出家と在家は、私たち精神の異った二つの面ではあるが出家主義の信仰は、在家主義のそれを非難し、在家主義の「 % 基本的なものなのである。だが、繰り返すが、親鸞の弟子信仰は、出家主義のそれを非難している。馬鹿げた話だ。 たちが、親鶯の在家を出家に対する反抗と受取ったことが何故ならその双方ともに相手を非難する権利はないからで 私には残念な気がするのである。そこに出家主義を守る戒ある。それでは意地のわるい方は私に、お前の信仰は、出、 律からの自由としての弟子たちの信仰のあり方が生れたと家主義なのか、在家主義なのかとおたずねになりたいだろ いっていいからだ。だが、その一つのあらわれとしての性う。私は、恥しくて答えられないから、親鸞さんにかわっ 的自由は、反抗としてのそれであるというところに、著者てもらおう。いわく「僧にあらす、俗にあらず」。それで の松野さんも意味を認めておられるのだが、それはその通は一体何なのか。「この故に禿をもって姓となす。」ーー全 りであろう。しかし私は、出家主義というべきものと在家く親鸞さんはいい男ではないか。 主義というべきものは、そこにおたがいの無関係こそ存在この親鸞は、あるときには「愚禿親鸞」ともいっている 2 しても、反抗したりされたりするような関係ではないと思そして私は、宗教家のすぐれた典型をそこに見るのだ。僧 うのである。たとえば。ヒクニックに、一人は海へ行き、一 つまり出家主義でもなく、俗ーーー全くの在家主義でも 人は山へ行くといったようなものだ。海へ行くのは、他のないところに、真の信仰の存在するという真理を彼は、材 一人が山へ行くということに反抗して海へ行くのではない。をもって示しているといえるからだ。だがその信仰は、出 ただ、海へ行き、ただ山へ行くだけなのだ。出家も在家も家主義からも在家主義からもおかしなものであり、否定さ」 そのような関係にあり、だから出家主義と関係なくそれだれるべきものでさえある。しかも彼はこの自分の信仰のリ けで自律的な世界をもち得るし、在家主義もまた、出家主アリティを毫も失っていない。いわく愚禿親鸞。私が彼に 義と関係なく一つの宇宙をつくり得るのである。いいかえ脱帽せざるを得ないのは無理はないだろう。 れば生き方の質が全く異なるのだ。だからこの二つの生き 私は、かってこの誌上において、『歎異抄』にふれ、 方は、本来は平行線のように相変らないのである。 キリスト教の信仰にも、明らかにこの二つの型がある。鸞の弟子に対する態度にふかい共感を覚えるということを 同じプロテスタントに属し、同じ宗派に属していてもだ。 述べたことがある。浄土往生の生の道は、念仏のほかない
376 ます」というふうに書くであろう。それはあいさっとしてにも思われるが、そのかわりに「自我」というような観念 結構なことであって、何もけちをつける必要はないことでを自己の存在の中心に据えることによって、内在的な「自 あろう。しかし、誰かの幸福を「祈る」というとき、いっ我」を発展させ、絶対化していく方向において、自己の人 たい「祈り」とは何なのであろうか。もしそれが単なる心格形成が可能だと信じてきたともいえるのであろう。しか の中の願いということなら、それは「祈り」の本質ではなし、そのような自律的な人間形成をすすめてきて、じつは、 いともいえるであろう。私たちが、誰かの幸福を祈るとい自らのうちに人格としての「われ」を見失ってしまったと うことは、それが、ほんとうに「祈る」という行為としても考えられるのではなかろうか。だから、「祈り」という なされてのみ、祈りを生きるといえるのである。「祈り」ような言葉を使っても、その実質的な意味は失われてしま って、単なるあいさつになってしまったのかもしれない。 とはどういう行為のことであるだろうか。 ひと口に「祈り」といっても、宗教によってその意味す私たちは、まことの「汝」としての「神」との対話の生 るもの、行為される形がちがうかもしれないが、「祈り」活の深めるということによってのみ、自己を真実に「人 とは、「神」と「人」との間でのみなされる「対話」であ格」としての「われ」として実現していくことができるの るということができるであろう。少くともひとりのキリスである。そのようにまことの「汝」としての「神」を私た ト者として、私において「祈り」とはそのような行為のこちにしつかりと見出させてくれるものが、「信仰」と呼ん とである。神語り給いわれ聴くということ、自己の思いでいる私たちの生きかたなのである。信仰なくして「神」 を「神」に向って真実に語るということ、そのような「対の前に立っことはできないし、信仰のないところに祈りと 話」としてのみ祈りは成り立っというべきであろう。宗教いうような神との対話が生活としてつくり出されるという の本質は、そのような「祈り」において、まことの「汝」ことはありえないであろう。「祈り」と「信仰」とは表裏 としての「神」との対話を深めていくということにあるの一体をなしていることなのであって、信仰なくして祈りは ありえないとともに、祈りのない信仰は、いっしか消え去 ではなかろうか。 ってしまうものである。 近代人は、そういうまことの「汝」としての「神」を、 もし私たちが、友の病気がいやされることを真実に祈る 人間が頭の中でつくり出したものとして否定してきたよう
195 生と死とについて 目次 人生と死とについて 愛と自由と幸福と 行動というもの 死について 不安について 絶望について 自殺について Ⅱ自由と信仰とについて 自由について 自由の不合理 信じられないということ 生きんがために 信じるということについて ある信仰 一一七 0 一九七
の」を「あるもの」として信じるという心の働きだというするのである。それはある意味で宗教という信仰に似てい ことは明らかになったかと思う。そして「ないもの」をるといえるのだ。 というのは、「ないもの」と一般に考えられている最た 「あるもの」として信じるためにはある決断が必要だとい うことはいうまでもない。一般の考えやその考えを真実とるものは、神であるからだ。私は、このエッセイを書きは して受け入れずにはいられない自分自身に反抗して決断しじめてからいくつかの手紙をいただいているが、そのなか でいただいた手紙の一通は、ある宗教信者の方からで、な なければならないからである。 だからまたその意味で信じるということは、人間の一つかなか攻撃的なものであった。その人の信仰は盲信という 一言で片付けられるものかもしれない。しかし私は、愛想 の自由の行為だといっていいだろう。 しかしそのような常識的にいえばいささか無茶苦茶に見のいい人間であるから、この文章は、読者の多くの方々に える決断をさせるものは何なのだろうか。むろんその根拠は不思議であり、ある人にとっては軽蔑に値いするところ になるものは、真実の自由を求め、真実の愛を求めずにはの、「信仰」という人間の心の働きを考えることによって いられない人間の心である。まだない未来を信じるのもそしめくくりたいと思っているのである。 れである。たとえば、マルクスが私たちへ与えてくれた未 ある信仰 来を信じる人々もそれだといえるだろう。この弁証法的な 歴史がプロレタリア革命によって終り、そこからいままで 私は自分の信仰を絶対的なものと思ってはいない。創価 とは質のちがった真の人間の歴史がはじまるのだという。 そこでははじめて人間の真の自由が実現されるというので学会の方で、二年にもわたって「聖教新聞」を送って来て ある。しかしその自由は、言葉の上では、矛盾した表現とし下さる方もある。むろん個人的にだが、一々私の読むべき てしか理解されない。逆にいえば矛盾のなかにいる私たち箇所を朱筆でかこんでいて下さる親切さである。そして私 にとっては、その自由は質のちがったものであるから理解は、素直にその箇所だけはちゃんと読ませていただいてい できないというわけなのだ。しかしはげしく自由を求めるる。キリスト教に対する攻撃の文章も多いが、またその攻 人々は、自由を欲するあまり、その未来を信じる方へ決断撃のはげしさにほとほと参ってしまうときもあるが、しか
と信じて念仏をもうしているけれど、歓喜のこころも起らの信仰という土台があってはじめて成立するものなのだ。 このようなことは、信仰と関係なく起る場合もある。たと なければ、浄土へ行きたいこころも起らない、これはどう したわけでしようと、弟子の唯円坊が親鸞にたずねているえば炭坑の落盤事故で坑道にとじこめられたとき、いまま くだりである。しかしそのとき親鶯は、お前の信仰がうすでの意見のちがいや感情的な行きちがいを超えて、追って いからだと一喝していない。それどころか彼は、お前もそ来る死とたたかうためにおたがいの心が結び合うという場 合にだ。そのときいのちといのちでおたがいが結ばれたと うなのか、実は自分も同様なのだと答えている。私は、こ のような親鶯にある感動を感じられないではおられないのいえるのである。そこには、おたがいに対するふかい共感 だ。そこには、相手の苦悩や絶望に共感を感じ得るしなやがあるともいえるのだ。 私は、三回にわたって、松野純孝さんの『親』をとり かな人間性が感じられるからだ。この共感の上に、弟子と ともにその問題を考えて行こうとする彼の姿勢が見てとらあげながら、私にあたえられた問題を考えて来たのである れる。むろんこのような彼の姿勢は、彼のふかい信仰と切が、この本を読んでますます親に親近感を感じさせられ りはなしては考えられないものなのである。キリスト教は、たのは、親の人間の苦しみやなやみに共感し得る信仰的 往々にして人間の苦しみやなやみに対する共感を失ってい側面を見ることによってなのだ。全く親鸞は、決定的にい る場合が多いのだ。彼等の多くは、教えるか審く。いいかつも私たち凡夫の側に身をおいてくれている。「愛別離苦 にあふれて父母妻子の別離をかなしむとき、仏法をたもち えれば彼等の多くは、人間でありながら人間でないように 念仏する機、いう甲斐なくなげきかなしむことしかるべか 振舞うのである。 て ここで、この稿の第一回に、いのちといのちのつながりらずとて、かれをはぢしめいさむること、多分先達めきた っ こそ大切だと書いたことに対して、それは何を意味するかるともがらみなかくのごとし。」とは、全く私たちキリス という読者からのも 0 ともな質問があ 0 たから、この誌上ト者たちに対する警告であるのだ。人の不幸につけ込んで 生でふれておきたい、それは、端的にいえば、この親鸞の弟信仰をすすめるぐらいならまだいいが、ある熱心派の方が、 子のなやみに対する実に柔軟な共感のことをさすのだ。こ瀕死の病人の枕元〈聖書をもって行 0 て、信じなければ地 の場合、このような共感は、直接的には成立しない。親鸞獄〈おちるぞとおどかしたという話も聞いている。一体、
人間業でないということは、「神の子」と同時に「悪魔」訴えたんですね。するとその牧師さんは、「それはあなた をも意味するということもあるのであります。いいかえまの信仰がうすいせいだ。」と答えているのです。そのひと すれば、舟のなかにいた人々が、最初理解したように、つは、真剣にそのことを私に訴えて「どうしたら信仰があっ まり幽霊としてなら信ずることができたように、彼等が一一一口くなることができるのか。」私にたすねているのですね。 った「神の子です」ということは、あくまで人間でない存私は、妙な気持になってしまいました。まるで「貧しくて 在としてその言葉を言っているにすぎないのであります。御飯が食べられない。」という訴えに対して「それじや米 を、たいて食べればいいだろう。」と答えているようなも 一切の奇蹟が、人間でないものであるからできたのだ、 ということになれば、理解にとってこれほど便利なものはのですからね。不思議な気がしないわけはありません。 いまどきこんな牧師さんがおられるということは私にと ないのであります。七つのパンで四千人に食べさせた上に、 まだあまったんだって。ああ、あのイエスという男は、人ってオドロキでありますが、あらゆる自分の問題の解決を 間でないんだからなあ、という具合にです。そしてありが「信仰のうすさ」や「信仰のないこと」にもって行かない たいことには、それですむんです。「神って何だい ? 」「人ようにお願いしたいと思います。つまりいまの奇跡の問題 間でないもんだよ」「ああ、そうか。」というのと同じにでにしても、「人間でないことによってできた業」というふ す。理解出来ないことは、何でも彼でも「人間でない」せうに理解することによって、理解もできないし信しられも いにすれば、理解しようとし、信じようとする努力などいしないという人間の事実を簡単にとび超えてしまわないよ らないからです。人間的な一切の困難というものは、「人うにしたいものだと思うのであります。 て 間でない」ということによって簡単に消えてしまうわけな人間として信じられないことは、人間でないもののせい っ にすることは、人間の猿知慧だからであります。 にのです。 死 ここで、ちょっと余談に入りますが、先程お話ししまし では一歩ゆずって、神の子として 生た『私の聖書物語』で来た読者の手紙の一つにこんなのが 神として「信じられ なら信じることができるだろうか。 あったのです。そのひとは教会へ通っていて、「なかなか ないとい - っこと」 舟のなかの人々が、海の上を歩い 神が信じられない。」という嘆きをその教会の牧師さんに
226 とをなすための小さなことを命ぜられると、ぶつぶつ不平ることは出来ないし、行動しない人間は、また行動につい をもらすのである。 て知ることは出来ないのである。 ここに問題がある。人間は、真剣な行動をなしながら、 だからどうも人間には絶対的な行動をしながら、その行 その全行動を自分の意識のもとにおくことは出来ないのだ動を意識するという事は出来ないものらしい。何故ならそ ろうか、という問題である。何故なら、夢中で走っているれは、絶対を客観し得る立場が人間にあるかどうかという 人間が、たとえば信仰と関係をもち得るとは考えられない ことにかかわっているからだ。そしてそんな立場は人間に からだ。彼の行動が、信仰に関係をもち得るとすれば、走はないからなのだ。 る前である。走る前なら彼も、意識をもち得るからだが、 ただ、唯一の例外は、わが敬虔なる泥棒君の場合である。 走り出せば、彼は一個の″もの〃である。自動車の車輪と彼は、彼自身にとっては真剣な行動の最中にありながら、 異ったところはないのだ。夢中になり、我を忘れている人とにかく彼自身を変えようと欲することが出来たのである。 間が、自分自身の行動を客観的に見る、つまり変え得るもこのことをよく考えて見る必要がありそうだ。 のとして見る ( 意識するということはそういうことであ ここに、絶対の真理はない、という言表がある。しかし る ) ことが出来ようはずはないではないか。もしそのようその一一一口表自身がその言表を裏切っていることは、その言表 な人間がいたら、その瞬間に破裂してしまうことは必定でが、絶対の真理はある、という前提なしには成立しないこ ある。動機が信仰に関係しているからと言って、その行動とから考えてもわかることなのだ。もしこの、絶対の真理 も信仰に関係していると思うひとがいたとしたら、甘すぎはない、という一一 = ロ表を、このような矛盾なしに客観的に成 る。人をたすけようとして殺しているひとが、世の中には立させるためには、絶対を超えたところの場所がないかぎ 多すぎるほどいるのだ。全く人間にとっては、行動に関しり不可能なのである。 てそれをするかしないかがあるだけであり、行動するとき 私は、彼の祷りがどんなものであったか知らない。ドス は、究極にはあれかこれかにかかわるものであるから、行 トエフスキイの言葉を借りれば、わが泥棒君は、本当に救 動そのものとなり、行動しないときは、意識そのものであわれているのだ、ということを知らなかったということな る。だから行動している人間は、自分の行動については知のだ。
と、しゃれ気もなく答える二十何歳の学生には横を向きたことがある。「何時死んでもよいという気持」をもってい なければできないこと、「一日でもそれを忘れたら、こわ くなったに違いない。 しかし、戦後の無軌道な社会、既成の生活基準が崩壊しくて生きていられないこと」である。自分が自分の理論に 去り、新しいモラルが単に言葉としてしか用意されなかっ負けたら「死ぬべきです」というところで彼は生きていた。 この場合に注意すべきひとつのことは、彼がみずから能 た時代にあって、みずから「合意によるものは拘束さるべ し」という単純な標語をかざし、そこに生き、そこに死ん動的に自分の理論を選んだということである。従ってその でいったこの青年は、戦後の一現象としてみるだけではか理論によって他動的に利用され、人間が理論の手段とされ ることはますない。むしろ理論を利用し、その利用におい たのつかないものをもっている。 「合意は拘束さるべきものでございますから、一度約東して学生社長という位置が成り立った。自分が決意して選ん たものは必ず履行しなければならぬというだけで、これはだが故に、責任が生じ、その責任において緊張した。この緊 私の世界観に基づく行動です。それは私の決めた基盤だか張によってのみ彼のメカニズムは呼吸していたわけである。 いま彼の選んだ理論、単純な形式に表白された基準につ らそれによって行動いたしますが、それ以外に人の決めた ものには従うことはないというわけでございます。」 いてはとやかくいうまい。とにかくその基準によってひと 契約の履行、或いは履行しないという契約の履行、そうつの小世界をたて、その小世界の中心に自分が坐り、それ いう形式的に固定した観念、法律概念をもってきて、それを維持したという手続の整然さには、ほとんど一驚を喫す をもって金貸業の商売道具としたばかりでなく、自己一切べきものがある。彼はいわば第一次のところで、主体性が の行動の基準とし、「理論通りに生きてきた自信がござい真理であるという命題を実証している。二十三歳のキ = ル ケゴールは次のように日記に聿曰きつけたとい一つ。 ます」と言いきっている。「理論の根本は信仰」だから、 理論を支えている信仰の緊張のみが、その行動を自信ある「私にとって真理であるような真理を見出すことが重要で ある。その理念のために私が生き、また死することを意味 自ものになしうる。理論に負けることは信仰の崩壊であり、 信仰の崩壊はその場の人間の死である。理論通りに生きるするところの理念を見出すことが重要である。そしてたと ということの裏には、理論を死でもって支えているというえいわゆる客観的真理を見出したところで、また哲学の体
は、後日、この章を引用して、それらの諸間題にふれるこ実なのである。そして私たちは、情ないことに孤独の自山 とになるかも知れないことを予感させられている。しかしというもっとも個人的な自由と、全体というもっとも非個 さしあたり、私は、孤独の自由に対立するものとして、こ人的な自由との間に、分裂する。ドストエフスキイはその の世界全体が問題となる自由を提出できればそれでいいのことをよく知っていた。彼のある作品の人物は、その点に である。 おいてまことに象徴的だ。ひとりの人類愛に燃えている高 この世界全体は、いくらでも細分できる。階級全体、民貴な人物は、隣りの男が憎くて、ついにその男に平手打ち をくわせてしまうのである。 族全体、家全体、あるいはある組織全体というふうにだ。 しかし私たち個人は、この全体の自由の前には、はなはだ 弱いのだ。何故なら個人の自由といったものは、その前に 信じられないということ は、捨て去るか、捨て去らなくても向こうの方が無視して この講演では、私は一つのくわだてを くれるのである。さらにいうならば、この全体の自由の旗 一つのくわだて もっています。それは、キリスト教の のもとでは、人の一人や二人、生きようが死のうが大した ことではないのである。戦争中、戦局全体を好転させるた内部にあってとにかく軽蔑されている「信じられないとい うこと」に、「信じること」と少くとも同じ価値を見出そ めに何万という兵士を見殺しにした将軍もいたではないか。 しかもなお、私たちは、この世界全体が問題とならざるうとするくわだてであります。 を得ない時代に住んでいるということを繰り返したい。そよく人々は、教会の内部の会合のときなど、自分を紹介 れだけでなく、私たちは、この時代の諸現実に対応するたするのに「信仰のあさいものですが」とか、「まだほんと っ にめに、何かの全体に所属していなければならない運命におうに信じるというところへ行っていない者ですが」という かれているのだ。全体の自由によって、私たち個人の自由前置をなさいます。なかなか御けんそんで、私なんか、そ 生保証されるということは、ストライキ一つとりあげてもんなけんそんの美徳に接しますと、つくづく我が身をかえ わかることなのである。しかもこの全体の自由に生きるとり見てから、「信仰のあさい」とおっしやるひと以上に、 いうことこそ、私たち人間の、眼を蔽うことのできない事ほんとうに「信仰のあさい」人間のような気がして来て、
読めたかというとそうではなく、これまたつますきにつま 上げるよりほかはありません。 キリスト教においても、信じられないことが、自分のつずくのです。つまり神の子としての物語として読んでも、 らさになるとき、一方に信じようとする心があるからです。トテモトテモ神の子として信じられないだけでなく、人間 このつらさは、「信じている」と思っている方々には、なとしての物語として読んで行っても、やはり信じられない かなかわかってもらえないのであって、まるでそのようなのであります。 つらさが、そのひとの信仰があさいせいだ、なんじ罪ふか 聖書の場合においては、「信じられないこと」は、他の きものよ、なんて思われそうに思えるものだから、ますま場合とちがって二重に起るのであります。たとえば、自分 の夫を神様のような立派なひとと思っているような御婦人 すつらくなって来るというわけなのであります。 一体、「信じられない」ことは、信仰のあささや、罪のによく出会います。そんなとき、その夫の方がうらやまし い気もしますが、やりきれないだろうという気もします。 深さの証明なのでありましようか。端的に申し上げれば、 キリスト教には、「信じるか」「信じないか」のようなせっしかしとにかくそれでうまく行っているなら、それでもい い。ところがその夫が何かで人間的な弱点をバクロしたと ばつまった大上段にふりかぶった白刃のやいばはもってい ないのであります。キリスト教においては、ふしぎなことき、よくそんな御婦人の方は、裏切られた思いでカンカン になって、「あなたも人間だったのね」なんかといいます。 にお思いになるでしようが、「信じられないということ」 も、そのままで充分生きて行けるようにされているのであだがその夫のひとは、神様としては失格したが、しかし人 間としては信じられたのであります。だが、聖書では、イ ります。 エスを神として失格させたからと言って、人間として信じ っ 聖書を読みはじめた頃、私によくられるかというとそうではなく、人間としても信じられな 人間として「信じら 死 奇妙なことが起ったのであります。いのであります。 れないということ」 イエスを神の子として読むという 私は座談会でござれ、講演会でござれ、かならず私に対 してテストが行われるという目にあうのであります。つま 弱ことは、そう読むことそのことが、大つまずきでしたが、 それではイエスを人間として読んで行ったら、スラスラとり「なんじは、ほんとうにクリスチャンなりや」というこ