210 ですーー、ーといってもたぶんこれじや弁明にはならないだろうな。 先日表参道を歩いていたら安西水丸さんにばったり会ったので ( 水丸さんという人はにし いにしいと言っているわりにはあの辺をいつもうろついている ) 、「ねえ、この前の原稿で山 ロのことをちょっと悪く書きすぎちゃったですかね ? ーと訊いたら、「いや、あんなもんだ よ。実にあのとおりだよ。あれでいいですよーと言われた。だから僕としても意を強くした のだが、しかしたまには山口の良いところを書いてやりたいと思う。 山口下田丸は昔僕と僕のつれあいにシャッとレコードをくれたことがある。要するに親 襲 切な男である。シャツは白いだ円形の物体が紛うかたなき安西水丸氏の筆によって描きこ 堂 まれていた。 朝 「なんだよ、これ ? と僕が訊くと、「あれ、やだなあ、これ知らないんですか ? 、と山口 上 村はびつくりしたよ、つに一一 = ロった。 「これはですね、僕が作った『求人タイムズ』の〈金のタマゴになりたいな〉っていう (-) があってですね、それ用に作ったシャツなんですよ。知ってるでしよ、〈金のタマゴにな りたいな〉って 0 ? 「知らないよ。観ないもの」 「そうか、そういえばまえの時もそう言ってましたよね。〈人間だったらよかったんだけど〉 つうやつのときも 。弱ったな、 e > 観ないんだものな。じゃあテーマ・ソングも知らないす
ど、その気持ちはよくわかるし、あえて実名はあげないが、「あれも何年か前に廃刊してり や借しまれたのにという雑誌もいくつか頭に浮かぶ。逆に廃刊しちゃった雑誌はもう一一度 と手に入らないから , ーー・あたりまえだーーー・・・「ちゃんと出ているうちにもっと大事にしとくん だったなあという気についなってしまうのだ。 たとえば今はなき「ハッピーエンド通信』なんか、僕は好んで仕事をしていたのになくな ってしまって残念であるーーーーというような話を当時『ハッピーエンド通信』の編集をしてい くちびる 襲た加賀山弘にすると、彼はシニカルに唇をゆがめて「みんなそう言ってくれるけど、なくな 逆っちゃってから同情されたってどうしようもないんですよね」と言う。まあ作り手の方から 堂 すればそれは正論であろう。 朝 それから、こういうのも加賀山弘に言わせると「あとおい同情論」の一変型になるのかも 上 村しれないけれど、僕が書き手としてわりに仕事がやりやすかったなという雑誌はよく潰れて いる。この「ハッピーエンド通信』もノー・ギャラ同然のわりにはよく仕事をしたし、中央 公論社から出ていた『海』でもポット出の新人のわりにはフィッツジェラルドやカー 翻訳を好き放題やらせてもらった。それから文化出版局から出ていた』という 雑誌でもいろいろと楽しく仕事をした。しかし結局みんななくなってしまった。僕なんかが のんびりと気持ちよく仕事のできる雑誌はあるいは早晩消滅する運命にあるのかもしれない。 新潮社の「大コラム」なんてもう一一度と出ないのではないだろうか ?
これはもうジョークの純粋にして華麗な結晶としか言いようのないものが多いみたいだ。 かくかように世界にはありとあらゆる形状とサイズを有する不思議な物事があふれている し、我々はいちいちそれらの本来的な成立過程にかかわりあうよりはーーーそんなことやって いたらとても体がもたないからーーー「ジョ 1 クとしては面白いというあたりでたいていの 物事をやりすごしてしまっているような気がする。それが良いことなのか良くないことなの か僕にはよくわからないけれど、そうする以外にこの「ジャンク ( ごみ ) の時代を有効に 襲生き延びる方法はないんじゃないかという気はしないでもない。 つまり本当に自分にとって の 興味のあることだけを自分のカで深く掘り下げるように努力をし、それ以外のジャンクはジ 堂 ヨークとしてスキップしちゃうわけである。 朝 おそらくこれからの何年間かにわたって、我々は好むと好まざるとにかかわらず、そのよ 上 村うな生き方を要求されることになるのではないかという気がする。つまり具体的に言うと水 平的選択においては軽く、垂直的選択においては重くということになるわけだが、それにし ても一九六〇年代はどんどんうしろに遠去かっていきますね。
殆ど見受けられず、がっかりしてしまう。 しかしポールペンくらいだとどれだけたまったところで、そんなに重くはないし場所もと しごとがら : 題ま本とレコードである。仕事柄 らないから、目にみえる実害とい、つほどのものはなし尸日ー 本の数はどんどん増えていくし、レコードも数えたことがないからよくわからないけれど ( 数える気もしない ) 、全部で三千枚近くはあるんじゃないかと思う。レコード三千枚とひと くちに言っても、一枚裏表四十五分として全部とおして聴くには二千二百時間以上かかる。 て要するにそんな量のレコードはどう考えても不必要なのだ。引っ越しをするたびにもう死ぬ っ思いである。なんとかしなくちゃなあと切実に思う。 積「十枚新しいレコードを買ったら、古いのを十枚売るようにすればいいじゃないの。どうせ 物そんなに沢山聴けるわけじゃないんだから」とつれあいは言うし、僕もたしかにそれが正論 「これはちょっと珍し 不だと思う。しかし現実問題としてはなかなかそう上手くはいかない。 いレコードだから」とか「これは高校のときに買った思い出深いレコードだから」とか「あ まり聴かないけど、この一曲だけは気に入っているから」とか考えはじめると、結局在庫が ぜんぜん減らないということになってしまう。困ったことである。 実は今も何カ月か後に迫った引っ越しにそなえてレコード五百枚・本五百冊削減に励んで いるのだけれど、例によってなかなか簡単にいきそうにはな、 131
217 い何にお金使ってるんですか ? 」と言われたからである。気に入った上着があったので「ち そで よっとサイズか小さいかなあとも思ったが試しに袖をとおしていると女店員が風のよ、つに とんできて、「お客様、それはサイズが小さすぎます。それじゃとても駄目ですよ」と吐き 捨てるように言った。 それで僕が「うん、そうみたいですね。もう少し大きめのものがあったら : : : 」と言おう もど としたら、そのときもうそこには彼女の姿はなかった。僕は彼女が戻ってくるのをそのまま しばらくそこに立って待っていたのだが、戻ってきそうな気配がまるでないのであきらめて 一家に帰った。なんだかよくわけのわからない一日である。こちらが他人から不当な扱いを受 変けたような気もするし、逆にこちらが他人を不当に扱ったような気もする。本当はどちらな のか判断ができない。 わ 書店の女の子はあるいは家に帰って食卓で「ねえお母さん、今日嫌な客が来てさ、わけの わかんない本の名前を言って、私がそれを知らないって言うと露骨にバカにすんのよ、アッ タマ来ちゃうんだから」と言っているのかもしれない。 レストランのウェイトレスは「ふん、洋食弁当ってメニューにあればそれを黙って注文し て食べるのが粋ってもんよーとコックにこほしているかもしれない デ。ハートの女店員は「自分のジャケットのサイズもロクに知らないで袖をとおすようなイ モの相手してらんないわよ」と思っているのかもしれない。 だめ
噂というのはあれはあれでなかなか面白いものである。僕は交遊関係があまり広い方では あまりそういうことはないのだが、 ないのでー・ーはっきり言って狭い それでも僕のまっ たくあずかり知らない僕についての噂が耳に入ってくることがときどきある。今のところあ りかたいことにそれほど悪い噂は入ってこなくて、「村上がを買ったらしい」とか 第 ( 買うわけないじゃないか ) 、「村上は厚あげを毎日三枚食べるらしいとか ( 一枚しか食べ ない ) その程度のことである。 よくわからないから、「どうして僕が厚あげを一日に三枚も食べなくちゃいけないんです かと相手に訊いてみると「だって雑誌のインタビューでそう答えてたじゃないですか」 と言われた。よく考えてみるとたしかにそんなことを言った記億はある。いくつかインタビ ューを受けると、質問というのはだいたい同じようなものだから、退屈でときどき口からで でたらめ まかせの出鱈目を答えてしまうのである。「好物 ? 厚あげですね。一日三枚は食べるなあ」 なんていう具合である。のことだってどこかで冗談で言ったのかもしれないが、全然 思いだせない こんな風に世の中をなめて生きていると今にひどい目にあいそうな気がする。 - つわさ おもしろ
のものがかなりうさん臭く、信頼感を抱けないことである。とくに我々の世代には例の「ス ぎまん トリート・ファイティング」の経験を持つ人が多いし、終始「選挙なんて欺瞞だ」とアジら れてきたわけだから、年をとって落ちついてもなかなかそうすんなりとは投票所に行けなゝ。 政党の縦割りとは無関係に一本どっこでやってきたんだという思いもある。何をやったんだ と言われると、何をやったのかほとんど覚えてないですけれど。 もっとも選挙制度そのものを根本的に否定しているわけではないから、何か明確な争点が あって、現在の政党縦割りの図式がなければ、我々は投票に行くことになるだろうと思う。 襲 逆 しかしこれまでのところ一度としてそういうケースはなかった。よく棄権が多いのは民主主 の 堂 義の衰退だと一言う人がいるけれど、僕に言わせればそういうケ 1 スを提供することができな 朝かった社会のシステムそのものの中に民主主義衰退の原因がある。たてまえ論で棄権者のみ に責任を押しつけるのは筋違いというものだろう。マイナス 4 とマイナス 3 のどちらかを選 ぶために投票所まで行けっていわれたって、行かないよ、そんなの。 千葉に住んでいるとき地方選挙があった。僕が庭で猫と遊んでいると近所のポス的おばさ んが畑でとれたホーレン草を持ってやってきて、「あのね、このへんはみんななんとかさん に投票することに決めてんだよねと言った。 僕がよくわからなくて「へえ、そうですか」と一言うと、そのおばさんは「なんとかさんに 入れとくと道路の整備とかドプ掃除とかよくやってもらえるんだよねえ」と言って、ホーレ 158
村上朝日堂の逆襲 えやないか。アホな言葉使うな」と非難されたけれど、変わっちゃったものはもうどうしょ うもないのである。 僕は言語というのは空気と同じようなものであると思う。そこの土地に行けばそこの空気 があり、その空気にあった言葉というものがあるのであって、なかなかそれにさからうこと はできない。まずアクセントが変わり、それからボキャプラリ 1 が変わる。この順序が逆に なると、なかなか一言語はマスターできないものである。ポキャプラリーというのは理性的な ものであり、アクセントは感性的なものだからだ。 だから僕は関西に帰るとやはり関西弁になる。新幹線の神戸駅に降りると一発で関西弁に 戻ってしまうのである。そうなると今度は逆に標準語がしゃべれなくなる。友だちに言わせ ちゃ ると「お前の関西弁ちょっとおかしいんと違うか」ということらしいか、さっき着いたばか りなのだから仕方ない。 一週間くらいいれば完全な関西弁になれると思う。 僕のつれあいは三代以上っづいた山手線内側っ子 ( というんだそうである ) だけれど、こ の人もしばらく関西にいると、すぐに関西弁になじんでしまって、「すんません、ここに行 くのどう行ったらええんでしようか ? 」などと人に道を訊いたりしている。他人のことは言 ささめゆき えないけれど、はたで見ているとおそろしいものである。一緒に市川崑の『細雪』を観たあ となんかしばらくアクセントがもとに戻らなくて大変に迷惑をした。 関西を舞台にした映画を観ていると、役者にも方言の習得がうまい人と下手な人がいてな
健康について 0 とハッラッと目が覚めてしまうのである。 よくわからないから知り・あいにときど き「二日酔いってどんな風になるの ? 誰一人として的確 と訊いてみるのだが、 な描写・説明をしてくれる人はいない。 「とにかく頭が重くて、苦しくて、とに かく何をする気も起きないんだよ」とい うくらいの答えしか返ってこない。そう 言われても「頭が重い、というのがどう いう状態なのかわからないのだからお手 上げである。それ以上くわしい説明を求 めても「うるさいなあ、二日酔いをやっ たことのない人間には二日酔いの苦しみ はわかんないよと言われるのがおちで ある。二日酔いの話になると、人はみん なきまって投げやりなものの言い方にな るみたいである。
自由業の問題点について 「刊どヒ 支を日かてる キ レ -1 い - っ 「 E ) 刊朝どこう の、 - れ 3 のでつイ しかし半分くらいは引きさからない。 だいたい僕が銀行に行くのは朝の九時か十 ころ 時頃のすいている時刻だから、向こうだっ て暇なんである。 「えーと、あの、失礼ですが、どういう御 職業で ? 」とだいたい訊いてくる。 「自由業です」と僕が言うと、銀行のヒト はまたよくわからない顔をする。「大工さ んですか ? と一 = ロう人もいる。そりやね、 まあたしかにジョギングパンツとゴム草履 とサングラスで銀行に来る方もどうかと思 うけど、なにも自由業↓大工という極端な 発想することもないじゃないですか ? だ いたい大工は自由業なのか ? それで仕方なく「んー、文筆業ですねー と言うと、「ああ、そうですか、土地の分 9 筆をや 0 ておられるわけで」と言う人もい