を歩くことに恥じらいをおぼ してでもなく、男性と女性との交わりのなかでのみ、性のえることが、まだあるのかどうか。しかしそれにもかかわ 純潔は論じられなければならない。「よろめき」の善悪がらす、私たちは裸を恥じているのである。喜びを拒絶する 問題なのではない。「よろめき」を必要としないような喜ところで性の交わりをいとなんでいるのである。 びが、男性と女性との交わりのなかにつくり出されること もういちど『チャタレイ夫人の恋人』のなかで、そのこ のなかでのみ、性の純潔は意味を持ってくるのである。 とを考えてみよう。ここでメラーズとコニイとの愛のいと なみの描写がひじように大切になるのであるが、いま私の 性をけがらわしいものと感じる感覚から私たちが解放さ手許にある流布本はもちろんそこのところが削除されてい れることが、性の純潔を論じる条件なのである。 るから、ここで紹介することはできない。二人が愛撫のい 「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥すかしいとなみのなかで、完全な調和の喜びに達するということを とは思わなかった」 ( 創世記 ) アダムとイ、、フとは裸を恥じ想像しながら、つぎの引用文を味ってほしいのである。 なかった。そういうアダムとイブとの交わりをとりもどす
る性欲本能説を私はとりません。したがって、本能だから 私は、性というまことにやっかいなことがらの前に出てやむをえないとする享楽説も、本能のこくふくをすすめる きたようであります。やっかいではありますが、やはり性禁欲説も私はいずれも正しいものではないと思うのです。 の問題をさけて恋愛と結婚を論じることはできないのであもし性を本能の世界に還元してしまいますと、それは私た りますから、私もまたそのことにふれないわけにはまいりちの人格と結びつきません。そしてどうしても性を遊びの ません。ところで、性の問題にふれようとすると、私たち世界に追いやる可能性をたっことができません。私は性と は思わず顔が赤くなってくるのです。何だかはずかしいの人格とをきりはなして考えないのです。 です。それだけならまだいいのですが、性のことなど口に性をただ生殖のための手段と考える考えかたは、とくに、 すべきでないといったタブーが、私たちをどこかでとりこ私たちの社会では「家」の制度と結びついて、女性を子供 を産むための道具のように考える因習をつくってまいりま にしているのです。 しかし考えてみますと、これはまことにおかしいことでした。「子なきは去る」といって、子供を産むことのでき す。いったいどこで私たちはそういう偽善性を身につけてない女性は、無条件で離婚を強いられたのです。そして、 しまったのでしようか。私たちの社会のしきたりを考えてそれを裏返しにすると、女性にだけ純潔を強いる一方的な みても、これは、けっしてキリスト教によって植えつけら貞操観念となるのであります。 れた偽善性だとはいえません。もっと以前の段階において性を人格ときりはなして考えないとき、性は人格のしる すでに私たちは、その偽善性を身につけていたようでありしなのであります。そして人格のしるしとしての性は、醜 苦ます。どこで私たちは性を醜悪なもの、恥すべきものと感悪なものでも恥ずべきものでもありません。恋愛と結婚を 鮟じざるをえないような状態に落ちてしまったのでありましきりはなして考えないという私の考えは、性を人格のしる のよう。いま私にそれを歴史的にたしかめてみるだけの準備しとすることからも当然出てくることなのであります。肉 現はありませんが、性はもともとそんなものではなかったと体と肉体のふれあいが、魂と魂のふれあいであるような男 性と女性の関係において、どうして恋愛と結婚を別々のこ 妬いうことだけでは、たしかなことだと思われます。 性の欲望を本能ということで割り切ってしまう、いわゆととすることができるでしようか。
たし ) が人格としての「他者」 ( あなた ) に出合うことで家庭の生活においても、親と子が、夫と妻が、兄弟と姉妹 ある。さらに対話とは、人格と人格との深い内面的なふれが、互いに、人格的他者として向い合うということをしな 合いのことである。内面性における共感が深められることければならない。それはけっして他人行儀ということでは である。 なく、対話の姿勢において、親子、夫婦、兄弟が向い合う そういう対話が成り立っていないところでは、百万語をということである。私たちの家庭はそういう人間関係の場 ついやす「話し合い」も、じつは、二人をなにひとっ結び所になってこそ、真に、アットホームな家庭となりうるで 合わせてはくれないのである。テレビで国会などの委員会あろうし、家族が真に「話し合う」ことのできる家庭とな の様子をみていたりして、私は、それが「話し合い」にもりうるのではないだろうか。 なっていない風景をみかけることがしばしばである。要すそのような対話は、いわゆる「話術」というような技巧 るに、「話し合い」といっても、自己主張としての言葉がでつくり出せるものではない。言葉を単なる伝達の手段や 発しられているにすぎないのである。「語りかける」「間い 道具と考えるところからは、真の対話は生れてこないであ かける」という態度が成り立っていない。しかし、私たちろう。対話のために、私たちは、口さきだけの美辞麗句を は、もっともっと、他者との対話を生活の場でつくり出さ必要としない。心をこめて、真実をこえて発する一「ロ葉たけ ま対話を成り立たしめてくれるのである。「汝」からの語 なければならない。そのために私たちは、お互いに、もっ 、ゝこ、真実をこめて応答してやることにお りかけ、問しカけ冫 と「向い合う」ことが必要ではないだろうか。お互いに いて、私たちは「我」を人格として自覚しうるのである。 「まなざし」をかわすことが必要ではないだろうか。そう 悩 ュニケーションとい - つよりも、もっと深い内 苦して、他者に向って、自己を開くことが大切である。自己それは、コミ の心の窓をかたく閉ざして、しかも、他者との対話が成り面的な共感において、他者と自己とが相互主体性をつくり の 立っということは、そのこと自体が矛盾ではないだろうか。出してゆくことなのである。 代 現 さきに私は、「汝の発見」ということを考えたことがあ 私たちは手紙を書きながら、その末尾にく ったが、他者を客体 ( それ ) としてでなく、人格的主体 神との対話 ると、「あなたの御多幸をお祈り申しあげ ( あなた ) として、自己の前に見出さなければならない。