信じる - みる会図書館


検索対象: 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩
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1. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

ないこと」を信じられるはずはなかったからであります。 かった秘密があるのであります。このことは、「ほんとう そして以前、あの「不合理なるが故に我信ず」というあの に」と私たちがいうすべての場合と同じように、それは、 他の何かによってでなく、自分自身によって、そう認めるいかめしげな言葉は、ちょっと考えると、そのような私に ということをあらわしているからであります。 希望の光をあたえるように思われたものでありますが、そ 結論を申し上げれば、先ほど申し上げた夫婦の愛の場合れがドンナに嘘っ八であるか身にしみてわかったのであり は、信じるということの方が、「信じられない」ことより、ます。信ずるということは、どんな理山にしろ、理解する より自然なのでありますが、聖書に関するかぎり「信じということであるということが、人間の厳粛な事実なので る」ことよりも、「信じられない」ことの方が、より自然あります。 なのだと申し上げることができます。「信じる」よりも、 私は、信ずるひとに対して、 「信じられない」方が人間として健全なのであります。 信じられないということ 抗議しているのでもなければ、 それでも、なお、みなさん方の多くは何故信じようとな のキリストに於ける意味 不信の根をうえつけてやろう さるのでしようか。アクセクと絶望しながら、まだ信ずる というところに立ち至らないとなけきながら、こんな夏期と試みているのではありません。私によって不信の根を下 されるようじゃ、信じているとはいわれませんが、もし万 集会までやって来て信じようとなさるのでしようか。 それは、 ( ッキリ申し上げますと、何等かの絶望から救わ一、不信の根をおろされかかっているお方が、おられると れたいからだ、と思います。私の場合を申し上げますれば、すれば、安心していただきたい。私は、いつでも、「信じ い私が、「信じられないこと」を信じようとしたのは、すくられない」方の味方であるからであります。この「でも」 」われて生々と生きたか 0 たからなのであります。ある種のに注意していただきたい。 宗教のように、死ぬためにではなく、生きるために、しか何故なら、キリスト教においては、「信じられないとい 生も生々と生きるために「信じられないこと」を信じようとうこと」が、実につくることのない生命の泉をあたえるも のであるからであります。「信じられないということ」を したのであります。 結果は、いうまでもなく徒労でありました。「信じられ失っては、キリスト教は死んでしまうとさえいっていいも

2. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

ながらも救われています。何故うたがったのか、風を見たい」ような気分に陥ってしまって、教会から脱落して行か % からであります。神の子であるという意味であるにしろ風れたのであります。少くともそのひとにとっては「信じら から与えられているかぎり、それは、人間性の破滅なのでれない」という事実は、そのひとの信仰にとってイノチの あります。イエスが、何故うたがったのか、という叱責は、泉だったということができると思います。 どうして自分を見ないで風を見たかということでもあるの何故なら信じられないということは、人間の限界でもあ りますが、その限界を失わないことによって、人間性を保 であります。 ち得るだけでなく、その限界を生きることによって、はじ しかもそのペテロが叱られながらもすくわれている。 「主よ、おたすけ下さい ! 」と言ったとき、イエスを唯一めてこの社会やさらにすすんでは一見くだらなく見える日 のすくいの綱として見たとき、実はそのときすでにたすけ常的な諸現実のなかへかえって行けるのです。「信じられ ない」人々と同じ現実的な諸間題に生き、それについて話 られていたのであります。 し合うことができるのであります。 さらに「信じている」ということにこだわると、必すそ さて、信ずるということに内 信することに内在するさ 在する第一の危険は、信じらのひとは自分をだましていなければなりません。何故なら まざまな危険について れないということをすて去る「信じている」ということにこだわると、必ず空虚が起っ ということだと思います。いいかえれば、「信じている」て、たえずほんとは信じていないように思われる自分とた ということにこだわってしまうということであります。そえすたたか 0 ていなければならないからです。「信じてい のとき「信じる」ということは、たとえ「信じられない」る」ひとにと 0 ては、それは悪魔のささやきのように感じ にもかかわらす「信ずる」ということであっても、信じるられるでしよう。しかしここで申し上けたいことは、「信 ことの具体性が消え去 0 てしま 0 て、抽象化してしまいまじていけない」ように思える自分も愛してや 0 てもらいた す。現に私は、上原教会でそのようなひとを知 0 ているのいのです。何故ならあなたは人間的な事実として救われて ですが、「信じている」にこだわって、「信じていない自あるのだからであります。 同じことは、「信じられない」という側にも言えるので 分」をすて去ったとき、おかしなことに「信じなくてもい

3. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

256 となのでありますが、それに対してそうだと答えますと、 は、百五十円賭けたってかまいません。いつでもお相手に 「では、なんじは奇蹟なるものを信じる者なりや」という なって差し上げます。 第二問をあびせられます。このような質間の場合、「信じ人間が、海の上をテクテク歩こうとしたら沈むというこ ている」と答えても、「信じない」と答えても、その答えとは、人間の厳然たる事実なのであります。とすれば、こ は、おかしなことになるのであります。イエスでなくたつのイエスは、人間としては全く理解できない。だからまた て、それに答えずに地面に字でも書いていたい気がします。信ずることもできないということも、人間の厳然たる事実 おそらく処女から生れたというイエスの誕生や、水をぶなのであります。そこでこのような海の上を歩くというよ どう酒にかえたり、海の上を歩いたり、盲人の眼をあけたうな、ことができるのは、人間業ではない、つまり人間で り、五つのパンで五千人を、七つのパンで四千人を食べさない者ではじめて出来るのだということになります。舟の せて見たりしたことや、あの最後において復活したりしたなかにいた者は、いみじくも「あなたは、ほんとうに神の ことなどは、どんなふうに理解しようとしたって理解でき子です。」と言っています。つまり神の子としてならこの るものではありません。「信ずる」ということは、理解す奇跡は信じられるというのであります。ところが私にとっ るということだとするならば信ずることはできないものなては、現在においても、そうではないのであります。 のであります。 講談で、後藤又兵衛さんだとか、岩見重太郎さんなどの たとえば、イエスが海の上を歩かれたという奇蹟をとり豪傑のことをよく語ります。むらがる敵を前にして、エイ あげて見ましよう。風と怒濤の海の上を歩くことができた ッとばかり大きな岩を片手にかかえ、チギッては投げ、チ ということは、イエスを人間として考えればとてもできなギッてはなげして、その大勢の敵を征服します。そのとき いことです。現にペテロが波の上を歩こうとして、ブクプ講釈者は、その人間業でない働きを称して、「鬼神もかく ク沈んでおぼれかかっているからです。キリスト教の歴史やと思われるばかり」だとか「悪鬼妖魔のごとくなり」な の上で聖者といわれている人々だって、おそらく赤岩さんんていいます。つまり人間業ではない、ということはわが だって、海の上を歩こうとしたら、ブクプク沈むというこ日本においては、すぐあの舟のなかのお弟子さんのように とは、間ちがいないところだと思います。この点についてすぐには「神の子」を意味しないということであります。

4. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

いい。その人々は、そうなるにちがいないという証拠をたもっていられる方もあるだろう。全くそのとき、人々の意 くさんもっているとしても、その反対の証拠もたくさんあ見に反対しなければならないからだ。いいかえれば彼女に る場合、その人はそのような未来を信じているのだというとっては、信じるというほかに何の証拠もないからである。 より仕方ないのである。賞め言葉でいえば、「信念の人」信じるということが愛するということに似て来るのはこの ときなのだ。だが、このとき彼女が、人々の提供してくれ といえるだろう。 る彼には愛なんか「ない」という数々の証拠を真実なもの 人間の愛についても相手を信として受取っていながら、それにもかかわらす彼の愛を信 愛することと信じること じるより仕方がないときがあじるというのではなくて、人々の意見を頭から無視して信 じるというのでは、それは一種の狂気といえるだろう。そ る。友達や同僚などから、「あの男はわるい男なんだよ、 あなたはだまされているんだ。」といわれても、「でもわたして信じるという人間の心の働きが、高貴なものとなるか しはあの人を信じるわ。」としか答えられないときがそうあるいは病的なものとなるかの境目は、自分自身も人々の である。全く友達や同僚たちが、彼にはほかの女がいると提供してくれる証拠に同感をもっての上での決断であるか か、口先がうまいとか、責任感がまるでないとか、数々のどうかにかかっている。母親の子供に対する愛によく見る 証拠を示してそういったとき、そしてたしかにそれが事実ところであるが、世間の人々の自分の子供に対する非難な だと本人の彼女に思われているにもかかわらず、それらのんかてんで聞こうともせず、ひたすらに自分の子供の善良 人々に対抗し得るただ一つの言葉は、信じるという言葉でさを信じるという人もある。このような愛に対して盲愛と て ある。そのとき何を信じるのか。 いう言葉もあるが、気ちがいでないにしても少しばかり異 に人々が彼女に対する愛なんかないといっている相手の自状であるということができるだろう。だが信じるというこ 死分に対する愛を信じるのである。たしかに彼女へ忠告したとにおいても、盲信というものが存在するのである。とに かく盲信というものは、どう考えたって美しくはない。 生人々にとっては、笑うべきものであるだろうが、そのよう 9 な愛は、見ていて痛々しいが美しい。それはまた孤独なも信じるということは、一般に「ないもの」と考えており、 のである。それは読者の方々のなかにも痛切な体験として自分もその考えに同感しながらも、しかも「そのないも

5. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

268 きのなかに、このような客観的には、病的に見える面もあら私も、幽霊なんか実在しないと思っている人間の一人で るということを否むことはできない。明らかに人間の常識ある。むろんそれらの実在を信じている人々は、それは科 から考えれは、信じるということは人間の理解し得るもの学的に実証できないというだけであって、その証拠はいた をさしているときが多い。私たちは、夜の次に朝のやってるところにあるとおっしやるだろう。幽霊をうっした幽霊 来ることを知っている。川の水は、高い山から低い平地に写真というものが私たちへ提供されたとする。大部分はイ 向って流れて来るということも知っているのだ。そのことンチキ写真だという人もあるが、とにかく公認されたもの を私たちは経験によって知っているし、知識として学校でではないということはたしかである。そして私たちはその 学び、または大げさにいえば全人類の証言によって知ってような人々を「幽霊の存在を信じている人々」というので いる。しかし私たちは、このような理解を、夜の次に朝のある。 やってくることを信じているという表現をつかうことが多信じるという私たちの心の働きが、その真実の姿をあら い。たしかに私たちが、信じるといっている場合でも、そわすのは、幽霊のような「ないもの」と一般に考えられて の対象となっているものは、人間の客観的な理解の範囲をいるものを対象にもっときである。そしてこの科学的な時 超えることはまずないといっていいようなのである。 代においては、「ないもの」というのはいつも「実証でき ないもの」ということとふかい関係をもっているのである。 だが、その対象が、万人のところが、残念なことには、この世には「ないもの」やだ ないものをあると信じる心 理解を超えたものになると、からまた「実証できないもの」が多すぎるのである。第一 その信ずるという働きは、次第にあやしげな影をおびて来番に「ないもの」は、未来なのだ。あると考えていらっし る。世のなかには、幽霊の存在を信じている人がいるし、 やる方々も多いだろうが、それはまだないものとして「な 空とぶ円盤を信じている人もある。しかしたとえ幽霊や円いもの」なのである。人類は無限に発達して未来はかがや 盤が実在するということは事実であるとしても、万人の納かしいものになるだろうと考えるとき、それは人間の未来 得する事実ではない。いいかえれば、そんなものは「ない」をそのように信じているといえるのである。自分の生活の と考えている人の方が多いといっていいだろう。残念なが未来、社会の未来、あるいは一つの事業の未来であっても

6. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

った柱や、その釘の恰好は、この旅館のどこよりも、よく的に申し上げれば奇跡なんか存在しないのであります。奇 覚えてお帰えりになることができます。嘘だとお思いにな跡だと思われるのは、みな風を見ているからだ、風や波に 関して、イエスを見ているからだということができるので るなら、お試しになることをおすすめします。 これは冗談ですが、私たちが何かをはっきり知るというあります。 ペテロが最初海の上を歩き出したとき同じように、イエ ことは、何かに関してしか知ることはできないという人間 の精神のあり方を示していると思うのであります。海の上スを、それだけを見ることです。正直に素直にイエスを見 を歩いたイエスも同じなのであって、その人間の限界のなることであります。何故なら、そのときイエスは、信じる かで理解されているということなのであります。神の子とこと、信じられないことを超えてあるだけでなく、その両 して理解した者も、人間として理解できない者も、実は、方をしつかとささえられているからであります。ここでは、 この人間的な理解のなかでとらえられていると申し上げる信じる者も、信じられないものも、その両者を超えて、救 われてあるのだ、ということが人間の事実として示されて ことができましよう。 だが、ここで奇妙なことが起 0 ているのであります。ああるのであります。私が、「信じられないこと」を「信じ のペテロなのです。イエスから「おいでなさい。」といわる」ことと同じ価値を与えたいというくわだてをもってい れて、水の上を歩きだしたのであります。だが残念なことると最初申し上げたのは、実はこのことをさして言ったの にそのペテロは神の子ではなく、私達と同じ人間なのであにほかありません。 人間の精神は、どんなものに対しても、意味をもたずに ります。イエスが神の子だからそうできたという理解は、 て ペテロも水の上を、たとえ少しにしろ歩いたんだというこは見ることはできないのでありますし、その対象にあたえ にとによ 0 て打ちゃぶられているのであります。だが、かわた意味によ 0 て、逆に人間はしばられます。海の上を歩い 死いそうにペテロは、やがておぼれかかった。どうしてかとたイ = スに、神の子であるという意味を与えることによっ 生 いうと、聖書には「風を見ておそろしくなり」と書かれてて信ずるということも、それによ 0 てしばられるのであり います。そしてこの「風を見て」というのが、奇跡全体の、ます。何故ならペテロは、「主よ、おたすけ下さい。」と一一 = 〔 って、「信仰うすい者よ、何故うたがったのか。」と叱られ 少くともこの海の奇跡をとく鍵だと思うのであります。端

7. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

人間業でないということは、「神の子」と同時に「悪魔」訴えたんですね。するとその牧師さんは、「それはあなた をも意味するということもあるのであります。いいかえまの信仰がうすいせいだ。」と答えているのです。そのひと すれば、舟のなかにいた人々が、最初理解したように、つは、真剣にそのことを私に訴えて「どうしたら信仰があっ まり幽霊としてなら信ずることができたように、彼等が一一一口くなることができるのか。」私にたすねているのですね。 った「神の子です」ということは、あくまで人間でない存私は、妙な気持になってしまいました。まるで「貧しくて 在としてその言葉を言っているにすぎないのであります。御飯が食べられない。」という訴えに対して「それじや米 を、たいて食べればいいだろう。」と答えているようなも 一切の奇蹟が、人間でないものであるからできたのだ、 ということになれば、理解にとってこれほど便利なものはのですからね。不思議な気がしないわけはありません。 いまどきこんな牧師さんがおられるということは私にと ないのであります。七つのパンで四千人に食べさせた上に、 まだあまったんだって。ああ、あのイエスという男は、人ってオドロキでありますが、あらゆる自分の問題の解決を 間でないんだからなあ、という具合にです。そしてありが「信仰のうすさ」や「信仰のないこと」にもって行かない たいことには、それですむんです。「神って何だい ? 」「人ようにお願いしたいと思います。つまりいまの奇跡の問題 間でないもんだよ」「ああ、そうか。」というのと同じにでにしても、「人間でないことによってできた業」というふ す。理解出来ないことは、何でも彼でも「人間でない」せうに理解することによって、理解もできないし信しられも いにすれば、理解しようとし、信じようとする努力などいしないという人間の事実を簡単にとび超えてしまわないよ らないからです。人間的な一切の困難というものは、「人うにしたいものだと思うのであります。 て 間でない」ということによって簡単に消えてしまうわけな人間として信じられないことは、人間でないもののせい っ にすることは、人間の猿知慧だからであります。 にのです。 死 ここで、ちょっと余談に入りますが、先程お話ししまし では一歩ゆずって、神の子として 生た『私の聖書物語』で来た読者の手紙の一つにこんなのが 神として「信じられ なら信じることができるだろうか。 あったのです。そのひとは教会へ通っていて、「なかなか ないとい - っこと」 舟のなかの人々が、海の上を歩い 神が信じられない。」という嘆きをその教会の牧師さんに

8. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

と信じて念仏をもうしているけれど、歓喜のこころも起らの信仰という土台があってはじめて成立するものなのだ。 このようなことは、信仰と関係なく起る場合もある。たと なければ、浄土へ行きたいこころも起らない、これはどう したわけでしようと、弟子の唯円坊が親鸞にたずねているえば炭坑の落盤事故で坑道にとじこめられたとき、いまま くだりである。しかしそのとき親鶯は、お前の信仰がうすでの意見のちがいや感情的な行きちがいを超えて、追って いからだと一喝していない。それどころか彼は、お前もそ来る死とたたかうためにおたがいの心が結び合うという場 合にだ。そのときいのちといのちでおたがいが結ばれたと うなのか、実は自分も同様なのだと答えている。私は、こ のような親鶯にある感動を感じられないではおられないのいえるのである。そこには、おたがいに対するふかい共感 だ。そこには、相手の苦悩や絶望に共感を感じ得るしなやがあるともいえるのだ。 私は、三回にわたって、松野純孝さんの『親』をとり かな人間性が感じられるからだ。この共感の上に、弟子と ともにその問題を考えて行こうとする彼の姿勢が見てとらあげながら、私にあたえられた問題を考えて来たのである れる。むろんこのような彼の姿勢は、彼のふかい信仰と切が、この本を読んでますます親に親近感を感じさせられ りはなしては考えられないものなのである。キリスト教は、たのは、親の人間の苦しみやなやみに共感し得る信仰的 往々にして人間の苦しみやなやみに対する共感を失ってい側面を見ることによってなのだ。全く親鸞は、決定的にい る場合が多いのだ。彼等の多くは、教えるか審く。いいかつも私たち凡夫の側に身をおいてくれている。「愛別離苦 にあふれて父母妻子の別離をかなしむとき、仏法をたもち えれば彼等の多くは、人間でありながら人間でないように 念仏する機、いう甲斐なくなげきかなしむことしかるべか 振舞うのである。 て ここで、この稿の第一回に、いのちといのちのつながりらずとて、かれをはぢしめいさむること、多分先達めきた っ こそ大切だと書いたことに対して、それは何を意味するかるともがらみなかくのごとし。」とは、全く私たちキリス という読者からのも 0 ともな質問があ 0 たから、この誌上ト者たちに対する警告であるのだ。人の不幸につけ込んで 生でふれておきたい、それは、端的にいえば、この親鸞の弟信仰をすすめるぐらいならまだいいが、ある熱心派の方が、 子のなやみに対する実に柔軟な共感のことをさすのだ。こ瀕死の病人の枕元〈聖書をもって行 0 て、信じなければ地 の場合、このような共感は、直接的には成立しない。親鸞獄〈おちるぞとおどかしたという話も聞いている。一体、

9. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

そんな死の恐怖なんかなくなってしまうのだという説明をきそうもないのである。 だ。もっとも、どこかでだまされているような気はしてい たが。しかし純真だったのだ。私が、検挙されて拷問に出 だから私も間接に知ってい クリスチャンも死を恐れる 会ったとき、あまりの苦しさに死の恐怖を感じたものだが、 る美しいクリスチャンの娘 むろんそれも資本主義社会の矛盾の反映を実証しただけにさんが、肝臓をやんで死ぬとき、ほんとににこにこしなが すぎなかったのかもしれない。だが、現在の私は、クリスら、かえってその死を知って泣いている親たちをなぐさめ チャンである。十年ほど前に、洗礼を受けているからだ。 ながら、天国へ行けるのを楽しみにして死んだという美し そのころ私は、ト ノ説家として出発してから数年たっていたい話を聞いたとき、たしかにその話は私の心を打ちはした のだが、思想的に行きづまって、キリスト教へその解決をが、同時にやり切れないいらだたしさも感じたことは事実 求めたのだ。むろん思想的に行きづまったのは、やはり死なのである。だから私へその美しい話をしてくれた婦人へ、 ぬこの世界の終末と関係していたからである。だから私は、私は思わずこう答えていたのだ。「私には、とてもそんな よく人にこう質間される。「あなたはクリスチャンですっ真似はできない。むしろ私はできるだけ醜い悲惨な死に方 かり救われているわけだから、死ぬことなんか平気でしょをしてやるつもりなんですよ。たすけてくれと大声で叫び、 うねえ。」 私を傷つけた人々はもちろん、この世のなかの一切だけで しかしそのときほど私のがっかりするときはないのだ。 なく、神様まで呪いながら死んでやるつもりなんですよ。」 相手の婦人は、顔を赤くしながらも笑った。私の言葉が、 私は、現在は、人々からは現代人としておかしなやつだと て 見られるだろうということを知っていながら、神を信じ、他人のことながら自分のことのように恥かしかったにちが っ に復活を信じているものなのである。それにもかかわらず死いないのだ。たしかに私は、クリスチャンでも、恥かしい の恐怖は、否定しようもなく歴然と私の心の中にあるのだ。クリスチャンなのかも知れない。しかし私の信仰はそれを 生 ューモアとして許してくれるのだ。 全く誰かが私を殺そうとしてピストルを向けでもしたら、 というよりも、私は、この世のすべてから、だから死の 9 私は真青になってふるえ上るにちがいないのだ。にこにこ しながら撃たれて死ぬなんていう上品なことは、私にはで恐怖からすっかり救われているというクリスチャンは、に

10. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

110 こういう語法がもちいられる世界での相互理解というものとえそれ自身の性格と運命をもっているにせよ、やはりそ は、互いに酒でも飲んで互いに背中をどやしつけるぐらいれを駆使するものの態度によってさまざまに揺れ動くもの しか手だてはなく、まして一つの発想を一つの思想へまでなのだから。ということは、そこに或る程度の困難があっ 明確に積み上げてゆくことには多くの困難が最後までつきたとしても、私達の発想が一つの思想へまで高まることは まとって離れない。そこには一石また一石と同質なものの困難だということにはならないということなのである。そ うなのだ。もし私達が自分とその影をもちながら、しかも みを明確に積み上げてゆく能動的なアナロジイが働きにく いのである。或る水面に一つの石を投じてそこから生じるついに。ヒラミッドの高さを測定し得ないとしたら、そんな 私達を全部太平洋のなかへたたきこんでも構わないとさえ 波紋の動きを飽くことなく凝視めつづけ得た精神のみが、 やがて目に見えぬ音波の領域へ、さらにまた電波の世界へ私は思いこんでいる。そんな無力なやつらの喪失を人類の まで拡がり得たのだと私はかねがね信じている。つまり、歴史は少しも惜しいと感じない筈だと、私は甚だ不遯なが 一つのピラミッドの高さは一つの丈低い影の凝視からのみら信じきっているのだから。 見透されるに至ったのだと私は信じている。このような精さて、死んだふりをやめたとたんに何が何やらごたごた 神の凝視は、ところで、私達の世界では一つの言葉、即ちとひっくるめて喋り出した私が、ここで次第に激越な調子 音波というときすでに躓きやすい。書けばその内容をややにまで昂ってきた自分にはたと驚いて口を噤むと、その私 理解し得るものといえども、発音されたとき忽ち、目に見自身が何時の間にか邪教の神様ぐらいにぎらぎらと眼を光 えて波動しゆく一つ一つの波のかたちを一つの明確なイメらせているのであるが、私の前に端坐した青年までもそれ ージとしてそこから受けとるものは恐らく稀であろうと思以上にぎらぎらと眼を輝かせているので、さらにびつくり して、私の言わんとする意味がついにのみこめたのかとな われる。少し大げさに云えば、そこには発想と思想のあい だの一種の断絶がある。やがて訳も解らぬもののみを一つお激越に訊いてみるのである。すると、なんだか身を揺す の思想として信じこみたがる飛躍を用意するような種類のぶられるように昂奮してきて、偉大な思想がもたらす昂奮 断絶がある。けれども、勿論、このような断絶を決定的なとはこういうものであるかと思うのであるが、貴方が話さ ものとして受けとってもなるまい。言語というものは、たれたこと自身は何が何やら解らなかったとその青年は極ま