他者が生きることに責任を負うてゆくこと、私はそのこ人間が人間に向って発しうる言葉は、たかだか「好き 芻とのほかに、愛というはたらきはないと信じたい。生きるだ」ということだ。その「好きだ」ということを「愛」と ことに意味が感じられず、ただ死を追いもとめることだけ錯覚するところに、どのように人間の愛情は悲劇をよびお こしていることか。一 like ou•とい一つべきところを、私た が日々の生であるような、そのような魂が存在する現実に あって、私たちは、そういう魂の苦悩に、どれだけ責任をちはすぐに I 一 9 「 e き u ・と告白してしまうのである。「好 負うているだろうか。 き」という名の愛は、他者が生きることに責任を負う愛で しかしまた、こうもいわねばならない。自らが生きるよはなくて、自己が生きることに他者を召し出そうとする愛 うにされていないで、どうして、他者が生きることに責任である。そのような愛は、好きになればなるほど、不安が を負うというようなことができるだろうかと。まことにそ深くなるというべきである。 のとおりなのである。 ひとり子をたもうまでに私たちを愛して下さった。その 私たちが生きることに責任を負うて下さる方がいる。そ愛の力が私たちを生きるようにしてくれた。そしてその愛 の手が昨日も今日も、そして明日も悩める魂や苦しめる魂 れが愛である。 「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたに招きを発しておられる。私たちは自らが生きるようにさ ちを生きるようにして下さった。」 ( ヨハネの第一の手紙四れているだけではどうにもならないのであって、その愛に の九 ) 奉仕してゆくことを通して、他者が生きることに責任を負 うてゆかなければならない。そこに私たちに開かれている そこに愛がある。まこと愛は神から出るものであり、神 が愛なのである。ひとり子をあたえたもうまでに私たちを愛の実践があるのではなかろうか。 愛して下さった、その愛にふれて私たちは生きるようにさ愛への奉仕、ただそのことのなかにのみ、私たちがこの現 れたのである。そして私たちは、他者が生きることに責任代にあって、十字架を負うてゆく道がある。そして、奉仕 を負うべき存在としてその愛の前に召し出されているのでのなかに死にきることにおいて、私たちは、生きてゆくこ ある。そのことのほかに、私たちが十字架を負うているととの力強い意味を見出すというべきである。このことは、 いうことの意味はないであろう。 けっして他人ごとではなくて、私自身へのいましめとして
である。「あなたは私のあこがれの女性です」というかた したがって、このような愛においては、他者はつねに客 ちであらわされる愛のことである。私たちはめいめいにあ体化される。すなわち、自己が主体であって、他者は単な こがれというものを抱いているであろう。夢といってもいる客体的存在としてしかとりあっかわれないのである。他 いし、場合にはそれを理想像などと呼ぶこともあるのであ者は客体としてしかとりあっかわない愛は、みせかけの愛 る。そのあこがれを充足させてくれる女性なり男性なりが、であって、真実の愛とはいえないであろう。そのことが、 なによりも分明にされるのは、このようなかたちでの愛は、 現実に目の前にあらわれたとき、私たちはその人にかぎり なくひきつけられるのは当然のことであるが、それは、か複数的にそそがれるとき、そこに、交わりをつくらないで むしろ憎しみと分裂とをもたらすことである。 ならずしもその人を愛するということではないであろう。 恋愛とか夫婦愛ということで考えてみてもよい。あの人 しかし、「あなたはあこがれの女性です」などと告白さ れると、やはり、愛されているみたいな錯覚を感じやすいは自分だけを好いていてくれるのだ、夫は自分だけを愛し ものである。そこに憧憬の愛の魔術生があるのだといっててくれるのだ、という「自分だけ」ということの安心感に もよいだろう。ェロースの愛は、しばしば、そのようなあおいてのみ、これらの愛は幸福を保証する。したがって、 複数的にそそがれるときには、どうしても秘密にすること こがれの追求として、他者を求めるものなのである。 になる。もし私が、妻のほかに愛人ができたときには、ど 私はいままで、他者を物件化して所有欲の自由にゆだねうしても、私はそのことを妻にかくすことになるであろう。 ようとする愛、他者のねうちにたいしてかかわりをもとうそして、「自分だけが」という安心感が破れたときに、ど 苦とする愛、そして憐憫と憧というかたちであらわされるのようなことになるであろうか。 鮟愛などについて考えてきたのであるが、こうした愛は、他夫は自分だけを愛してくれていると安心していたのに、 の者を愛するようにみせかけて、じつは自己を愛することにじつは、自分のほかにも愛人をつくっていたのだとわかっ 現ほかならない。自己中心ということが、その場合の大きなたときに、どのようなことになるであろうか。あの人は私 特色であり、他者を愛するかたちをしながら、じつは自己だけを愛してくれていると思っていたのに、私のほかにも 恋人があったのだということがわかったときにどのような の欲望や好みを充足させることが目的なのである。
うことであり、「死んでも忘れない」というのは、「ほんとだきたい。 > いかえれば、「ほんとうの愛」というものは、死の保 幻うに忘れない」といおうとしていることはいうまでもない。 だが、何故「ほんとうに」といおうとするとき、「死んで証によってだけ成立するということができるのである。こ むじゅん も」といわずにはいられないのだろうか ? ある落語があれはおかしな矛盾である。孤独を克服するものとして、 「愛は死よりもつよし」という言葉から私たちは、この章 る。多分、若い方は、あまり落語なんかお聞きにならない と思うが、落語にも考えようによっては、この人生のふかの考察をはじめた。しかしほんとうの愛、真の愛となると、 い意味を示している場合が多いのだ。その話は、ある大き不思議なことには、愛自身が死という土台なしには成立し な店の息子が、遊女に惚れている。だが、その父親は、遊ないということになって来たのである。ここではじめて、 女の愛というものを信じない。息子は、父親にその女の愛「ほんとう」というものに私は、疑いを抱きはじめたので きしようもん の証拠として、遊女のくれた起請文 ( 誓いの文 ) を見せる。あった。一体人間に、「ほんとうの愛」とか「ほんとうの 「もしあなたが死ぬようなことがあったら、わたしも生き自由」だとか「ほんとうの正義」だとかいう「ほんとう」 ていない」と書いてある。父親は、「もしほんとうにお前というものは存在するのかと疑いはじめたのであった。 を愛しているなら、お前が死んだらその女は死ぬはずだろ愛は、人々のいう通りに恐しい孤独地獄から人間を救う う。それじゃこの女の言葉が事実か否か試して見ようじゃものであるだろうが、しかしほんとうに救われようとして ついらく ないか」というわけで、息子を死んだことにして葬式をや「ほんとうの愛」を求めたとき、私たちは死のなかへ墜落し なくても、死と握手しなければならないのである。私が、未 るとい一つ話である。 愛はいい。しかしほんとうに愛するとなると、そこに不決で愛を失ったのはこの人間の事実においてなのであった。 思議なことには、その「ほんとう」を保証する者として死それとも私たちは、いい加減な愛で満足するか、それと が登場して来るのである。むろんこの「ほんとう」は、こもいっそのこと、孤独の自由に徹した方が、気持がいいの れはほんとうに本であるとか、ほんとうに机であるとかいではないか。むろんこのような生き方もないではない。そ - 」こ第ノ うような事実を指すものではなく、あくまで人間としてのしてそのような生き方は、孤高な人として尊敬されて来た 真実を指すものなのだ。この点誤解しないようにしていたということも事実である。
360 が、少し興奮してくると、「僕は君が好きでたまらないん身に背負って、極悪の女として登場するナスターシャにた だ」と本音をはき、さらにクライマックスに達すると、 いするムイシュキン公爵の愛は、彼女の悲運に同情し、彼 「好き好き好き」などと連呼しはじめるのである。『好き好女を救わんとする念願に燃える愛なのであるが、ナスター き好き』などという題の映画までつくられるというありさシャはそのような憐憫の愛を、むしろしりぞけて、ほんと まである。私が誰かを好きになるということは、私がそのうにひとりの女として愛してもらいたいと思う。だから、 人を愛していることを意味しているか。私には大層疑間なムイシュキン公爵の愛はついにナスターシャを救うことが のである。 できないで、ナスターシャはかえって、情欲のかたまりで あるようなラゴージンに身を傾けてしまうのである。この つぎに私は憐憫というかたちであらわされる愛についてことは、憐憫の愛の運命をよくあらわしているように思わ 考えておきたい。憐憫とはあわれむことであり、なさけをれる。 かけることである。「ほんとうに君のことがかわいそうで 私たちは、他人からあわれまれると、かえっていやにな ならないんだ」といわれると、なんだか愛されているみたることは珍しいことではないが、憐憫の愛においては、ど いに思いがちである。憐憫の背後には同情ということがひのように他者の不幸にたいするあわれみが表明されてもこ そんでいる。ところで、ニイチェは同情ということくらいちらは傷ついていないのである。他者の不幸のどん底にま エゴイスチックな感情はない、といっているのだが、私たでいっしょに降りていって、その人とともに悲しみをにな ちがある人の状況を気の毒がって同情するということは、 うということがないのである。だからなさけをかけること はたしてその人を愛することかどうかきわめてあやしいとは、しばしば恩を着せることになりやすいのである。憐憫 もいえるであろう。 の愛、かならすしも真に他者を愛するということを意味し ドストエフスキイは、その『白痴』という作品においてない。 憐憫の愛について深く掘り下げているのであるが、ムイシ ユキン公爵のナスターシャにたいする愛がそれである。ま憐憫の愛とはかなり違うようであって、じつは、よく似 だ少女であったとき処女を犯され、他人から受けた悪を一 たかたちのものがもうひとつある。それは憧憬ということ
がいろんなかたちであらわされるのを、私たちは知ってい 理されてきたとも考えられる。かたづけるという一一 = ロ葉は、 るであろう。 絶対に人格に適用できる言葉ではないのであって、物件を 所有は人間と物件とのあいだに成り立っ主体と客体との処理するときの言葉である。さらにまた、息子が結婚する ことを、「手間をもらう」というふうに表現する。手間と 関係であるがゆえに、 lhaveyou というかたちで、それが 人間と人間とのあいだに主張されるときにも、 you は人格は労働力のことである。嫁が来ることは手間がふえること としてではなく物件として客体化されるほかはない。それであって、労働力の増加ということであり、したがって、 を私はものにする愛というのである。ものにするとは物件「家の嫁は働きがない」ということは、しばしば離婚の正 化するということにほかならない。したがって、「お前は当な理由ですらあったのである。 俺のものだぞ」という愛は、必然的に、「お前には他人の人間を物件化する愛は、人間を道具として手段化する愛 指一本ふれさせないぞ」というぐあいに、対象を絶対支配であるがゆえに、そこでどのように愛情が示されても、そ のもとで独占しようとする。独占とは所有欲がどうしてもれは品物を愛玩することと同じことである。私たちはそれ を愛と呼ぶことはとうていできないであろう。所有からの 望むところの充足感なのである。 夫が妻を所有し、親が子供を所有し、資本家が労働者を解放ということが、まず何よりも愛の条件であるともいえ 所有する社会では、愛するということは成り立つはずはなるのだ。 い。私たちの社会では、「俺の娘だから煮て食おうと焼い て食おうと俺の勝手だ」という親心が、しばしば、娘を物つぎに私は、愛のようなそぶりをしてあらわされるけれ 件化して売り渡し、娘の犠牲において親が自己の欲望を充ども、真実なる愛と呼びえないものとして、条件づきの愛 足するということはめずらしいことではなかった。しかも、ということを考えておきたい。それはもっとも身近には、 その場合、孝行娘だ、感心な娘だといって、世間もまたそ〈 llike u 〉というかたちで示される。「俺はお前が好きな んだ」という愛である。対象を物件化する愛に比べるとき、 れを美談として価値を承認してさえきたのである。 あるいはまた、娘をかたづけるという言葉が行なわれるこれはたしかに愛みたいなように思わせられる。ここでは、 ように、結婚のなかで、娘はかたづけられるようにして処人間は一応は物件としてでなくとりあっかわれているよう
266 り親子の愛や夫婦の愛や恋人同士の愛なんかを超えた、い的な脱落者であるだけでなく、裏切者になってしまった気 わばそんな愛なんか問題にならない絶対的な愛だと教えらがして、独房の一日一日がつまらない無意味なものとなっ れていたんですが、だからそのような愛は、赤旗のうたにてしまったのであります。そのときニーチ = という哲学者 「そのかげに生死せん」とうたわれていると同じ意味でギの『このひとを見よ』という文庫本が、偶然手もとにはい リギリのところでは、同志や階級のために死ぬことを要求って来て、そのニーチ = から大衆や階級への愛なんていう しているのでありますが、さて私が信じもし、愛してもいものほど愚劣なものはない、そんなものでなやんでいるな る木村のために死ねるかとなると死ねないんですね。もちんてお前はバカヤロウだとどなりつけられたのです。それ ろんこんな木村という犯人のために死ねるかという問い自で覚悟をきめて転向上申書というのを書いて当局へ差し出 身が観念的なプチブル的なものであると自己弁護をしたり、したのであります。こんなふうにギリギリの場面に起る内 命があってシャ、、ハへ出れば、オレにはオレでなければなら面の空虚は、私のそのときのような特殊な場合たけではな ない役割があるんだと、なぐさめたりしましても、たとえく、実は日常生活においても大抵のひとが知らないで経験 どんな愛のためであっても、死ぬことはできないという自しておられるのであります。会社で残業なんかして疲れ果 てて帰って来られるときや、毎日家事に追われている主婦 分の事実はどうしようもなかったのであります。 それまで大衆を愛し、こんな牢獄で苦しむのはそのための方がお洗濯をなさっているようなとき、ふと自分の毎日 の喜ぶべき犠牲だという誇りをもっていた。しかしやはり毎日がくだらないものであるような気がして、一体自分は っふや それでは大衆へのその愛のために命をすてることができる何のために生きているんだろうと、ふと心のなかに呟かれ つぶや かとなると、ロではそうできると勇しいことがいえても、 てきたことがあるにちがいないと思います。その呟きこそ 心の奥底ではイヤなんですね。そしてあらゆるものに対すは、実は私が警察や未決で出会ったものと、その事柄の性 る自分の愛を反省して行くと、愛のために死ぬということ質は少しもちがっていないのであります。 がホントウの愛だとするならば、少くとも自分は、ホント 私は未決を出てから、この内面に起る空虚の解決を求め て、ニーチ = をはじめとするいわゆる実存哲学者の本を読 ウには誰も愛していなかったんだという事実に気づいて、 ニヒリズムに陥ってしまったのであります。同時に、階級んで行きました。この問題を解決しないかぎり、自分をい
なによりの証拠であると考えてみることが大切なことがら「お前は俺のものだぞ」という愛である。所有というかた なのである。マス・コミは好んでキャッチフレーズに愛とちで相手にかかわりをもとうとする愛である。 男性は「お前は俺のものだそ」という所有感においてそ いう言葉を使うが、それは愛を喪失している現代人の心の れをあらわすが、女性は通常それを受け身のかたちで、 虚点をつきうるからである。 「私はあなたのものよ」といったぐあいに、被所有感とし 愛するということはどのようなことかと間いうるために は、私自身が誰かを愛するという生活に身をおいているのてあらわす。所有感と被所有感の違いはあるが、本質的に でなければならないであろう。ところが、じつは、私自身は同じことなのである。ところで、いったい所有とはどの が愛するということがどのようなことなのかわからないのようなことがらなのであろうか。 所有とは人間と物件のあいだに成り立っ関係である。 である。愛が何であるかを問うことではなく、愛は何でな 「私の時計」という場合、それは私の所有する時計という いかを問うことから、私ははじめてみようと思う。 まず何よりも、愛は人間と人間とを結ぶ絆であり帯であことであるが、所有の主体は私という個人であり、時計は ることだけはたしかである。しかし、それがどのような結所有の客体としての物件である。したがって、人間と物件 ばれかたをするかによって、ひと口に愛といっても、さまとのあいだに成り立っ所有という関係は、主体と客体との ざまな様相を露呈してくるように思われる。とくに私たち関係である。近代の民法は、だいたい所有権をめぐって発 の社会では、愛という美名のかげでじつは、愛とは似ても展してきたといわれるが、たとえば、民事的ないざこざが、 似つかないことがらがなされているようにも思われるので多くの場合所有権をめぐってのいざこざであることも事実 悩 なのである。 苦ある。率直に私の考えを述べてみよう。 安 所有の本質は人間の欲望であると考えられる。すなわち、 の「俺はとうとうあの女をものにしたよ」という。それはな物件を所有することにおいて自己の欲望を充足させるので 現にを意味するのであろうか。要するに、その女性を自己のある。この欲望に根ざす所有本能は、私たち人間のなかで は消すことのできないもので、すでに、赤ん坊のときから、 ー 1 ロ′ , ー 斤有こすることに成功したということである。これは〈一 自己の所有権を他者に犯されまいとするはげしい自己防衛 . have u 〉というかたちであらわされる愛のことである。
208 プチ・ブル的だとか、観念的だとか、自分だってもしこのはただちに離婚したのだ。ジャーナリズムでは、この離婚 牢獄から出ることができれば、私自身にしか果せない役割を非人間的だとか、妻として薄情すぎはしないかとか、夫 があるんだとか、いろいろな弁解を試みた。そしてどの弁婦というものはそんなことで別れてしまうような根の浅い 解も私には十分な根拠のあるものだと思えたのだが、ただものではないといった非難がその妻君に集中していた。 一つ、彼のために死ぬことはできないという事実だけは厳しかし考えて見れば、党員としては当然の態度であ 0 て、 夫をどんなに愛していても、同志愛というものがそんな夫 然と残って来るのだ。 婦の愛情を超えた最高の愛である以上、もはや同志でなく この事実は、私の信じていたいろんな愛にうたがいをい は一ら・ ~ し だかせ、それを崩壊させた。「それでお前は、大衆を愛しなった者を愛するということは不合理であるからである。 ているとパンフレットに書いたりしているが、それではだが、独房のなかの私は、ほんとうの愛としてのその同志 ″ほんとうにれ愛しているのか」となるとやはり否だった愛さえもっことのできない自分を見出していたのであった。 からだ。愛していることはたしかだが、ほんとうに愛してある絶望をもって転向上申書を書いたのは、それから間も いるかとなると、大衆のために死ぬつもりはないのだから、なくだった。「愛するということは生きるということだ」 という一一一一口葉がある。恐らくその通りなのだろうと思う。し ほんとうに愛しているとはいえなかった。何故なら私は、 死ぬために運動に参加したのではなく、生きるために、さかしほんとうに愛するということになると、まるで「ほん らには救われるために運動に参加したのであったからであとうに愛するということは死ぬことだ」ということになり る。この私の心のなかの事実というものは、・結局のところそうなのだ。しかしこのような考え方は、人間の本性のな 何者もほんとうに愛していなかったという気落ちさせる方かにたしかにあるようなのだ。 たとえば昔ギリシャでは、若死を神からもっとも愛され 向へ導いて行ったのである。同志愛というものは、親子の 愛だとか夫婦の愛だとか友愛だとかというようなあらゆるたものとして讃美した。日本でも戦争中、国をほんとうに こ 人間的な愛を超えた「ほんとうの愛」だと教えられていた。愛するということは国のために命をささげることだといわ 恐らく現在の共産党においてもそうであるだろう。だかられたし、はがくれの「武士道とは死ぬことと見つけたり」 いル」第ノりつ 先年、伊藤律という党の幹部が除名されたとき、その妻君という言葉が引用されたりした。
ことがはじまるだろうかを考えてみるとよいのである。昨 しかし、ここまで考えてくると、いったい、私たち人間 日まで幸福の絶頂に立っていた人が、その瞬間に贈悪と絶に、これ以上のほんとうの愛がありうるだろうか。という 望と不幸のどん底に沈むということは、けっして珍しいこ疑問が生じてくるのである。これは椎名麟三氏がよくいう とではない。複数的にそそがれるとき、そこに交わりをつことであるが、「ほんとう」ということが人間に可能なの くり出さないと私がいうのはそのことなのである。 かどうかが問題なのである。私はたしかに生きている。生 交わりをつくり出さないということは、自己中心に根ざきていると他者に告げることもできる。しかし、ほんとう す愛の特色であるが、それだけでなく、しばしば、自己中に生きているか、ということになるとまことにあやしいの 心の愛は、自分たちの幸福のために、他者を犠牲にするこである。まして私は、誰かをほんとうに愛しているだろう とさえ珍しいことではない。愛人によく思われたいがためかと考えるとき、とうてい然りと答える勇気がないのであ に、あるいはまた、愛人を自分の手からはなしたくないたる。 めに、しばしば、他者の所有物や生命までも犠牲に供してそこで私たちはもういちど自分の生活に即して考えてみ しまうのである。いわばそこでは、エゴイズムの共犯とい なければならない。私たちは、いま自分のまわりに、私は あの人を愛しているといいきることのできる他者を持って うことが平然として行なわれるともいえるのである。 複数的にそそがれて、そこに交わりをつくり出さない愛いるであろう。だが、それはじつは、その人が好きだとい を、私たちは真実の愛と呼ぶことはできないであろう。なうことではないだろうか。たとえば私は、自分の妻が好き ぜなら、人と人との真実なる間柄ということが成り立たなである。そのことは、はばかることなく自分にいいきかせ いからである。愛が人と人とを結ぶ絆であり、帯であるなることができるように思う。しかし、私は妻を愛している ら、それは、力強い交わりの絆でなければならない。しただろうか。まことにあやしいことである。私たちはそこま がって、いままで考えてきたような愛は、愛みたいなかたでことがらを徹底的にいちど考えていってみたいのである。 ちであらわされるけれども、じつは、それはみせかけであ現代人は愛しうるか、というような間いを私はけっして 他人ごととして間うているのではないのであって、じつは、 って、ほんとうの愛とは呼ぶことができないのである。 いったい他者を愛 それは現代に生きる人間として、私は、
いい。その人々は、そうなるにちがいないという証拠をたもっていられる方もあるだろう。全くそのとき、人々の意 くさんもっているとしても、その反対の証拠もたくさんあ見に反対しなければならないからだ。いいかえれば彼女に る場合、その人はそのような未来を信じているのだというとっては、信じるというほかに何の証拠もないからである。 より仕方ないのである。賞め言葉でいえば、「信念の人」信じるということが愛するということに似て来るのはこの ときなのだ。だが、このとき彼女が、人々の提供してくれ といえるだろう。 る彼には愛なんか「ない」という数々の証拠を真実なもの 人間の愛についても相手を信として受取っていながら、それにもかかわらす彼の愛を信 愛することと信じること じるより仕方がないときがあじるというのではなくて、人々の意見を頭から無視して信 じるというのでは、それは一種の狂気といえるだろう。そ る。友達や同僚などから、「あの男はわるい男なんだよ、 あなたはだまされているんだ。」といわれても、「でもわたして信じるという人間の心の働きが、高貴なものとなるか しはあの人を信じるわ。」としか答えられないときがそうあるいは病的なものとなるかの境目は、自分自身も人々の である。全く友達や同僚たちが、彼にはほかの女がいると提供してくれる証拠に同感をもっての上での決断であるか か、口先がうまいとか、責任感がまるでないとか、数々のどうかにかかっている。母親の子供に対する愛によく見る 証拠を示してそういったとき、そしてたしかにそれが事実ところであるが、世間の人々の自分の子供に対する非難な だと本人の彼女に思われているにもかかわらず、それらのんかてんで聞こうともせず、ひたすらに自分の子供の善良 人々に対抗し得るただ一つの言葉は、信じるという言葉でさを信じるという人もある。このような愛に対して盲愛と て ある。そのとき何を信じるのか。 いう言葉もあるが、気ちがいでないにしても少しばかり異 に人々が彼女に対する愛なんかないといっている相手の自状であるということができるだろう。だが信じるというこ 死分に対する愛を信じるのである。たしかに彼女へ忠告したとにおいても、盲信というものが存在するのである。とに かく盲信というものは、どう考えたって美しくはない。 生人々にとっては、笑うべきものであるだろうが、そのよう 9 な愛は、見ていて痛々しいが美しい。それはまた孤独なも信じるということは、一般に「ないもの」と考えており、 のである。それは読者の方々のなかにも痛切な体験として自分もその考えに同感しながらも、しかも「そのないも