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検索対象: 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩
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1. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

268 きのなかに、このような客観的には、病的に見える面もあら私も、幽霊なんか実在しないと思っている人間の一人で るということを否むことはできない。明らかに人間の常識ある。むろんそれらの実在を信じている人々は、それは科 から考えれは、信じるということは人間の理解し得るもの学的に実証できないというだけであって、その証拠はいた をさしているときが多い。私たちは、夜の次に朝のやってるところにあるとおっしやるだろう。幽霊をうっした幽霊 来ることを知っている。川の水は、高い山から低い平地に写真というものが私たちへ提供されたとする。大部分はイ 向って流れて来るということも知っているのだ。そのことンチキ写真だという人もあるが、とにかく公認されたもの を私たちは経験によって知っているし、知識として学校でではないということはたしかである。そして私たちはその 学び、または大げさにいえば全人類の証言によって知ってような人々を「幽霊の存在を信じている人々」というので いる。しかし私たちは、このような理解を、夜の次に朝のある。 やってくることを信じているという表現をつかうことが多信じるという私たちの心の働きが、その真実の姿をあら い。たしかに私たちが、信じるといっている場合でも、そわすのは、幽霊のような「ないもの」と一般に考えられて の対象となっているものは、人間の客観的な理解の範囲をいるものを対象にもっときである。そしてこの科学的な時 超えることはまずないといっていいようなのである。 代においては、「ないもの」というのはいつも「実証でき ないもの」ということとふかい関係をもっているのである。 だが、その対象が、万人のところが、残念なことには、この世には「ないもの」やだ ないものをあると信じる心 理解を超えたものになると、からまた「実証できないもの」が多すぎるのである。第一 その信ずるという働きは、次第にあやしげな影をおびて来番に「ないもの」は、未来なのだ。あると考えていらっし る。世のなかには、幽霊の存在を信じている人がいるし、 やる方々も多いだろうが、それはまだないものとして「な 空とぶ円盤を信じている人もある。しかしたとえ幽霊や円いもの」なのである。人類は無限に発達して未来はかがや 盤が実在するということは事実であるとしても、万人の納かしいものになるだろうと考えるとき、それは人間の未来 得する事実ではない。いいかえれば、そんなものは「ない」をそのように信じているといえるのである。自分の生活の と考えている人の方が多いといっていいだろう。残念なが未来、社会の未来、あるいは一つの事業の未来であっても

2. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

くる。死について多くのことが語られる。多すぎるほど死 道いたいのである。観念の死ではなく、経験の死を知りた いのである。死の経験という最もおそるべきことについてについて説かれ、道われてもいる。然し、それは多く語ら れれば語られるほど、また騙りに近づいてゆく傾きをまぬ 関心するのである。 死は、即ち科学的対象的ではない実存的な死は、イエズ、がれない。死がここではまた観念になってしまって、転換 イエズ、ということになってしまう。ところで、不道不道ではなくなる。イワズ、イワズという実存的な S 。 heu がな くなってしまう。「心をもてはかることなかれ、ことばを は、イワズ、イワズ、であって、イエズ、イエズ、ではな い。ここには何等かの転換がなければならない。死が観念もていふことなかれ」ということがなくなってしまう。 や対象ではなく、経験になるという転換であろうか。死人科学的対象的な死の究明に満足しえず、また死の哲学的 となって生くるとか、生死の関頭を透脱するとか、身心脱教義的な説教にも満足しえないということは、我々自身の、 落とか、そういう言葉の示しているのは、死が経験に転換一回的、しかも最終的な死、死滅を重大関心としていると したことをいっているようでもある、然しこの場合にもそいうことに外ならない。然し最終的にしか経験しえないも の人が生きている限り、一回的な死という事実を経てはいの、従ってその経験が経験として将来に何の役割をも果し ない。死人となって生くるの死を単に譬喩とはいわないが、えないもの、死は経験しうるのは死そのものより外にない 死の経験ともいえないだろう。若し死の経験であるならば、ということに向って関心するということは、無意味なこと 不道不道ということはもったいぶった道い方になる。またである。然しまたその無意味なことに向って関心せざるを えない。無意味なことへの関心は好奇心ではありえない。 末後の一句の末後ということも意味を失うであろう。 恐いものみたさに更に一段と越して、恐いものの怖ろしさ、 ここの転換とはそれではどういう転換であろうか。 ここへでてくるのは、空、無、仏、また永遠、復活、神、死の恐怖である。自分がいっか必ず死ななければならぬ怖 そういうものであろう。或いは現象に対する実在が、無常ろしさである。 に対する常が、更に存在者に対する存在の根拠が、もちだ死への恐怖は、しかしながら、生への執着の裏返しにす されるであろう。生は無常の生、この世の存在は仮のものぎない。死への関心は実は生への関心にすぎないとすれは、 ということになれば、哲学的、教義的な多くの思弁がでて問題はまたふりだしにもどってくる。然し、このふりだし

3. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

326 ある。私はやはり日本の女性の弱さだと思う。要するにく手で自分の存在を抹殺することによって、そのことを証明 やしいのである。くやしいから死ぬのではあまりにもみじしなければならない。 もちろん、そこでは「殺してはならない」というような めな敗北ではないだろうか。そんなとき、けっして死んで はいけない。生きていてこそ、抗議ということがありうる他律的ないましめは何の意味も持ちえないのであるから、 のである。むしろそういう夫をあわれんでやるくらいの強自殺は罪であるという命題はまったくナンセンスというほ かはない。しかし、この能動的ニヒリズムからは真に創吐汜 さがほしいのである。 的な実存は生まれてこない。自分の手によって自分を処分 自殺の積極的な側面として、さらにすることが、自分にとって自分だけが主であることの証明 能動的ニヒリズム にはなりうるかもしれないが、そのようなことを自殺によ 考えてみなければならないのは、能 って証明したところで、それが何だというのか。自殺は生 動的ニヒリズムの立場である。これは私たちの社会では、 の破局以外のなにものでもない。死の前での敗北というこ ほとんど問題にならないかもしれない。たとえば、ドスト とにおいて、他のあらゆる自殺の場合と、けつきよく何の エフスキイの『悪霊』におけるキリーロフの自殺などが、 変わりもないのである。 私の能動的ニヒリズムの典型ともいえよう。 きょ・せつ 能動的なニヒリズムが積極的といえるのは、神の拒絶と 神なしと判断するところから生じる、人間の絶対化であ いうモチーフのゆえであるから、その前提には神の実在が る。神もないならすべてが許されている。神がないなら、 私を支配しうるものは存在しないはずであり、私は自分以なければならない。私たちの社会に能動的 = ヒリズムがあ 外の何ものかに自己をゆだねるということはできない。私りえないのも、そのことと深く関連しているのだと考えら にとって主は私自身でなければならない。ところで、私がれるであろう。 私自身の支配者であることを、何によって私は証明するこ とができるだろうか。キリーロフはその問題をつきつめて、 自殺は自己中心 必然的に自殺ということに到達するのである。すなわち、 的な行為である 私が私自身の主であり、支配者であるなら、私は私自身の いままで考えてきたことは、自殺の現 象形態についてのことがらであるが、 私は、自段という行為は、けつきよく、

4. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

れを正しく受けついでいる親にとっては、存在すること野の花」とたもとをわかっ、食べること着ることは、それ についての一切はゆるされているのである。ここで私には、は生命にとって役に立つから善なのであり、したがってそ ドストエフスキイの『悪霊』のなかのキリーロフの思想がれへの関心も善なのである。だから逆に生命にとって不利 なものは悪になることはむろんだ。食べることは善ではあ 思いうかんで来る。「すべてがいいとほんとうに知ってい る人間は、そんなことを ( つまり少女を凌辱することや親るが、それにこだわることによって精神身体医学の対象に の喧嘩に赤ん坊の脳みそをたたきわるとかいうようなことなるようなノイローゼを呈して来ると悪となるのである。 はだ ) 、しないだろう。」という思想だ。むろんこの「しなだから法然の場合、直接的な意味では、精神身体医学が、 いだろう」ということは、禁じられているからしないとい 道徳的な基準となるのであるから、はなはだ現代的といえ うのでもなく、道徳的でないからしないというのでもないるだろう。 だが、ここでちょっと理論的に困ることは、生きている ことはもちろんだ。そんなこととかかわりなく、主体的な 選択としてしないというだけのことである。したがってこということ、つまり生命が最高の善であるということは、 の「しない」ということは、あくまで自由の行為なのであ生命は無制約的に善であるということになり、人間の諸行 り、どんな客観的な判断も入り込む余地はないのである。為の無制約的な自由を引き出すことになるからだ。だから そのかぎりにおいてこの「しない」という選択は、他人の法律もときには悪となる。人殺しも泥棒も、少くとも「自 目には神秘にうつらざるを得ないのである。いいかえれば己の」生命をたもつ手段となるときには、善であるはずで 他人の目には神秘に見える選択だということもできるだろあるからだ。全く人間の諸行為において、何が人間の生命 に彳 ~ 、つかどうか究極にはわからないものであり、更に他 だが、法然の存在に対する全的な肯定には、このような人が介在して来ると、そのことは更に複雑怪奇になって来 神秘さはない。単純明快であり、庶民的な素朴さをもってるのだ。この理論的な混乱は、事実、親鸞の弟子たちのな いる。生きているということが、最高の善であるかぎり、 かの一部のラディカルな独走となってあらわれ、親鷺をな それに奉仕する一切のものは善であり、それをそこなう一やましただけでなく、別に弟子が泥棒したわけではないの 切のものは悪なのである。ここで山上の垂訓の「空の鳥やに、その弟子たちを泥棒とののしっているのは、私にはわ

5. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

192 難な時代に、 この「私」という限定された一小主体をもっ て、敢えて「虚無と絶望」からどうにか数歩を踏みだして みようとする踏み出しの姿勢の方がより多く語られている。 私達は、何処からきて何処へ去ってゆくのか解らぬままに、 さまざまな消極的、或いは、積極的な操作を「自分がいま 生きている空間と時間」に向って試みつづけてきているが、 たたにこれまで絶えす試みつづけたばかりでなく、これか らもなお私達すべてが一種のつびきならぬそれそれの姿勢 を社会と存在へ向ってとらねばならぬことのなかに、むし ろ却って、「虚無と絶望」こそ、私達の生のはじめから、 そしてまた、最後にまでおよんでもついに手離し得ぬ重い 試金石にほかならぬことが示されている。ここにいま生き ている私達も、恐らくは、振動宇宙のごとく、虚無と実在、 絶望と希望のあいだをいやいや、或いは、否応なく往復し ながら、一種向上的な螺旋運動をつづけにつづけてゆかね ばなるまい。 埴谷雄高

6. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

的に生きるということと同じことになってくるであろう。 格」なのだということが大切なことなのである。人格とい うことももちろん価値であろう。なによりも尊い価値であいや、生きるということがすでに主体的存在を意味してい るともいえよう。しかし、それはタレントというような価るのである。主体的に生きるとは、自分を手段化されたり 値ではない。昨日まで価値があったけれども、今日は消え道具化されたりすることに、「否」をつきつけうるという ことである。人間を手段としてでなく目的としてとりあっ てなくなってしまったというような価値ではない。それは、 私よりももっと価値のある人が出てきたらその人に席をゆかうこと、それが人間を人格としてとりあっかうことだと いったカントの説明は、やはり人間の人格性について、も ずり渡さなければならないというような価値のことではな っとも急所をついている言葉だというほかはないであろう。 い。私は私であって、ほかのなにものによっても置きかえ だから、自分を人格的存在として、深く自覚しえないなら、 られないという価値である。 自分をそのような人格として愛するということが、真に真に自分を愛するということは生じてこないであろう。 自分を愛するということである。しかしここで人格という 自分を人格として愛することが真に自分を愛することで ことについて、もう少しいっておかねはならない。ふつう 私たちの社会では、「あの人は人格者だ」というふうにいあることを考えてきたが、そこでもう一度、あのイエスの いあらわされるが、それは道徳的に立派であるとか、人柄「自分を愛するように隣り人を愛せよ」とのいましめに立 ちもどると、どういうことになるか。自分を人格として愛 力いいとかという意味に使われる。しかし、私がここで、 私は人格だというのはそういう意味ではない。私は道徳的するように、他人をも人格として愛せよということである。 苦な規準に照らして、自分を人格者であるなどとうぬぼれた自分が主体的存在であるように、他者をも主体的存在とし 鮟ことをいえるような人間ではない。それにもかかわらず、てとりあっかえということである。 2 私は人格であるというのは、もう少し違 0 たいいかたをす他者を人格として、主体的存在としてとりあっかうとき 現れは、私は主体的存在であるということである。私のうちにのみ、他者は私の隣り人なのである。「秋深し隣りはな にをする人ぞ」、これは芭蕉の有名な句であるが、この句 なる主体性、それが人格である。 だから自分を人格として愛するということは、真に主体における隣りとは隣り人のことではないであろう。そこで

7. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

それは、人と人とのつながりが、まったく機能的にしかの属性的価値だけなのである。 私は、今日における疎外ということは、けっして、青年 成り立っていないことである。具体的に考えるなら、たと えば、大学において教授と学生という関係がたしかに存在だけの問題でないことを十分に承知している。しかし、今 する。教授は何らかの専門家として学生の前に立ち、学生は青年の問題として考えているのだから、一応、青年のこ はその教授から何らかの知識や技術を伝達されるであろう。とがらとして問題を提起したいと思うのだが、戦後の民主 しかし、その限りにおいて、教授と学生とのつながりは、主義の教育の、どこが間違っていたのかしらないが、人を 利用価値としてしか意識しない風潮が、青年のなかに大変 全人格的な「わたし」と「あなた」という関係にはいたり 得ないのであって、「何らかの専門家」とそれを聴講する深くしみこんでいるように思われる。自分にとって利用価 学生という抽象的な関係しかそこには存在しない。すなわ値のあるものは大切にするが、利用価値のないものには、 鼻もひっかけないのである。利用価値があるかどうかとい ちそれは機械的にしかつながっていないのである。 機械的なつながりのもう一つの側面は、利用価値としてうことだけが、価値判断の基準にされているみたいなとこ しか対象が意識されないことである。英語の教師は学生にろがたしかにあるのである。 そういう人生態度が、むしろ、深刻な人間の客体化をよ とっては英語をマスターするための利用価値的存在である。 英語の力が貧弱であるような英語の教師は、利用価値がなびおこしているのではないか。利用価値としてしか存在し いわけだから、だめだということになる。この利用価値とないものは、すべて非人格的なものである。だから、人格 いうものは、ある人格の属性としての価値なのだから、利的存在でも、利用価値としてしか意識されなければ、人格 苦用価値的なっがりにおいて問われているのは、対象の人でなくて物件にすぎないのである。私自身、大学で接触し 鮟格ではなくて、その「英語の力」にすぎないのである。こて、学生諸君のものの考えかたのなかに、そのような非人 のういう人と人とのつながりのことを、社会科学者は、利益間的なものを感じることがずいぶんと多いのである。 しかし、私はけっして青年諸君をせめられないと思う。 現社会と呼んでいるのであるが、利益社会においては、けっ 9 きよく、人は客体的存在としてしか存在しえないのである。社会機構そのものが、人間を利用価値としてしか考えない そこで問われるのは、才能とか技能とか、要するにその人ようなものの考えかたで成り立っているのだから、そのよ

8. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

いであろう。しかも、なお私は、今日くらい、青年が、人誠実に応答していくというところから、私は、私の主体性 生について、人間存在について、根源的に間いなおさなけを確立していくことがゆるされる。主体的に生きるという ればならない時代はなかったのだ、とあえて訴えたいのでことは、そのようなことなのである。 ある。 そのように、人と人とが、互いに問われつつ、問いつつ、 もちろん、私は、自分が聖書の信仰において、人間存在誠実に応答し合う関係をつくり出していくところに、「責 の根源的なものを知らしめられているからといって、いき任社会」というものの成り立っ根拠があるであろう。資本 なり、キリスト教とか、宗教とかを持ち出そうとは思わな主義の社会といえども、そのような責任社会であることに い。むしろ哲学といっておこう。何らかの意味で、自己のかわりはないのである。私は、全国的に展開された、いわ 人生哲学を持っことなしに、私は、疎外からの自由はありゆる学園紛争において、一方的に、学生が悪いとはとうて えないだろうと思うのだ。それは、現実の矛盾や苦悩を観いいえないと思う。むしろ、学生諸君の要求すること自体 念的に解消するということを、少しも意味しない。 には、多くの真実がある。大学は学間の共同体である、と これからさきは、私の人生哲学に即して意見を述べるほ いう大学の理念が、みるかげもなく喪失されているところ かないのだが、私は、人間はつねに他者から問われているに、問題があるのであろう。 存在であると思う。他者の存在なくして自己の存在は無い。 しかし、私は、一部の学生諸君が、大学の機能そのもの しかもその他者は、私が利用する存在としてそこにあるのまでも破壊したり、入学試験を粉砕するというような形で ではなく、何の誰々という固有名詞を持った人格としてそ自己を主張する態度を、どうしても、是認することができ 悩 苦こにいる。社会とは、そういうものなのである。もっともない。そういう行為が、自己の大学において、誠実に責任 鮟身近な社会集団として家庭がある。家庭において、私は、 を果たしていこうとする態度からのものであるとは、私に の 妻に対しては夫として、子供に対して父として、つねに問は、ど】っしても判断できないのである。そういう行為自体 代 現われているのである。私は、その問われていることに対しのなかに、私は鼻もちのならない非人間性を感じないわけ て、妻に対し、子供に対して、誠実に応答しなければならこま、ゝ ー冫し力ないのである。 ない。それが「責任」ということであろう。他者に対して、大学において、学生が単なる「受け手」でないことは、

9. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

める。「僕にはどいつもこいつも皆平気な顔をして生きて いるのが、始終不思議に思われるんだ」というキリイロフ そうして、この種の自殺者の尖端には、ドスト , フスキの考えは直に次の如く発展せざるを得ない。 死の恐怖、生の不幸から造り上げた神が、結局心理的仮 ーの『憑かれた人々』におけるキリイロフが立っている。 人間は生きんがために、自殺を免れんがために、神の発明説にすぎないこと、神の実在しないこと、神を必要としな いこと、また一切の歴史的仮説の無用であることを証明す ばかりやって来た、それが今日までの世界史なんだとキリ るためには、この不幸と恐怖とを自我の手で全く征服しな イロフは考える。 だから彼にとっては、神とは自我の不幸、不安、結局はければならぬ。不幸と恐怖との征服とは、即ちその人自身、 死に対する恐怖の産物にすぎない。人間は死すべきものだ、神になることに外ならぬ。自我を自我として、如何なる安 、だから神をつくらなければならぬ、それが世界史の教える心も慰藉も仮説も求めすに突張り通し、主張し尽すことに 外ならぬ。人類の各員をして神の自由にまで高めるために 定理だ。 は、まず在来の神を殺さなければならぬ。在来の神を殺す 「二千年来、人間は不断に安心と慰藉を与えることにかか っている」といい、「自我とは死せざることを欲する願望とは畢竟、死の恐怖を殺すことになる。キリイロフは人類 ・バルビスの『地獄』の主人公の新しき歴史の自己犠牲として、即ち第一の人神として自 にすぎぬ」とい一つアンリ らを示すために恐怖なき死を実践せねばならぬ。「自己の は、このキリイロフの孫でもある。 キリイロフにとっては、神が存在せねばならぬというこ独立不覊と、新しい恐るべき自由とを主張するために自殺 とは、真に人間が不幸であり、恐怖であり、しかもまたそする」ことはキリイロフの全体の結論とならざるを得ない。 彼は、「民主的、社会的、国際的共和国万歳、然らずん の不幸と恐怖とに堪えられぬ弱小な存在に過ぎないことの 証明にほかならない。ところが常人は、一度自分の恐怖かば死」のもとに最期の署名をして、即ち新しき神なき歴史 ら神を産み出すや否や、反って神からの支配をうける。神の第一ページに署名して、。ヒストルを自らの胸に当てて果 の名において自分の不幸と恐怖をごまかそうとする。そしてた。 てその自己欺瞞に慣れてしまうと、そこに常識が君臨し始

10. 日本教養全集〈5〉 (1974年)自殺について 虚無と絶望 生と死とについて 現代の不安と苦悩

れている。私の考えでは、これら疎外の三つの形態、自己る。ひとときも、他者との関係なしに存在しえないのに、 自身からの疎外、他の人たちからの疎外、われわれの住んそれが嫌悪すべきものでしかありえないということは、生 でいる世界からの疎外はたがいにつながっているものであきるということがむしろ苦痛に感じられるということであ り、ほんとうに単一な疎外の過程の三つの異なった象面をる。 だから、むしろ、誰も知り合いがないところに行って、 示しているものなのである」 ( 栗田賢三訳 ) このパッペンハイムの説明は、いま私たちが現代社会に文字どおり、自分だけでそっと生きたい、という断絶を積 おける青年の疎外について考えようとする場合、大変有益極的に希求するという欲望に、私たちは、しばしばかりた てられるのである。蒸発とは、そういう断絶に身をゆだね な示唆を含んでいるように思われる。 パッペンハイムが疎外の三つのタイプといっていることる行為のことなのである。繰り返していうのだが、外面的 は、私には、現代社会における人と人とのコミュニケーシ にはいろいろな形で他者との関係を保っていても、内面的 ョンの断絶状況というふうに考えてよいと思われる。たしには、どこにもつながりはないのである。それが、人間が かに人と人との間が「よそよそ」しくなってしまっている客体化されているということなのである。物件的存在とは のである。それはとくに、青年における孤絶感として今日そういうものなのであって、そこに転がっている石ころと 深刻化されているのではあるまいか。 つながるということはありえないであろう。人間も、主体 そのことと、さきに私がいった、自己の存在の客体化と性を失ってしまえば、石ころとあまり違わない存在になっ いうこととは深くつながっていることなのである。現実的てしまうのである。 には、私たちは、ひとときも、他者との関係なしに生きら このような自分の考え方に、私はいく分か不安をおぼえ れない。朝起きたとき、すでに私たちは、家族とか、仲間る「というわけは、私はあまりにも安易に、「主体性」と たちといっしょにいるし、ひとりでいる時ですら、厳密に いう一一 = ロ葉によりかかっているみたいだからである。私は主 はひとりではないのである。しかも、他者とのつながり、体的であるとはどういうことであるのか、私が主体的に生 他者とのかかわりは、喜ばしきことであるよりも、むしろきるとはどういう人生態度のことであるのか。人間が石こ いとわしいものとしてしか受けとることができないのであろのような存在になるということは、どういうことなのか。