ところが、運命の神はさらに苛酷な裁断を下し、筆者の両眼に葡萄膜炎を引き起こして、目 が見える中心てある黄斑部のあたりに雲を浮かせたような膜をつくってしまったのてある。眼 もしよくなっても、字を読むことはてきないてあろ 科に受診の結果、「失明を覚悟してほしい。 う」といわれた。 要くもないと 何と残酷な言葉てあろうか。筆者は、たとえ癌のために生きている時間がいくー しても、その時間を何とか充実させて生きようと考えていた。ところが、最も重要な目が使え ぬとあっては、文章を書くことも、絵を描くこともてきないのてある。そのときに筆者は心の 片隅て、〈こんなことならば死を選んだ方がよい〉と考えたこともあった。しかしそれは〈人間 としてはやはり卑怯な行動だ〉と、自分の考えを打ち消した。 そして、このとき筆者の頭に浮かんだのは、「あるがまま」の思想てある。死は必ず人間に襲 なんびと て め ってくるものてあって、何人といえども、それを避けて通るわけにはいかない。だとすれば、 っ また、左耳が聾になり、しかも、両眼が失明状態見 死をも「あるカまま」に認める以外にない。 になって、字を書くことも絵を描くこともてきなくなってしまったとしても、それも筆者の人死 、。ごとすれ生 生に与えられた事実てある。したがって、その事実を避けて通るわけにもいかなしナ ば、その二つの事実をも「あるがまま」に認めざるを得ないのてある。 ぶどうまく
そこへもってきて何らかの原因となる機会が存在したときに、「とらわれ」の心理機制が発動し、 神経症状態が固着するのてある。 発症に関するニつの説 このことに関して、フロイトと森田は、別々に自説として二つのハターンを表明している。 神経症の発症説 ^ 森田説〉病症素質 x 感動事実 ( 一般の恐怖 ) x 機会 〈フロイト説〉病症日感動事実 ( しかも性欲の ) x 機会 ム まず、右の図式を見ていただけばわかるように、森田は、生得的な素質を最優先にあげていメ る。つまり、これが「神経質素質」てある。そこ ~ もってきて「感動事実」が加わる、と森田剏 質 は老 / んる。 経 感動事実というのは、たとえば地下鉄に乗っていて急に電車が止まり、暑くて仕方がないと神 きなど、自分の身体が悪いのてはないかと、マイナスな感動を全身に感ずるときのことてある。
「あるがまま」の理念 ところて、森田の欲望論は、欲望の二面性を肯定するところから出発している。美に対して 醜があり、善に対して悪があり、喜びに封して悲しみがあり、自信に対して不安や葛藤がある といったように、人間には常に相反する志向性が内包されている。そこて、人間の欲望には、 時には美を求めることがあると同時に、醜に関心を抱くこともあり、善を求めると同時に、そ ひた の反対の悪に身を浸したいと考えることもある。森田はこれを人間性の真実、あるいは事実と 考えるのてある。 したがって、人間性の事実を求めていくためには、内面に存在する一方の欲望を切り捨てて、 他方の欲望にのっとっていくというわけにはいかず、そこに、森田の治療的中核てある「ある がまま」の理念が生まれるのてある。 「あるがまま」とは、事実をそのままの姿て認めるということてある。たとえば、苦手な上司山 ひれき と面接をしなければならないときに、会って自分の構想をよりよく披瀝しようと考える一方て、田 つくろ あの上司は苦手だからなんとかその場を繕って逃げてしまいたいという考えも浮かぶ。これは「 両者ともに、その現実と直面している人間の欲望なのてあって、一方ては、苦しくても自己実
ったく気づいていないのてあり、誰か他人が、誤っていると指摘しようものなら、誤っている と考えるあなたの方が誤っている、と反論するてあろう。それは分裂病者が「妄想」によって 色づけされているからてある。 たとえば、筆者の患者さんて五十歳になるある女性がいるが、自分はルイ十四世の娘て、ル イ十四世は今てもフランスて生きていると主張する。筆者が、そんなことはないんじゃないて す・かし J い , フし」、 「他の人ならいざ知らず、先生まてそんなことおっしやるんてすか。ルイ十四世はフランスか ら毎夜、特殊電波て私に話しかけてくるのてすから、確実に今も実在するんてすよ。ルイ十四 世は私を生んだ父て、もう少ししたら、おまえを迎えに行って王宮て大事にしてあげるからと、ム いつも私を慰めてくれます。人がそんなことはないといっても、私は事実を事実として信じてニ いるのてすから、こんなに私に理解をもっている先生には、ぜひとも事実をわかっていただきメ の ナいんてすよ」というのてある。 症 強迫観念と妄想が違うのは、強迫観念の場合、歪んだ、あるいは誤った観念に支配され、当質 事者自身もそれが誤っていると気づいているのてあるが、どうしてもその観念を切り離すこと神 がてきないのに対して、妄想の場合は、ある観念の誤った確信てあり、その観念は訂正不可能 8
われ」とは逆の方向の、人間としての自由が次第に大きく姿を現わしてきたといえるのてはな 行動に踏み切ってみる 以上のように「とらわれ」から解放されるためには、他者の言葉を正しく受け入れる努力が 必要てある。それと同時に、受け入れた事柄を行動て示すことが必要になる。 神経質 ( 症 ) 者は人並以上に観念的な人が多いのて、物事を考え尽してからてないと、行動 ことわざ 踏み切ろうとしない傾向がある。「石橋を叩いて渡る」という諺があるが、神経質 ( 症 ) 者は石 橋を叩きながらそれを渡ろうとしない人が多いのてある。彼らはその橋を本当に確かなものて あるかどうかがわからないから渡れないという。 彼らは安全て確実な結論を得ようとする。し方 かし、〃不条理みのただなかに生きている人間の前ーー 」 : よ、不安を伴わない確実な結論などは存在治 我々の日常行動の中ては、絶えずそれをや「てみなければ、の目が出るかの目が 出るかわからないような事態が眼前に立ちはだかり、我々は行動を通してそうした事態に賭け第 神 ていかなければならないのてある。 神経質 ( 症 ) 者は、そのような、不安て不条理な事態に自分を賭けていくのが恐いのて、そこて
のて、阿部さんの熱心な助力がなければ完成し得なかったてあろう。ここに深謝申し上げる。 なお付記しておきたいことは、本書に出てくる患者さんの症例のことてある。これはある意 いといってもよい。実際の人名は用いずに、、、 O などのイニシ 味てはフィクションに近 アルを用いたカ、いずれも患者さんのプライバシーを考えて、当事者がわからないように配慮 してある。しかし、そのような患者さんが存在したことは事実てある。したがって、これは真 実を伝えるためのデフォルメてあって、筆者としては、フィクション以上の真実をここに紹介 したと考えている。
人間は自己省察を行ない、内面に想いを圧縮すればするほど、それを外在化し、生命エネル ギーとして開花させ、ときによっては創造性に転化させることもありうる。神経質 ( 症 ) に悩ん だ人々の多くが、治癒後に立派な仕事をしているのはそうした心理状態によるものなのてある。 ところが、最近は「アパシー」とか「モラトリアム」とかいわれる青年が増えたこともあって、 自己内省が少なく、したがって、それを外在化していく心理機制も弱くなったのかもしれない。 といわれ このようなことから、典型的な神経質症状はやや減少して、いわゆる〃境界領域〃 る症状が増えてきたことも事実てあろう。 しかし、日本人の中には、相変わらず神経質 ( 症 ) 、あるいはその辺縁の症状に悩む者が非常 に多い。また、森田療法の治療法は、我々日常人の一般心理にも通ずるものなのて、今後も重 要な精神療法 ( 心理療法 ) として世に問われるのは疑いをさしはさまぬところてあろう。 119 神経質 ( 症 ) の諸症状
2 をとりやすい。これは神経質 ( 症 ) 者が、相反する感情を内在させ、相反する物事を包含しなが ら生きているという事実を受け入れるだけの、心の余裕と豊かさをもちえないがためてある。 したがって、神経質 ( 症 ) の治療は、西欧における精神療法とは異なり、症状を取り除くこと てはなくて、それを人間性の一部、あるいは現象そのものとして受容てきるような人格を、日 常行動を通じて獲得せしめる点にあるのてある。 以上のようなことを念頭において、神経質 ( 症 ) を理解していただければ幸いてある。そこて、 神経質 ( 症 ) がどのような症状から成り立っているのかを、これから検討してみることにしよう。 神経質 ( 症 ) の類型 森田は、前述のような要因をそなえた神経症の一部を「神経質」と命名したが、そのなかに 三つの大きな分類を行なっている。これらは病型は異なるが、いずれもヒボコンドリー性素質 の上に成り立ち、「生の欲望」が存在し、完全欲にとらわれていて、精神交互作用のメカニズム いて発症するということては共通している。そこて、以下に三つの類型を紹介することに
ところて一方、筆者にとってまだ自由なのは〃物事を考えることみ、そして〃喋ることみなの てはないだろうか。それから筆者は、与えられた人生の事実を「あるがまま」に認めたうえて、 残された機能をフルに生かし、「目的本位の行動」をとろうと決意をした。 ″自由々を守り通したい まず筆者は、医師、看護婦、妻、その他の人が心配するなかて、お茶の水女子大学の大学院 と、東洋大学の大学院の集中講義をすることにした。車て両校を訪れ、妻に手を引いてもらっ て、そこて講義を行なった。授業をもう聞けないと思っていた学生たちは、ことのほか喜んて くれた。筆者自身にも、この体験は大きな喜びを与えた。人間はとことんまて追いつめられて もなおかつ意味のある生き方をすることがてきる、という信条と、人間としての誇りが、筆者 の内面に沸き上がってきた。 さらにまた筆者は、ロ述筆記によって前述した二冊の本を書いた。これも筆者にとってはた しへんに苦しい困難な作業てあったが、何とかそれを成し遂げた。 見舞い客のなかには、「こんな時期にそんなことまてしなくても」とか、「疲れるのにそんな たいへんなことをやめたらどうか」とか、「こういう機会にこそゆっくり休んだら」とか、また 202
が人間てしよう。自分自身がそうなのだから、あなた方が少しくらい失敗したからといって、 ばくは怒る気になれない」といったものだ。 事実、自分のだらしなさや弱さを真に認めるようになってからは、あまり人を怒る気にはな れないのてある。それは決して自分を抑えているのてはない。 そういう気が起こらないのてあ る。さらに現在の筆者は〃私憤〃と〃公憤みを区別し、私憤は怒らない方がよいが、公憤は大 いに怒らなければいけないのだと思っている。したがって、公の会議て自分の意見をぶちまけ たり、著作において、公の怒りを明らかにしたりすることはしばしばある。 以上のように、人間の弱さの原点を認めたときに、そこに「ゆるし」の思想が生まれる。こ れは「甘やかす」ということとは違う。自己確立がてきなければ、「ゆるし」の世界観をもっこ とはてきない。行動としては自由になるが、倫理的にはかえって自分に厳しくなり、その一方、 て め 他者にはやさしくなるのが「ゆるし」てある。 っ 見 を 死 「ゆるし」から「あるかまま」へ 「ゆるし」は、自分自身に向けられると同時に、他者にも向けられる。〃人間はこうてなくては生 というようなク自己規制〃にカんじがらめにされている人が多い力もっとおおら期