苦難の前に立たされて、もうだめだなどというなげやりなろう。生きることに意味が感じられないということ、私は 態度はとれないはずである。状況を絶対化しない、と私がそれは虚無という問題になろうかと思う。 いうのはそのことなのである。 私たち人間は生きることに価値や意味があるからこそ、 私たち日本人は、よく苦難の前でかんたんにあきらめる。生きながらえているのである。人間は価値意識なしには生 あきらめるということは、状況に対して主体的に対決しよきられない存在だとある哲学者がいっている。人生は生き うとする意志を放棄することだといってよいが、そういうるに値するか、その答えを見いだすのが哲学の使命である あきらめの態度は、仏教から学んだものであるというふうともいわれる。世をはかなんで自殺をするということは、 に考える人がある。しかし、仏教でいうあきらめというこ要するに生きてかいなきいのちと、人生生きるに値せずと、 とはけっしてそういうものではなかったのである。状况と判断し断定することにほかならないのであろう。 いんわん いうものは、さまざまな条件 ( それを因縁と呼ぶ ) の集積人生に価値を見いだすということは、いいかえるなら、 であるから、その条件を変革するなら状況そのものを変え人生に意味を見いだすということにほかならない。ところ うるのだという考えが、仏教のあきらめである。つまりあが、現代人の精神状况の特色は、人生無意味という感じに きらめるとは主体的な意志を放棄することではなく、苦難深くとらわれていることなのである。パウル・ティリッヒ あきら 八八六年ドイツに生まれた現代の代表的神学者、アメ の原因をどこまでも究明めていこうとする人生態度のこと ( 一 リカ / なのであって、もうだめだからあきらめて死んでしまう、 ド大学教授、六〇年五月来日した ) が、現 代人の不安の特色を述べながら、空虚感と無意味感にささ などということとはまったく無関係なことなのである。 悩 えられていることだ、といっているのは、たしかに耳を傾 安 私は自殺を苦難と不幸の意識の問題としける価値のある考えである。生きることがなにかしらむな 不 虚無について の て考えてきたのであるが、現代人の自殺しい、そして無意味である。といった思いが現代人を不安 代 現にはただそれだけでかたづけられない間題がひそんでいるにおとしいれているのである。「この世は無意味と不義に 冫しいかえるなみちている。人生が無意味であるというのは人間のよく耐 ように思われる。なぜ死ぬかということま、 ら、生きることに意味がないからだ、とも考えられるであえられるところであろうか。人生は、さまざまの試練にみ
鐘のように共鳴する。そして、その無気味な響きをもったの前に提出されることになったのである。 この人物、詩人であるカリャーエフの提出する第一の主一 言葉が、やがてその言葉を発する判定者以外のすべてのも のに適用可能になったとき、さて、私達がこれまで眺めて題は、一九〇五年、「流血の日曜日」から隔たること一箇 . きた暗殺者達は一つの怖ろしい矛盾に逢着せねばならなか月、彼が暗殺を指令されたセルゲイ大公の馬車に予想しな った。即ち、抑圧されるものの一員から彼は出発したにもかった子供達が乗っているのを発見して爆弾を投げなかっ かかわらず、いま眺め渡せは、彼以外のすべてが血のついたことから展開する。子供達を殺さないカリャーエフの行 た短剣の標的となるべき潜在的な抑圧者なのであって、従動は、或る同志に支持され、また或る同志から烈しい弾劾 を一つける。 って、立日殺はついに無限な事業とならねばならなかった。 ステパン子供達 ! 君達は何かと一一一一口うと直ぐそいつを このような困難な袋小路に行きあたったとき、ところで、 暗殺の手段に訴えるより仕方がないと同じように考えつめ持ち出すんだな。じゃ、何もわかっちゃいないじゃない ていたひとりの誠実なインテリゲンチャが暗殺の原初の意か ? ャネクがあの二人を殺さなかったばかりに、ロシア 味を再び回復し、そして、一つの均衡をもった暗殺の美学の幾千の子供達がこれから先何年も餓え死してゆくんだぜ をそこに打ちたてなければならないと感じたのであった。子供達が餓え死するのを、君達は見たことがあるのかいフ 彼のそのときの志向はいわば無意識的であり、また、意俺は見たね。爆弾で死ぬことぐらい、あの餓え死に較べれ 識的であった。ポリス・サヴィンコフの『一テロリストのば、極楽往生だ。だが、ヤネクはそいつを見たことがなか 回想』のなかから彼を取りだして大仏次郎は小説『詩人』ったのさ。大公の二人の小わっぱどもしか見なかったんだ。 ) を書き、また、アルべ = ル・カミ = は五幕の劇『正義の人いったい、君達はそれで一人前の人間なのかい ? その場 望々』を書いたが、人類の歴史のなかにおける果てしなき殺限りの生き方をしているのか ? それなら慈善でもやって ) と 人の意味を執拗に追求しつづけたカミ = に取りあげられるその日その日の悪を正してゆくんだね、現在や未来の一切 無 虚ことによって、この人物の行動は微妙な奥行をもった深いの悪を矯正しようとする革命はやめたらいいんだ。 陰翳と意味づけを与えられ、彼が謂わば無意識の裡に志向ドラヤネクが大公を殺すことをひき受けたのは、大公 した暗殺の美学はついにひとつの堅固な骨格を備えて私達が死ねば、ロシアの子供達がもう餓え死しないような時代
312 きない。 ( 『西方の人』 ) っと深刻であると私には思われてならない。 今日、私たちが当面している「ニヒリズム」とは、そう しかも、芥川は十字架の、キリストに目を注ぎだしたの 、いかなる科学 いう深刻な状況のことなのである。それは 技術の振興によっても不可能なような救出であり、新しくである。 総合開発庁というような行政機関を設けて、それでどうに それはあるいは紅毛人たちはもちろん、今日の青年た かなるというようなものではもちろんありはしない。私は ちには笑われるであろう。しかし十九世紀の末に生まれ 少しく神経質に考えすぎるのであろうか。取り越し苦労が たわたしは彼らのもう見るのに飽きたーーー・。むしろ倒すこ 過ぎるのでもあろうか。しかし、私は、日本民族を同胞と とをためらわない十字架に目を注ぎだしたのである。 して愛すれば愛するほど、滅びるかもしれない民族の運命 に無関心ではいられないのである。 芥川のキリスト論が、ルナンの線上で描かれていること 日本民族を滅びから救うことができるのは、キリスト教は、おおよそ間違いではないだろう。近代的な知識人の感 だけであるなどと、そんな狂信的ないいかたを、私はしな覚は、いたるところにまきちらされている。しかも、私は、 い。だいいち、そんなことで、キリスト教の真理性が証明芥川のキリスト論が、一歩、近代的なものからはみ出して いることをも見逃すことができないのである。十字架に目 できるわけのものではないのだから。私が注意したいと思 うことはそんなことではなくて、未来に対するぼんやりしを注ぐということは、何らかの意味において、「罪」とい た不安を胸に抱いて自ら死を招いたあの芥川が、その絶望う問題にかかわっている。「僕は罪を犯した為に地獄に里 のただなかで、キリストに目を向けたという事実である。 ちた一人に違いなかった」 ( 『歯車』 ) そういう芥川の文章 を、私は必要以上に強く主張するつもりはないが、人生を わたしはやっとこのごろになって四人の伝記作者のわ地獄よりも地獄的であると認識できた心に、罪の意識がま ったく欠落していたとは考えられないであろう。ぼんやり たしたちに伝えたクリストという人を愛しだした。クリ ストは今日のわたしには行路の人のように見ることはでとではあるが、自己の全存在の滅びを予感した芥川が、涙
83 自殺について しようとする意欲と実践の上にたっている。後進国がとったトラックが走る。車上には四十七士のような襷掛けの顔 たやり方と、その点では共通している。科学や技術を人類がのつかっている。選挙放送は短い時間でできるだけ多く のことをしゃべりたいという必死行の如くである。とにか のために生かすという新しい権威はでてきてはいない。 国社会主義理論の致命的といってよい欠陥はそんなところくやかましいことだ。 にあるのではないか。ソビエトがいまアメリカの唯一の敵だが、考えてみれば、民主政治下における選挙は、民 対国として、即ち国家と国家との対立として出現し、相互の政治批判が具体的に表現される重要な機会である。批判 は各個人の自由にして冷静な判断によってこそ正しく行わ に兵器の強大さを誇り、進歩した武器の量産を競っている 風景には新しさはない。新しい中国が出現したときにも、れうる。巷の喧騒、候補者のわめきの中にあって、民衆は いま最も冷静でなければならないはずだ。 何かソビエト・ロシアと違うものがでてくるのではないか という期待をもった。しかし現実はやはり、何か年計画と民主政治は相対主義の上にたっている。独裁とか全体主 か、生産力の増大とかが中心で、ソビ = トの弟分でしかな義、絶対主義とは相反する原則の上に立っている。その相 いようである。もちろんそこでは経済生活は向上し、科学対性が如実にあられわるのが選挙である。選挙で敗れた場 や技術は目をみはるばかりに進歩したであろうが、その進合は、政府が変らねはならぬ。選挙が個人の一票によって 歩が危機への進歩、破滅への進歩ではないという保証はなきまるということは、相対主義が人間、個人の判断、従っ ( 昭和三一年一一月未発表 ) て人格を尊重しているということにほかならない。 ところで、相対主義であるべきはすの政治も、ひとたび 政治機構として確立されるやいなや、意識的ないし無意識 的に絶対化し、人間性と個人を圧迫し、これを拘束するに 政治、人を殺す いたるのは何故であろうか。具体的な一例として、菅季治 氏の自殺がある。菅氏は四月五日、衆議院の考査委員会に いわゆる「徳田要請」の証人として喚問され、その翌日 巷は参議院の選挙運動でやかましい、ラウド・ス。ヒイカ 1 がガンガン鳴っている。候補者の名前を派手に染めぬい「真理万歳」という遺書を残して鉄路に身を投じてしまっ
しかしそれはとにかく、出家と在家という問題は、私たが、意味のないものに見えて来る。牧師さんは、何故あん 嘘ち人間精神構造の基本的な問題なのだ。私たちの意識は、 なにパク。ハクのべつまくなしに口をひらいているのだろう この世界を出て行きやすいものだ。そのとき私たちの意識か、あの長老さんはいつも居眠りしているが、神妙に聞い は、この世界に住んでいないもののように振舞う。真昼のているふりをして居眠りできるんだから大した芸当だとか、 人影のないビルの屋上から、はるか下の地上を眺められたあの夫婦の人はさっきから身体をもぞもぞさせているが、 方は、多少にかかわらずこのような経験をもっていらっしきっとノミでもいるんだろうとか、しかもどれもこれもっ やるだろう。地にへばりつき、うごめいている砂粒のようまらない説教をもっともらしく聞いていやがるとかーーー要 な人間たちは、人間でない何かにーーーよくて蟻のように見するに一切が無意味であり、だから滑稽にくだらなく見え える気のなさった方があるだろう。そのときあなたを孤独るのである。 の感じが強くしていればいるだけ、その地上の人々は意味出家の家とは、つまりこの世界のことなのである、出家 のない奇態な生物、さらにはモノのように見えて来る。難の人は、この世界から脱け出しているのだ。体裁よくいえ 行苦行してあの真昼の山頂にのぼったニーチェの超人とは、ば超越していらっしやるのである。だからまた自分こそえ まさしくこのような存在であったのだ。 らばれた人間であることを信じていらっしやる精神的貴族 だが、私たちは何も、自分がこのような自分「でも」あとでもいうべき人である。このような人々から私たちを見 ることを確認するためにわざわざビルの屋上へ上る必要はれば、俗であり、俗人なのである。彼等のこの世界からの ないだろう。日常生活でたつぶりそれを味わせてくれるか超越を守ってくれるものは、戒律なのだ。また、この戒律 らだ。あの教会のなかでもそれが起る。牧師さんのお説教こそが彼等の勲章でもあるのだ。聖書的にいえは、。ハ がひどくくだらないとき ( これは仮定だから古今東西の牧イ人というところであろう。だがことわっておくが、私は、 師諸氏よ、お許しあれ ) 、あなたの意識は、この集会から パリサイ人たちを攻撃しているのではない。ただ愛するに 抜け出して、ビルの屋上どころか天の高みにまで上って行は彼等の方が少しえらすぎるというだけの話だ。 く。そこからあなたは、集会の人々を見下しているのだ。 芸術においても、明らかに出家主義があった。トーマ そのときは集会の全体が、天井のすみにあるクモの巣までス・マンが、芸術家を俗人から区別したとき、私たちは自
224 ことを意識しているとすれば、真剣に走っていない証拠で自身を失うことは出来ないのである。 あると思われるのである。さらにいうならば、行動の真剣 自分の行動が、行動の最中に意識されているということ さの度合というものは、自分を忘れる度合に比例すると一一一口は、あまり立派なことではないばかりか、ときにはいやら ってもいいように思う。ある日、彼は生れ、ある日気がっしくもある。施しをするとき、自分の前でラッパを吹く方 いて見れば、自分は死んでいた、というひとが、もっともとなると、もう申し上げようがない。 真剣に生きたというひとであるかも知れないのだ。 さて、ドストエフスキイの敬虔な泥棒君は、行動の最中 反対に、私たちは、自分の行動を意識しながら、行動しに自分の行動を意識していたのである。それは理性では許 ている場合もなかなか多い。いやいや何かをしているときされない行動であったからだ。十字を切ったということが がそうである。理匪ではいけないと思うことを、感青によその証明である。しかも十字を切るということは、行動に って行動させられるときや、感情が好まないのに、理性に対する自分自身の関係を変えようと欲したということもあ よって行動させられるようなときがそうである。そのときらわしているのだ。でなければ十字を切る必要はないから は一瞬も自分を忘れることは出来ない。気のすすまない会である。 議に出ているひとを見たまえ。落書をしたり、天井を見た だが、その関係とはどんな関係だったのだろうか。 り、爪の垢をほじくったりしながら、いかに自分を忘れよ彼は、自分の窃盗がうまく行くように神にったのであ うかと苦心惨憺しているのではないか。しかし彼は何をしろうか。もしそうだとすれば彼は大したものである。普通 ようが、自分を忘れることが出来ないのだ。また別れよう私たちは、こんなときは祈れないからだ。神が窃盗の共犯 と思っている妻が、夫のものを洗濯しているところを見た者になるだろうなんていうことは考えられないだけでなく、 まえ。いつもは習慣的に洗ってしまわれる洗濯物が、彼女神はむしろ警察の味方だろうと考えられるからである。全 の手のなかで、遊びの対象にでもされているように、無意くこの祈りを聞いた神は、びつくりしたにちがいない。神 味に観察され、無意味にいじくりまわされているではない は、急いで六法全書をひらき、刑法第二百三十五条の罪に か。しかし彼女は、そのようにして仕事を遊びにかえ、そ該当するが故に、彼をたすけるのは見合そうと考えたかも の遊びのなかに自分を失おうとしても、決して彼女は自分知れない。
236 にもかかわらず、生きていてもつまらないという愚痴を長た絶望の仕組みから考えて真理だと思われるのだ。 長聞かせる人もいる。そしてたしかにこれも自分の絶望か 私たちは、上彼や家計簿の赤字や級友の蔭口について絶 ら逃れる有効な手段であることは事実である。全く自分の望するのだが、それをこの世界や人生全体にまで及ぼさな 絶望を人に打ち明けただけで、せいせいして気持よくなっ いための手段をそれらの知慧は提供してくれているのであ てしまうことが多いのだ。だが、しかしたしかにそのときる。何故ならいやになったのは、上役に対してであって、 は絶望から救われていながら、ふと気がつくと、いつの間 その上役は会社全体でなければ、自分の人生全体でもない にか私たちはふたたび絶望してしまっているのだ。何故なからだ。家計簿の毎月つづく大きな赤字に死にたくなるの ら私たちの意識というものは、いつも何かについて絶望すは、まことに当然だとしても、それは生活全体を意味する るという仕方でしかもっことができないからなのである。 ものでもなければ、自分の人生全体を意味するものでもな 端的にいえば意識するということは、たとえ自分自身に対いはずなのだ。それは生活のなかの一つの経済問題として してであっても世界に対してであっても、何かの絶望をも処理されるべきなのである。それには一つの絶望に溺れな っということを意味しているからなのだ。 いという強い精神が必要だろう。だが生れつきその妙を得 だがありがたいことは、昔からえらい人々が、このようている人もあって、私の知っているもその一人である。 な絶望に対処するためのいろんな知恵を私たちに提供して彼女はこういうのだ。「うちの課長いやなやつよ。今日も くれているのである。それらの知恵は、宗教に心のよりどトイレットに行っている時間が長いといって文句をいうの ころを求めよ、とか、先生や友人などに打ち明けて相談せよ。ほんとにいやになっちゃった。でも、へいちゃらよ。 よ、とか、自分の絶望を社会的な視野から眺めることによすぐあの課長停年になってやめなければならないんだも って社会と自分とのつながりを回復せよ、とか教えてくれの。」 るのである。しかしこれらの知慧をよく考えて見ると、一 つまり彼女は、いつも何かに絶望しても何かほかの理由 つの共通点をもっていることがわかるのである。何かに絶を見つけて、それを大きくしないばかりか、かえって小さ 望してもほんとには絶望しないように心配してくれているくしてしまう技術をもっているのである。 ということなのだ。そしてたしかにこのことは、前に >
るか。肉体のもっ生活力からか、或いは他のあるものから であるか。しかしいずれにしろそのような供給源を失った 自殺について とき、人はまた生きつづけるのをやめるのである。 これはキエルケゴールの言葉太宰治氏の自殺に於て、僕にとって何等かの意味に於て 人間とは精神である。 だ。しかし精神とは、否定的本質なのであり、その故に人感じられるのは以上の典型的な悲劇としてである。「生れ 間は、一つの分裂関係であるのだ。たしかに人間は、否定て来てすみません」という存在の原罪意識は、彼の全作品 的本質としてある。人間が常に、自己の虚無に直面せずにの本質をなしているのであるが、それが絶えす虚無意識へ よろめいているように見えるのは、それは人間が虚無たか おられないのは、人間が否定的本質だからなのである。 しかし、日常に於てはこの虚無は、種々な関心のなかへらである。言いかえれば、人間が虚無であることが原罪な 失われているのであって、自己に内在するその虚無を自覚のである。しかし人間は、自己の虚無に目ざめるや否や何 することはないのだが、深夜ひとりであるとき、或いは何故罪の意識をもつのであろうか。僕には判らない。しかし らかの契機によって孤独へ追い込まれたときなどに、虚無人間がそうであるということは、少くとも僕の事実である。 は、はじめて自己の内部に鋭くその姿を現すのである。芸その故に、太宰治氏の「生れて来てすみません」という自 術家は、常にこの自己に内在する虚無へ目ざまされており、己意識が、キリスト教へ発展せすにはおられなかったので それを人間の十字架として負い、それとたたかわねばならあり、作品に於ても屡々神の名を口にせずにはおられなか ぬ運命なのであり、言えば芸術家は自己の虚無によって逆ったのである。しかもなお、神は彼にとって不可能であっ て に生きている人間だということが出来る。そしてその虚無た。それが彼の不幸の決定的な原因である。 っ ひゅ とたたかう。 ( トスを失ったとき、芸術家は、譬喩的にも事しかし何故自殺をしたか、となると僕には判らない。小 実的にも死ななければならないのである。しかし虚無とた説が書けなくなったから ? しかし僕は、彼が自分の自己 にだまされているのだと思う。たとえ逆説であるにしても、 生たかう。 ( トスは、その虚無が自己に内在する虚無であるか ぎり、無限にエネルギイを補給される供給源なしには、た彼は「個性」という雑誌のアンケートで言っていたではな たかいをつづけ得ない。そのエネルギイをどこから得て来いか。文学というものは、女や子供の読むものであり、そ
行くと、アルカージイ君のようにどうしても力の意識、さのである。たかだか、この世界を破壊することができるく らには権力意志に結びついて来るのである。ドストエフスらいなのだ。 キイは、この孤独の自由と権力意志とがどんなに結びつい だからこそ、戦後、このような自山は、主として社会主 て行くかを、よく知っていたのだ。アルカージイ君の兄貴義的な見地から批判され攻撃された。だが私は、この孤独 分ともいうべきあの自分をナポレオンのような「非常人」の自由を、アルカージイ君のようにほんとうの自由とは考 だと確認するために老婆殺しをやったラスコーリニコフ君えないにしても、人間には避けがたい事実として率直に受 の物語で ( いうまでもなく同じドストエフスキイの『罪とけ入れたいのである。それどころか、人間の自由における 罰』の主人公だ ) 、その点を実に詳細に明らかにしている極北をなしているとさえ思っているのである。だからこれ のである。 を失うことは、人間性を失うということにもなるのだ。 さて、アルカージイ君の遠大にして崇高きわまる思想の 他のもう一つの弱点は、アルカージイ君が孤独な力の意識 孤独の自由に対立するものは、いうまでもなく つうよう イヴン 社会主義的な自由に代表されるところのそれで をもっても、この世界は一向痛痒を感じないということで あるだろう。この自由こそ世界の諸現実を変革する力をも ある。この世界の現実の、どんな小さなものでもいいが、 変えることなんかできないということなのだ。むろん自分っており、現代においてはもっとも時代的な適応性をもっ 自身は、結構喜べるだろう。しかしその自由は、自分にはた自由だということができるだろう。とにかくその自由を 力をもたらすかもしれないが、ころんで泣いている子供を口にしていれば、この現代という時代の波にうまくのれる 起してやるなんていうことはできないということなのだ。わけなのだ。といって私は、この自由をからかっているの 全くその自由は、他人のいたんでいる歯を一本抜いてやるではない。どうして、どうして、それを失っては電車にも ということもできないだろう。さらに、アルカージイ君に乗れないというような人間にとって至極大切なものだとい うことを知っているのである。しかしこの自山こそ、人間 申しわけないが、もっと決定的なことをいわしてもらおう。 その自由は、世界の諸現実の変革という点においては、彼のほんとうの自由かということになると、あやしくなって がどんな弁解をしようと、カがあるどころか全くの無力な来ることは避けられないのだ。
350 女性の側にのみ要請されてきたといってよい。自分はさんいなどと考えていようとは私には信じられないのである。 ざん遊んでいても、結婚の対象に選ぶ女性には、どこまでむしろ私がいいたいことは、そういう女性が、自分が処女 も処女性を要求する、という男性からの身勝手としてのみ、であることに、なにか時代おくれのような妙なひけ目を感 じたりしていないかどうか、ということである。ほんとう いわゆる貞操観念というものは論じられてきたのである。 女性にのみ罪が問われてきた姦通罪がなくなり、男の浮は処女性など早く清算して、おもしろおかしく青春を楽し 気に耐えながら貞婦の鑑であろうとするような美徳が、もみたいのだけれども、自分にはそれだけの勇気がない、な はやナンセンスとなった今日、それなら性における純潔などということを悲しがったりしているのではないか。 正しく生きようとすればするほど、何か時代おくれの古 どという観念はもう一文のねうちもなくなってしまったの だろうか。私は、男性と女性とが性においてほんとうに平くさい人間のように世間からおもわれるような、そういう 等な人格関係に立っところにのみ、性における純潔の観念奇妙な劣等意識は、ただ性の問題だけでなく、現代社会の いたるところにみられるゆがみなのである。 が意味を持ってくるのだと思うのだ。 糸潔に誘りか感じられるような思想を、私たちがしつか 「戦後の若い女性に処女なんているか、きみ」などという 暴一言をときどき耳にするが、もちろん、私はそんな言葉をりと持っていないことが問題なのであって、ロレンスはそ 少しも信用しない。なるほど、週刊雑誌などが、ときどきれを探求した人だったのである。傷ものになっては困るな 女子学生などの桃色遊戯などをトップ記事に扱ったり、青どというような観念ではどうにもならない。性を自らの人 少年の間における性道徳のびんらん、というようなことを格ときりはなして物品化してしか考えないところでは、す ぐに傷ものになったり、性を売りものに出したりするので ジャーナリズムが大きく書きたてたりすると、いかにもい まどきの若い女性には、もう処女の純潔などという観念は、ある。性を売ることは、自らの人格を売ることだと考える あとかたもなく消えているような錯覚を起させかねない。人間の思想を、私たちがしつかりと身につけたら、「貧し い家族を救うために身を売ろう」などという美談は消える しかし私はけっしてそんなものではないと信じている。 男性中心的な処女性の尊重から解放されたいと強く意志しはずである。女性のそういうけなげな行為を、美談として ほめたたえるような風潮こそが問題なのであって、私たち ても、いまの若い女性が、もはや処女の純潔など意味がな