つまてもいつまても嫌な考えに振り回されてしまう」という。 この場合も、人間はあることを考えながら、同時に多様な観念が脳裏に浮動しているという、 人間本来の原則を否定しようとしているがための「とらわれ」てある。 とくしん 疾病恐怖、縁起恐怖、濆神恐怖についても同じことがいえるのてあって、誰ても病気になる ことは恐いのてある。それにもかかわらず、疾病恐怖の人は、もうほとんど日本には見られな くなっている癩病に自分が感染しているのてはないかと不安をもって、わざわざ医師に確かめ に行く。また漬神恐怖の人は、知らぬうちにおオを踏みつけたのてはないかとか、小さな鳥居 けが に小便をかけたのてはないかとか、自分が神仏を穢す行為をしたのてはないかということを恐 れるのてある。また縁起恐怖の人は、駅の階段を登るのに、自分が考えていた偶数て割り切れ る数て階段が登れなかったから、何か縁起の悪いことが起こるのてはないかと不安になり、も状 う一度登り直してみるのだが、それても納得てきずに数回登り直して、自分の気に入った数て諸 登り切るようにし、なおかっ、あのときのことが原因て縁起の悪いことが起こるのてはないか 質 と悩んだりするのてある。 経 以上のような不安は、人間誰しも心の内にもっていることてある。病気になっては困る、神神 仏を穢しては困る、縁起のよくないことがあっては困るという心理状態は、何一つ異常なとこ しつべい けが
るならば、あえてこれを「神経症」と考えなくてよいのてあろうか。そうてはない。ては何が 違うのかというと、日常者は同じような不安・葛藤をもちながら、苛酷な現実生活の軋轢に耐 え、日常生活を前向きに過ごしているのてある。これに対して、「神経質」といわれる者は、症 状があるから人と話せないとか、症状があるから思考を前へ進めることがてきないとか、ある いは、症状があるから身体のことが不安て日常生活がてきないとか、何らかの理由を付して現 実から逃避をしてしまう傾向がある。この点が、日常人と最も大きく異なるところてある。っ まり、「神経質」に悩む人間は、反社会的てはないが、社会生活に背を向ける意味て非社会的と いえるのてある。 森田が命名した「神経質」は、以上のような特徴をそなえているが、これについて、性格傾 こうらたけひさ 向を指し示すことばてある〃神経質〃と紛らわしいということて、高良武久博士は、「神経質」状 を神経症の一症状てあるとみなし、「神経質症」と命名した。 の 症 質 自我と現実社会の葛藤 経 一」のレよ , フに、 神経質 ( 症 ) は、日常人がもっ不安・葛藤と連続てあるということが特徴てある神 一方、これにとらわれているがために、日常生活から逃避的な態度をとるのてある。しかし、 あつれき
苦しめるとするなら、それを取り除くために分析を行ない、原因を究明し、それを除去する必 要があるのは当然てある。しかし、森田が論ずるように、不安・葛藤をつくり出す心理的メカ ニズムそれ自体が異常なものてはなく、人間性に本来付随している心理状態だとするならば、 それを分析し、原因を究明し、除去する必要はなくなってしまう。 この点において森田は、人間性ならびに人間の欲望の二面性を認めているのてある。本書て は、特に森田の「欲望」に関する理論を大きくとりあげた。森田は、神経質 ( 症 ) 者は「生の欲 望」が非常に強いという。これは、フロイトが「性」を中心にして神経症を考えたのに対抗す る考え方てある。 神経質 ( 症 ) 者は、理想が高く、 〃完全欲へのとらわれみが強いために、常に〃かくあるべしみ という自分の理想的な姿を設定してしまう。しかし、我々が住む不条理の現実には、そのよう な都合のよい状態はないのて、そこて〃かくあるべしみという理想志向性と、〃かくある〃とい う現実志向性がもろに衝突してしまう。そのために両者の志向性が離れれば離れるほど、不安・ 葛藤が強くなり、神経質 ( 症 ) 者は現実と離反してしまうのてある。そこて、ある者は自己否定 的になって、劣等感に陥り、現実の苦悩に耐えられなくなって逃避的な態度をとるようになる ( その詳細は本文中て読んていただきたい ) 。
そして他人の言葉を素直に受け入れたなら、たとえその言葉に疑いをさしはさんても、自分Ⅷ の判断の方がどこか誤っているに違いないと思い直し、助言に従ってみることが必要てある。 つの い′、。 ? てこ、て それは自分の疑問に逆らった行動をとることてあるから、不安はますます募って は、不安を紛らわせて楽になりたいという感情と、不安があっても他人から正しいといわれた 行動に従っていこうとする感情が、もろにぶつかり合う。そして、抜き差しならない葛藤の心 理状態をつくりだす。ここに、被治療者の大いなる勇気と決断が必要とされる。 正しいとされる行動に踏み切っていくときには、初めはたいへん苦しいのだが、日常生活の じようじゅ 目的にそった行動が少しずつ成就されていくときには、それまてにない喜びを感ずることがて ほくろ きるようになる。たとえば、前に述べた子さんの場合は、「黒子のことが気になっても、友人 と芝居を観に行けたことが楽しかった」と述べるようになり、心臓に不安を感じていた某氏は、 ( 一ⅱオこのこし J は、苦しさ 「不安があってもレストランて食事がてきてよかった」と筆者こ話し ' 」。 に抵抗をしながら「とらわれた行動」に従うことをやめ、徐々に人間らしい生活を再獲得して く過程を示している。 こうした行動が積み重なっていくと、次第に日常生活が拡大され、孤立化から解放されて豊 かな人間生活が維持てきるようになるてあろう。これまてに述べたような過程において、「とら
りを捨てるべきてあって、文字が震えても内容が相手に伝わればいいのだという気持ちをもっ て、震えて字を圭日くところを人に見られたらどうしようという不安を「あるがまま」にしなが ら、積極的に文字を書いていくことが大切てある。よほどひどい書痙の場合には、行動治療な どて書字訓練をした方が有効な場合もあるが、多くは対人恐怖とからみ合っているのて、「ある がまま」て「目的本位」の態度をとってゆけば、軽度の書痙は治癒することが多い。 以上は、普通神経質の症状を列記したものてあるが、治療に関してはいずれも共通性の上に 成り立っている。神経質 ( 症 ) の心理機制から出発した普通神経質は、森田療法によって治癒す ることカ多いとい , フことを銘記されたい。 若者たちの「アパシー」現象 以上、神経質 ( 症 ) の症状について、解説を行なってきたが、最近、問題になることが一つあ る。それは神経質 ( 症 ) の特徴てある〃かくあるべし〃という〃完全欲へのとらわれみがさほど 明確てなく、こうありたいと願う「生の欲望」があまり強くなく、自己内省的なむ理的〃内在 化傾向みがあまり強くない若者たちが、神経科の外来を多く訪れるようになったことてある。 筆者はそれを「内在化と外在化の低下における病理」として、発表した。 118
ひた に浸っているうちは、患者はそれなりに楽てあり安心感をもっていられるが、一方、現実から の遊離はひどくなるばかりぞ、その点て神経症はいよいよ悪化していくのてある。 神経症を生むメカニズム 以上、神経症をつくりだす要因について、主なものを述べてきた。まず第一に考えられるの は、森田のいうヒボコンドリー 性基調を内包した素質てあり、その上に、第一章て述べたよう な人格発達の過程が重ねられ、神経症発症の素地がてきあがる。そこへ誰にてもある精神交互 作用のメカニズムが、神経症者には特に強く働き、〃かくあるべしみという理想状態を設定して 無理が生じ、気にすまいと田 5 えば田 5 うム 現実にそのような状態をつくり出そうと田 5 えば田 5 - フほど ほどその点に注意が集中し、ますます苦痛が増強されて、そこに神経質症状が固着するというニ カ メ のが、一般的な神経症の成立様式てある。 の また「とらわれ」がひどくなるにつれて、それと反比例して現実て生き生きと生きるという 症 自由を失いがちになる。その上、自分にとって都合のよい理由をつくって合理化し、その裏て質 逃避をするという「はからいの行動」をとるようになる。そして結果としては、現実に背を向神 け、自分の心身のマイナスな点のみを気づかい、自分を劣等視し、孤立化し、ときによっては
安神経症者は、男性の場合四十歳以後、女性の場合三十歳以後の発症が多かった。 また、性格に関しては、対人恐怖症者が内向的な傾向をもつのに比して、不安神経症者はむ じようぜっ しろ外向的な者が多く、饒舌て、自分の症状をわかってもらおうと必要以上に訴えの強い者が 多かった。 以上のような現実における症状発症の背景があるところへもってきて、何らかの機会がある のが普通てある。たとえば、電車に乗っていて、すし詰めの中て異常に暑くて呼吸困難を感じ、 それ以後、呼吸困難が起こって死ぬのてはないかというような呼吸困難発作に陥ったり、また ときによっては、地下鉄に乗っていて急に電車が止まって電気が消え、何事が起こったのかと 不安になるうちに、心臟がドキドキしてきてそのまま死の恐怖にとらわれ、それ以後、地下鉄 に乗れなくなり、さらにあらゆる電車に乗れなくなったり、あるいは、バスに乗っていて右折状 をした時に突然に眩暈を感じ、倒れるのてはないかとしやがみ込んてしまい、 それ以後、恐ろ諸 の しくてバスに乗れなくなり、さらには店の中に入っても眩暈を感ずるようになって買い物に行 質 けなくなったりするものてある。 経 これはいわばヒボコンドリ 1 性性格の持主が自己不全感を伴うような連続的なストレスにさ神 らされ、そこへもってきて不安発作を体験するような機会を得たために症状が起こってきたも
不眠神経症に悩む人は非常に多い。この場合、終夜睡眠を調べた研究があるが、睡眠の量と しては充分に寝ている人が多いという。それにもかかわらず、眠れないということにこだわり、 悩むのてある。不眠神経症者には、寝付きが悪くて明け方に深く眠るタイプが多い。これは寝 付きは悪くないが、終夜浅眠て早朝覚醒してしまううつ病の不眠と比べると、非常に異なった 不眠のパターンてある。一般に不眠神経症の特徴をとりあげれば、次のようてある。 〃睡眠申話 ことらわれている者が多い。人はそれぞ まず、八時間 ~ 授ないといけよいとい , フ ・ー一ごロみーを 睡眠量もそれぞれ人によって異なり、五時間眠っても六時間眠ってもか れ個性があるように、 まわないし、それを翌日電車の中て居眠りをすることて補ってもよい 眠る準備を一生懸命になってする人もいるが、これはすべてマイナスてある。寝る前に激し い運動をすれば、興奮して眠れなくなるてあろうし、十時頃寝つくのを期待して七時頃に床に 入れば、眠れないことにかえって焦りを感じさせるてあろう。数を数えたり、ダルマさんを唱 えたりしてもあまり効果はない。 したがって、充分夜を楽しんてから、寝ようと思う時間に床に入り、そして眠りを追いかけ ないて、眠 りにとらえてもらうのを待つのてある。眠りは追いかければ遠のいてしまうし、臥 しよう 床してただ待っていれば向こうからやってきてとらえてくれるものなのてある。
森川「 現代新書既刊より : ! : 健康な心のあり方が今ほど問われている時代はない。 宮城音弥『ノイローズトレスは、その原因・本質から、 日常生活における発散・解消法までを懇切に指導する。 岩井寛『人はなせ悩むのか』、大原健士郎『うつ病の時代は、 豊富な臨床例により、不安・苦悩・抑うつの克服法を説く。 国分康孝『〈つきあじの心理学『〈自立〉の心理学は 複雑な人間関係に対処し、自己を生かすための知恵を提示。 心身の安定と活性化をめざす自己訓練法には、 原野広太郎『セルフコントローをが役立つ。 親と子の確執や家庭内の悩みに直面している人には、 河合隼雄『家族関係を考えみ、稲村博『親子関係学が、 適切で具体的なアドバイスを提供する。 9 7 8 4 0 61 4 8 8 2 4 5 講 代 新 法 書 1 9 2 0 2 1 1 0 0 6 4 0 2 他人の視線に怯える対人恐怖症。 強迫観念や不安発作、不眠など、心身の不快や適応困難に悩む人は多い。 こころに潜む不安や葛藤を″異物″として排除するのではなく、 「あるがまま」に受け入れ、「目的本位」の行動をとることによって、 すこやかな自己実現をめざす森田療法は、神経症からの解放のみならず、 実践法として、 日常人のメンタル・ヘルスの 有益なヒントを提供する。 森田療法の独自性ーー 西欧の心理療法においては、 神経症者が何らかの形で心の内に 内在させる不安や葛藤を分析し、それを″異物々として 除去しようとする傾向がある。これに反して、 森田療法では、神経質 ( 症 ) 者の不安・葛藤と、 日常人の不安・葛藤が連続であると考えるのである。 したがって、その不安・葛藤をいくら除去しようとしても、 異常でないものを除去しようとしているのであるから、 除去しようとすることそれ自体が矛盾だということになる。 ・いわい・ひろし 一九三一年、東京生まれ。上智大学卒業後、 早稲田大学文学部大学院で美学を学び、 さらに東京慈恵会医科大学を卒業。 専攻は、精神医学、精神病理学。医学博士。 一九八六年五月、ガンのため逝去。 著書に、「立場の狂いと世代の病」ー春秋社、 「人はなせ悩むのか」ーー現代新書ーなど多数。 824 おひ 森田療法ー : 目次より ・森田療法の基礎理論 「生の欲望」と人間 ・神経質 ( 症 ) のメカニズム 「とらわれ」の心理 / 「はからい」の行動 ・神経質 ( 症 ) の諸症状 強迫神経症 / 不安神経症 / 普通神経症 ・神経質 ( 症 ) の治し方 「あるがまま」と「目的本位」 ・日常に生かす森田療法 成就した「あるがまま」体験 定価本体 640 円※消費税が別に加算されます。 I S B N 4 ー 0 6 ー 1 4 8 8 2 4 ー 4 C 0 2 1 1 ¥ 6 4 0 E ( 5 ) 本書より 特製ブックカバー贈呈 右のマークを間枚集めて 封書てお送りくたさい《葉書は不可 ) ' , クスのマーク代用も可 宛先ー 講談社訴書阪売部プ一・クカバー係 カバーイラスト渡辺富士雄 講 談 現 代 新 書 Y640 ☆☆☆☆☆ ・ 824 マークノーベル平和實