強迫観念の対象となるような諸事象には、人は何らかの形て多少なりともこだわるものてあ る。縁起が悪いとか、神罰が下るとかいわれると、不安になるものてある。しかし、いつまて もそうした観念にこだわっていられないのて、 いいかげんに切り上げて、現実の物事を処理す る方向へと移っていくのてある。ところが、神経質 ( 症 ) の人々は、自分の心に少しても不安が 残ってはいけないのてあって、その不安を打ち消すために、何回ても同じ観念を想起し、人に よっては同じ行動をくり返す。つまり彼らは、不安を不安として受けとめるだけの心の強さと、 心の容量がないのてある。ては、それらの心理状態を、何によってどのように変えていったら よいか、それは第四章の治療論て論ずることにしよう。 不安神経症 ( 発作性神経症 ) 状 不安神経症とは、文字どおり精神的な不安が前景に出てくる神経症てある。このなかて森田諸 は、「発作性神経症」という一群をとり上げ、不安発作を伴う神経症群をこの類型のなかに入れ た。これは、フロイト説の不安神経症と区別し、ヒボコンドリー性基調をもとにした現実不適質 神 応の神経症群をとり上げたからてあろう。その内容には次のようなものがある。 しんきこうしん ー心悸亢進発作
さて、ここてもう一つ重要なことがある。それは、森田が「尚ほこのヒボコンドリーは、神 すべ 経質に限らず、総ての人の自己保存の性情てある」と述べているように、 一般日常人のなかに もみられる連続した心理とみなしていることてある。 人間はこの世に生まれて誰しも死の恐怖をもってあろう。実はヒボコンドリ ー性基調の原点 は、死の恐怖に根ざしているといってもよい そこから派生して、自分の身体に異常が起こる のてはないか、自分が生きている状況が自分にとって不利になり、何か災いが起こるのてはな いか、と心配するのてある。つまりこのことは、「生の欲望」と相対するものてあって、人間の 誰の心にも必ず存在する心性といってよい この日常常識的な人たちにも、 神経質者と共通してヒボコンドリ ー性基調が存在すると論じ たのは森田の卓見てある。なぜならば、誰の心にも存在する心理状態てあるからこそ、それを ことさらに取り払おうとしないて、「あるがまま」にしようというのが、森田療法の方式なのて ある。ヒボコンドリー 性基調は、森田療法において、神経質者と日常者とを結びつける糸てあ るといってもよい それてはなぜ、特別に神経質者が神経質 ( 症 ) を発症するのかというと、それは筆者の見解に よれば、先にあげたような成長発達期を通じて、神経症発症状態がてきあがっているのてあり、
ことがてきないのてある。それは不合理だと知りつつ、彼女の胸の内に存在するどうしようも ない不安感を打ち消すことがてきなくて、その不安がある程度「はからいの行動」を続けるこ とによって納得てきるまて、矛盾行為を続けるのてある。そのようなわかっているがやめるこ とのてきない行為を「強迫行為」という。 こ , フし 4 ん彼女の「し J ・らわれ」し」「はか、らし」 、は、さらに自分を苦しめ、他人に迷惑をかける。 たとえば彼女は、友人とどこかて会う約束をしたときに、ガス栓を締める行為を想定して、一 時間くらい早く家を出られるように準備をするのてあるが、何回も何回もガス栓を締め直して 確かめるのて、二時間、三時間の時間を費やしてしまい、結果としては友人を非常に長い時間 待たせることになってしまう。彼女の「はからい」の行為は、自分を苦しめ、他人にも大きな 迷惑をかけていることになる。しかも、彼女の日常的な生活の流れを中断し、狂わせてしまう のてある。 以上のように、「とらわれ」と「はからい」 ペアをなすものてあり、それによって神経症 の患者は、自分が現実から逃避することを合理化し、自分にとって都合のよいものにしてしま う。したがって、「とらわれ」と「はからい」の心理が強くなればなるほど、現実逃避の状態は 合理化され、日常常識的な生活からはずれていってしまう。「とらわれ」と「はからい」のなか
な人間なんだ」という具合に、自己否定的になり、前述のような「合理化の機制」をもってき て、現実から逃避をしようとするのてある。ここに成人期の神経症が生まれる。 森田は、さらに五十歳、六十歳以降から死まての「生の欲望」にも言及しているが、非常に 生物学的な「生の欲望」論に偏り過ぎ すぐれた見解だとはいえ、筆者の印象ては、あまりにも ているよ - フにも田 5 , フ。そこてこのことに関しては後の亠早て新たに論ずることにしょ - フ。 以上、振り返ってみると、人間の「生の欲望」と心理的発達、それに付随する神経症の成り 立ちが、いかに密接不可分なものてあるかがわかっていただけるてあろう。人間はだれしもこ はざま の「生の欲望」と、自己表現の間の葛藤に苦しみつつ、一方ては、創造的に生きることもてき るのてある。そこて次に、「生の欲望」の本質について、もう少し深く掘り下げて考えてみる 、」し J にしょ , フ 「生の欲望」の二面性 生物的欲望の社会化 3 かたよ 37 森田療法の基礎理論
人間は自己省察を行ない、内面に想いを圧縮すればするほど、それを外在化し、生命エネル ギーとして開花させ、ときによっては創造性に転化させることもありうる。神経質 ( 症 ) に悩ん だ人々の多くが、治癒後に立派な仕事をしているのはそうした心理状態によるものなのてある。 ところが、最近は「アパシー」とか「モラトリアム」とかいわれる青年が増えたこともあって、 自己内省が少なく、したがって、それを外在化していく心理機制も弱くなったのかもしれない。 といわれ このようなことから、典型的な神経質症状はやや減少して、いわゆる〃境界領域〃 る症状が増えてきたことも事実てあろう。 しかし、日本人の中には、相変わらず神経質 ( 症 ) 、あるいはその辺縁の症状に悩む者が非常 に多い。また、森田療法の治療法は、我々日常人の一般心理にも通ずるものなのて、今後も重 要な精神療法 ( 心理療法 ) として世に問われるのは疑いをさしはさまぬところてあろう。 119 神経質 ( 症 ) の諸症状
という感情をもっているのてあるが、それを、赤くなることは同席する学友に絶対におかしく 思われ、またそのことが学友に迷惑をかけるという強迫観念にしてしまっているのてある。そ してさらに、自分が出席しない方が皆が和気藹々と会合がてきるという、勝手な理由づけにす り替えてしまっている。そのことは、一種のフィクションによって自分を正当化することてあ り、これを「合理化」という。 つまり君は、自分を合理化して会合に出ないという態度、行動をとっているのてあって、 「とらわれ」に基づいた自分自身の〃処置みを行なっているのてある。これを「はからい」と とう多少おかしなニュアンスをも いう。「はからいの行動」という言い方は、「行動の行動」い つが、後 ( こ「目的本位の行動」という言葉を説明するのて、以後、自分の思うように処置した 行動を「はからいの行動」と呼ぶことにする。 日常生活からの逸脱 この「はからい」の心理は、必ずしも神経症者に特有のものてはなく、我々日常人もしばし ば「はからいの行動」をとる。たとえば筆者なども、今日はあの会合に出たくないという考え が根底にあるとき、その気持ちを、いろいろな理由をつけて歪曲し、自分の都合のいいように
においては、現象を「あるがまま」に認めるというよりも、それを分析し、整理し、論理づけ ることをモットーとしてきた。それは西欧の伝統てあり、自然と私、神と私、他者と私、とい うように、あらゆる現象が対峙する形て受けとられてきたからてある。 エジプトやイスラエルやギリシアのように比較的砂漠に近い過酷な自然環境の中て育まれた 人間にとっては、常に自然を人間と対峙する現象として克服しなければならない運命に迫られ ていた。そうした自然現象を根底において発展してきた西欧文明は、常に現象分析的てあり、 現象解明的てあり、現象闘争的てあった。 これに対して、東洋の文化、特に日本のようなモンスーン的自然を背景とした文化ては、自 ほうじよう 然が比較的豊饒て、その自然現象の中に包まれながら、農耕を営みつつ、人間は生きてきた。 したがって、そのような自然を背景に形成されてきた諸現象は、人間と敵対関係にあるのては なく、人々は自然の恩恵を受け、現象をそのままの形て受けとめるならわしを身につけてきた。 だから、現象と対峙し現象分析的な態度をとるのてはなく、現象受容的な心理状態におかれる ようになったのてある。 仏教が中国、朝鮮を経て日本に入ってきたときに、さほど抵抗なく日本人の心性に根づい のは、それ以前の神道が自然信仰に近いものて、現象受容的てあり、現象受容的な仏教と根本 186
かて起こってくるさまざまな心理的事象に対処するために非常に役立っ内容なのてある。筆者 一般の日常生活を営む人にも、と は、このことを念頭において、現実に神経症に悩む人にも、 もに考えていただき、よりよい人生を創造していただきたいということを願いつつ、本書を執 筆亠 9 る一」し」にーレ ' 」。 森田療法の特殊性 さて、西欧の心理療法と森田療法とのいちばん大きな違いは何かというと、西欧の心理療法 においては、神経症者が何らかの形て心の内に内在させる不安や葛藤を分析し、それを〃異物み として除去しようとする傾向がある。これに反して、森田療法ては、神経質 ( 症 ) 者の不安・葛 藤と、日常人の不安・葛藤が連続てあると考えるのてある。したがって、その不安・葛藤をい くら除去しようとしても、異常てないものを除去しようとしているのてあるから、除去しよう とすることそれ自体が矛盾オ ごということになる。つまり、この点て、西欧の心理療法が考える山 不安・葛藤およびそれに対処しようとする理論と、森田療法の考える不安・葛藤およびそれに田 対処しようとする理論は、まさに相反する立場をとるということがてきる。 神経症の原因てある不安・葛藤が、人間の本来のあり方と相反していて、その原因が人々を かっとう
ろはないのてある。ただ神経質 ( 症 ) 者が日常人と異なるのは、日常人は困ると思いながらそれ皿 を頭の片隅にもちつつ、しかも日常生活を一生懸命にやれているのてある。ところが神経質 ( 症 ) 者は、自分が不安とするところの観念に支配され、しかもその観念を取り除こうとして、いよ いよとらわれ、観念に髑むことが日常生活そのものになってしまうのてある。 「とらわれ」の心理機制 くらたひやくぞう たとえば、『出家とその弟子』を書いた有名な作家、倉田百三は、雑念恐怖にとらわれて作家 活動がてきなくなった。彼は「イロハ恐怖」と称する強迫観念にとりつかれた。イを頭に浮か べると、次にロが頭に浮かんてきてしまい ロカ浮かぶとハカ浮かぶといったように、次々と イロハが連鎖的に浮かんてきて、ンが浮かぶと最初のイが浮かんてまた同じことをくり返し、 いつまてもいつまてもそれをくり返していなければならないというのてある。日常人の心理か ら老 / んれ。は、ゞかばかしいと田 5 - フよ - フなことカ弓、 ま、虫迫観念症の人々にとっては、地獄の苦痛に 匹敵する苦しみになるのてある。 以上述べてきたように、強迫観念の種類はさまざまてあるが、その「とらわれ」に至る心理 機制には共通性があるということがわかっていただけたてあろう。
い ' 」ら畄溢血になることもあるてしょ , フし、心臓カ止まってしま , フことだってあるてしよう。 ことい - んるん、てしょ - フか」 身体の症状がはっきりと出ているのに、なんて心の病気だ そこて筆者は、子さんとしばらく話をして彼女が落ち着いた頃をみはからって、血圧を測 った。血圧は上限が一三〇、下限が八〇てあった。筆者は彼女の疑念を打ち破るために、血圧 計の目盛を見せ、水銀柱が下がってきて上下に動揺した所が上限だと教え、血圧計を注視させ た。その結果、彼女は精神的に安静のときに血圧を測れば正常血圧なのだと認めざるを得なく なった。つまり彼女は血圧を測るという事態に直面したとき、すてに血圧が高いのてはないか とう予期不安にとらわれ、その結果、精神交互作用の心理的なメカニズムと情緒回路の生理 的なメカニズムを通して血圧が上昇しているのてあった。 治癒への過程 こうしたことを機縁に、彼女は自分の心と身体のメカニズムを自覚するようになり、徐々に 自分が心理的に「とらわれ」ているがための病てあることを認めるようになった。 診療を続ける過程て、彼女は自分の神経質性格と病気のメカニズムを自覚するようになった が、なかなか外出に踏み切っていくことはてきなかった。しかし、次第に自分の不安を認めな 156