とらわれ - みる会図書館


検索対象: 森田療法
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1. 森田療法

この場合の子さんは、夫の吐物によって右手が汚されたという極端な不安 ( 観念 ) に強く拘 束されているのてあり、その考え方が間違っていることはわかっているものの、強迫観念に振 り回されて自由に物事を考えることがてきなくなってしまっているのてある。文字どおり、 子さんはとらわれているのてある。 歪んだ観念にふり回される 以上のように、「とらわれ」の極端な場合には、客観的に見るとおかしいと思えるような状態 を現出するのてあるが、それは極端な場合てあって、日常的な一般人も、何らかの形て「とら 、。ことえば、ある人はお金を貯めることにとらわれているかもム われ」をもっていることが多しナ さらにあ一るニ しれないし、またある人は、権力を維持することにとらわれているかもしれない 人は、名声をあげることにのみとらわれているかもしれない。人間の欲望はきりがないものて、メ さまざまな欲望に拘束され、自由にされ、とらわれる可能性をもち続けているのてある。 症 このように人間はなにものかにとらわれつつ生きているといえるのてあるが、それては、神質 神 経症者の「とらわれ」と、日常者の「とらわれ」と、どこが違うのてあろうか それは、日常者の場合には、とらわれながらもなおかつ自由に思考し、行動し、生活するこ四

2. 森田療法

「とらわれ」の症状 「とらわれ」という言葉は、非常に日本的な言葉てある。たとえば恋にとらわれるということ した は、女性を恋慕うという感情にとらえられて、その他の日常的なことを考える自由を失ってし まうことてある。人間はある時期においては情熱のおもむくままに、恋にとらわれてみる必要 もあるのかもしれない。 しかし、長い間そのように一方的な感情にとらわれ、支配されてしま っていたのては困る。 神経質 ( 症 ) 者の「とらわれ」は、そのようなロマンティックなものてはなく、深刻なものて ある。それは、自分が不安・葛藤を感じ、そこから逃れ たいと願望するところにかえって惹き つけられてしまい、離れられなくなり、振り回されて、自由を奪われてしまうのてある。この ことは、単なる症状の問題てはない。 人間が日常生活において生き生きと思考し、感情を表出 っちか し、創造性を培っていく自由を自ら放棄しているのてある。ここては、被治療者の内界は症状 3 「とらわれ」と「はからい」からの脱却 138

3. 森田療法

てある。 このように「とらわれ」ということは、ある歪んだ観念に凝り固まって、人間としての自由 な考えを失ってしまうことてある。その観念と人間行動の間には正比例の関係があり、観念が 歪めば歪むほど行動が拘束され、人間の自由は失われてしまう。つまり、歪んだ観念によって 人間が逆に自由にされてしまうのてあり、自由を放棄せざるを得なくさせられてしまうのてあ る 神経質 ( 症 ) 者の場合、他の神経症のなかても特にこの歪んだ観念にとらわれている場合が多 い。たとえば、自分の身体がどこも悪くないのに心臓が肥大して死が迫っていると考えるのは、 やはり歪んだ観念に自由にされているのてあって、一種の「とらわれ」てある。このように考ム えてくると、「とらわれ」は、神経質 ( 症 ) の中核てあるといえる。そして、その歪んだ観念をニ カ もち続ける状態を「強迫観念」にとらわれているという。 の 症 質 観念と現実の葛藤 経 「強迫観念」というのは、文字どおり強く迫ってくる観念をいうのてあって、先にあげた例て神 いうなら、手が汚染されてしまったという誤った観念、眉毛の形がおかしいという誤った観念、

4. 森田療法

とがてき、「とらわれ」の方向に向かう「生の欲望」を認めつつ、なおかつ「とらわれ」から脱 しようとすることもてきるのてあるが、神経症者の場合には、ほとんど、あるいはまったく この「とらわれ」から脱することがてきなくなってしまうのてある。 もがけばもがくほど、とらわれた観念が蜘蛛の糸のようにまつわりついてきて、患者の自由 を奪い、拘束してしまうナ 。ことえば、対人恐怖症の一つてある、視線恐怖の患者に、あなたの 目つきはどこもおかしくないと説得しても、それはおかしくないと思う人の目がおかしいのた といって受けつけようとしない。 醜貎恐怖の患者君は大学一年生てあったが、眉毛の形がおかしいといって両方の眉毛を剃 り落とし、女性の眉墨て自分の思うような形に眉毛を描き直していた。はたから見るとその方 がよほどおかしいのてあるが、本人は自分の意見を変えようとはしない。その君が、ある日、 睡眠薬を飲んて自殺を図った。幸い命に別状はなかったが、 彼は「眉毛の形がおかしくてこれ ほど苦しいのなら、いっそのこと死んだ方がよいと思った」と述べ ' ここに紹介したケースはかなり極端な例てあるが、多かれ少なかれ神経症者の「とらわれ」 は、誤った観念に拘束されてしまうあまり、常識的な考えがてきなくなって、何らかの形て日 常生活に支障をきたすか、あるいは逃避をすることによって生活を放棄してしまおうとするの

5. 森田療法

己の一一次的性格が形成されていくのてある。これが〃自己陶冶〃てある。 ところて、森田療法を受けた被治療者の中には、森田療法によって自分の人格が完成し、特 殊な人間になったのだと自負する人がいる。これはまったくの錯覚てある。神経質 ( 症 ) の「と らわれ」から脱しても、我々日常者の前にはいくつものとらわれなければならない要素が潜在 この限りては、人間 している。人間はその一つ一つの事象に直面していかなければならない。 は死ぬまて何かにとらわれつつ、さらに「とらわれ」から脱してより広い世界に開眼してい という努力をくり返さなければならないてあろう。 その意味ては、森田療法の治療が終結するということは、日常人としての苦悩や葛藤を引き 受ける原点に立たされたといってもよいのてある。ただしその原点は、それまての彼のように 不安をなきものにしようとする完全欲にとらわれたり、 症状を前面に出して逃避したりしよう方 人治 とするのてはなく、それらの要素を受け入れた上て、自分自身の人間としての価値を問い、 の 間としての意味に向かって自分を投げかけていける自己、つまり、自己実現を果たしていける 症 質 自己を把持する原点に立つのてある。 経 神 ドストイエフスキーの偉大さ

6. 森田療法

4 手を洗い続ける主婦 「とらわれる」という言葉を辞書て引いてみると、「とらえられる、つかまる、拘束される、自 由に考えることがてきなくなる」などの意味が書いてある。ここていう「とらわれの心理」 は、人がなにものかに心をとらえられることを指す。そして、とらわれてしま - フと、それに強 ム く拘束され、自由に考えることがてきなくなるのてある。 たとえば、強迫神経症者て、一一十六歳になる子さんは、恋愛結婚の末、間もなく子供が産 = まれたが、赤ん坊におつばいもやれなければ抱くこともてきなくなってしまった。赤ん坊の世メ 話は、ミルクの授乳から排便まて、すべてを彼女の母親が代行しなければならなかったのてあ 質 る。彼女は赤ん坊がどんなに泣いても手を出すことさえなく、風呂場て掌を洗い続けた。 経 めいてい ことの起こりは、彼女の夫がお酒を飲んて夜遅く帰宅したことに始まる。酩酊した夫は、頭神 彼を介抱しようとした子さんが畳に手をついオ 7 が痛いといって座敷の中央にうずくまった。 , 「とらわれ」の心理

7. 森田療法

面がある、などというように、次々と人間の弱点を抉りながら、なおかっ否定しきれない崇高 ななにものかにぶつかっているのてあり、そこにこそ彼は神を見ようとしている。聖者が天啓 を得て神を見るのよりも、もっと真実の神を見ているのてある。これはひとえに、彼が自分の 神経症体験を自己克服しつつ、それを創造性へと転化させているからてある。 人間としての自由へ 、不安神経 神経質 ( 症 ) の苦しみのさなかては、対人恐怖症のように人間関係にとらわれたり 症のように自己の身体的不調にとらわれたり、強迫神経症のように縁起や雑念にとらわれたり するが、それは視野が狭小化され、自分のこと以外に目が向かなくなり、自分の症状以外に関 心がなくなっているからてある。そこては、往々にして他者に対する配慮や、自分と社会、あ方 るいは文化との関係など、自分を包んてくれる大きな存在との関わりを無視してしまいがちて治 ある。 症 ところが、神経質 ( 症 ) の「とらわれ」から脱して、自己確立がてきるようになると、他人を質 配慮する目や、社会や文化に対する目が大きく見開かれるようになる。つまり、自分が生きて神 いることが自分一人て生きているのてはないということに気づかされるのてある。誰かが作っ

8. 森田療法

への「とらわれ」のために極端に狭窄化し、創造性を失ってしまうのてある。 「とらわれ」のために、学校へ行くとか、会社へ行くとか、生活上の重要な行為を放棄 してしまい、孤立化してしまう。さらに症状にとらわれているために、人間同士の豊かな感情 が保てなくなり、他者に対するよき配慮がてきなくなって、人間関係が硬いものになってしま しっさいの現実生活に背を向け、症状のみに日がな一日不安な目を向けて過ご すという、非創造的な生き方をする人もある。こうなると、人間本来の生き生きとした感情が 失われてしまう。 他人の助言を受け入れる 以上のような「とらわれ」から脱却して治癒に至るためには、どのようなことが必要てあろ方 うか。まず第一に、人間としての自由を取り戻すために、懸命の努力をすることが大切てある。治 そのためには、まず他者や治療者の声に深く耳を傾ける必要がある。子があ「ても醜くはな いといわれたならば、自分てはそんなことはないと考えても、一応その言葉を素直に受けとめ質 ておくべきてある。また、外を歩くときに心臓がドキドキしても、病気てはないから倒れて死神 ぬようなことはないと医師にいわれたなら、その言葉を素直に受けておくことが大切てある。 きようさく

9. 森田療法

ろはないのてある。ただ神経質 ( 症 ) 者が日常人と異なるのは、日常人は困ると思いながらそれ皿 を頭の片隅にもちつつ、しかも日常生活を一生懸命にやれているのてある。ところが神経質 ( 症 ) 者は、自分が不安とするところの観念に支配され、しかもその観念を取り除こうとして、いよ いよとらわれ、観念に髑むことが日常生活そのものになってしまうのてある。 「とらわれ」の心理機制 くらたひやくぞう たとえば、『出家とその弟子』を書いた有名な作家、倉田百三は、雑念恐怖にとらわれて作家 活動がてきなくなった。彼は「イロハ恐怖」と称する強迫観念にとりつかれた。イを頭に浮か べると、次にロが頭に浮かんてきてしまい ロカ浮かぶとハカ浮かぶといったように、次々と イロハが連鎖的に浮かんてきて、ンが浮かぶと最初のイが浮かんてまた同じことをくり返し、 いつまてもいつまてもそれをくり返していなければならないというのてある。日常人の心理か ら老 / んれ。は、ゞかばかしいと田 5 - フよ - フなことカ弓、 ま、虫迫観念症の人々にとっては、地獄の苦痛に 匹敵する苦しみになるのてある。 以上述べてきたように、強迫観念の種類はさまざまてあるが、その「とらわれ」に至る心理 機制には共通性があるということがわかっていただけたてあろう。

10. 森田療法

ことがてきないのてある。それは不合理だと知りつつ、彼女の胸の内に存在するどうしようも ない不安感を打ち消すことがてきなくて、その不安がある程度「はからいの行動」を続けるこ とによって納得てきるまて、矛盾行為を続けるのてある。そのようなわかっているがやめるこ とのてきない行為を「強迫行為」という。 こ , フし 4 ん彼女の「し J ・らわれ」し」「はか、らし」 、は、さらに自分を苦しめ、他人に迷惑をかける。 たとえば彼女は、友人とどこかて会う約束をしたときに、ガス栓を締める行為を想定して、一 時間くらい早く家を出られるように準備をするのてあるが、何回も何回もガス栓を締め直して 確かめるのて、二時間、三時間の時間を費やしてしまい、結果としては友人を非常に長い時間 待たせることになってしまう。彼女の「はからい」の行為は、自分を苦しめ、他人にも大きな 迷惑をかけていることになる。しかも、彼女の日常的な生活の流れを中断し、狂わせてしまう のてある。 以上のように、「とらわれ」と「はからい」 ペアをなすものてあり、それによって神経症 の患者は、自分が現実から逃避することを合理化し、自分にとって都合のよいものにしてしま う。したがって、「とらわれ」と「はからい」の心理が強くなればなるほど、現実逃避の状態は 合理化され、日常常識的な生活からはずれていってしまう。「とらわれ」と「はからい」のなか