のてある。 ″すべてか無か々の傾向 一般的にいうならば、神経質 ( 症 ) 者は、多かれ少なかれ強迫観念をもっていて、これが「と らわれ」の心理を助長する。対人恐怖症者は、「人にこう思われているのてはないか」という強 迫観念をもとにした不安がいつも根底にあり、不安神経症者には、「電車の中て自分が倒れたら 人に変に思われるのてはないか」、あるいは、「死んてしまうのてはないか」というような強迫 観念が潜在し、ましてや、雑念恐怖や、疾病恐怖や、縁起恐怖、その他の強迫観念症者は、当 然のことながら強い強迫観念に支配されているのてある。 このような強迫観念をもとにして、神経質 ( 症 ) 者の理想主義的な人生観がクかくあるべしみと状 現に生活が営まれている状況、つま諸 いう概念を生み出すのてあり、その〃かくあるべしみと、 り〃かくあるみの両者が合致しないところが問題になるのてある。〃かくあるべし〃という理想剏 主義が強ければ強いほど、かくある〃という現実から浮き上がってしまうことになり、そこに質 神 葛藤が大きく広がる。そして、症状を形成して逃避をするのてある。 ール・オア・ナッシング ) 〃の態度 またその際に、物事を決定するに当たって、クすべてか無 ( オ しつべい
しょ A フ ①強迫観念 ( 強迫神経症 ) 強迫観念とは、日常人が日常生活の中て考える観念にことさらに執着し、その観念を取り払 おうと田 5 えば田 5 うほど、逆に強く迫ってくる観念てある。この強迫観念に悩まされて思考が妨 げられたり、日常行動が遅延したり、あるいは日常生活が脅かされたりする状態を強迫神経症 という。強迫神経症には次のような種類がある。 ー対人恐怖症ーー対人恐怖症は、内容から以下のように細分化される。 まず視線恐怖 ( 他人の視線が気になる者、自分の視線が気になる者 ) 、赤面恐怖、表情恐怖、唾 恐怖、笑い恐怖、醜貎恐怖などてある。 ー体臭恐怖 ( 自己臭恐怖ーーー対人恐怖と関係のある場合が多い ) ー不完全恐怖 しつべい ー疾病恐怖 ー不潔恐怖 ー雑念恐怖 97 神経質 ( 症 ) の諸症状
心臟が悪くないのに悪いと考える誤った観念、などが強く迫ってくるのてある。そしてその強 く迫ってくる観念によって拘束され、自由にされ、歪んだ行動をとるようになり、ときには生 活を放棄することさえあるのてある。 ただし、ここて注意しなければならないのは、神経質 ( 症 ) 者は、強迫観念をもち続けながら も、自分の観念がどこかおかしい、あるいは歪んている、誤っているということを、知ってい ることてある。それを知っていながら、その観念を取り去り、離れることがてきないのてある。 だからこそ神経質 ( 症 ) 者は、て カくあるべしみという強迫観念と、現に〃かくあるみという現 かっとう 実との間に悩みをつくるのてあり、この悩みを「葛藤」という。 というとらわれた たとえば、手が汚れていないていつもすっきりしていなければいけよい、 感情と、現実には手が汚れて気持ちが悪いという感情の間に衝突が起こり、すっきりしようと 思えば思うほど、両者の間の開きは大きくなる。そこに心の苦しみてある「葛藤」が生まれて くるのてある。 強迫観念と妄想の違い ちなみに、分裂病者は、誤った観念をもちながら、自分の観念が歪んているということにま
てある。 このように「とらわれ」ということは、ある歪んだ観念に凝り固まって、人間としての自由 な考えを失ってしまうことてある。その観念と人間行動の間には正比例の関係があり、観念が 歪めば歪むほど行動が拘束され、人間の自由は失われてしまう。つまり、歪んだ観念によって 人間が逆に自由にされてしまうのてあり、自由を放棄せざるを得なくさせられてしまうのてあ る 神経質 ( 症 ) 者の場合、他の神経症のなかても特にこの歪んだ観念にとらわれている場合が多 い。たとえば、自分の身体がどこも悪くないのに心臓が肥大して死が迫っていると考えるのは、 やはり歪んだ観念に自由にされているのてあって、一種の「とらわれ」てある。このように考ム えてくると、「とらわれ」は、神経質 ( 症 ) の中核てあるといえる。そして、その歪んだ観念をニ カ もち続ける状態を「強迫観念」にとらわれているという。 の 症 質 観念と現実の葛藤 経 「強迫観念」というのは、文字どおり強く迫ってくる観念をいうのてあって、先にあげた例て神 いうなら、手が汚染されてしまったという誤った観念、眉毛の形がおかしいという誤った観念、
て現実を無視したものてある。そこて、死んだはずてありフランスにいるはずのないルイ十四 世が、今なお生きていて自分の父親てあるという確信になってしまうのてある。つまり継時的 な時間の流れが否定されて、現在ルイ十四世が生きているという同時的な時間に置き換えられ はたん てしまい、共に生活しているという同時的な空間が破綻してしまうのてある。このように分裂 病者の時間・空間は、非現実的な観念の上に構築され、妄想を形成する。 このように比較してみると、神経症者の存在様式と、分裂病者の存在様式は、根本的に異な るものてあり、それと同時に、強迫観念と妄想の間には、明確な線が引かれるということも理 解されるてあろう。 神経症者は強迫観念に「とらわれ」てしまうのてあり、したがって自分てもそれが歪んてい と思いつつ、現に自分のなかに浮かんている強迫観念に振り回さ る、誤っている、おかしい れ、自由にされ、それのみならず、行動まて歪めてしまうのてある。〃わかっちゃいるがやめら れない という俗語があるが、まさに自分てわかっていながら去ることがてきずに、その観念 に自由にされ、心の内に葛藤をつくりながら、自分の真の主体性を失ってしまうのが、「とらわ れ」なのてある。
て、ばくの自由な考えを奪ってしまうんてす。そして、そういう自分が非常に醜く、人に注視 されていると考え、人の顔を見ることがてきなくなりました。その上、真剣になって、母に負 担をかけているから学校をやめようと思ったんてす。ても今考えてみると、それは自分の苦痛 に対する言い訳てあり、とらわれている症状に対する『はからい』だったのてすね。こうして 神経質 ( 症 ) から解放されて自由にものが見えるようになると、そのときの不自由な自分の考え や姿がはっきりと見えてきます」 彼は強迫観念に悩まされ、それに苦しめられながら、勉強するという目的を必死になって果 たしたのてあり、また大学に入ってからは、罪悪感に彩られた強迫観念が浮かんても、そのま まにして友人たちと交わり、勉強するという努力を続けた。彼は常に人から侮蔑されていると いう観念が拭えなかったという。しかし、自分の目的を一生懸命に果たしていくうちに、 の間にか強迫観念がうすらぎ、人間関係が正常に保てるようになり、積極的に社会参加もてき るよ , フになった。 以上のように、とらわれた観念を去り、「はからいの行動」をやめることは、神経質 ( 症 ) 者 にとってはたいへん苦しいことなのだが、神経質 ( 症 ) から解放されるのには、ぜひともこの苦 難の峠を越えていかなければならない。 ぶべっ 144
修正し、「本当は会合に出たいのだが、どうも昨日から風邪のために下痢ぎみてある。これを治 しておかないと後の仕事に差し支えるから、会合に出ないて家て暖かくしていよう」などと自 し J い - フはか、らっ 4 」冖打動 ) し J るこし J 力あ一る 分自身に言いきかせ、合理化し、〃会合に出ない 考えてみると、我々の日常生活のなかての行動には、このような「はからいの行動」が数多 く隠されているのてある。それては、日常者と神経質 ( 症 ) 者の「はからい」は、どのように違う のてあろうか 他者に 、は、日常生活を多少歪曲しても、それが自分自身を歪めたり、 日常者の「はからし」 それに反して神経質 ( 症 ) 者の場合には、「とらわれ」の 迷惑をかけたりするようなことはない。 心理状態が強いのて、それに応じて「はからい」も強くなり、結果としては、日常生活から逸ム 脱し、自己を苦しめ、他者にも迷惑をかけることになるのてある。 たとえば、三十五歳の主婦子さんは、ガスの栓を締め忘れているのてはないかという強迫メ 観念にとらわれている。何回もガス栓を締め直さなければ気が済まない。自分てもガス栓を締 めながら、無駄なことをやっていると気づいているのてあり、ばかばかしいと思っている。し質 かし、そう思いながら、締め直すという行為をやめることがてきない。つまり彼女は、自分の神 強迫観念が矛盾だと知りつつ、何回てもガス栓を締め直すという、「はからいの行動」をやめる
この場合の子さんは、夫の吐物によって右手が汚されたという極端な不安 ( 観念 ) に強く拘 束されているのてあり、その考え方が間違っていることはわかっているものの、強迫観念に振 り回されて自由に物事を考えることがてきなくなってしまっているのてある。文字どおり、 子さんはとらわれているのてある。 歪んだ観念にふり回される 以上のように、「とらわれ」の極端な場合には、客観的に見るとおかしいと思えるような状態 を現出するのてあるが、それは極端な場合てあって、日常的な一般人も、何らかの形て「とら 、。ことえば、ある人はお金を貯めることにとらわれているかもム われ」をもっていることが多しナ さらにあ一るニ しれないし、またある人は、権力を維持することにとらわれているかもしれない 人は、名声をあげることにのみとらわれているかもしれない。人間の欲望はきりがないものて、メ さまざまな欲望に拘束され、自由にされ、とらわれる可能性をもち続けているのてある。 症 このように人間はなにものかにとらわれつつ生きているといえるのてあるが、それては、神質 神 経症者の「とらわれ」と、日常者の「とらわれ」と、どこが違うのてあろうか それは、日常者の場合には、とらわれながらもなおかつ自由に思考し、行動し、生活するこ四
しかし、ヒボコンドリー性基調は、こご オ単に身体面を指すだけてはない。例えば、縫い針を 捨てたときなど、人に刺さったり、自分に刺さったりすることなくそれがきちんと処理てきた かどうかまた、手を洗った変に、きれいに落ちているかどうかカ非常に気にかかる。そのよ つな うな強迫観念に繋がる部分において人一倍心配が強くなってくる。 また、対人関係においても、自分が相手に不快感を与えているのてはないか、相手は自分の 身体のある状態を不愉快だと思っているのてはないか、などと気になるのてある。つまり、身 体に限らず、自分にとって不利てあるさまざまな点に気がまわり、人一倍それが悪いことだと ー性基調は含んているのてあり、神経質者は生まれつ 考えられ、思い髑む状態をヒボコンドリ きこのような傾向を大きく担った性格の持ち主だといえる。 「生まれつき」だけではない ここて筆者の私見をもう少し述べてみると、ヒボコンドリ ー性基調は、死の恐怖と相俟って、 「生の欲望」と対を成すと考えられる。なぜなら、よりよく生きたいという「生の欲望」が強 ければ強いほど、よりよく生きられなかったらどうしよう、という反対観念に起因する不安が 強くなってくる。人一倍健康てありたいと願えば願うほど、自分が病気になったらどうしよう にな
ろはないのてある。ただ神経質 ( 症 ) 者が日常人と異なるのは、日常人は困ると思いながらそれ皿 を頭の片隅にもちつつ、しかも日常生活を一生懸命にやれているのてある。ところが神経質 ( 症 ) 者は、自分が不安とするところの観念に支配され、しかもその観念を取り除こうとして、いよ いよとらわれ、観念に髑むことが日常生活そのものになってしまうのてある。 「とらわれ」の心理機制 くらたひやくぞう たとえば、『出家とその弟子』を書いた有名な作家、倉田百三は、雑念恐怖にとらわれて作家 活動がてきなくなった。彼は「イロハ恐怖」と称する強迫観念にとりつかれた。イを頭に浮か べると、次にロが頭に浮かんてきてしまい ロカ浮かぶとハカ浮かぶといったように、次々と イロハが連鎖的に浮かんてきて、ンが浮かぶと最初のイが浮かんてまた同じことをくり返し、 いつまてもいつまてもそれをくり返していなければならないというのてある。日常人の心理か ら老 / んれ。は、ゞかばかしいと田 5 - フよ - フなことカ弓、 ま、虫迫観念症の人々にとっては、地獄の苦痛に 匹敵する苦しみになるのてある。 以上述べてきたように、強迫観念の種類はさまざまてあるが、その「とらわれ」に至る心理 機制には共通性があるということがわかっていただけたてあろう。