自由 - みる会図書館


検索対象: 森田療法
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1. 森田療法

た日常的な現実に背を向けてしまう。 それては、神経質 ( 症 ) を治すためには何を心掛けていったらよいのてあろうか。まず第て 大切なことは、自分自身が精神交互作用の矛盾を引き受け、症状に「とらわれ」、しかもその症 状から「はからい」によって現実逃避をしようとしている自分の現状を、つぶさに認めるべき てある。 とはいっても、「とらわれ」に自由にされ、真実が見えなくなり、現実から背を向けようとす 症状と自己と現実生活 る神経質 ( 症 ) 者には、正当て客観的な自己判断がてきるものてはない。 の間における関係が充分に把握されておらず、自己洞察がてきていないからてある。そこてま ず神経質 ( 症 ) を治すために重要なことは、精神交互作用のメカニズムを打破することてある。 方 治 あるアナウンサーの体験 たとえば、筆者があるテレビ局に出演依頼をされて出かけたとき、かなりべテランのアナウ 2 質 ンサーが筆者にこういったことがある。 経 「先生は精神科医だから、心の自己訓練がてきているんてすか。指し棒てパネルを指していて神 も何ら震えるところがありませんてしたね。大方の人は落ち着いているように見えても、指し川

2. 森田療法

つまり森田が記述するように、乳幼児の場合は、単純な情緒的反応による行動が日常生活を たんらく 支配しているのてあって、感情と行動が短絡的に結びついてしまう。そこて、泣きたいときに 、たいときに笑う。これを、純粋だとか、詩的だとか、悟りの心境と似ているなどと 泣き、笑し いうのは誤りてあって、知・情・意の精神活動が分化し得ず、一方ては統合されていないため 単純な行動をとっているにすぎない。 患者のなかには、しばしば、子どものように自由に振る舞うのが森田療法の「あるがまま」 てしよう、などという人がいる。「あるカまま」の理念については後に触れるが、〃したいよう にする〃のが「あるがまま」てはないのてある。一人前の人間として、人生に対する方向性を 見出して行動するときに、希望と同時に生じてくる不安や葛藤を〃そのままに認め、受け入れ 論 る〃ことを「あるカまま」とい - フのてある 筆者はときどき、患者が「子どものように純粋になりたい」というとき、「子どもは純粋とい礎 大人が白紙てあっては非常に困る。また、自分の うよりも色のついていない白紙てあるだけだ。 勝手に、田 5 うように振る舞うだけても困る。人生には良いことも悪いことも、不条理なことも、療 さまざまなことがたくさん存在するのてあって、現在の生活が複雑て灰色の状態てあるという森 一つの生き ことをふまえたうえて、なおかっその中て自分はこのように生きるというように、

3. 森田療法

また看護婦さんに入院した後のことをいろいろと頼んだ。その翌日は、筆者が所長をして いる精神療法センターの若い人たちを集め、現在の研究状態を聞き、今後の方針について語り 合った。そして次の日、焼け付くような暑い日てあったが、モンテッソリー学会の会場へ行き、 寅を行ない、翌月曜日に入院し ' 」。 特講、冫 人間としての自由の選択 センタ 1 の若い医師たちは、先生は死を覚悟しながら、なぜ自分たちのことをこれほどまて に気をつかってくれることがてきるのだろうかと、変日語っていたとい - フ。また、モンテッソ 1 学会の主催者てある坂本堯氏は、「そんなひどい状態なのに、我々のためにそこまて無理を してくださらなくてもよかったのに」と五ロっ , 」。 実は筆者は、センターの若い医師たちのためだけにそのような行為をし、筆者の講演を聞きめ っ に集まる聴衆のためだけにそのような行為をしたのてはなかった。それはむしろ、筆者自身の見 死 ためといった方カよいのかもしれない。 なぜなら、死を覚悟した瞬間から、筆者には、その時から死まての時間が非常に大切に思え生 てきたのてある。したがって、死まての時間内に自分がてきることを、極力やっておこうと考

4. 森田療法

とがてき、「とらわれ」の方向に向かう「生の欲望」を認めつつ、なおかつ「とらわれ」から脱 しようとすることもてきるのてあるが、神経症者の場合には、ほとんど、あるいはまったく この「とらわれ」から脱することがてきなくなってしまうのてある。 もがけばもがくほど、とらわれた観念が蜘蛛の糸のようにまつわりついてきて、患者の自由 を奪い、拘束してしまうナ 。ことえば、対人恐怖症の一つてある、視線恐怖の患者に、あなたの 目つきはどこもおかしくないと説得しても、それはおかしくないと思う人の目がおかしいのた といって受けつけようとしない。 醜貎恐怖の患者君は大学一年生てあったが、眉毛の形がおかしいといって両方の眉毛を剃 り落とし、女性の眉墨て自分の思うような形に眉毛を描き直していた。はたから見るとその方 がよほどおかしいのてあるが、本人は自分の意見を変えようとはしない。その君が、ある日、 睡眠薬を飲んて自殺を図った。幸い命に別状はなかったが、 彼は「眉毛の形がおかしくてこれ ほど苦しいのなら、いっそのこと死んだ方がよいと思った」と述べ ' ここに紹介したケースはかなり極端な例てあるが、多かれ少なかれ神経症者の「とらわれ」 は、誤った観念に拘束されてしまうあまり、常識的な考えがてきなくなって、何らかの形て日 常生活に支障をきたすか、あるいは逃避をすることによって生活を放棄してしまおうとするの

5. 森田療法

筆者にとって「あるがまま」は、自由な人間行動を開花させる上ての礎石てあるのかもしれな 追い打ちをかける病魔 前述のように、筆者は e 医科大学病院て腫瘍を確認したときに、九〇パ 1 セント以上悪性腫 瘍、つまり癌てあろうと考えた。それは部位からいっても形状からいっても、そうに違いない と思わざるを得ないからてある。医大に入院してからさっそく開腹手術をして腫瘍を取り去 ったが、やはりそれは大人の拳ぐらいの大きさの腫瘍てあった。病理学的検査の結果、ニュー ロ・エンドクライノーマ ( 神経内分泌腫瘍 ) という、めんどくさい名前を冠せられた癌の一型て あった。 手術後、筆者は再発まてに少なくとも三年くらいの猶予期間があり、その間に自分がてきる 仕事をいろいろとやれるものと考えていた。ところが、弱っている筆者に追い打ちをかけるか のように、突発性難聴 ( 二十数種の難治疾患に入っており原因不明 ) が襲ってきて、激しい耳鳴と 左耳がまったく聞こえなくなった。もう音楽を聴くことがてきないかと思うと、じっ に寂しい気持てあった。 こぶし

6. 森田療法

われ」とは逆の方向の、人間としての自由が次第に大きく姿を現わしてきたといえるのてはな 行動に踏み切ってみる 以上のように「とらわれ」から解放されるためには、他者の言葉を正しく受け入れる努力が 必要てある。それと同時に、受け入れた事柄を行動て示すことが必要になる。 神経質 ( 症 ) 者は人並以上に観念的な人が多いのて、物事を考え尽してからてないと、行動 ことわざ 踏み切ろうとしない傾向がある。「石橋を叩いて渡る」という諺があるが、神経質 ( 症 ) 者は石 橋を叩きながらそれを渡ろうとしない人が多いのてある。彼らはその橋を本当に確かなものて あるかどうかがわからないから渡れないという。 彼らは安全て確実な結論を得ようとする。し方 かし、〃不条理みのただなかに生きている人間の前ーー 」 : よ、不安を伴わない確実な結論などは存在治 我々の日常行動の中ては、絶えずそれをや「てみなければ、の目が出るかの目が 出るかわからないような事態が眼前に立ちはだかり、我々は行動を通してそうした事態に賭け第 神 ていかなければならないのてある。 神経質 ( 症 ) 者は、そのような、不安て不条理な事態に自分を賭けていくのが恐いのて、そこて

7. 森田療法

への「とらわれ」のために極端に狭窄化し、創造性を失ってしまうのてある。 「とらわれ」のために、学校へ行くとか、会社へ行くとか、生活上の重要な行為を放棄 してしまい、孤立化してしまう。さらに症状にとらわれているために、人間同士の豊かな感情 が保てなくなり、他者に対するよき配慮がてきなくなって、人間関係が硬いものになってしま しっさいの現実生活に背を向け、症状のみに日がな一日不安な目を向けて過ご すという、非創造的な生き方をする人もある。こうなると、人間本来の生き生きとした感情が 失われてしまう。 他人の助言を受け入れる 以上のような「とらわれ」から脱却して治癒に至るためには、どのようなことが必要てあろ方 うか。まず第一に、人間としての自由を取り戻すために、懸命の努力をすることが大切てある。治 そのためには、まず他者や治療者の声に深く耳を傾ける必要がある。子があ「ても醜くはな いといわれたならば、自分てはそんなことはないと考えても、一応その言葉を素直に受けとめ質 ておくべきてある。また、外を歩くときに心臓がドキドキしても、病気てはないから倒れて死神 ぬようなことはないと医師にいわれたなら、その言葉を素直に受けておくことが大切てある。 きようさく

8. 森田療法

という感情をもっているのてあるが、それを、赤くなることは同席する学友に絶対におかしく 思われ、またそのことが学友に迷惑をかけるという強迫観念にしてしまっているのてある。そ してさらに、自分が出席しない方が皆が和気藹々と会合がてきるという、勝手な理由づけにす り替えてしまっている。そのことは、一種のフィクションによって自分を正当化することてあ り、これを「合理化」という。 つまり君は、自分を合理化して会合に出ないという態度、行動をとっているのてあって、 「とらわれ」に基づいた自分自身の〃処置みを行なっているのてある。これを「はからい」と とう多少おかしなニュアンスをも いう。「はからいの行動」という言い方は、「行動の行動」い つが、後 ( こ「目的本位の行動」という言葉を説明するのて、以後、自分の思うように処置した 行動を「はからいの行動」と呼ぶことにする。 日常生活からの逸脱 この「はからい」の心理は、必ずしも神経症者に特有のものてはなく、我々日常人もしばし ば「はからいの行動」をとる。たとえば筆者なども、今日はあの会合に出たくないという考え が根底にあるとき、その気持ちを、いろいろな理由をつけて歪曲し、自分の都合のいいように

9. 森田療法

この場合の子さんは、夫の吐物によって右手が汚されたという極端な不安 ( 観念 ) に強く拘 束されているのてあり、その考え方が間違っていることはわかっているものの、強迫観念に振 り回されて自由に物事を考えることがてきなくなってしまっているのてある。文字どおり、 子さんはとらわれているのてある。 歪んだ観念にふり回される 以上のように、「とらわれ」の極端な場合には、客観的に見るとおかしいと思えるような状態 を現出するのてあるが、それは極端な場合てあって、日常的な一般人も、何らかの形て「とら 、。ことえば、ある人はお金を貯めることにとらわれているかもム われ」をもっていることが多しナ さらにあ一るニ しれないし、またある人は、権力を維持することにとらわれているかもしれない 人は、名声をあげることにのみとらわれているかもしれない。人間の欲望はきりがないものて、メ さまざまな欲望に拘束され、自由にされ、とらわれる可能性をもち続けているのてある。 症 このように人間はなにものかにとらわれつつ生きているといえるのてあるが、それては、神質 神 経症者の「とらわれ」と、日常者の「とらわれ」と、どこが違うのてあろうか それは、日常者の場合には、とらわれながらもなおかつ自由に思考し、行動し、生活するこ四

10. 森田療法

ところて一方、筆者にとってまだ自由なのは〃物事を考えることみ、そして〃喋ることみなの てはないだろうか。それから筆者は、与えられた人生の事実を「あるがまま」に認めたうえて、 残された機能をフルに生かし、「目的本位の行動」をとろうと決意をした。 ″自由々を守り通したい まず筆者は、医師、看護婦、妻、その他の人が心配するなかて、お茶の水女子大学の大学院 と、東洋大学の大学院の集中講義をすることにした。車て両校を訪れ、妻に手を引いてもらっ て、そこて講義を行なった。授業をもう聞けないと思っていた学生たちは、ことのほか喜んて くれた。筆者自身にも、この体験は大きな喜びを与えた。人間はとことんまて追いつめられて もなおかつ意味のある生き方をすることがてきる、という信条と、人間としての誇りが、筆者 の内面に沸き上がってきた。 さらにまた筆者は、ロ述筆記によって前述した二冊の本を書いた。これも筆者にとってはた しへんに苦しい困難な作業てあったが、何とかそれを成し遂げた。 見舞い客のなかには、「こんな時期にそんなことまてしなくても」とか、「疲れるのにそんな たいへんなことをやめたらどうか」とか、「こういう機会にこそゆっくり休んだら」とか、また 202