思い - みる会図書館


検索対象: 村上朝日堂の逆襲
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1. 村上朝日堂の逆襲

203 言かかかってきたりするとものすごく困る。なにしろロクに字が書けないのである。この前 なんか「それから」という字を書いたら「ろれから」となってしまって、「なんかこれ変だ な」とは思うのだけれど、それが「ろれから」であることを認識するためには文章を五回く らい読みなおさなければならなかった。 もっともサラリ ーマンの方なんかは二、三週間一切仕事をしないというのは現実的に無理 だろう。そういう場合どうすればいいのかは僕にはよくわからないけれど、思い切って二、 三週間目いつばい仕事の手を抜いて怠けてみるのも良いのではないかと思う。たまには気分 煙 禁転換にいいじゃないですか。その結果どうなるかは責任持てないけど。 のそれから ( 2 ) の人にあたるというのも大事なことである。こっちは辛い思いをして禁煙 味しているのだから、何もおとなしく良い子にしている必要はない。普段は言えないようなこ 趣 とも禁煙のイライラを利用してどんどん言っちゃうのがいちばんである。僕は禁煙するたび に担当編集者に「村上さんもひと皮むくと嫌な性格なんですねえ」と言われるけど、人と人 おもしろ とのつきあいというのはそれくらいのスリルがないことには面白くもなんともない。 ( 3 ) の食べるということだけど、煙草をやめればこれはもう確実に腹が減る。腹が減った ら食べるのが自然である。煙草もやめるダイエットもやるなんてことはます不可能である。 太るのが気に入らなければ、禁煙が一段落してからまとめてダイエットするしかないです。 僕は思うのだけれど、多くの人々が禁煙に失敗するいちばんの原因は「何もかもを一度に

2. 村上朝日堂の逆襲

ったので、夏になると自転車に乗ってよく高校野球を見に行った。高校野球の外野席はただ だから、子供にとってあれは天国のようなものである。ビニール袋に入ったかちわり氷をな めたり、溶けた水をストローで吸ったり、頭にのせて冷やしたりしながら、丸一日飽きもせ ず野球を見ていたものだ。 (--*> で観る高校野球というのはうだうだとどうでもいいような解 説があったり、アナウンサ 1 が一人で興奮していたりでかなり興ざめなものだけれど、実際 に球場に行って観戦するぶんにはあれはなかなか良いものである。僕はの高校野球は不 襲快なのでまず見ないけど、甲子園にはもう一度行ってみたいなと思う。とくに外野席にいる 逆 とまわりの客席もわりにシラッとして適当にやってるし、「なんか遠くの方で高校生がパタ の 堂 ハタやってるなあというくらいの感じしかない。青春だとか汗だとか涙なんていったもの 朝はどこにも見受けられない。少なくとも僕にとっての高校野球というのはそういうものであ 村っこ。 高校野球の決勝戦が終わり、閉会式が終わり、応援団が旗をたたんでぞろぞろと帰ってい く頃になると、子供心に夏も一区切りついたなという思いがしたものである。どういうわけ か閉会式が終わって球場の外に出ると、いつも赤とんぼの群れが頭上を舞っていた。それが あしゃ 少年時代の僕にとっての夏の終わりであった。この時期になるともう甲子園の浜も芦屋の浜 もあまり泳げなくなり、宿題も本腰を入れて片づけなくてはならなくなってくる。良いこと なんてみんなもう終わってしまったのだ。 126

3. 村上朝日堂の逆襲

ってエレベ 1 ターに乗ってしまった。ケルンのカセドラルを上ったときは階段だったから途 中で布くなって引き返せたのだけれど、エレベーターだとそうは、、 し力はい。 エレベーターを 出るとそこはもう吹きさらしの切りたった屋根の上である。おまけに一度下に降りてしまっ たエレベータ 1 は次の客が来るまで上ってはこない。もちろん屋根づたいに金網のフェンス ははってあるのだけれど、そんなもの僕としてはまったく信頼できないし、冬の凍てつく風 がびゅうびゅう吹きまくるしで、まったく生きた心地がしなかった。あんな怖い思いをする くらいならもう人間進歩なんてしなくても、 襲 しいと思う。考えてみれば恐布だって財産のひと 逆 の つである。恐怖を感じないから偉い、感じるから駄目と一面的に断定できる種類のものでは 堂 ないのだ。 朝しかしそれはともかくとして、ヨーロッパの古い建築物にはかなり布いものが多い。とく 村にカセドラルは天に届けとばかりに鋭角的にそびえたっているから、実際に上にのほってみ ると生半可な高層ビルの屋上なんかよりはずっと迫力があるし、恐怖の質も深い。比較文化 論をやるわけではないけれど、聖シュテファン寺院の屋根の上で感じる高所恐怖は日本やア メリカで感じる高所恐布とはかなり質を異にしたものであるように僕には田 5 える。こういう 微妙な違いも高所恐怖症でない人にはおそらく感じとることができないはずである。僕だっ て暇があればいろいろと世界の高所をまわって「高所恐怖の視点から見た高所文化論」とい うようなものを書いてみたいくらいのものである。こういうものはまず間違いなく高所恐布 164

4. 村上朝日堂の逆襲

村上朝日堂の逆襲 画館に通った。ちょうど学園紛争の頃で授業なんて殆どなかったから、アパートとアルバイ ト先と映画館というトライアングルをぐるぐるとまわっていたようなものである。もちろん 毎日毎日観るだけの数の映画はないから結局同じフィルムを何度も繰りかえして観たり、轡 にも棒にもかからない級 0 級の作品を骨でもしゃぶるような思いで観ることになる。その うちに夢の中でのライオンが吠えたり、東映の波が砕けたり、二十世紀フォックスの ライトがジングルっきで回転するようになる。ここまでくるとこれはもう完全な病気だ。 しかし今にして思うと、いわゆる「名作というものよりは観るべき映画がなくて仕方な く繰りかえして観たフィルムや、明らかに無内容な作品の方がしつかりと身についているか ら不思議なものである。無内容な・ 0 級作品というのはいわゆる「名作とちがって自分 でなんとか良いところを見つけようと努力してかからないと純粋な時間の消耗と化してしま うことになる。だからそういう緊張感がそのまましつかりと心に焼きついてあとあとまで記 億に残っているのではないのだろうか ? ひとくちに映画といってもいろんな観かたがある。 だいごみ 今回観たフィルムの中でそういう・ 0 級作品鑑賞の醍醐味を味わわせてくれたのはなん といってもジョン・ミリアスの『若き勇者たち』であった。みんなはこの映画を好戦的で荒 と・つむけい 唐無稽な映画だと言うし、たしかにまあそのとおりなのだけれど、よくよく観るとかなり面 白いところもある。僕かいちばん面白いと思ったのは、アメリカがソ連とキュ ーバの連合軍 に侵略・占領され、それに対してアメリカの少年たちがゲリラ戦で抵抗するというシチュエ ころ

5. 村上朝日堂の逆襲

216 村上朝日堂の逆襲 ・久おはい 1 ュ ー . 廴ュ キ、くのズ ヘンをよ 、、、物十つや廴て 0 0 ま鬥 んだけど、たとえばどういったものが入ってる んですか ? 「だから、洋風のものがいろいろと入ってるん です」 ということで、これは〈山羊さん郵便〉風迷 路に迷いこんでしまいそうなので、僕は洋風弁 当を断念しべつの単品料理を注文した。べつに 彼女に対して腹を立てているわけではないけれ ど、弁当に何が入っているのかひとっふたっく らい教えてくれたっていいじゃないかと思う。 こちらとしてもそれを盾にとって理不尽なこと をしようというわけじゃないんだから。 食事のあとでぶらぶら街を歩いていたらデパ 1 トの前を通りかかったので、中に入ってツィ ードの上着を探すことにした。その少し前に担 当編集者の木下陽子さん ( 仮名 ) に「村上さん、 うんどうぐっ いつもジー ンに運動靴ばかりはいて、いった

6. 村上朝日堂の逆襲

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7. 村上朝日堂の逆襲

村上朝日堂の逆襲 社のトラックがけっこう気になる。これもやはり右側面が「ターヤジス、で統一されている からである。これが「ターヤジス」ならまだそれほどでもないのだが、「ターヤジス , とヤ か小さくなっているところがどうも神経にひっかかる。いったいどう発音していいか見当も つかないし、なんだか石につまずいたような感じがする。だから僕はこの会社の車を見かけ るたびに反射的に目をそらすようにしているのだけど、またこれがどういうわけか町をいっ ばい走ってるんだよね。べつに「スジャータ」という会社そのものに対して恨みは何もない けど。 一方デザイナーの人々もこの問題には少なからず頭を痛めておられるようである。車の右 側面に左↓右で文字をデザインすると、必ず会社側からクレームがついて右↓左に改変させ られるからである。 その僕の文章が新聞に掲載されてからしばらくして、京都の大学でグラフィック・デザイ ンを専攻しておられる松味さんという方から「乗り物の右側面左書きの奇妙な習慣、という 四ページほどの薄いパンフレットが送られてきた。これは「乗り物の右側面の右↓左がどう して間違っているか」ということについてきちんとした例証をあげて論じたなかなか立派な 内容のものであった。文章も論旨もしつかりしていて、説得力があるし、それにも増して同 じ思いを抱いている人が他にも存在しているという事実に僕はかなり勇気づけられたのであ る。

8. 村上朝日堂の逆襲

つれて車の量がどんどん増えてくる。週末になると藤沢橋から江の島までの道筋は車でいっ ばいになるし、細い道路にもどんどん車が入りこんでくる。夜中はバイカーの立てる騒音が うるさい。僕がここに引っ越してきてからも朝ジョギングをしていたおばあさんが一人車に 轢かれて死んだし、バイクの騒音で眠れなくて抗議自殺した人もいた。気の毒である。 僕が車に対して神経質すぎるせいかもしれないけれど、車が増えてから、日本中どこにい っても落ちついた気分になるということがめつきり少なくなってしまった。ときどき気が向 くと江ノ電に乗って鎌倉に昼ごはんを食べに行くのだが、とにかくもう町じゅう車だらけで 襲 逆頭が痛くなって早々に引きあげてくるし、京都だって昔はあんなにがさがさとしたうるさい 堂 町ではなかった。 日 朝 世の中にひとっくらい車の一台も走っていない町があってもいいのではないかと僕は田 5 う。 上 けんじゅう 村 ワイアット・ア 1 プがダッジ・シティーで人々から拳銃をとりあげたみたいに、係員が町の 入り口で車を預かるのである。どこかにそういう町があったら、僕は是非住んでみたい。よ 「歩行者天国」なんていうものがあるけれど、あの程度のものを天国なんて呼ばれちやた まらないと僕は思う。車に乗らない人間の目から見れば、あれが通常の状態なのである。 事情があ 0 てこのあと免許を取りました。基本的には同じ考え方ですが。国鉄はのち に»--æになりました。「電」はどうなったんだろう ?

9. 村上朝日堂の逆襲

かえで観る小津映画にはまたそれなりの趣があるのだろう。一一度三度とは言わないけれど、 一度観てみたいものである。僕は英訳のバルザックが好きという奇妙な趣味の持ち主だから とくにそう思うのかもしれないけれど。 きたかまくら 『晩春』や「麦秋』は北鎌倉が舞台になっているので、江の島や七里ケ浜のあたりの風景が よく出てくる。映画で観ると昭和二十四年当時の七里ケ浜には車なんてほとんど走っていな くて、とても静かそうである。もちろんサーファーもいない。、、 ノョギングをしている人もい 襲ない。その頃の人々はきっとみんな忙しかったのだろう。小津安一一郎の撮るそんな風景はい 逆 つもしんとして、風もなく、日だまりのような心地良い光にあふれている。僕は ( とくに昭 の 和二十年代の ) 小津映画に出てくるそういう風景が好きで、何度も何度も繰り返して観るこ 朝 とになる。おそろしく様式的なくせに、妙に生々しいのである。 上 村 それからこれは細部に関することなのだが、『東京物語』の中でどうしてもひとつわから ない部分がある。蚊取り線香の部分である。たしかこの映画には蚊取り線香の出てくるシー ンが三カ所あるのだが、そのどのシ 1 ンでも蚊取り線香がみんな縦になっているのだ。ちょ はや っと前に縦型のレコ 1 ドプレーヤーが流行ったことがあるけれど、ちょうどあんな風に立っ たまま火が点いているのだ。 僕はそれがとても不思議だったので、蚊取り線香を縦にする方法とその利点についていろ いろと思いをめぐらしてみたのだが、。 とう考えてもよくわからない。当時はそのような縦型

10. 村上朝日堂の逆襲

かないと我漫できない不便な性格なので、結局店の権利を売って千葉の田舎に引っこみ筆一 本で食っていく決、いをした。だから東京を離れるにあたって僕には僕なりの思いがあったし、 その当時は「もう東京になんか戻るものかと思っていた。その騒がしさとテンションの高 さとうわっつらのけばけばしさにかなりうんざりしていたのである。 でも今にして思うと、東京で店をやりながら寸暇を借しんで小説を書いていた時代もそれ なりにけっこ、つ・樂しかった。 襲たしかクレイグ・トーマスだったと思うけれど ( 『ファイア・フォックス』を書いた作家 ) 、 逆彼がある小説のあとがきの中で「多くの処女作は夜中に台所のテープルで書かれる」とい 0 堂 たようなことを書いていた。要するに最初から専業作家という人はいないから、みんな仕事 朝を終えて家に帰 0 てきて、家人が寝しずま 0 てから夜中の台所のテープルに向か 0 て小説を 村 コッコッと書きつづるわけである。もちろん書斎のようなものがあればそこで書けばいいわ けなのだけれど、夜中に苦労して小説を書こうなんて思う人はだいたいにおいてそれほど生 活的余裕はないから、どうしても台所のテープルが仕事場になってしまうのだ。 そう一言われてみれば、僕の最初の二冊の小説もたしかに「キッチン・テープル小説」であ る。一日働いて店を閉め、テンションをしずめるためにビールを一、二本飲んで、それから アパートの台所のテープルに座って小説を書いた。 そういう小説を今読みかえしてみると、小説の構成がかなりぶつぶつに分断されているこ