関係ないですけど ) 肥満や禁煙と違って自分で努力してどうにかなるという種類のものでは ないだけに、当事者の、い境にはかなり暗いものがある。 しかし他人というのは残酷なもので、本人が気にすればするほど、「大丈夫だよ、最近は かわい 良いかつらがあるから」とか「ハルキさん、禿げたら禿げたでまあ可愛いわよーなどと実に これが耳が片方切断されたといったようなことであれば、みんな同情するし、面 しつこい と向かってからかったりするようなこともないのだろうが、脱毛というのは具体的な痛みを 伴わぬものだから真剣に同清されることは殆どない。とくに若い女の子は自分が禿げるかも 襲 逆 しれないという恐怖をもたないだけに、この手のことに対しては相当に無邪気である。「や の 堂つだあ、本当に薄くなってる。ねえ、ちょっとよく見せて。頭の皮が見える。やだあ、うわ 朝 あ」なんてね。こういうのはかなり頭に来る。 上 村それでもありがたいことに、僕をとりかこんでいた面倒かっ不央な状況が改善されるにつ れて、僕の脱毛量も徐々に減少し、一「三カ月経っ頃には髪はすっかりもとどおりの状態に しつかまた何かの加減で巨大なト 復した。それ以来髪について気にしたことは一度もない。、 ラブルに巻き込まれて髪が抜けはじめることもあるかもしれないけれど、それまでは細かい ことにはくよくよせず、余分な仕事はとらずにのんびりと日々を送りたいと思っている。
僕はだいたい寝つきが良い方で、布団をかぶった次の瞬間には石のようにぐっすりと眠っ ているというタイプである。すぐ寝る・よく寝る・どこでも寝る、というのが僕の眠りの三 襲大特徴なのだが、寝つきの悪い人にとってはそういうのを目にするのは少なからず不央な 逆 ことであるらしい の 堂僕だ 0 て自分より早く寝ちゃう人間を見るとーーーそういうことは本当にごく ) 」く稀にしか 朝 ないのだけれど こいつアホじゃないかと思う。先日義理の弟がうちに遊びに来て一緒に 上 村酒を飲み、十一時になったので「じゃ、もう寝るか」と言ってそれぞれの部屋にひきあげた のだが、、 ドアを閉めたとたんに忘れものをしたことを思いだして客間に戻ってみたら、彼は もうしつかりといびきをかいて熟睡していた。その間約十秒というところである。僕だって いくらなんでも眠るのに二十秒くらいはかかる。 のうみそ それでつれあいに「あの男ほとんど脳味噌が空つほなんじゃないかな ? 。とあきれて言っ たら、「あなただってだいたい同じくらいよ」と馬鹿にされた。過度に健康な人間というの は、はたから見ているとたしかに馬鹿みたいである。 なぞ 国分寺・下高井戸コネクションの謎 ふとん
とも田 5 うし、「でも腹減ったね」とも思う。こういういろんな思いが集約されて、 という沈黙になるのである。だから「あ、ごめん、食べてきちゃったーなんて言われると やはり頭に来る。 それからこれは奇妙といえば奇妙だし、奇妙じゃないといえばそれほど奇妙ではないのか もしれないけど、自分の作った料理をテープルに並べる段になると僕はどうしてもうまくで さら 襲きなかったり型崩れした方を自分の皿に盛りわけてしまう。魚だと頭の方を相手の皿にのせ、 逆 自分はしつほの方をとる。これはべつに自分を主夫として卑下しているわけではなく、ただ の 堂 単に相手に少しでも喜んでもらいたいと思う料理人の習性であろうと僕は解釈している。 朝 こうしてみると世間一般で「主婦的」と考えられている属性のうちの多くのものは決して 上 村「女性的、ということと同義ではないように僕には田」える。つまり女の人が年をとる過程で ごく自然に主婦的な属性を身につけていくわけではなく、それはただ単に「主婦」という役 割から生じている傾向・性向にすぎないのではないかということである。だから男が主婦の 役割をひきうければ、彼は当然のことながら多かれ少なかれ「主婦的」になっていくはずで ある。 僕個人の経験から一一 = ロうと、世の中の男性は一生のうちでせめて半年か一年くらいは「主 夫。をやってみるべきではないかという気がする。そして短期間なりとも主婦的な傾向を身
あんなにみんな争って車に乗りたがることもないんじゃないか ? ほんの三十年くらい前ま ではおおかたの人は車なしで十分平和に生きていたんだから。 という話を車を持っている人にすると、たいてい「いや、それがいちばんなんですよ。車 に乗る必要がなければ車になんか乗らないにこしたことはないんです」という答えが返って くる。しかしそういう人に限って電車に乗れば一駅か二駅で済むところにわざわざ車を運転 して行ったりする。自分が運転しないからと言ってしまえばそれまでだけど、車を運転する 人の気持ちというのは僕にはよくわからない。、 月まめに駐車スペースを探したり、ほんの少 襲 逆 しの時間差しかないのにいちいち車線を変えて走ったり、なんてことも僕にはとてもできそ の 堂 、つ」」はい 朝 車を持たないと、車のローンとか駐車場料金とか税金とかガス代とか修理費とかがかから 上 村ないので、そのぶんタクシーとか国鉄のグリーン車とかによく乗る。これもとても不思議な ことなのだけど、車を運転する人の大部分はタクシ 1 やグリーン車の料金を不法に高いと感 じているみたいである。それで僕がよくタクシーやグリーン車に乗ると言うと、「お前、そ ぜいたく れ贅沢だよ」と言われる。でも考えてみれば、東京・藤沢間のグリーン車料金なんて駐車場 の二時間ぶんの料金と同じ程度のものである。それで一時間ゆっくりと腰を下ろしてのんび り本を読めるとしたら、考えようによっては安いものじゃないかとふと思ってみたりする。 べつに国鉄の肩を持つわけではないですけれど。
村上朝日堂の逆襲 204 処理しちゃおう」という性急さ・自己過信にある。自分はきわめて限定された能力しか有し ていない惨めな人間存在であるという自己認識なしには禁煙は成功しない。要するに何から 何までうまくやってのけることなんて自分にはとてもできないし、何かをなしとげるにはべ つの何かを捨てるしかないのだと認識することである。 禁煙というのもこういう風に深く考え始めると面白くて、ついつい何度もやっちゃいそう である。 0 外国で飛行機に乗るとき「禁煙席にしますか、喫煙席にしますか ? 」と訊かれたら、 "Cancer seat, please" と答、んるとたまにウケます。ど、つでもいいよ、つなことだけど。
! いザ : んなん ・トユ ふ中 1 広シマ 7 レ リっ乂〔新オ第 トルーマン・カボーティはその小 ( 第説の中で映画を宗教的儀式にたとえ ているが、たしかにそう言われてみ : - ればそういう気もしないではない くらやみ 暗闇の中で一人ばっちになってスク ンと対峙・していると、何かしら ざんてい 」 ~ 一自分の魂が暫定的な場所に棚あげさ れているような気分になってくる。 そして何度もつづけて映画館に通っ ているうちに、そういう気分が自分 の人生にとっては欠くべからざる重 要なファクターではないかと思えは じめてくるのである。これがいわゆ 。のるシネマディクト ( 映画中毒 ) であ ( る。 僕にもかってそういう時期があっ て、このときはもう毎日のよ、つに映 たな
これはもうジョークの純粋にして華麗な結晶としか言いようのないものが多いみたいだ。 かくかように世界にはありとあらゆる形状とサイズを有する不思議な物事があふれている し、我々はいちいちそれらの本来的な成立過程にかかわりあうよりはーーーそんなことやって いたらとても体がもたないからーーー「ジョ 1 クとしては面白いというあたりでたいていの 物事をやりすごしてしまっているような気がする。それが良いことなのか良くないことなの か僕にはよくわからないけれど、そうする以外にこの「ジャンク ( ごみ ) の時代を有効に 襲生き延びる方法はないんじゃないかという気はしないでもない。 つまり本当に自分にとって の 興味のあることだけを自分のカで深く掘り下げるように努力をし、それ以外のジャンクはジ 堂 ヨークとしてスキップしちゃうわけである。 朝 おそらくこれからの何年間かにわたって、我々は好むと好まざるとにかかわらず、そのよ 上 村うな生き方を要求されることになるのではないかという気がする。つまり具体的に言うと水 平的選択においては軽く、垂直的選択においては重くということになるわけだが、それにし ても一九六〇年代はどんどんうしろに遠去かっていきますね。
最近昔に比べてめつきり書店に行かなくなったような気がする。 どうして書店に行かなくなったかというと、その理由は自分でものを書くようになったこ とにある。書店で自分の本が並んでいるのはなんとなく気恥ずかしいものだし、並んでいな 襲 逆ければいないでこれはまた困ったものであるーーーというようなわけで、すっかり書店から足 堂 が遠のいてしまった。 日 朝 それから家の中に本がたまりすぎたせいもある。まだ読んでいない本が何百冊もストック 上 村されているのに、そのうえ屋上屋をかさねるというのもなんだか鹿馬鹿しいような気がす あさ る。いまたまっている本の山をすっかり片づけたら書店に行って読みたい本を買い漁ろうと 思っているのだが、。 とういうわけかこれがちっとも減らず、かえって増えつづけているよう な有り様である。「プレード・ランナー』じゃないけれど、僕も本当に「読書用レプリカ だんな みたいなのがほしい。 そういうのがばりばりと本を読んで、「旦那、これ良いですよ、読む べきです」とか、「これ読む必要ないです」とかダイジェストして教えてくれると僕もすご く楽である。べつにレプリカじゃなくたって、バイタリティーにあふれて暇があって本に対 142 なぜ人々は本を読まなくなったのか ばか
村上朝日堂の逆襲 〇新潮社の鈴木力のおかげでひどい目にあ 0 たわけだけれど、本人は酔払 0 ていて自分 の言ったことをまったく覚えていない。「え、そんなこと言いました ? どうしての 鉛筆が女学生なのかなあ ? 」なんてね。そんなこと私に訊かれても困る。
ふじさわ もど いろんな事情で藤沢の家を出なくてはならない羽目になり、また東京に戻ってきた。四カ 月ばかりの都心のマンション暮らしである。どういうわけか安西水丸さんの家の近くで、 訪「じゃ、いい機会だから二人でいろいろ悪いことしようよ、と水丸さんに誘われるし、『小説 再現代』の宮田編集長には「ま、いろいろと教えてあげますよ、ふふふーと言われるしで、僕 もいろいろと大変である。このぶんでいくと四カ月で人格が変わってしまうかもしれない。 ロ ピ藤沢から突然都心にやってくると、なんかもう「魔宮の伝説」という感じがしてしまう。 考えてみれば東京に住むのはかれこれ五年ぶりである。この前東京に住んでいたときは店 をやりながら「風の歌を聴け』二九七三年のピンポール』という二冊の小説を書いて、そ れで身も心もくたくたになってしまった。それから千葉に移って「羊をめぐる冒険』という 三つめの長編を書いた。そのまま東京に住んでいると、じっくり腰を据えて小説が書けなく なってしまうような気がしたからである。店はけっこう繁盛していたし、「べつに店をたた だれ まなくったって、そのまま誰かにまかせて自分はのんびりと小説を書いていればといろん な人に忠告されたけれど、僕はどうせやるからには隅から隅まできちっと自分で押さえてお ハビロン再訪 すみ